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2012年11月 1日 (木)

平治の乱    

 歴史解釈は研究者によって様々でどれが正解とも言えないのですが、私の保元の乱(前記事参照)理解は院政派に対して摂関政治復古派が起こした反乱であったというものです。
 
 といいますのは、崇徳上皇方の主勢力が前関白藤原忠実、悪左府頼長親子であったからです。もし崇徳方が勝利すれば頼長が兄忠通に代わって関白に就任する事は間違いなく、後白河天皇方に味方した公卿達は処刑されないまでも政治の中枢からは追われたはずですから自然に院政派の力は弱まったでしょう。
 
 ではなぜ崇徳方=藤原摂関家の勢力が敗れたか?ですが、これはひとえに頼長の政治力・人徳のなさでした。摂関家の武力の主力になるべき河内源氏からさえ棟梁源為義の嫡男義朝が離反したくらいですから。もし頼長に深謀遠慮があれば河内源氏を優遇し、為義、義朝の官位を引き上げておくこともできたでしょう。
 
 それを頼長がしなかったのは、源氏を自家に仕える犬くらいにしか思っていなかった証拠です。その驕りが結局自らを滅ぼす事になりました。
 
 
 保元の乱の結果、摂関政治復活の芽は完全に断たれます。美福門院と藤原信西の主導する後白河体制は、後白河本人が即位後二年で退位し皇位を息子の守仁親王に譲った事で一応の完成を見ました。守仁親王は二条天皇として即位します。1158年のことです。
 
 美福門院は自らの希望通り二条天皇の即位を見届けると政治の第一線からは退きます。後白河院政は、院の近臣第一人者である信西入道の独裁体制といってよい状態になりました。
 
 院政というのは、上皇(あるいは法皇)が治天の君として息子である天皇を指導する体制です。言いかえれば院庁の発する院宣・院庁下文がすべてにおいて優越する政治体制でした。ですから院の近臣であれば必ずしも高い官位は必要ありません。信西入道も正五位下小納言という低い官位のまま、すっかり勢力の衰えた関白藤原忠通以下公卿を支配していました。
 
 信西の権勢を物語るエピソードがあります。忠通の父、宇治入道忠実が軍兵を自分の荘園から集め謀反を企んでいると言いがかりをつけ忠実、頼長の所領であった荘園を没収したのです。本来ならばこれらは忠通に渡るべきものでした。しかし、信西の権勢を恐れ忠通は泣き寝入りします。忠実・忠通父子は、信西に対抗するためそれまでの対立を解消し必死に藤原摂関家を守るしかありませんでした。
 
 信西は後白河上皇の絶大の信頼を楯に強引な政策を推し進めます。1158年忠通は信西の圧迫に堪えかね関白職を息子の基実に譲ると隠棲してしまいました。
 
 信西の権勢は上皇の信頼によるものだけではありません。最大の武力を持つ伊勢平氏の勢力と結びついたことも大きな理由でした。伊勢平氏の棟梁平清盛の娘を自分の息子の嫁に迎えるなど結びつきを深めます。
 
 平氏一門は信西の引き立てもあり、棟梁清盛が大宰大弐に任ぜられたばかりか弟頼盛が従四位下安芸守、同じく教盛が正五位下淡路守、経盛が従五位上常陸介と兄弟で実に四カ国の受領を独占します。清盛の息子たちまで長男重盛が遠江守、次男基盛が大和守と飛ぶ鳥を落とす勢いでした。
 
 信西の長男、俊憲もまた参議に任ぜられるなど信西に気に入られなければ朝廷内での出世もままならない状態だったのです。
 
 
 ところで、武門の一方の雄河内源氏の棟梁源義朝はどうだったでしょうか?義朝とて信西と誼を通じなければ出世もままならない事は承知していました。そこで信西の息子是憲を自分の娘の婿に迎えたいと申し出ます。
 
 しかし信西の返事は「我が子は学生で武人の婿にはふさわしくない」と冷たいものでした。しかもその舌の根も乾かないうちに清盛と縁組を結んだので義朝は信西に対し深い恨みを抱きます。
 
 
 ここに一人の男が登場します。彼の名は藤原信頼。官位は正三位参議・権中納言・検非違使別当・右衛門督という輝かしいものでした。異母兄基成が陸奥守、自身も武蔵守などを歴任するなど東国の武家とも関わり深い一族です。
 
 東国に地盤を持つ源義朝とも荘園の支配関係などで古くから結びついていました。
 
 
 信頼は、上皇の寵臣である事に驕り信西に対して左近衛大将という武官の最高位を要求しますが、彼の事を軽薄才子として全く評価していない信西はこれを拒絶します。
 
 信西に対する不満分子である義朝と信頼が結びつくのに時間はかかりませんでした。信頼は信西主導の後白河院政では自分が浮かび上がる目はないと、二条天皇親政を自分達が主導する事でこれに取って代わろうと画策します。
 
 しかしそのためには信西最大の頼みの綱である平清盛の武力を何とかしなくてはなりません。両者は慎重に計画を練ります。そしてついに1160年12月9日行動を開始しました。
 1159年12月9日夜、源義朝、藤原信頼らの軍勢は後白河院御所の三条院を包囲、屋敷に火を掛けます。信西とその一族の殺害を図ったのです。反乱軍は後白河上皇とその姉上西門院を幽閉、信西の行方を捜し求めます。
 
 信西の息子たちは捕えられたものの肝心の信西本人は取り逃がしました。ここらあたり信西の野生の勘は見事というしかありませんが、結局自領の田原庄に隠れていたところを探しだされ斬首されました。
 
 クーデター派は、源氏の武力を背景に太政大臣以下百官を集め高らかに新政権誕生を宣言します。
 
 
 では、信西が最も頼りにした平清盛はこの時どこにいたのでしょうか?実は清盛は一族を引き連れ熊野参詣に赴いていました。最大の敵対勢力である清盛が京を留守にした千載一遇の好機を上手く衝いたのです。
 
 京の政変は熊野詣をしていた清盛にも伝えられました。驚愕した清盛は西国へ落ちて再起を図ろうと考えます。しかし、現地の熊野別当や、湯浅氏などが協力を申し出たことから思いとどまり、急いで帰京し六波羅邸に入りました。
 
 義朝の庶長子、悪源太義平は清盛の帰京を摂津阿倍野で待ち伏せし迎え撃とうと主張しますが、またしても戦を知らない信頼の反対で取りやめになりました。もし阿倍野で義平が待ち伏せしていたらその後の平氏政権はなかったかもしれません。
 
 清盛は六波羅邸に入ると、さっそく信頼に名簿(みょうぶ)を差し出します。これは敵対する意思のない事を示したものでした。清盛としても天皇と上皇を敵方に握られている以上、どうしようもなかったでしょう。
 
 しかし信頼・義朝側は甘すぎました。どう考えても清盛がこのままおとなしく引き下がるはずないではありませんか!
 
 クーデター側が清盛に対し何ら有効的な手も打たず自らの官職引き上げに興じている間に、清盛は配下の武士団を京に呼び寄せていました。
 
 そんな中、クーデターに憤った内大臣三条公教らは軟禁状態だった二条天皇を秘かに救い出し清盛の六波羅邸に連れ出します。同時に後白河上皇も脱出に成功し清盛邸に入りました。
 
 形勢は一気に逆転します。六波羅邸には関白基実らも参入したので清盛方が官軍になりました。
 
 
 二条天皇の脱出を知った義朝は、警備を怠った信頼に烈火のごとく怒ります。
「日本第一の不覚人(大馬鹿者)を頼んだ我が誤ったわ!」と激しく罵倒したと伝えられます。確かに痛恨のミスでした。天皇・上皇を握っているからこそクーデター軍は官軍なのです。それが今や賊軍。大義名分を失った賊軍に味方する者はありません。
 
 一方官軍になった清盛軍には続々と各地の武士団が駆けつけました。清盛は大軍を背景に一気に決着をつけるべく出撃します。
 
 クーデター派は大敗し、散り散りになって潰走しました。首謀者の一人信頼は仁和寺の覚性法親王のもとへ出頭し、清盛の前に引き出されても泣訴の限りをつくして命だけは助かろうとしますが、もとより許されるはずもなく処刑されました。
 
 義朝は本拠の東国へ落ち再起を図ろうとしますが、尾張において代々の家人長田忠致の裏切りに合い暗殺されました。長子義平も近江で捕えられ六条河原で斬られます。
 
 ただ、清盛は信西ほど非情にはなれませんでした。義朝の嫡男頼朝を義母池禅尼の嘆願で死一等を減じ伊豆に島流ししたほか、常盤御前の産んだ幼い子供たちの命を助けるなど戦後処理は中途半端なものになります。
 
 結局この甘さが平氏滅亡の遠因となるのですが、ともかく平治の乱の勝利で清盛は絶大な権力を握ります。
 
 保元の乱で摂関政治が終焉を迎え、平治の乱で院政は止めを刺されました。以後朝廷は清盛を中心とする平家を軸に動きだします。
 
 平氏政権の誕生です。清盛は従一位太政大臣になるなど位人臣を極めました。一族の多くが高位高官に任ぜられ、彼の義弟時忠が「平家にあらずんば人に非ず」と嘯くほどになります。
 
 
 しかし驕る平家は久しからず、東国において清盛が命を助けた頼朝は、父義朝は言うに及ばず信西入道をも超える政治力を持った曲者だったのです。

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