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2013年1月

2013年1月 2日 (水)

北条氏滅亡余話  その2

 まだ鎌倉幕府滅亡の記事を完結させた余韻が収まりません。読者様にとっては全く面白くない記事ですのでスルーして下さい。これは私が勝手に考えた事を書き綴っただけです。
 
 
 
 
 
◇赤橋登子(「とうし」  あるいは 「とうこ」)1306年~1365年
 
 
 赤橋(北条)登子は足利高氏の正室です。足利幕府二代将軍になった義詮(よしあきら)と、初代鎌倉公方基氏を生んでいます。
 
 将軍家御台所として輝かしい生涯だったと思われがちですが、名前から分かる通り鎌倉幕府最後の執権赤橋(北条)守時、最後の鎮西探題英時を兄に持ちます。
 
 
 夫と兄の一族が殺し合いをし、自分の実家が夫に滅ぼされる悲劇。戦国の女の習い、と言ってしまえばそれまでですが私は彼女の悲痛な思いを想像すると深く同情せざるを得ません。夫が幕府を裏切り、実家と敵対したと聞いた彼女はどう思ったでしょうか?自分の幼い子供千寿王(のちの義詮)が鎌倉幕府を攻める新田義貞の軍に参加すると聞いてどういう心境だったでしょうか?
 
 一番上の兄守時が鎌倉で、次の兄が博多で相次いで自害したという報告を聞いてどう思ったでしょうか?
 
 
 彼女は、ズタズタになった精神の救いを仏法に求めたような気がします。将軍家御台所、二代将軍の生母として従二位に叙せられても心の底から喜ぶことはなかったでしょう。
 
 無常感を常に抱きながら生きていたような気がしてならないのです。1365年5月4日死去。享年60歳。戒名は登真院殿定海大禅定尼。臨済宗天龍寺派の京都の等持院に夫尊氏(高から改名)とともに眠っています。
 
 
 
 
 
◇博多合戦における少弐、大友、島津勢
 
 博多合戦で宮方に付いた九州三人衆の動員がいやに早かったのを私は疑問に思いました。といいますのも筑前の守護で博多とは目と鼻の先の大宰府宇智山城を本拠にしていた少弐氏は分かるんです。
 
 大友氏も筑前国内に所領があったようなのでこれも理解できます。一方南九州が地盤の島津氏が動員して軍勢を北上させる間北条方は何をしていたのか?というのが疑問でした。
 
 
 薩摩から北上する時必ず通る肥後、筑後、日向は北条一門の守護国です。いくら島津勢が鎮西探題に味方するために行くのだと言い訳をしても、情報はいずれ漏れるので途中のどこかで一合戦あってもおかしくないはずと考えました。
 
 
 あるいは海路北上したという可能性もありますが、当時の経済力、造船技術からいったらそれほど大軍を運べるとはとても思えません。
 
 
 という事は島津勢は最初から博多にいたのではないか?と推理しました。鎌倉幕府は元寇に備えるために異国警護番役として九州各地の御家人を交代で北九州の防備につけていました。
 
 これなら合法的ですから誰も咎めだてできません。一定期間(4番編成・3月勤番)の勤務ですから、少弐、大友らは島津が博多に常駐する時期を狙って戦を始めたのかもしれませんね。
 
 これなら島津勢が内部から手引きしますから、やすやすと博多に侵入できます。もしかしたら大友勢も島津の相役で博多常駐。地元の少弐だけが外から攻めたのではないでしょうか?
 
 
 私は、名探題といわれた英時にしては博多合戦がやけにあっさりとしていた謎もこれで説明できると思います。
 
 
 資料の裏付けがなく私の勝手な想像にすぎませんが…(苦笑)。

鎌倉幕府滅亡   Ⅴ 鎌倉炎上(最終章)

 鎌倉幕府は、最初源氏将軍が創始し、執権北条氏にとって代わられ、北条氏内部でも得宗家(嫡流)による専制体制に移行するともに執権政治さえ形骸化したということはすでに述べました。
 
 滅亡時、幕府の最高権力者は得宗家の家人にすぎない御内人である家宰、内管領の長崎円喜入道でした。
 
 得宗の北条高時を操り御家人でもないのに侍所別当という要職も占めるほどでした。1316年には内管領の職を嫡子高資に譲りましたがまだまだ隠然たる実力を保っていました。
 
 この長崎親子が有能なら幕府も北条氏もまだまだ生きながらえる事が出来たかもしれません。ところがこの親子は、たしかに政略には長けていましたが訴訟の当事者双方から賄賂をとりその多寡で判決を決めるなどの出鱈目な政治を繰り返しました。
 
 陸奥ではこのおかげで蝦夷大乱と呼ばれる大反乱が起こります。もともとは安東(安藤)氏の家督争いが原因でした。ところが長崎高資は訴訟の当事者である安東季長、季久双方から賄賂をとり、どちらからも不満を持たれる裁定をくだしたため、両者引っ込みがつかなくなり合戦沙汰に及んだものでした。
 
 
 おそらくこのようなケースは大なり小なり数多くあっただろうと想像できます。一方北条高時は、政治を投げ出し田楽や犬追物、酒宴に明け暮れた暗愚の人物として描かれます。しかし私が考えるのは、政治の実権を奪われ遊び呆けるように長崎親子に仕向けられただけだという気もするのです。
 
 
 
 元寇後の御家人たちへの恩賞も遅々として進まず、西国を中心にようやく貨幣経済が浸透してきた中で兄弟で均等に所領を相続する御家人たちは、代を重ねるごとに困窮する者が続出しました。幕府は御家人の土地の売買を禁止したり徳政(借金帳消し)などの対策を打ち出しましたが、根本的解決には程遠いものでした。
 
 
 お金を貸しても徳政でチャラにされる恐れがあれば、だれも御家人にお金を貸さなくなります。貸す場合は高利貸し、これらはますます御家人の困窮に拍車を掛けました。
 
 
 頼朝の鎌倉開府以来140年余り、鎌倉幕府の歴史的使命は終わろうとしていたのです。
 
 
 
 鎌倉幕府のお膝元、関東の地にも後醍醐天皇の綸旨は届いていました。同じ源氏の足利氏とは兄の関係でありながら、頼朝挙兵のとき反抗したため幕府内では無位無官であった新田氏も綸旨を受け取りました。
 
 当主新田小太郎義貞は、優遇されていた足利氏とは違い幕府に冷遇され続けた恨みを持っていました。それに加えて近年の軍事負担に何の見返りもなかったことからついに挙兵を決意します。
 
 
 1333年5月8日、本拠の上野国新田荘で義貞はついに兵を挙げます。ただこの時は一族郎党合わせて数百騎ともいわれるわずかな兵力にすぎませんでした。
 
 しかし時代の流れだったのでしょう。六波羅探題滅亡の噂は関東にも入ってきていました。義貞が上野守護代の軍勢と戦った時には近隣の御家人が次々と新田軍に参加し一守護代の手に負えない勢力に膨れ上がってきていたのです。
 
 守護代軍を撃破し、新田軍は鎌倉を目指して南下します。上野から越後に散らばる新田一族や、関東各地の御家人たちが参加し数万の大軍に膨れ上がっていました。足利高氏は義貞一人に功を奪われるのを恐れ嫡子の千寿王(のちの二代将軍義詮【よしあきら】)を大将に奉じた足利勢をこれに参加させました。
 
 
 新田軍は義貞が総大将であるはずなのに、千寿王参加によってまるで足利高氏の命令で動いているような奇妙な格好になります。官位の上でも実力でも足利氏の方が上だったからです。ただこのおかげで有力御家人の参加が増加したので義貞としては痛し痒しでしたが…。
 
 
 新田軍南下の報告を受けた幕府は、まず北条一門の桜田貞国に軍勢を与えて防がせます。両軍は入間川と柳瀬川の間の平原である小手河原でぶつかりました。義貞はこれを鎧袖一触、高時の弟泰家の率いる幕府軍主力と武蔵分倍河原に対峙しました。
 
 
 幕府側も分倍河原を破られれば後は鎌倉まで一直線です。そのため必死で戦います。激戦の末これを破った新田軍はついに鎌倉に達しました。
 
 
 
 鎌倉は三方を山に、一方を海に囲まれた難攻不落の要害です。陸路から鎌倉に入る七口は切通しと呼ばれる断崖で、幕府軍が守りを固めていたため市街に突入するのは容易ではありませんでした。
 
 
 伝説では義貞は龍神に宝刀を捧げ、稲村ケ崎(鎌倉西南部)の海岸が干潮で砂浜に道ができたと所を突破して鎌倉に入ったと伝えられます。
 
 
 どちらにしろこのころ関東の有力御家人が新田軍に次々と参加し大軍に膨れ上がっていましたから鎌倉突入は時間の問題ではありました。
 
 
 市中に突入してしまえば兵力差が大きくものをいいます。寡兵の北条勢は次第に追い詰められはじめました。新田軍は鎌倉各地に火を放ち市街は阿鼻叫喚の地獄図となりました。
 
 
 北条高時は最後の時が来た事を悟ります。一族郎党を北条氏累代の墓がある菩提寺東勝寺に集めました。一族や御内人の姿を見ると一人として傷を負っていないものはありません。これらの人は主君高時の前で腹を切ります。あるいは親子で刺し違えて果てました。
 
 一族郎党の死を見届けると高時も自刃しました。享年31歳。暗愚といわれ後世散々叩かれましたが、最期の見事さはどうでしょう。彼もまた鎌倉武士であったと思わざるを得ません。
 
 この時、高時の嫡男邦時と次男時行はそれぞれ忠臣に守られながら鎌倉を落ちました。この幼い兄弟もまたのちに鎌倉武士の意地を見せる事となります。
 
 
 高時と行動を共にした者は数百人にも及んだと伝えられます。紅蓮の炎は東勝寺を包みました。鎌倉幕府百五十年の歴史はここに閉じます。1333年5月22日の出来事でした。
 
 
 千早城では大仏高直(おさらぎたかなお)率いる幕府軍と楠木正成との戦いが続いていました。幕府軍は六波羅陥落の報を受け奈良興福寺に立て籠っていましたが、鎌倉まで落ちた事を知り6月に全軍降伏しました。高直以下幕府軍首脳はことごとく処刑されます。
 
 
 
 
 鎌倉幕府滅亡によって、はたして平和は訪れたのでしょうか?間もなく後醍醐天皇によって建武の新政が開始されますが、これは初めから矛盾を抱え込んだものでした。というよりむしろ鎌倉末期の矛盾を失政によって拡大増幅しただけだともいえます。
 
 
 
 
 時代は足利高氏の離反、南北朝の動乱期に突入していきます。地方においては南北朝合一、室町時代に入っても常に戦乱が続きました。それは豊臣秀吉が天下統一し、さらに徳川家康の江戸幕府開設まで続いたという解釈も成り立ちます。
 
 
 鎌倉幕府滅亡は、大動乱に突入する終わりの始まりだったと言えるかもしれません。
 

鎌倉幕府滅亡   Ⅳ 博多合戦

 元寇を受けて鎌倉幕府は鎮西奉行に代わり新たに鎮西探題を設置します。元の襲来に備えるためというのが表向きの理由でしたが、おかげで鎮西奉行だった少弐氏、大友氏はそれぞれ守護国を削られ少弐氏は筑前のみ、大友氏も豊後のみの守護とされました。
 
 空白となった豊前、筑前、肥前、肥後は北条一門が守護に任ぜられます。
 
 
 探題というのは、訴訟・裁判・軍事・警察という広範囲な職務を管轄し、担当地域内の守護・地頭への指揮・命令権を持つ強力な機関でした。
 
 
 少弐、大友両氏は、それまでの鎮西奉行としての権限を剥奪された上、守護国も本国のみに限定されたので大きな恨みを持ちました。
 
 
 鎌倉幕府最後の鎮西探題は、幕府十六代執権北条(赤橋)守時の弟、英時でした。生年は不明ですが兄守時が1295年生まれですから1321年の探題就任時は20代前半だったと思われます。
 
 
 この若い探題は、非常に有能な人物だったようです。10年余りの統治で多くの文書を発給し和歌にも秀でた教養人だったと伝えられます。配下の御家人の信望もなかなかのものでした。
 
 
 1333年、後醍醐天皇の綸旨は九州の御家人たちにも伝えられます。大友・少弐と肥後の菊池氏は挙兵して鎮西探題を共に攻めるよう密約を交わしましたが、英時の統治がまだまだ盤石だと悟った大友・少弐は土壇場で裏切ります。
 
 仕方なく菊池武時は単独で挙兵鎮西探題を攻めますが、3月13日少弐・大友・島津らの援軍を得た英時指揮下の幕府軍はこれを撃退し、武時は子の頼隆以下の一族とともに討たれます。
 
 
 ところが情勢は大きく動きました。1333年5月に入ると九州にも宮方が六波羅探題を攻め落としたという情報が入ります。少弐貞経、大友貞宗は手のひらを返し反幕府の挙兵をします。両者は後醍醐天皇から綸旨を受けていた島津貞久とともに鎮西探題に攻めかかりました。
 
 
 
 情勢は探題英時に明らかに不利でした。味方に付く御家人もなく単独で反乱軍と戦わなければならなかったからです。鎮西探題勢は奮戦するも多勢に無勢、英時は一族郎党240名(一説では340名)と共に博多で自害して果てました。
 
 
 この時長門にも周防・長門を管轄し鎮西探題の補佐をするために設けられた長門探題の北条時直がいました。最初六波羅を救援するため船で瀬戸内海を進んでいましたが、まもなく六波羅陥落が伝わると鎮西探題の英時と合流しようと西へ戻る途中でした。
 
 鎮西探題もまた滅亡したという報告を受けた時直は絶望します。進退極まった彼は九州の宮方に降伏、まもなく病死したと伝えられます。
 
 
 しかし、英時の十年以上に及ぶ九州統治は無駄ではありませんでした。英時の養子規矩(きく)高政、糸田貞義らは探題滅亡前に脱出し北条与党の御家人のもとに匿われます。
 
 
 翌年(1334年)、高政は筑前国規矩郡帆柱山城(北九州市西区帆柱山)で、弟貞義は筑後三池郡掘口城(場所は不明。過去記事ではみやま市の清水山系のどこかでなかったかと考察)で北条氏恩顧の御家人たちの推戴を受けて挙兵しました。
 
 
 
 帆柱山城には少弐勢が、堀口城には大友氏が攻めかかり鎮圧したそうですが、鎌倉幕府滅亡後にまだ北条氏所縁の者を推戴する武士たちがいたという事は、英時の統治がいかに優れていたかの証拠かもしれません。
 
 
 
 このほか奥州、長門、伊予、日向などで北条残党の挙兵は続きます。
 
 
 
 次回、最終章「鎌倉炎上」にご期待ください!

鎌倉幕府滅亡   Ⅲ 六波羅探題陥落

 1331年11月、幕府の大軍は次々と鎌倉へ帰還します。代わって戦後処理のために鎌倉からニ人の奉行人が京都に派遣されました。
 
 
 先帝後醍醐は隠岐に、第一宮尊良(たかなが)親王は土佐、妙法院宮宗良(むねなが)親王は讃岐へそれぞれ配流と決まります。
 
 
 1332年3月7日、先帝後醍醐は配流先の隠岐島に向かうため京を出発しました。途中備前で児島高徳という武士が
 
「天莫空勾践 時非無范蠡」(天は古代中国の王・勾践に対するように、決して帝をお見捨てにはなりません。きっと范蠡の如き忠臣が現れ、必ずや帝をお助けする事でしょう)口語訳としては「天勾践をむなしうすることなかれ。時に范蠡なきにしもあらず」の方が有名。
 
という言葉を秘かに桜の木に刻みつけ先帝を慰めたというエピソードがあります。最近の研究では児島高徳の実在は疑われているんですが、皇位を巡る後醍醐天皇の不満と、生活に困窮し幕府に不満を持つ武士たちの気持ちが共通の敵鎌倉幕府に対して向けられていたという事実は想像できます。
 
 先帝は隠岐に流され侘しい生活を送られたそうです。1332年の春から夏にかけて、後醍醐天皇の皇子で天台座主であった尊雲法親王すなわち護良親王が大和奥地の吉野、十津川当たりでしきりに蠢動しているとの噂が駆け廻ります。実は親王は元弘の変(後醍醐天皇の反乱)のあと行方をくらましていたのです。
 
 
 親王は現地の土豪や熊野、高野山などの僧兵を組織し来るべき反抗の機会を狙っていました。1332年の冬には行方をくらましていた楠木正成も河内に出現し摂津の天王寺から渡辺にかけて軍を動かし始めます。
 
 
 12月、正成は幕府の留守部隊が守っていた赤坂城を急襲し奪取しました。翌年には小規模な幕府の討伐軍を破るほどの勢いでした。
 
 
 一度滅んだはずの正成がなぜこのような力を持ちえたのか謎です。護良親王の令旨をうけ多くの武士や悪党たちがこれに加わったからではないでしょうか?それだけ幕府から人心が離れていた証拠です。
 
 今回は、前回と違い正成以外にも多くの者たちが反幕府の旗を上げます。なかでも播磨(兵庫県西部)の豪族赤松則村入道円心の挙兵は京都に近いだけに脅威でした。
 
 こうした情勢を受けて、後醍醐天皇は1333年閏2月24日秘かに隠岐を脱出します。伯耆の豪族名和長年に迎えられ船上山(せんじょうせん)に城を築き籠城しました。
 
 
 さすがに幕府もこれを捨て置けず、再び大軍を攻めのぼらせます。この時の幕府軍は五万とも三十万ともいわれる大軍でした。
 
 最初の攻撃目標は、より与しやすいと思われた楠木正成でした。正成は赤坂城の背後金剛山系のさらに奥に千早城を築いて待ち構えます。
 
 
 今回も幕府軍は正成の変幻自在の戦法にかく乱され被害ばかりが増大しました。攻めあぐねた幕府軍は千早城の弱点と思われた水の手を断つ作戦を実行します。すなわち城の東の谷川の水を城兵が汲みに来たところを待ち伏せて討ち取ろうとしたのでした。
 
 しかしこれは正成に逆に察知され、迂回路で背後に回った楠木勢に奇襲され散々に打ち破られます。
 
 正成ほどの知謀の将が、城の弱点を知らないはずはありません。実は千早城には嶺の山伏だけが知る五所の秘水と呼ばれる湧水があったのです。これは籠城する城兵を潤すには十分な水でした。
 
 戦いは長引き、幕府軍の損害は増大するばかりでした。そんな中、山陰から千草忠顕の軍勢、山陽の播磨路からは赤松円心の軍勢が京都を窺っているという報告が鎌倉に入ります。
 
 
 慌てた幕府は、援軍として名越高家、足利高氏らに率いられた大軍を上洛させました。
 
 
 ところがその高氏のもとへも後醍醐天皇の密勅は届いていました。実は足利氏は源氏の名門で潜在的に北条氏の専制体制に強い不満を持っていたのです。それを見抜いた宮方の働きかけでした。
 
 
 足利氏の守護国であった三河に到着した時高氏の腹は決まります。腹心の上杉重能(しげよし)、細川和氏を秘かに先発させ船上山に派遣しました。二人は綸旨を持ちかえり近江で足利軍と合流します。
 
 高氏はこれを隠し、そのまま京都に入りました。4月16日の事です。
 
 
 六波羅で協議した幕府軍首脳は、足利高氏が丹波で千草勢に当たり、名越高家は摂津で赤松勢を防ぐという方針を決めます。両軍はそれぞれの任地へ向かいました。
 
 
 足利勢は丹波篠村に陣を張ります。ところが4月27日、名越高家は久我縄手の合戦で赤松勢に敗れ戦死してしまいます。動揺する六波羅の幕府軍をさらに驚愕させたのは足利高氏が幕府軍を裏切り宮方に付いたという報告でした。
 
 
 5月7日、足利勢は早くも京都に入り嵯峨から内野当たりに布陣します。これに呼応するように赤松勢は東寺に、千草勢は竹田、伏見に迫っていました。
 
 
 六波羅勢と足利勢は京都で激しくぶつかります。裏切りに対する怒りから幕府軍は足利勢を圧倒したそうです。しかし情勢は不利、孤軍奮闘した六波羅勢は次第に押され始め、最後は潰走に変わりました。
 
 
 六波羅の城郭で探題の北条仲時、時益らは善後策を協議します。城を枕に討死しようという勇ましい意見もありましたが、とにかく光厳天皇と後伏見、花園の両上皇を伴って関東に下り体制を整えて再び攻めのぼるがよかろうと決まります。
 
 
 天皇、上皇の了解を得たのち六波羅勢は夜半、都を脱出します。しかし山科あたりにはすでに落人狩りの野伏たちが待ち構えていました。
 
 たちまち合戦になり、六波羅探題南方の長官だった北条左近将監時益が首を射抜かれて戦死します。
 
 
 夜が明け近江に逃れた一行でしたが、守山にも野伏が待ち構えていました。ここでも大きな被害を出し美濃との国境である伊吹山の麓に到着した時には疲労困憊でした。
 
 
 さらにここから先、美濃には足利方の土岐氏、三河には吉良氏が待ち構えています。この厳しい状況に六波羅勢は絶望しました。
 
 番場(ばんば 滋賀県坂田郡米原町)の蓮花寺に入った六波羅探題北方長官、北条仲時以下の軍兵はそこでことごとく自害して果てます。総勢四百三十余。
 
 
 承久の乱以降、大きな権力をふるった六波羅探題はここに滅亡します。光厳天皇と両上皇は宮方の武士に捕えられ間もなく帰洛しました。1333年5月の出来事です。
 
 
 
 六波羅探題滅亡の報告を受けた後醍醐天皇は、光厳天皇を廃し、年号を正慶から元の元弘に戻しました。あくまで自分が天皇として続いていたという建前でした。捕われの光厳天皇はこれを飲むしかありません。
 
 
 一方、足利高氏は早くも六波羅に入り勝手に奉行所を設立します。これは北条氏に代わり自分が幕府を開くという意思表示でした。
 
 
 後醍醐天皇と足利高氏は、互いに違った未来を描いていました。それが建武の新政の破綻に繋がり南北朝の動乱を引き起こすことになるのです。
 
 
 我々はそこに至る前に九州における鎮西探題、長門探題、そして鎌倉幕府滅亡の歴史を見なければなりますまい。

鎌倉幕府滅亡   Ⅱ 楠木合戦

 最初に私の歴史見解を述べさせてください。といいますのも南朝正統(正閏)論も理解できるうえに皇位継承に関する非常にデリケートな問題だからです。
 
 歴史解釈には個人ごとの見解があって当然ですし、どれが正しいとは一概には言えないと思います。ですからあくまで私の個人的考えですし南朝が正統であると思われる方は以後お読みになられないほうが精神衛生上よろしいかと愚考します。
 
 色々経緯があるとはいえ両統迭立が公式に認められた以上後嵯峨天皇から後醍醐天皇までは正統であると考えます。
 
 ただし後醍醐天皇は反乱をおこして敗れ、本意ではないにしても譲位され持明院統の光厳天皇に位を譲られています。両統迭立によって既に皇太子となっていた上での譲位ですから光厳天皇の即位も正統であるといえます。
 
 
 一方、一度譲位された後醍醐天皇(制式には上皇というべきですが…)はのちに鎌倉幕府を倒し再び皇位に返り咲かれましたが、この時点で皇統は別なものになったと私は考えます。ですから南朝の歴代天子は南朝の天皇としては正統ですが、神武天皇から続く皇統に含まれるべきではないと私は考えます。
 
 このような経緯から私は北朝の天子が正統であり、南北朝合一後北朝から歴代天皇を輩出した事は正閏論からも妥当であったと思うのです。
 
 
 前置きが非常に長くなりました。世の中では南朝正統論が人口に膾炙していますし私の見解は違和感を覚える方が多いかも?と思ったのでくどいようですが書かせていただきました。
 
 
 
 さて本題に戻ります。伝説では後醍醐天皇が御所の庭に設けられた玉座が大木の南にあったという夢を見られて、木の南すなわち楠ということから楠木正成を見出されたといわれます。
 
 
 もちろんあくまで伝説に過ぎないのでしょうが、正成はいわゆる悪党と呼ばれる新興の武士団でした。鎌倉時代末期、没落した御家人やあたらしく交易などで財を得た階級から悪党と呼ばれる者たちが出現します。
 
 
 彼らは既存の権威や秩序にとらわれない事から悪党と呼ばれました。もちろん強盗を生業とする山賊海賊の類も悪党に含まれますが、一方幕府や朝廷の命に従わず独自の統治や経済活動をする者も悪党でありその範囲は広いのです。
 
 後醍醐天皇は、これら新興の武士たちの力を使って鎌倉幕府を倒そうとしていたのでした。一説では正成と後醍醐天皇の皇子大塔宮護良(もりなが もりよし)親王との間に繋がりがあったともいわれます。
 
 というのは正成の根拠地河内には、山岳信仰の中心地のひとつである金剛山があるのです。護良親王は当時天台宗の総本山比叡山延暦寺の座主(ざす)でした。
 
 
 笠置山で後醍醐天皇が敗北し幕府軍に捕らえられていた頃、河内国赤坂城で楠木正成という者が小癪にも籠城し幕府に抵抗しようとしているという報が入ります。
 
 
 1331年10月、まだ京都に留まっていた幕府軍は六波羅で対策を協議します。たかが小城。籠城するのも無名の武士。幕府軍首脳は山賊の類がとち狂っているのではないか?と考えたのでしょう。
 
 
 せっかく遠征してきたのでついでに踏み潰しておくか、くらいの軽い気持ちだった事は想像に難くありません。大仏貞直(おさらぎさだなお)率いる東路軍は宇治から山崎に入り南下、八幡を経て北方から進撃するのは金沢貞冬の軍、山崎から天王寺を下る江間越前入道の西南軍、そして伊賀路を進む足利高氏の軍勢が四方から赤坂城に襲いかかりました。総勢十万騎とも称される大軍でした。
 
 一方楠木勢は五百余だったと伝えられます。吹けば飛ぶような小城にわずかの兵、幕府軍はすっかり舐めてかかります。
 
 
 しかし敵の抵抗は意外と強靭でした。太平記が伝えるところによると、浅い堀を越えて軍兵が崖の下まで辿りつくと城中や向かいの山から雨あられと矢が降り注ぎます。それでも遮二無二進んで城の外壁に取り付くと突如壁が崩れ瓦礫の下敷きになる者多数。かろうじて生き残った者も煮えたぎった油や大石の洗礼を受けました。
 
 
 緒戦だけで数百人の死傷者が出たそうです。このような楠木軍の戦いは正規の武士のそれではありません。のちに楠木流軍学ともてはやされますが、その実態は悪党時代の非正規戦の経験からもたらされたものでしょう。
 
 
 力攻めは被害が増すばかりだと悟った幕府軍は遠巻きにして敵の兵糧が尽きるのを待つ作戦に切り替えます。これは効果を発揮したようです。正成は籠城の準備がよく出来ていなかったようで常に兵糧は不足気味でした。
 
 
 数日後の風の強い夜、正成は城に火を掛け行方をくらまします。元々大した人物ではないと考えていた幕府軍は正成の行方を厳しく詮議することもせず引き揚げました。
 
 
 
 鎌倉幕府は、後醍醐天皇を隠岐に流し各地で起こった抵抗も粉砕したのですっかり平和が戻ったと安心したようです。
 
 
 しかし果たしてそれは本当だったのでしょうか?間もなく幕府の考えは間違いであったという事を身を持って悟ることになります。

鎌倉幕府滅亡   Ⅰ 主上御謀反

 今まで鎌倉時代を主要事件を通して見てきたわけですが、いよいよ幕府滅亡を描く時が来ました。高校日本史で鎌倉幕府末期の皇室は大覚寺統と持明院統に分かれて皇位を交互に継いでいたという話を覚えておられる方も多いはず。
 
 
 まず何故皇統が二系統に分かれたか?について語らねばなりますまい。
 
 そもそも承久の乱で幼帝仲恭天皇が廃され、乱とは無関係であった後堀河天皇が即位されたことは以前の記事で紹介しました。1242年その子四条天皇がわずか10歳で崩御され父後堀河天皇もすでに1232年亡くなられていたので朝廷は次期天皇を誰にするのか議論百出しました。後堀河帝には他に皇子がおられなかったからです。
 
 候補者が複数おり朝廷では決めきれなかったので鎌倉に相談することになりました。一般に鎌倉幕府は承久の乱の勝利で皇位継承にまで口を出すようになったといわれますが通常は節度を保って皇位継承に口を出すことは控えました。ただこのような場合はやはり鎌倉が決める方が朝廷内の複数の候補者を擁立する勢力同士に角が立たなくて済むのです。
 
 
 幕府が指名したのは土御門上皇の第二皇子邦仁(くにひと)親王でした。承久の乱の記事を読まれた方は御記憶だと思いますが、土御門上皇は乱を起こした父後鳥羽上皇を諌めながら乱を抑える事が出来なかったと自ら幕府に申し出、土佐に配流になった方です。
 
 
 幕府としても土御門上皇には好感を持っており、負い目も感じていたのでしょう。決して有力候補ではなかった邦仁親王を指名したのはそうした経緯でした。親王は即位され第88代後嵯峨天皇となられます。
 
 
 後嵯峨天皇は本来皇位を継げる可能性の低い立場から天皇になられたので、最初から幕府に遠慮がありました。以後皇位を誰が継ぐか幕府にお伺いを立てるのは慣例になりました。
 
 
 さて後嵯峨帝の後は後深草、亀山の御兄弟が皇位を継がれます。後嵯峨上皇は二人の息子のうち弟の亀山天皇を愛しておられなんとかして亀山天皇の子孫に皇位を伝えたいと思われました。
 
 ただ幕府は後深草天皇の子孫が皇位を継がれるのが妥当であるとの見解でした。そこで両者の顔を立てるために後深草帝の系統、亀山帝の系統で交互に皇位を継ぐという解決策が幕府から出されました。
 
 
 後深草系は京都の持明院に拠ったことから持明院統、亀山系は同じく大覚寺に拠ったことから大覚寺統と呼ばれます。
 
 
 第95代の花園天皇までは紆余曲折はありながらもなんとか上手く皇位継承は成されました。しかし1318年第96代に後醍醐天皇が即位されたことから事態はおかしな方向に進みます。
 
 
 歴代天皇のうちでも強烈な個性をお持ちだった後醍醐帝は、両統迭立で交互に皇位が継承される状況を不満に思いできれば自分の子孫で皇位を独占したいと考えられたのです。
 
 
 後醍醐天皇は、自分が直接政務を見るため記録所という役所を設立します。これは天皇自らが政務を決済する異例の体制です。天皇がまず実行したのはライバルである持明院統の勢力を削ぐ事でした。各地の持明院統の荘園を狙い撃ちしあわよくば接収しようと画策します。
 
 譲位されていた持明院統の花園上皇は、非常に憤慨されました。上皇の意向を受けた幕府は後醍醐天皇を諌めました。横車に失敗し幕府に邪魔された事を恨みに思われた天皇は幕府打倒を考え始められたといいます。
 
 
 天皇は、側近の日野資朝(すけとも)、日野俊基(としもと)らと秘かに幕府打倒の謀を巡らします。
 
 
 ところがこの陰謀は、幕府を相手に戦争になる事を恐れた天皇側近の密告で幕府の知るところとなりました。1324年9月、幕府の命を受けた六波羅の大軍は陰謀に加担していた多治見国長、土岐頼貞の屋敷を急襲します。二人は抵抗むなしく自害して果てました。
 
 恐れをなした天皇方は、資朝、俊基が六波羅に出頭し陰謀は自分達だけで考えたもので天皇は加担していないと陳弁したのでこの時は天皇まで嫌疑は及びませんでした。
 
 俊基は赦免され、資朝だけが佐渡に配流という極めて甘い処分になったのは、幕府側が大したことではないと高をくくっていたからでしょう。
 
 
 
 しかし後醍醐天皇は本気でした。1331年再度の討幕計画はまたしても重臣吉田貞房の密告で幕府に漏れまます。貞房としては後醍醐天皇の無謀な計画を諌めるために努力したが容れられずやむにやまれぬ処置として密告したといわれます。
 
 
 幕府は厳しく再捜査し、天皇の祈祷僧文観を硫黄島に遠島、日野俊基を鎌倉で、日野資朝を配流先の佐渡で斬りました。
 
 
 捜査の手がだんだん自分に近づいてくるのに危機感を抱かれた天皇は、三種の神器を持って京都を脱出し、南山城の伊賀との国境に近い要害笠置山で挙兵します。
 
 
 後醍醐天皇は、このとき叡山など各地の寺院の僧兵や悪党と呼ばれる新興武士たちに広く呼び掛け味方を募ったといわれます。河内の楠木正成などはこの時はせ参じた一人でした。
 
 
 六波羅の軍勢はさっそく笠置山に攻めかかりますが、要害であったためなかなか落城しませんでした。業を煮やした鎌倉幕府は、1331年9月大仏貞直(おさらぎ さだなお)、金沢貞冬、足利高氏らを大将とする大軍を差し向けます。さすがに多勢に無勢、笠置山は落城し天皇は捕えられます。
 
 
 この時河内国赤坂城では楠木正成が挙兵していました。彼の戦いのついては次の記事で紹介します。
 
 
 天皇は六波羅に連行され、三種の神器を渡すよう強要されます。最初は拒んでいた天皇ですが、圧迫に堪えかねついに屈しました。1331年10月、持明院統後伏見天皇の第三皇子である量仁(かずひと)親王が即位され光厳天皇になられました。(両統迭立で一方が皇位を継ぐ時は他方が皇太子になる事は慣例だった。)
 
 
 ですから公式には後醍醐天皇はこの時皇位を失った事になります。1332年後醍醐”上皇”は隠岐に流される事となりました。後醍醐天皇が挙兵に失敗し捕えられた事を聞かれた花園上皇は、昔確執があったこともあり日記に「皇室の恥である」と冷たく記されています。

霜月騒動と平禅門の乱

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 安達氏は北条氏とくに得宗家(嫡流)と姻戚関係を結びその外戚として大きな力を持った有力御家人です。
 
 今まで、鎌倉幕府内での北条氏の権力奪取の歴史を描いてきましたが、今回の霜月騒動と平禅門の乱はこれまでの権力闘争とは性格が違います。これらは言わば北条得宗専制体制内部の争いなのです。
 
 宝治合戦で三浦氏の嫡流が滅びて以来、面と向かって北条氏に対抗できる有力御家人はいなくなりました。本稿の主人公は外戚の代表安達泰盛と、御内人といういわば北条得宗家の家臣にすぎないものが、得宗専制体制の確立と共に大きな権力を握った存在、その代表である内管領の平頼綱(出家した後は平禅門と呼ばれる)です。
 
 一連の事件はこの二人の政治的対立がもたらしたものでした。
 
 
 話は、鎌倉幕府八代執権北条時宗が1284年34歳の若さで死去した事に始まります。時宗の治世は元寇に始まり元寇に終わるといってもよく、未曽有の国難に神経をすり減らした結果なのかもしれません。
 
 あとを継いで九代執権に就任したのは時宗の嫡男、貞時でした。この時わずか13歳。こんな少年に統治出来るはずはなく外戚(母の兄)安達泰盛がこれを補佐する事になりました。
 
 
 安達氏は、代々北条得宗家と姻戚関係を結び平安時代の藤原摂関家のような存在となっていました。秋田城介(出羽国の国司で秋田城留守居役。頭が不在の時は内政を統括した次官。陸奥国の多賀城留守職に同じ)という武家の中でも権威ある官職を代々世襲し、いわば御家人筆頭として幕府に重きを成す一族でした。
 
 一方、平頼綱はもともと北条得宗家の家臣、御家人たちから見ると陪臣という低い身分の存在でした。しかし得宗専制体制が確立すると内管領といういわば北条氏の私的機関にすぎない役職が大きな権力を握ってくるのは自然でした。
 
 御家人たちは頼綱の顔色を窺わなければ生きていけなくなっていたのです。
 
 
 安達泰盛と平頼綱が幼君貞時を巡って権力闘争を始めるのは自明の理でした。両者は互いに秘かに軍勢を集め機会をじっと待っていました。
 
 
 最初に行動に移したのは頼綱でした。ある時少年執権に耳打ちします。
「泰盛の子宗景が『父祖の景盛は実は故右大将家(頼朝)の御落胤であった。故にわが家は源氏である』などと吹聴しております。これは将軍位を狙う陰謀ではありますまいか?」
 
 貞時に事の真偽が分かるはずもありません。頼綱の巧みな言動に惑わされ安達一族追討を黙認します。
 
 そうしておいて1285年11月17日、頼綱は挙兵しました。不意をつかれた安達方は戦の準備もままならぬまま泰盛と嫡男宗景が鎌倉で討たれ安達氏が守護をしていた上野、武蔵を中心に関東各地で与党とみなされた御家人が五百人余も討たれたといいます。
 
 これが世にいう霜月騒動です。
 
 
 内管領平頼綱は少年執権を擁しこれ以後絶大な権力を握る事となります。彼は北条得宗家の専制体制を一層強化しました。それは同時に自分の権力を高めるためでもありました。恐怖政治は鎌倉中を支配し人々は気の休まる暇もありませんでした。
 
 
 それまで幕府の重要な機関であった評定衆は有名無実の存在となり寄合衆という北条一門がほとんどを占める新たな機関が設けられました。もちろん内管領である頼綱の意向が強く反映されたのはいうまでもありません。
 
 
 頼綱は、他の御家人の力を弱めるため各国の守護の半数近くを北条一門に交替させます。北条一族を統べるのは得宗家、そしてその得宗家を操っているのは自分。
 
 
 しかし、元寇の軍事負担と細かな分割相続で苦しんでいる御家人層はこれを深く恨みました。元寇という言わば外国との戦争では恩賞としての土地も貰えないのですから尚更です。頼綱としてもこれは分かっていたらしく没収した安達一族の所領をこれら元寇に功績のあった御家人に一部与えましたが、焼け石に水でした。
 
 
 九州においても安達泰盛の与党と見られた少弐景資が殺されます。泰盛の次男で肥後守護であった安達盛宗とともに討たれたのです(岩門合戦)。
 
 
 これには頼綱が元寇の恩賞の土地を確保するために計画的に彼らを追い詰めたという穿った見方もあります。
 
 
 少弐氏では、頼綱方についた景資の兄経資が追討軍の大将となります。頼綱のえげつないやり方はますます御家人たちの憎悪の対象になりました。
 
 
 反対者を容赦なく粛清するという頼綱の恐怖政治は長くは続きませんでした。執権貞時が成長すると、頼綱の強引なやり方を不満に思い始めたのです。実権を頼綱に奪われているという強い不満もありました。
 
 
 そんな中、頼綱の嫡子宗綱が貞時にささやきます。
「父杲円(こうえん 出家後の法名)は次男の助宗(宗綱の弟)とともに専横を振るいいずれは助宗を将軍に就けようとたくらんでいます」
 
 どこかで聞いたような話ですが(苦笑)、頼綱と宗綱の親子関係は上手くいってなかったと伝えられます。それにしてもいかに憎いからといって自分の父を売る行為のおぞましさはどうでしょう?
 
 
 貞時も不安に思っていた時であリ、この讒言は渡りに船でした。1293年4月13日鎌倉を大地震が襲います。鶴岡若宮、将軍邸宅、建長寺以下多くの建物が倒壊、あるいは消失し実に二万人とも言われる死者を出しました。
 
 
 その混乱も冷めやらぬ同年4月22日、貞時の命を受けた武蔵七党の御家人たちの軍勢が鎌倉経師ヶ谷(きょうじがやつ)の頼綱の屋敷を急襲します。不意をつかれた頼綱は抗戦むなしく焼け落ちる屋敷の中で次男助宗とともに自害して果てました。この合戦の延焼でさらに平一族を中心に百名以上の犠牲者が出たそうです。
 
 一方、讒言し父と弟を売った宗綱はいち早く出頭し命だけは助けられます。しかし罪は免れぬとして佐渡へ配流となりました。が、のち許されて内管領になります。
 
 
 これが平禅門の乱の顛末です。ところが頼綱の後に内管領に就任したのは頼綱の一族長崎光綱。彼の子が有名な長崎円喜入道です。こうしてみると何のために平頼綱を討ったのか分からなくなります。
 
 
 一時期、北条貞時が実権を取り戻し執権政治の最盛期を築きますが、彼が死んで凡庸な高時(貞時の三男)が後を継ぐと内管領長崎円喜入道が権力を振るう独裁政治に逆戻りするのです。
 
 
 
 高時を凡庸な暗君として、幕府滅亡を彼一人のせいにする見方が多いですが、元寇を引き金に生じた諸矛盾は誰が後を継いでも解決不可能となっていたのです。その意味では高時は不運であったとも言えますね。
 

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