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2012年12月

2012年12月 5日 (水)

元寇   Ⅴ 弘安の役

 1281年5月21日、東路軍は対馬に上陸します。日本軍は寡兵ながらも激しく抵抗し少なからぬ被害が出ました。
 
 5月26日、東路軍壱岐に到着。暴風雨に遭遇し兵士113人、水夫36人の行方不明者を出します。今回の遠征の末路を想像させる出だしでした。
 
 
 壱岐で合流するはずだった江南軍の到着が遅れたため東路軍は単独で博多に向かいます。しかし今回は日本軍も万全の準備を敷いていました。石築地で前進を阻まれた元軍は海の中道で本土と繋がる志賀島を占領します。
 
 
 しかし今回は日本軍も慣れていました。夜になると小船を操って夜襲を敢行します。蒙古襲来絵詞で有名な竹崎五郎季長も参加したそうです。
 
 さすがの元軍もこれには悩まされました。夜も安心して眠れなくなるからです。見えない疲労はどんどん蓄積されていきます。
 
 陸路でも海の中道を通って日本軍が攻撃を掛けました。異国の軍隊との戦い方に慣れてくれば地元の防衛軍の方が有利になるのは自明の理です。元軍は弩弓を並べて必死に防戦、日本軍に三百ほどの損害を与えますが東路軍の東征都元帥である洪茶丘が討死寸前になるほどの危機に陥ります。
 
 
 今回の日本軍はかなり優勢に戦を進めました。そうこうしているうちに江南軍との合流期限である6月15日がやってきました。戦況が不利な事もあり東路軍は一時壱岐に撤退し、江南軍の到着を待つ事にします。
 
 しかし肝心の江南軍はなかなか現れませんでした。それもそのはず。慣れない長期航海で疫病が発生しすでに3千人もの犠牲者を出していたのです。江南軍が平戸を経てようやく壱岐に到着した時には気息延々の状態でした。
 
 
 そして今回の日本軍は前回と違って積極的でした。6月29日、松浦党、竜造寺、彼杵の肥前勢を中心とする水軍数万が海路総攻撃を開始したのです。
 
 
 7月2日、竜造寺家清らは瀬戸浦から上陸、島にいた元軍と激戦を展開します。日本軍は鎮西奉行少弐経資、少弐資能が負傷し、少弐資時が戦死するなど決して楽な戦いではありませんでしたが、ついに元軍を壱岐から叩き出すことに成功しました。
 
 元軍は、全軍平戸島に避難します。平戸で体制を整え直した元軍は7月中旬再び博多湾に向かいました。湾内の鷹島を占領した元軍は本土上陸の機会を窺います。
 
 
 7月27日夜、またしても日本軍に海路からの夜襲を受けた元軍は大混乱に陥りました。元軍は鷹島に防塁を築き防衛体制に入りました。
 
 
 同じころ日本側は続々と援軍が到着します。六波羅探題からも引付衆宇都宮貞綱率いる六万余騎が北九州に向かって進軍、すでに本州長府まで達していました。
 
 
 7月30日夜半、またしても台風が博多湾を襲います。海上は5日間荒れ元軍の軍船は多くが沈没、損害も甚大なものになりました。元軍の諸将は軍議を開き、撤退するかそのまま戦闘を継続するか激論します。
 
 しかし元帥の一人范文虎の「撤退すべし」という主張が通りました。元軍の主だった武将たちは、頑丈な船を選んで乗船し多くの部下たちを見捨てて逃亡します。
 
 
 哀れなのは残された元兵です。おそらく直属のモンゴル兵は連れて逃げたでしょうから、高麗兵と南宋の降兵だけが置き去りにされたのでしょう。
 
 日本軍は掃討作戦に入り、元軍十万余が殺されたといわれます。それでも二~三万の捕虜が出ました。彼らはどうなったのでしょうか?おそらく奴隷として酷使され非業の最期を迎えた可能性が高いです。送り返したという話は聞きませんから…。あるいは運の良いものは日本に土着し、今の日本人の中に血を残しているかもしれませんね。
 
 無事に半島まで逃げ帰ったものは三割にも満たなかったそうですから完敗といってもいいでしょう。今回の日本軍の勝利は決して神風ではありませんでした。天は自ら助くる者を助く、まさに彼らの奮闘が勝利を呼び寄せたのです。
 
 
 フビライはこの敗戦でも全く凝りませんでした。三度目の日本遠征を計画していたといいます。しかし江南で反乱が起こり遠征計画は中止になります。日本にとっては幸いでした。
 
 
 
 
 大勝利を果たした鎌倉幕府でしたが、外国との戦いでは土地を得る事もできません。命を的に奮戦した御家人たちに恩賞を与えることができないのです。これが武士たちの不満になり結局は鎌倉幕府を滅ぼすことになります。
 
 
 元寇で軍費を費やし生活に困窮する御家人も多く、悪党などの反体制的な存在も出現しました。またこれ以後倭寇として中国沿岸を襲う者たちも出ます。松浦党など元寇に参加した水軍が中心でしたが、彼らの意識の中には元寇の復讐という意味もあったのでしょう。
 
 
 元寇によって起こった矛盾は、最終的に幕府を滅亡させます。しかし未曽有の国難から日本を守り抜いた鎌倉幕府は、歴史的にその使命を十分に果たしたと言えるでしょう。

元寇   Ⅳ 幕間

 日本建国以来の国難、文永の役は終わりました。鎌倉幕府はなんとか元軍の侵略を撃退できたことより、たやすく博多上陸を許した事の方が衝撃でした。
 
 そこで鎮西に所領を持つ御家人に対して、その領地の広さに応じて田一反に一寸、一町に一尺という割合で石築地と呼ばれる防塁を建造させます。現在でも元寇防塁として遺跡が残ってるそうです。
 
 一方、元の皇帝フビライは戦いに負けたとは思っていませんでした。たまたま暴風で被害が出たから一時撤退してくらいの認識でした。もしモンゴルに海の知識があれば高麗が軍船の建造に手抜き工事をしたと気付くはずでしたが、知識がなかっただけにこんなものだと思ったのでしょう。
 
 文永の役から半年後の1275年4月、フビライは再び礼部侍郎杜世忠を正使とする使節を日本に派遣します。前回は博多に上陸して失敗したので今回は本州の長門室津に上陸しました。
 
 
 使節は、まず大宰府に送られ、そこから鎌倉に送られます。今回は鎌倉まで行けたので使者たちも上首尾を期待したのでしょうか?
 
 しかし、相変わらずの高飛車な態度で全面降伏を求めた元の国書を読み執権北条時宗は激怒します。哀れな使者たちは鎌倉郊外龍ノ口刑場(江の島付近)で全員斬られました。
 
 通常、国際慣例ではこのような時使者は斬らないのが通例です。日本がそれを知らなかった事は責められませんが、それにしても戦いで一応負けた方が高飛車に降伏を要求すれば相手が怒るのも当然でしょう。
 
 使者たちは運が悪かったとしか言いようがありません。
 
 
 フビライはこれに懲りず、何度も降伏を求める使者を日本に派遣します。しかし日本側はよけい頑なになり1279年には大宰府で全員が処刑されます。
 
 
 その間、1279年南宋最後の皇帝である衛王昺(祥興帝)は大陸南方の広州湾崖山で元との最後の決戦に敗れ滅亡します。忠臣陸秀夫は幼帝を抱いて入水したといわれ宋朝所縁の多くの人々も行動を共にしました。
 
 
 フビライの日本遠征の理由の一つが、南宋を孤立化させるためであった事はすでに書きました。しかしここまでくるとフビライの面子のためにも日本を滅ぼさずには収まらなくなってきていました。
 
 
 外交で日本を屈服させられない事が分かると、フビライは再征の準備を命じます。今回は高麗の他に南宋の降兵十万を加え万全の態勢で日本を襲うつもりでした。
 
 
 弘安の役におけるフビライの意図を、後背の定まらない宋兵を合法的に始末するためと説く研究者がいます。もちろんその側面はあったと思います。しかし歴史はそんな単純なものではありません。
 
 複数の要素が重なり合って歴史は進むのです。フビライが前回の恥をすすぎ今度こそ生意気な小国日本を征服しようと思った事が最大の理由でした。
 
 日本遠征で宋兵が摺り潰されたらそれも良し。遠征が成功し日本を占領できたらさらに良し。どちらにしろモンゴル本体は傷つかずに大きな利益を上げることが最良ですから。
 
 
 南宋の滅亡で多くの高僧たちが日本に亡命してきていました。時宗の禅の師となった無学祖元などもその一人です。恨みを持つ彼らのフィルターを通しての元・モンゴル観があったことは否めませんが、実際に元兵の猛威を経験した人々の証言だけにリアリティはありました。
 
 
 時宗は祖元の進言を受けて、元の襲来を覚悟していたといいます。
 
 
 1280年、フビライ汗は日本を征服する専門の組織である征東行省を設置します。そこで日本を征服する計画を練りました。モンゴル、高麗軍を主力とする東路軍四万は前回と同じく半島南部合浦から出港、南宋の降兵十万を主力とする江南軍は江南各地の港を出港し、壱岐で合流して一気に北九州を襲うという作戦でした。
 
 
 戦端は間もなく開かれようとしています。1281年1月、フビライはついに日本遠征の命を下しました。

元寇   Ⅲ 文永の役

 1274年(文永11年)10月5日午後、対馬の住民は佐須浦(現在の小茂田海岸)沖に、海を埋め尽くす夥しい数の軍船を見ます。
 
 急報は対馬守護代宗助国(守護は少弐氏)のもとへ告げられました。助国は八十余騎を率いて現場に駆けつけます。最初助国は通訳の真継というものを派遣して仔細を尋ねようとしました。しかし敵は千人ばかりが降り立ちいきなり矢を射かけてきました。
 
 助国は急いで陣を整え応戦しますが多勢に無勢、次第に追い詰められ助国を始め嫡子右馬次郎、養子弥次郎、庄の太郎入道、肥後国住人田井藤三郎ら主だった者十二人がことごとく討ち死にしあえなく敗退しました。
 
 元軍は対馬を占領します。急報は生き残った住人によって博多にもたらされました。次に元軍は壱岐を襲います。ここでも守護代平景隆が果敢に抵抗しますが全軍玉砕しました。
 
 
10月19日午前八時ころ、元軍は博多湾に侵入しました。陸では日本軍が待ち構えます。大宰少弐武藤資能を大将にその子景資、経資、鎮西奉行大友頼泰らが指揮をとり、臼杵、原田、菊池、松浦党ら九州の御家人たちから成る軍勢でした。総勢十万余騎と伝えられますがもとより誇張でしょう。一説ではこの時博多近郊にいたのはわずか一万ほどだったともいわれます。
 
 そのほかの御家人たちは戦場である博多湾に急行中でした。
 
 満を持して元軍は上陸を開始します。この時異国との戦になれない鎌倉武士たちは一人一人名乗りを上げて一騎打ちを求め集団戦法の元軍に包みこまれ討たれたり捕虜になったといわれます。
 
 
 ただ、私はこの俗説に異論を持っています。たがいに名乗りを上げての一騎打ちは国内でもかなりのレアケースで、ましてや日本の戦のしきたりが通じない元軍に対してそんな事をするでしょうか?
 
 
 私は、慣れないまでも鎌倉武士たちは敵の集団戦法にすぐに対応できたと考えています。この時の元軍の主力は歩兵でした。さすがに海を越えて騎兵を運ぶ事はできません。指揮官級の者だけが騎乗で、後は徒歩の集団戦法で戦いました。
 
 元軍は、鉦や太鼓で軍を進退させます。最初日本軍はこれに面喰らったそうです。一方日本軍の強みは主力の鎌倉武士。準重装騎兵で遠距離で弓、近距離で太刀を操り、馬格は劣るものの耐久力の強い日本馬で機動力で有利でした。
 
 ただ大陸の兵である元軍は、当時最高性能の合成弓であるトルコ弓を使い有効射程で和弓を圧倒したといいます。トルコ弓がだいたい2~300m、和弓は最大でも200m前後だったそうですからその点不利でした。
 
 
 鎌倉武士も奮戦しましたが初日の戦闘は苦戦しました。箱崎、今津、博多、赤坂は元軍に占領され日本軍は大宰府に近い水城(みずき)に退き防衛線を築きます。
 
 この時父から前線の大将を命じられた武藤景資さえ敵軍に追われて逃げまどう始末。ただ彼は逃げながらも振り向きざま敵の大将と思しき武将に矢を射かけます。それが見事に命中。彼は難を逃れました。
 
 なんとそれは敵の副元帥劉復亨でした。戦況は元軍有利でしたが、副元帥の一人が戦死した事もあって元軍も船に引き揚げました。今後の作戦会議を開くためだったと言われます。
 
 
 その晩、博多湾に大嵐が吹き荒れました。一夜明けて見ると湾を埋め尽くした軍船は跡かたもなく無くなっているではありませんか!日本軍はキツネにつままれたような表情をします。
 
 渡海出来るほどの船が大嵐くらいで難破するだろうか?という当然の疑問から神風説が発生したのだと思いますが、前に見たとおり元軍の船は高麗のサボタージュによって手抜き工事がなされ通常より脆弱だったのでしょう。
 
 元船のあるものは玄界灘の藻屑と消え、あるものは博多湾に打ち上げられます。多くの元兵が溺死しました。命からがら高麗に逃げ帰った船は半数にも満たなかったそうです。
 
 鎌倉武士は、残敵を掃討します。私はこの勝利は神風などではなく鎌倉武士の奮戦にあったと思っています。敵は最大でも四万、それに対し日本軍は最大十万近い大軍を集結できます。しかも戦場は日本国土。山がちの地形。地の利は日本軍にあります。暴風が吹かなくてもいずれは元軍を撃退できた可能性が高いと考えるのです。
 
 
 10月下旬、元軍襲来の報告を受けた鎌倉は色めき立ちます。急いで中国以西の守護たちに御家人はもとよりそれ以外のすべての武士を動員して敵に当たるよう命じました。
 
 
 しかしそのころすでに元軍は敗退していました。勝報が京都六波羅にもたらされたのは11月6日。

元寇   Ⅱ 使者来る

 1266年日本の年号では文永三年、高麗に宗主国元から二人の使者がやってきます。正使・兵部侍郎の黒的と副使・礼部侍郎の殷弘
 
 皇帝フビライは、高麗に日本との通交を仲介せよと命じていました。それまで30年余り、モンゴルの侵略に痛めつけられてきた高麗は、再び日本遠征の負担を強いられてはかなわないとばかりに、玄界灘が波荒く風が強く渡海が困難だという事を理由にやんわりと断りました。
 
 帰国した使者から報告を受けたフビライは激怒します。再び高麗に派遣した使者には絶対に日本に国書を渡すよう厳命しました。
 
 
 フビライの厳しい姿勢を見て諦めた高麗は、潘阜を正使とする使節を日本に派遣します。1267年11月、対馬を経て博多から上陸した高麗使節は国書(フビライの国書と高麗の添え状)を携え、翌1268年1月大宰府に到着しました。
 
 
 大宰府の責任者であった大宰少弐武藤資能(筑前守護兼任)は早速これを鎌倉に送ります。フビライの国書を受け取った鎌倉は騒然としました。
 
 国書はモンゴルと日本の通交を求めたものでしたが、最後にこれに従わなければ軍隊を送ることを仄めかしており要は属国になれという脅しでした。
 
 幕府内は国書を巡って議論が噴出しますが結論が出ず、これを朝廷に送ってお伺いを立てることになります。しかし幕府でさえ結論が出ないものを朝廷が出せるはずもなくさんざん議論した末返書を出すべきではないとの結論に達しました。
 
 おそろしく時間をかけた割に出た結論としてはお粗末なものでしたが、いままで国際外交など未経験だった日本としてはやむを得なかったかもしれません。
 
 大宰府に高麗使節が到着してから7か月余り、使者は要領を得ないまま帰国します。
 
 日本側もこの間何もしなかったわけではありません。ついに来るべきものが来たと覚悟を決めました。1268年3月、それまで執権職にあった北条一族の長老政村が連署に退き、代わって連署であった時宗が執権になります。この時時宗18歳、日本の命運は青年執権の手に委ねられました。
 
 
 1269年3月には二度目の元の使者が来日します。しかし日本はこれを黙殺。同年7月に第3回の使者がやってきました。
 
 元がすぐに日本を攻めなかったのは海を渡っての遠征に自信がなかったからだと言われています。大陸では猛威をふるったモンゴル騎兵も山がちの日本では存分に活躍できないと思ったのでしょう。
 
 さすがに今回は日本側も返書を出すべきではないか?という声があがりました。しかし執権時宗はこれを拒否、元の使者はまたも要領を得ないまま帰国しました。
 
 
 1271年、高麗では元の支配に抵抗する三別抄の乱が起こります。元がすぐに日本遠征できない理由の一つはこれがあったからです。
 
 三別抄(さんべつしょう)とは崔氏政権のもとで組織された私兵が始まりで、後に高麗の正規軍になり、この時元の支配に抵抗し蜂起したものでした。元軍はすぐさま遠征軍を送り三別抄を攻撃しました。反乱軍は次第に半島南部に追い詰められ、日本へも救援の使者を送ります。
 最後は済州島に逃げたものの1273年滅亡しました。
 後顧の憂いをなくしたフビライは、高麗に日本遠征のための軍船一千艘の建造と兵員4万の供出を命じます。遠征のための兵糧も負担することとされたため高麗政府は負担軽減を何度もフビライに嘆願しましたが無駄でした。
 フビライに命じられた数をそろえる事は高麗の国力からいって無理でした。そのためかなり手抜き工事がなされたと想像されます。元軍が暴風で一夜にして壊滅した理由の一つはこれにありました。
 一方、元軍の侵攻が間もなくあると覚悟した日本側は、西国御家人を中心に異国警護番役を命じ交代で北九州の要地を守らせました。また朝廷は全国の寺社に命じ敵国調伏を祈られました。
 現代感覚からいうと博多湾に防壁でも築いた方が有効な対策だと思うでしょうが、外国から侵略された経験のない当時の日本からすると仕方ない対応でした。
 そんな危機の中1272年2月、幕府内部でとんでもない事件が起こります。北条時宗の執権就任に不満を持つ異母兄時輔が秘かに謀反を企てたのです。当時南六波羅探題の要職にあった時輔は秘かに軍勢を集めます。
 時宗はすぐに反応しました。鎌倉における時輔の与党である名越教時、仙波盛直らを直ちに捕え斬ります。さらに北六波羅探題の北条義宗に命じ時輔を討たせました。機先を制せられた時輔方は合戦に及ぶも敗北、時輔本人はこの時斬られたとも、吉野へ逃亡し行方知れずになったとも伝えられます。
 1274年、元と高麗連合軍の遠征準備は整いました。都元帥(総司令官)に忻都(きんと)、副元帥には洪茶丘(こうさきゅう)と高麗人の金方慶が就任しました。
 元軍二万五千、高麗軍一万、兵船900余艘。1274年10月半島南部合浦(がっぽ)を出航します。ついに賽は投げられたのです。
 
 次回は文永の役における鎌倉武士の奮闘を描きます。

元寇   Ⅰ 内外の情勢

 元寇、それは上古の昔はいざ知らず、日本が激動の世界の歴史に初めて巻き込まれた未曽有の国難でした。
 
 いままで長々と鎌倉時代の歴史を書き綴っていたのは、まさに元寇の歴史を記さんがため。これから何回かに渡って元寇の歴史を紐解いて行こうと思います。
 
 まずは元寇に至った内外の情勢から…。
 
 
 
 
◇国際情勢   - 元朝の成立 -
 
 蒼き狼と白き雌鹿の子孫と称するモンゴル族は、13世紀一代の英傑チンギス汗のもとに結集し欧亜にまたがる大帝国を築きました。女真族の建てた金朝を滅ぼしたモンゴルは、中国大陸の淮河以北を平定します。チンギス汗の孫フビライが激しい権力闘争の末大汗の地位を得た時には、華南に余喘を保つ南宋は風前の灯でした。
 
 フビライは、モンゴル帝国の大汗であるとともに、中国風の王朝「元」を建国しその初代皇帝になります。フビライが日本を狙ったのは黄金の国ジパング伝説を信じたからだという説もありますが、もとより俗説に過ぎません。
 
 大敵南宋を滅ぼすために周辺諸国を制圧し孤立化を図ったというのが真相に近いかもしれません。確かに南宋は軍事力は弱くても、おそらく当時世界最大の経済大国でした。海外交易も盛んで豊富な富力に支えられ巨大な城壁都市で籠城されれば攻略は難しかったのです。
 
 フビライは南宋孤立化のために雲南やチベット、高麗に遠征しました。日本攻略もその一環を考えるのが自然です。
 
 
 
 
◇日本の国情    - 執権北条時宗 -
 
 海の向こうで蒙古が興隆し世界を征服しつつあるという情報は、宋と交易する商人や宋に渡った留学僧らによってもたらされました。まだまだ対岸の火事という認識でしたが、一部には危機を訴える人々も出てきていました。
 
 日蓮などはまさにその代表でしょう。元の使者が初めて我が国に来た1266年、執権は五代執権時頼の叔父にあたる老齢の政村でした。時頼がわずか37歳で没したため、嫡男時宗はまだ16歳。この時は執権を補佐する連署の地位にありました。
 
 北条得宗家(嫡流)の当主として一門を治めるには時宗は若年すぎました。そのため時の将軍宗尊親王のもとでまたしても時宗排除の陰謀が渦巻きます。それに気づいたのは代々北条家と姻戚関係を結ぶ有力御家人、秋田城介安達泰盛でした。泰盛らは陰謀のかどで宗尊親王の将軍位を廃し、その子惟康親王を新将軍に据えます。宗尊親王は京都に追放されました。
 
 もともと宗尊親王は、時頼が摂家将軍九条頼嗣を廃して京から迎えたものでしたから、鎌倉将軍は完全な北条氏の傀儡でした。
 
 親王追放劇は合戦にこそならなかったものの時宗が歴史の表舞台に登場する前後は、このようなきな臭い情勢だったのです。
 
 
 
 
 次回は、元の使者を迎えた幕府と朝廷の右往左往ぶり、そして文永の役に至る歴史を描こうと思います。

宝治合戦(ほうじかっせん)と三浦一族の滅亡

 鎌倉時代は執権北条氏が他の有力御家人を滅ぼして権力を独占してきた歴史といっても過言ではありません。梶原景時一族討滅からはじまり比企一族、畠山重忠一族、和田義盛一族と続きついには鎌倉幕府草創期からの功臣で北条氏に比肩しうる勢力を保持していた三浦一族にもその順番が巡ってきました。
 
 これ以後は、霜月騒動で安達泰盛一族が討たれた他主だった事件は起こりません。(後に記事にする予定)
 
 
 北条家は五代執権時頼、三浦氏は義村の子泰村の時代になっていました。三浦一族の棟梁泰村は温厚篤実な人物だったと伝えられます。
 
 前記事で、源氏の嫡流が実朝暗殺で絶え、頼朝の遠縁にあたる九条頼経が北条氏傀儡の鎌倉将軍として迎えられた話はご紹介したと思います。当時2歳の幼児だった頼経もいまや26歳。傀儡将軍に満足できず秘かに側近と語らい将軍復権を企んでいました。
 
 しかしこの陰謀は発覚し、執権時頼は頼経を将軍の座から引きずり降ろし京都に追放します。新将軍には頼経の嫡男でまだ幼児であった頼嗣(よりつぐ)が就任しました。
 
 陰謀に加担した側近には三浦泰村の弟光村もいました。時頼はこの事実を決して見逃しませんでした。
 
 
 光村は、頼経が京都に戻される時
「必ずもう一度鎌倉にお迎えしますからしばらくご辛抱下さい」と涙ながらに訴えたと伝えられます。これが事実かどうかは定かでありませんが、いつしか鎌倉中に三浦一族が前将軍を擁して幕府に謀反を企んでいるという噂が駆け廻ります。
 
 光村は一族でも血の気の多い人物として知られ他の御家人とのトラブルもつきませんでした。結局彼の存在が三浦一族を追い詰めることになります。
 
 
 噂を聞きつけた泰村は憂慮しました。北条時頼に対し
「世間では色々取り沙汰されていますが私には何の野心もございません。指図に従いますので疑念をお解きください」と申し入れます。
 
 しかし時頼は「今更何を言っても無駄である」と冷たく突き放しました。
 
 
 北条氏は三浦氏を潜在的な敵と認識し、常にこれを滅ぼす機会を狙っていました。その最大のチャンスが巡ってきたのです。三浦泰村が無実であろうがそんな事は関係ありませんでした。
 
 
 こうなっては仕方ありません。三浦方も覚悟を決めます。北条方、三浦方互いに味方を募り鎌倉は一触即発の危機に陥りました。
 
 宝治元年(1247年)は異常気象が続き人心は荒廃し鎌倉でも不穏な空気が漂っていました。両軍が緊張を強いられている中の6月5日、執権時頼は泰村に和平を求める手紙を送りました。
 
 それを聞きつけた時頼の外戚(時頼の父時氏の正室松下禅尼の父。彼女の子が時頼)の安達景盛は
「冗談じゃない!今更和平を申し出たらむこうが付け上がるだけだ。構わないからさっさと三浦邸に攻め寄せよ!」
と時頼を叱ったと伝えられます。
 
 
 しかし、私はどうもウソくさい話のような気がしてなりません。時頼を善人として印象付け責任を景盛に押し付けた吾妻鏡の作為のような気がするのです。時頼はそんな甘い人物ではありません。
 
 
 和平の手紙を貰って安堵していた三浦方は、不意の敵襲を受けて狼狽します。北条方は三浦邸を焼き討ちし激しく攻めたてました。
 
 たまらず三浦方は屋敷を脱出し法華堂に逃れます。源頼朝所縁の場所です。泰村の弟光村は永福寺に立て籠ります。
 
 そして兄に対して「ここは要害の地ですからこちらへおいで下さい」と使者を出しました。
 
 
 しかし泰村は
「たとえ鉄壁の城であっても、今となっては滅亡は避けられない。お前もここへ来て頼朝公の御影のもとで共に自害して果てよう」と答えたと伝えられます。
 
 
 これを聞いた光村は、手勢八十騎を引き連れ北条方の重囲を突破し兄のもとに参上しました。法華堂には一族の他に三浦氏に所縁の毛利入道西阿などが集まります。
 
 一族郎党を前にし、泰村はその日思い出話に花を咲かせました。ただ一人光村だけは
「兄上がもっと早く決断し北条氏を討っていたならこんな事にはならなかったのに」と悔しがったそうです。
 
 三浦勢は絶望的な戦況の中よく戦いました。北条方も攻めあぐねます。しかし多勢に無勢、最期の時は刻一刻と近づきつつありました。
 
 「こうなれば仕方ない。死骸を敵に見られたくない。御堂に火を掛けて焼いてしまおう」という光村の発言を、泰村は押し止めます。泰村の決断で法華堂の消失は避けられました。
 
 
 三浦氏は棟梁泰村を筆頭に一族郎党ことごとくが自刃して果てます。主だったもの二百七十六人、一門合わせて五百人余だったと伝えられます。
 
 
 北条時頼の残党狩りは熾烈を極めました。泰村の妹婿だった千葉秀胤も本拠上総一宮において北条方の軍勢に襲撃され一族全員が殺されます。三浦方に与したものはことごとく斬られました。
 
 
 こうして頼朝以来の功臣、相模を中心に大きな勢力を誇った三浦氏嫡流は滅亡します。三浦氏の名跡は一族でありながら北条方に味方した佐原盛連の子盛時に与えられました。
 
 この盛時の子孫が三浦氏を名乗り、蘆名氏がそこから分かれました。ただ盛時は御家人たちからは一族を裏切った者として皮肉な視線を浴びたと言われます。
 
 
 これが宝治合戦と呼ばれる戦いの顛末です。
 
 
 以後北条得宗家専制体制は盤石となり、強力な独裁体制が元寇の国家的危機を耐え抜いたのです。三浦一族は哀れでしたが、日本国の命運を考えるとこれで良かったのかもしれません。
 
 
 五代執権北条時頼の評価は、諸国漫遊伝説にあるように仁慈の人といわれる一方、秋霜烈日、果断の政治家だったという見方もあります。
 
 私は後者に軍配を上げたいと思います。

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