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2013年1月 2日 (水)

鎌倉幕府滅亡   Ⅳ 博多合戦

 元寇を受けて鎌倉幕府は鎮西奉行に代わり新たに鎮西探題を設置します。元の襲来に備えるためというのが表向きの理由でしたが、おかげで鎮西奉行だった少弐氏、大友氏はそれぞれ守護国を削られ少弐氏は筑前のみ、大友氏も豊後のみの守護とされました。
 
 空白となった豊前、筑前、肥前、肥後は北条一門が守護に任ぜられます。
 
 
 探題というのは、訴訟・裁判・軍事・警察という広範囲な職務を管轄し、担当地域内の守護・地頭への指揮・命令権を持つ強力な機関でした。
 
 
 少弐、大友両氏は、それまでの鎮西奉行としての権限を剥奪された上、守護国も本国のみに限定されたので大きな恨みを持ちました。
 
 
 鎌倉幕府最後の鎮西探題は、幕府十六代執権北条(赤橋)守時の弟、英時でした。生年は不明ですが兄守時が1295年生まれですから1321年の探題就任時は20代前半だったと思われます。
 
 
 この若い探題は、非常に有能な人物だったようです。10年余りの統治で多くの文書を発給し和歌にも秀でた教養人だったと伝えられます。配下の御家人の信望もなかなかのものでした。
 
 
 1333年、後醍醐天皇の綸旨は九州の御家人たちにも伝えられます。大友・少弐と肥後の菊池氏は挙兵して鎮西探題を共に攻めるよう密約を交わしましたが、英時の統治がまだまだ盤石だと悟った大友・少弐は土壇場で裏切ります。
 
 仕方なく菊池武時は単独で挙兵鎮西探題を攻めますが、3月13日少弐・大友・島津らの援軍を得た英時指揮下の幕府軍はこれを撃退し、武時は子の頼隆以下の一族とともに討たれます。
 
 
 ところが情勢は大きく動きました。1333年5月に入ると九州にも宮方が六波羅探題を攻め落としたという情報が入ります。少弐貞経、大友貞宗は手のひらを返し反幕府の挙兵をします。両者は後醍醐天皇から綸旨を受けていた島津貞久とともに鎮西探題に攻めかかりました。
 
 
 
 情勢は探題英時に明らかに不利でした。味方に付く御家人もなく単独で反乱軍と戦わなければならなかったからです。鎮西探題勢は奮戦するも多勢に無勢、英時は一族郎党240名(一説では340名)と共に博多で自害して果てました。
 
 
 この時長門にも周防・長門を管轄し鎮西探題の補佐をするために設けられた長門探題の北条時直がいました。最初六波羅を救援するため船で瀬戸内海を進んでいましたが、まもなく六波羅陥落が伝わると鎮西探題の英時と合流しようと西へ戻る途中でした。
 
 鎮西探題もまた滅亡したという報告を受けた時直は絶望します。進退極まった彼は九州の宮方に降伏、まもなく病死したと伝えられます。
 
 
 しかし、英時の十年以上に及ぶ九州統治は無駄ではありませんでした。英時の養子規矩(きく)高政、糸田貞義らは探題滅亡前に脱出し北条与党の御家人のもとに匿われます。
 
 
 翌年(1334年)、高政は筑前国規矩郡帆柱山城(北九州市西区帆柱山)で、弟貞義は筑後三池郡掘口城(場所は不明。過去記事ではみやま市の清水山系のどこかでなかったかと考察)で北条氏恩顧の御家人たちの推戴を受けて挙兵しました。
 
 
 
 帆柱山城には少弐勢が、堀口城には大友氏が攻めかかり鎮圧したそうですが、鎌倉幕府滅亡後にまだ北条氏所縁の者を推戴する武士たちがいたという事は、英時の統治がいかに優れていたかの証拠かもしれません。
 
 
 
 このほか奥州、長門、伊予、日向などで北条残党の挙兵は続きます。
 
 
 
 次回、最終章「鎌倉炎上」にご期待ください!

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