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2013年1月 2日 (水)

鎌倉幕府滅亡   Ⅰ 主上御謀反

 今まで鎌倉時代を主要事件を通して見てきたわけですが、いよいよ幕府滅亡を描く時が来ました。高校日本史で鎌倉幕府末期の皇室は大覚寺統と持明院統に分かれて皇位を交互に継いでいたという話を覚えておられる方も多いはず。
 
 
 まず何故皇統が二系統に分かれたか?について語らねばなりますまい。
 
 そもそも承久の乱で幼帝仲恭天皇が廃され、乱とは無関係であった後堀河天皇が即位されたことは以前の記事で紹介しました。1242年その子四条天皇がわずか10歳で崩御され父後堀河天皇もすでに1232年亡くなられていたので朝廷は次期天皇を誰にするのか議論百出しました。後堀河帝には他に皇子がおられなかったからです。
 
 候補者が複数おり朝廷では決めきれなかったので鎌倉に相談することになりました。一般に鎌倉幕府は承久の乱の勝利で皇位継承にまで口を出すようになったといわれますが通常は節度を保って皇位継承に口を出すことは控えました。ただこのような場合はやはり鎌倉が決める方が朝廷内の複数の候補者を擁立する勢力同士に角が立たなくて済むのです。
 
 
 幕府が指名したのは土御門上皇の第二皇子邦仁(くにひと)親王でした。承久の乱の記事を読まれた方は御記憶だと思いますが、土御門上皇は乱を起こした父後鳥羽上皇を諌めながら乱を抑える事が出来なかったと自ら幕府に申し出、土佐に配流になった方です。
 
 
 幕府としても土御門上皇には好感を持っており、負い目も感じていたのでしょう。決して有力候補ではなかった邦仁親王を指名したのはそうした経緯でした。親王は即位され第88代後嵯峨天皇となられます。
 
 
 後嵯峨天皇は本来皇位を継げる可能性の低い立場から天皇になられたので、最初から幕府に遠慮がありました。以後皇位を誰が継ぐか幕府にお伺いを立てるのは慣例になりました。
 
 
 さて後嵯峨帝の後は後深草、亀山の御兄弟が皇位を継がれます。後嵯峨上皇は二人の息子のうち弟の亀山天皇を愛しておられなんとかして亀山天皇の子孫に皇位を伝えたいと思われました。
 
 ただ幕府は後深草天皇の子孫が皇位を継がれるのが妥当であるとの見解でした。そこで両者の顔を立てるために後深草帝の系統、亀山帝の系統で交互に皇位を継ぐという解決策が幕府から出されました。
 
 
 後深草系は京都の持明院に拠ったことから持明院統、亀山系は同じく大覚寺に拠ったことから大覚寺統と呼ばれます。
 
 
 第95代の花園天皇までは紆余曲折はありながらもなんとか上手く皇位継承は成されました。しかし1318年第96代に後醍醐天皇が即位されたことから事態はおかしな方向に進みます。
 
 
 歴代天皇のうちでも強烈な個性をお持ちだった後醍醐帝は、両統迭立で交互に皇位が継承される状況を不満に思いできれば自分の子孫で皇位を独占したいと考えられたのです。
 
 
 後醍醐天皇は、自分が直接政務を見るため記録所という役所を設立します。これは天皇自らが政務を決済する異例の体制です。天皇がまず実行したのはライバルである持明院統の勢力を削ぐ事でした。各地の持明院統の荘園を狙い撃ちしあわよくば接収しようと画策します。
 
 譲位されていた持明院統の花園上皇は、非常に憤慨されました。上皇の意向を受けた幕府は後醍醐天皇を諌めました。横車に失敗し幕府に邪魔された事を恨みに思われた天皇は幕府打倒を考え始められたといいます。
 
 
 天皇は、側近の日野資朝(すけとも)、日野俊基(としもと)らと秘かに幕府打倒の謀を巡らします。
 
 
 ところがこの陰謀は、幕府を相手に戦争になる事を恐れた天皇側近の密告で幕府の知るところとなりました。1324年9月、幕府の命を受けた六波羅の大軍は陰謀に加担していた多治見国長、土岐頼貞の屋敷を急襲します。二人は抵抗むなしく自害して果てました。
 
 恐れをなした天皇方は、資朝、俊基が六波羅に出頭し陰謀は自分達だけで考えたもので天皇は加担していないと陳弁したのでこの時は天皇まで嫌疑は及びませんでした。
 
 俊基は赦免され、資朝だけが佐渡に配流という極めて甘い処分になったのは、幕府側が大したことではないと高をくくっていたからでしょう。
 
 
 
 しかし後醍醐天皇は本気でした。1331年再度の討幕計画はまたしても重臣吉田貞房の密告で幕府に漏れまます。貞房としては後醍醐天皇の無謀な計画を諌めるために努力したが容れられずやむにやまれぬ処置として密告したといわれます。
 
 
 幕府は厳しく再捜査し、天皇の祈祷僧文観を硫黄島に遠島、日野俊基を鎌倉で、日野資朝を配流先の佐渡で斬りました。
 
 
 捜査の手がだんだん自分に近づいてくるのに危機感を抱かれた天皇は、三種の神器を持って京都を脱出し、南山城の伊賀との国境に近い要害笠置山で挙兵します。
 
 
 後醍醐天皇は、このとき叡山など各地の寺院の僧兵や悪党と呼ばれる新興武士たちに広く呼び掛け味方を募ったといわれます。河内の楠木正成などはこの時はせ参じた一人でした。
 
 
 六波羅の軍勢はさっそく笠置山に攻めかかりますが、要害であったためなかなか落城しませんでした。業を煮やした鎌倉幕府は、1331年9月大仏貞直(おさらぎ さだなお)、金沢貞冬、足利高氏らを大将とする大軍を差し向けます。さすがに多勢に無勢、笠置山は落城し天皇は捕えられます。
 
 
 この時河内国赤坂城では楠木正成が挙兵していました。彼の戦いのついては次の記事で紹介します。
 
 
 天皇は六波羅に連行され、三種の神器を渡すよう強要されます。最初は拒んでいた天皇ですが、圧迫に堪えかねついに屈しました。1331年10月、持明院統後伏見天皇の第三皇子である量仁(かずひと)親王が即位され光厳天皇になられました。(両統迭立で一方が皇位を継ぐ時は他方が皇太子になる事は慣例だった。)
 
 
 ですから公式には後醍醐天皇はこの時皇位を失った事になります。1332年後醍醐”上皇”は隠岐に流される事となりました。後醍醐天皇が挙兵に失敗し捕えられた事を聞かれた花園上皇は、昔確執があったこともあり日記に「皇室の恥である」と冷たく記されています。

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