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2012年12月 5日 (水)

元寇   Ⅳ 幕間

 日本建国以来の国難、文永の役は終わりました。鎌倉幕府はなんとか元軍の侵略を撃退できたことより、たやすく博多上陸を許した事の方が衝撃でした。
 
 そこで鎮西に所領を持つ御家人に対して、その領地の広さに応じて田一反に一寸、一町に一尺という割合で石築地と呼ばれる防塁を建造させます。現在でも元寇防塁として遺跡が残ってるそうです。
 
 一方、元の皇帝フビライは戦いに負けたとは思っていませんでした。たまたま暴風で被害が出たから一時撤退してくらいの認識でした。もしモンゴルに海の知識があれば高麗が軍船の建造に手抜き工事をしたと気付くはずでしたが、知識がなかっただけにこんなものだと思ったのでしょう。
 
 文永の役から半年後の1275年4月、フビライは再び礼部侍郎杜世忠を正使とする使節を日本に派遣します。前回は博多に上陸して失敗したので今回は本州の長門室津に上陸しました。
 
 
 使節は、まず大宰府に送られ、そこから鎌倉に送られます。今回は鎌倉まで行けたので使者たちも上首尾を期待したのでしょうか?
 
 しかし、相変わらずの高飛車な態度で全面降伏を求めた元の国書を読み執権北条時宗は激怒します。哀れな使者たちは鎌倉郊外龍ノ口刑場(江の島付近)で全員斬られました。
 
 通常、国際慣例ではこのような時使者は斬らないのが通例です。日本がそれを知らなかった事は責められませんが、それにしても戦いで一応負けた方が高飛車に降伏を要求すれば相手が怒るのも当然でしょう。
 
 使者たちは運が悪かったとしか言いようがありません。
 
 
 フビライはこれに懲りず、何度も降伏を求める使者を日本に派遣します。しかし日本側はよけい頑なになり1279年には大宰府で全員が処刑されます。
 
 
 その間、1279年南宋最後の皇帝である衛王昺(祥興帝)は大陸南方の広州湾崖山で元との最後の決戦に敗れ滅亡します。忠臣陸秀夫は幼帝を抱いて入水したといわれ宋朝所縁の多くの人々も行動を共にしました。
 
 
 フビライの日本遠征の理由の一つが、南宋を孤立化させるためであった事はすでに書きました。しかしここまでくるとフビライの面子のためにも日本を滅ぼさずには収まらなくなってきていました。
 
 
 外交で日本を屈服させられない事が分かると、フビライは再征の準備を命じます。今回は高麗の他に南宋の降兵十万を加え万全の態勢で日本を襲うつもりでした。
 
 
 弘安の役におけるフビライの意図を、後背の定まらない宋兵を合法的に始末するためと説く研究者がいます。もちろんその側面はあったと思います。しかし歴史はそんな単純なものではありません。
 
 複数の要素が重なり合って歴史は進むのです。フビライが前回の恥をすすぎ今度こそ生意気な小国日本を征服しようと思った事が最大の理由でした。
 
 日本遠征で宋兵が摺り潰されたらそれも良し。遠征が成功し日本を占領できたらさらに良し。どちらにしろモンゴル本体は傷つかずに大きな利益を上げることが最良ですから。
 
 
 南宋の滅亡で多くの高僧たちが日本に亡命してきていました。時宗の禅の師となった無学祖元などもその一人です。恨みを持つ彼らのフィルターを通しての元・モンゴル観があったことは否めませんが、実際に元兵の猛威を経験した人々の証言だけにリアリティはありました。
 
 
 時宗は祖元の進言を受けて、元の襲来を覚悟していたといいます。
 
 
 1280年、フビライ汗は日本を征服する専門の組織である征東行省を設置します。そこで日本を征服する計画を練りました。モンゴル、高麗軍を主力とする東路軍四万は前回と同じく半島南部合浦から出港、南宋の降兵十万を主力とする江南軍は江南各地の港を出港し、壱岐で合流して一気に北九州を襲うという作戦でした。
 
 
 戦端は間もなく開かれようとしています。1281年1月、フビライはついに日本遠征の命を下しました。

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