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2012年11月 1日 (木)

保元の乱    (後編)

 信西入道と美福門院は、摂関家の実力を恐れていました。いざとなれば河内源氏を中核とする武力を動員できる悪左府頼長側を何とかして葬り去るにはどうしたらよいか、日夜考え続けていたのです。
 
 美福門院側といえば、名ばかりの関白・忠通、権威のない中継ぎ天皇後白河、そして右往左往するばかりの院の近臣。
 
 信西は自陣営の強化のために全国から武士を動員します。中継ぎとはいえ天皇の権威はまだまだ生きていました。河内源氏の棟梁源為義の嫡男で、父とは袂を分かっていた源義朝。同じ源氏一族だが下野で独自の勢力を築いていた足利義康。そして最大の武力を持つ伊勢平氏の棟梁平清盛を自陣営に加えた事で勝負ありました。
 
 
 清盛は実は崇徳上皇=悪左府頼長側につく可能性もありました。というのは清盛の父忠盛が重仁親王の後見
だったからです。彼の後妻(清盛には義母にあたる)池禅尼(藤原宗子)は重仁親王の乳母でした。
 
 結局清盛は池禅尼の決断で後白河方につく事になります。これには美福門院からの働きかけが大だったといわれています。
 
 
 一方、頼長は崇徳上皇を担ぎ出し自分の息のかかった武士を集めさせます。応じたのは清盛の叔父平忠正、大和源氏の兵力。河内源氏の嫡流為義は、息子義朝が後白河陣営に属したので最初は出馬を渋ります。しかし頼長の説得で結局は出馬を決断しました。摂関家の代々の恩を持ち出されて断りきれなかったと伝えられます。
 
 
 美福門院、信西らは大兵力を背景に崇徳方を挑発します。ついに耐えられなくなった崇徳上皇は鳥羽離宮を脱出、鴨川東岸の白河殿に入り頼長と合流しました。1156年7月の事です。世に言う保元の乱の始まりです。
 
 
 劣勢の崇徳方では、実質的な大将為義が作戦会議の席上後白河方への夜討を献策します。万が一の勝利の可能性はそれしかなかったでしょう。しかし頼長の
「王者の軍は堂々とあるもの。夜討などもってのほか」の言で退けられたといいます。
 
 逆に後白河天皇方では、義朝が上皇方への夜討を進言しこれは容れられました。正面を義朝勢二百騎、左翼に足利義康勢百騎、右翼に平清盛勢三百騎を配し三方から白河北殿に攻めよせます。
 
 上皇方は為義の八男鎮西八郎為朝の奮戦もありましたが多勢に無勢、義朝が火を放った事もあって崩れ立ちます。為義は崇徳上皇、頼長を擁して白河北殿を脱出しました。
 
 しかし、上皇は間もなく仁和寺に赴き降伏。頼長は妻子を匿っていた父忠実がいる奈良まで落ちていき、対面しようとしますが忠実はこれを断りました。
 
 もし対面すれば自分はともかく頼長の妻子まで乱に同調していたとされ処刑をまぬがれなかったからです。父忠実にとっては苦渋の選択だったでしょう。しかし、これで絶望した頼長は矢傷を負っていたこともあって失意のうちに亡くなります。悪左府頼長の最期でした。
 
 
 為義は一旦近江に逃れたものの、息子義朝を頼って降伏しました。
 
 
 
 後白河天皇方の上皇方に対する処断は苛烈を極めました。まず乱の象徴とも言うべき崇徳上皇は讃岐に配流。為義とその子供たちは、義朝の再三の助命嘆願も容れられず信西の命で義朝自身に処刑させるという厳しさでした。
 
 信西は義朝が断れないように、先に平清盛に叔父忠正を処刑させています。こうして義朝は、泣く泣く父と兄弟たちを自らの手に掛けました。
 
 が、叔父殺しと親殺しでは世間に対する印象が違います。源義朝には生涯親殺しの汚名がついて回りました。
 
 信西が、摂関家と結びつきが強く再び敵となりかねない源氏の勢力を削ぐ事を重視したためでした。
 
 上皇方の残党は探し出されことごとく斬られます。しかし義朝の弟為朝は、その武勇を惜しまれ伊豆への島流しになりました。
 
 
 恩賞の沙汰も素早いものでした。戦では活躍しなかったものの実質的に平氏の参戦が勝敗を分けたということで平清盛が勲功第一とされ正四位下播磨守。義朝には従五位上左馬頭が与えられます。
 
 一般にこれは信西が平氏を優遇し源氏を貶めたのだといわれますが、違います。元々清盛は正四位下安芸守でしたから、豊かな国の国司に横滑りしたに過ぎません。一方、義朝は初めて昇殿を許されたのですから破格の恩賞ではありました。
 
 以後、朝廷は新たな権力者となった信西を中心に回っていきます。清盛の武力と結びつき信西の権力は絶頂になりました。
 
 
 源氏はしばらく雌伏の時代に入ります。信西の苛烈な政治は、しかし多くの廷臣たちの不満を呼びました。信西に不満を持つ廷臣たちによって、いずれ彼は非業の最期を遂げる事になります。
 
 
 同時にそれは清盛にとっても絶体絶命の危機でした。そしてその危機を乗り越えた時こそ、平清盛が天下の権を握る事となるのです。

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