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2013年2月

2013年2月 9日 (土)

桓武天皇と平安遷都

  「鳴くよ鶯(うぐいす)平安京」で平安遷都は794年だと皆さんご存じだと思います。
 
 平安遷都を挙行したのは桓武天皇、イメージからすると即位してすぐ平安遷都しそこから平安時代が始まったと思いがちですが、実は即位したのは781年。
 
 多くの困難を克服し、在位14年目にしてやっと実行できた大事業だったのです。同時に彼は反乱を起こした蝦夷の征服という大仕事もやっています。
 
 彼の治世が日本にとって良かったのか?悪かったのか?それは読者それぞれが判断してもらうとして一代の英傑だった事は間違いありません。そんな古代日本に強烈な個性を放つ桓武天皇の生涯を追っていく事にしよましょう。
 
 
 本来ならば桓武天皇は即位出来ない存在でした。というのも奈良朝は天武天皇に始まる天武系の天子に皇位を独占され、天智系は締め出されていたのです。
 
 しかし770年天武系最後の天子称徳女帝が53歳で没すると、女帝の寵愛を笠に着て暴虐の限りを尽くしていた悪僧弓削の道鏡は宮廷クーデターによって追われ、あらゆる権力を奪われて下野に流されます。道鏡に気脈を通じていた一派もことごとく追放されました。
 
 これを主導した右大臣・吉備真備(きびのまきび)や左大臣・藤原永手(北家)、内大臣藤原良継(式家)らは話し合いで次の天皇を決めなければなりませんでした。
 
 吉備真備は、天武の孫ですでに臣籍降下していた大納言・文屋浄三(ぶんやのきよみ)を推しましたが、藤原一族は天智天皇の孫にあたる大納言・白壁王(しらかべおう)を強力に推薦して譲りませんでした。
 
 中でも藤原式家の百川(ももかわ)は、舞台裏で暗躍しついに白壁王を皇位に就けることに成功します。すでに老境に達し毒にも薬にもならない白壁王でしたが、彼の御子山部王(やまべおう)の英邁を知った百川が全力で後押しした結果でした。
 
 これが光仁天皇(在位770年~782年)です。この時62歳。百川が将来性に賭けた山部は親王になります。時に33歳。
 
 
 光仁天皇が息子の山部を皇太子にできなかったのは、話し合いで擁立されたという負い目と遠慮があったのでしょう。皇太子には天武系の井上内親王を母に持つ他戸(おさべ)親王を据え、渡来系の高野新笠(たかのにいがさ)を母に持つ山部はそのまま据え置かれました。
 
 しかし、次第に朝廷内で権力を握りはじめた藤原百川は皇后井上内親王と皇太子他戸親王が光仁天皇を呪い殺そうとしていると無実の罪を着せ、大和国宇智郡に護送し幽閉してしまいます。母子は三年後の同じ日に死んでいます。その不自然さから百川に毒殺されたという説も有力です。
 
 
 こうして、百川の推す山部が皇太子となります。百川は娘旅子を山部の夫人とし外戚として大きな権力を握るという野望を持っていました。
 
 光仁天皇は権臣百川を恐れ何もできませんでした。おそらく山部親王を愛していたと同じくらい他部親王を愛していたはずです。しかし百川と結んだ山部に逆らう事は出来なかったのです。
 
 
 光仁天皇の治世に見るべき出来事はありません。ただ晩年、蝦夷で大規模な反乱が起きそれを鎮圧できないままその短い治世を終わります。皇太子となった山部は、百川と組んで次の自分の治世のための体制固めを行いました。
 
 百川は権力を独占するために同族の藤原一族でも容赦せず陥れました。山部のライバルになるであろう天武系の皇子たちを粛清し、それに連座する形で朝廷の反対派を次々と処刑します。藤原京家の参議浜成(はまなり)もこの時失脚した一人です。以後藤原四家のうち京家は没落しました。
 
 
 血なまぐさい権力闘争の末、山部親王は781年即位します。これが桓武天皇です。光仁天皇の精一杯の抵抗は山部に対し即位したら弟の早良親王を皇太弟に立てるべしと遺言した事でした。
 
 
 桓武天皇が即位した時、百川はすでに亡くなっていました。779年従三位式部卿兼中衛大将で没します。もし桓武即位まで生きていたら外戚として史実より早く摂関政治が始まっていたかもしれません。後783年右大臣を追贈。823年百川の娘旅子の産んだ淳和天皇(百川の孫)が即位するとさらに従一位太政大臣を追贈されました。
 
 桓武の皇后に冊立されたのは藤原式家良継の娘乙牟漏(おとむろ)。彼女との間には安殿(あで)親王、賀美能(かみの)親王が生まれていました。百川の娘旅子は夫人(後宮の位、第2夫人)となります。
 
 安殿はのちの平城(へいぜい)天皇、賀美能がのちの嵯峨天皇です。旅子の皇子大伴(おおとも)親王はのちに淳和(じゅんな)天皇となりました。
 
 
 即位した桓武天皇が最初に取り組んだのは蝦夷の反乱鎮圧です。蝦夷の地(現在の東北地方)は朝廷の悪政で疲弊していました。赴任した国司はひたすら蝦夷の人々から収奪する事しか考えていなかったのです。朝廷で定められた租庸調以上の重税を課し、差額を懐に入れいていたそうです。これでは蝦夷の人々はたまりません。反抗したら殺されます。
 
 ついにアテルイを首長とする大規模な反乱が起こりました。朝廷は何度も万単位の討伐軍を送りますが怒りに燃えた蝦夷軍によってことごとく撃退されます。
 
 
 桓武天皇は、切り札として最初大伴家持、さらに坂上田村麻呂を抜擢してこれに当たらせました。
 
 
 一方、同時進行として桓武は遷都を企てます。彼は帝王の大事業として軍事遠征と大土木事業を考えていたようです。寺社勢力が強い奈良の平城京に飽き飽きしていた事も理由の一つでした。
 
 彼の新都構想を支えたのは百川の甥種継。天皇は種継を造営官に任命し新しい国都を建設させます。784年のことです。
 
 最初に新しい国都として予定されたのは淀川沿いの長岡でした。3月に開始してその年の11月には桓武は平城京を捨て長岡京に移り住んだそうです。もちろん宮殿は建設途上でした。
 
 
 蝦夷との大戦争、国都建設、民衆の負担は重く国家財政を圧迫します。群臣からはどちらかを中止するよう献策を受けますが、桓武は逆に意固地になってこれをおし進めました。
 
 
 そんななか785年、造営官の種継が暗殺されるという大事件が起こりました。寵臣を殺されて激怒した桓武は犯人を捜します。そしてどうやら皇太弟早良親王の関係者らしいと分かると春宮職を務める古代豪族の佐伯、大伴氏を中心に事件に関与したとされる者たちことごとく処刑しました。
 
 累は早良親王にも及びます。親王は太子の位を剥奪され淡路国に流罪と決まりました。早良は兄に無実を訴えますが聞き届けられず、早良は食事を断って無言の抵抗を示します。移送途中、淀川の高瀬橋のほとりで早良親王は憤死しました。しかし遺体はわざわざ淡路国に運ばれそこで埋葬されます。
 
 種継暗殺事件の真相はわかりません。一説では大伴氏らの個人的恨みであったとも伝えられます。しかし桓武はこれを機に早良を廃嫡し、自分の息子安殿親王を皇太子にすることができたのです。
 
 ただ事件の後始末は後味悪いものになりました。無実の罪を訴えながら憤死した早良親王は怨霊となって桓武を苦しめます。これは桓武の自責の念が招いた結果だったのかもしれません。
 
 大伴家持も早良親王と昵懇であったことから疑われます。蝦夷の地で反乱鎮圧に苦労するかつての老歌人は事件の発生した25日前に亡くなっていました。桓武は家持の死後、すべての官位を剥奪して庶民に落とすという心ない仕打ちをしています。
 
 
 自分の息子安殿を皇太子にしたいがための粛清で人心は荒廃します。長岡京建設は事故や災害で遅々として進みませんでした。人々はこれを早良親王の祟りだと噂します。
 
 
 792年、桓武はついに長岡京建設を諦めました。新たに選定されたのはそこから北に入った盆地。桓武天皇は忌まわしい祟りから逃れるように平安京という名前を冠しました。
 
 794年、桓武天皇は建設途中の平安京に遷都を挙行します。これが平安時代の始まりです。
 
 
 同時進行で蝦夷遠征も続けられました。坂上田村麻呂を征夷大将軍に任命し十万もの大軍を動員してようやく平定できたのは802年。国家財政は完全に傾いていました。
 
 人心は荒廃し、決して平安の都とはいえない現状でした。
 
 
 ただ桓武天皇の強烈な意志は、欠点も多いとはいえ一つの時代を築いた事は確かです。文化的にも804年最澄・空海らを載せた遣唐使を派遣しています。
 
 
 806年、桓武天皇は在位25年にして崩御しました。享年70歳。皇太子安殿親王が後を継ぎます。平城(へいぜい)天皇です。
 
 
 桓武天皇は彼なりに崩れゆく律令体制を立て直そうとしたのだと思います。 それが平安遷都であり蝦夷遠征だったのでしょう。しかしどんな施策にも光と影があります。平城天皇、そして嵯峨天皇の治世は桓武が生み出した影を清算する時代でした。それが薬子の変であり後の承和の変だったのでしょう。

飢餓の戦場ニューギニア

 ニューギニアはオーストラリア北方にあるグリーンランドに次ぐ世界でニ番目に大きな島です。面積は77万平方キロ。日本からは南へ5000kmの距離にあります。
 
 大東亜戦争における三大悲劇、インパール、ガタルカナルと並ぶニューギニアの戦い。戦史に詳しい方なら戦闘の経過も含めてご存じだと思います。
 
 簡単に経過を説明するとニューギニア東南にある連合軍の一大基地ポートモレスビー攻略のために1942年3月オーエンスタンレー山脈の裏側ラエに日本軍は上陸しました。しかし島のほとんどがジャングル、そして5000m級のスタンレー山脈を越えての攻撃は失敗。
 
 ガタルカナルの戦いの最中にも、ニューギニア北方のニューブリテン島にある日本軍のラバウル基地と、ポートモレスビーの連合軍基地は一大航空戦を展開し地上でも激しい戦闘が続けられました。
 
 餓島と呼ばれたガタルカナル島攻防戦が日本軍の敗北に終わると、ニューギニアにおいても連合軍が主導権を握るようになっていきました。
 
 連合軍の圧倒的な制空権下、20万もの日本軍は次第に追い詰められ各地で玉砕が続きます。補給も完全に断たれ組織的抵抗力を失った日本軍はジャングルを逃げまどい終戦時に生き残り無事に本土に帰れたのはわずか2万あまりという地獄の戦場でした。
 
 
 しかし今回の記事は戦闘の経過を追っていくものではありません。そのような地獄の戦場で日本軍はいかに生き残ったか?というのが主題です。
 
 
 1944年といえば、サイパン陥落、マリアナ沖海戦、レイテ沖海戦、比島決戦と戦場は次第に日本本土に近付きつつあった時期です。完全に戦争の表舞台から遠ざかり戦略的価値が低下したニューギニアの戦場は、アメリカ軍が去りオーストラリア軍がこれを肩代わりしていました。
 
 
 米軍の激しい空襲は次第に散発的になり、日本軍はいまだ連合軍の手に落ちていないニューギニア西部ソロン方面への困難な撤退作戦を敢行します。しかし補給もなく飢えと病気で多くの将兵が倒れました。ジャングルに点在する白骨死体を追っていくだけでソロンへの道が分かると言われるほどの惨状でした。
 
 生き残った兵も幽鬼のような姿になり、ソロン島を望む地点に到着したとたん安心して倒れる兵も数多くいたそうです。
 
 ソロンを中心にする西部ニューギニア地区には、海軍設営隊や陸海軍の生き残り部隊が健在で撤退してきた部隊もここにあった基地群に収容されました。
 
 
 しかし、日本本土でさえ危うい状況では補給は絶望的で、現地の日本軍は起き残るために自活の道を模索する事になります。幸いにして連合軍の空襲も散発的になり時間だけはたっぷりありました。
 
 ところが最初の危機が起こります。ビタミン不足からなる脚気でした。糧食も残り少なく野生のマンゴーやバナナも食べ尽くした現状では仕方ない事でした。満足な食事もえられないまま日本軍は連合軍の襲来に備え防御陣地の構築に力を尽くしていたのです。
 
 
 生野菜の欠乏は致命的でした。兵站を担当する海軍設営隊は、本土から持ってきたあらゆる食物の種を蒔き、栽培を試みます。
 
 が日本と気候が違うニューギニアでは成長しても立ち腐れするものが多く困難を極めました。ただもともと熱帯性の甘藷(かんしょ、サツマイモ)だけが成長し収穫できるようになります。設営隊は甘藷を食料生産の基礎にすえ、あらゆる食物の栽培を試します。
 
 ある時、将兵の一人がパパイアの芽を発見します。付近の伐採が進み日光が当たるようになると、昔兵士や現地住民が食べたパパイアの種が芽をふいたのでした。
 
 設営隊は、パパイアの芽を大切に保護しこれも3カ月で収穫できるようになります。果実だけでなくパパイアの根も大根のような味がする貴重な食料でした。葉は煙草の代用になります。さらに南瓜(カボチャ)も収穫できるようになっていきました。
 
 設営隊を初めとする海軍部隊は、航空部隊が去り使われなくなった飛行場の滑走路まで耕して畑にします。しかし陸軍側はなかなかそのふんぎりがつかないようでした。機械を相手にし現実的な海軍と、精神性を重んじる陸軍の差だったのかもしれません。その決断の遅れで陸軍の死者は増え続けました。
 
 各地の部隊は、色々な植物を試し栽培できる事が分かると種子や株そして情報も交換しました。中央の陸海軍の対立はニューギニアの戦場ではありませんでした。生き残るためには協力し合う必要があったのです。
 
 
 一応の食糧自活の目処が立つと、人間は贅沢なもので今度は動物性タンパクを欲するようになります。あり合わせの材料で魚取りの網を作ったり、トラックのエンジンをとりだしてカヌーに取り付け即席の漁船を仕立てるなど人間の知恵は逆境でますます冴えわたりました。
 
 兵隊の中に鍛冶屋がいたため、石炭の代わりに木炭を製造し簡単な金属精錬施設までつくりました。さらに海水を利用した塩田まで作り上げます。
 
 
 漁船によって魚や貝が採れだし、これらを現地住民の鶏や家鴨と交換し卵や鶏肉まで兵士の食卓に上るようになりました。恐るべき日本人のサバイバル能力です。製塩に成功すると、味噌醤油が作れるようになります。さらには椰子酒までもができるようになったのです!
 
 
 主戦場から取り残され後方地域になったことも幸いしたのかもしれません。わずかに生き残った日本軍将兵は、このようにして終戦の日まで生き抜きました。
 
 
 8月15日、日本が連合軍に降伏したというニュースは西部ニューギニアにも伝わりました。しかし僻地でもあり連合軍の進駐はさらに数カ月後になります。
 
 敗戦の虚脱感は当然ありましたが、何よりも空襲が無くなったのは喜ばれました。
 
 現地に進駐したオランダ軍は日本軍捕虜を使役します。最初の復員船が出航したのは昭和21年(1946年)5月のことでした。
 
 
 現地で命をつないだ日本軍将兵はニューギニアを離れる時複雑な心境だったそうです。ニューギニアは人口密度が低く、せっかく日本人が開拓した広大な農場は数年にして元のジャングルに戻るからです。
 
 多くの戦友が倒れた中、生き残る事が出来た幸運に感謝しつつ島を離れたことでしょう。
 
 
 
 戦争は悲惨です。しかし逆境の中生き抜いた日本軍将兵を私は誇りに思います。まだまだ日本は捨てたものではありません。より良い世の中にするために私たちは先人に学ばなければならないのです!

鬼武蔵と高坂弾正の息子

 高坂弾正といえば戦国ファンにはおなじみ武田家四名臣の一人春日虎綱(高坂昌信)のことです。ちなみに他の三人は内藤昌豊、山県昌景、馬場信房(信春)の事。
 
 信濃国(現長野県)北部の要地海津城代として武田家に重きを成した名将です。その息子春日信達も引き続き海津城代を任されていました。
 
 
 武田家は信玄の子勝頼の代に織田信長の侵攻を受け1582年滅ぼされてしまいます。論功行賞によって海津城を含む川中島四郡(更科、埴科【はにしな】、水内【みのち】、高井)十万石は森武蔵守長可に与えられました。
 
 それ以外は木曾・安曇・筑摩郡が木曽義昌、伊那郡が毛利秀頼、小県(ちいさがた)・佐久郡が滝川一益(他に上野国一国を与えられ事実上の関東管領職)、諏訪郡が川尻秀隆(他に甲斐一国)に与えられます。
 
 
 森長可といえば、織田家の重臣森可成の次男で設楽原合戦、長島一向一揆攻め、美濃岩村城攻め、三木城合戦に参加した歴戦の勇将です。その武勇から鬼武蔵と称されました。ちなみに彼の弟が有名な森蘭丸です。
 
 天正十年(1582年)の武田勝頼攻めでも信長の嫡男信忠に従い武功をあげその功績によって川中島四郡を賜ったのでした。
 
 
 
 それまでの所領美濃兼山が推定三万石くらいですから大きな出世には間違いありません。長可は新領地に入ると信長の威光を背景に厳しい姿勢で臨んだようです。ただ従う者は積極的に採用しそれまでの海津城代だった春日信達も最初はこれに従属します。
 
 長可入国直後危機が訪れました。1582年4月5日越後の上杉景勝と結んだ武田家の遺臣たちが蜂起したのです。一揆勢は武田家臣芋川親正に率いられる地侍など八千。この時長可指揮下の織田軍は三千あまりだったと伝えられますが、わずか2日でこれを鎮圧、反抗勢力を滅ぼすか領内から追い出して支配を固めました。
 
 
 その後まもなく、織田軍は北陸から柴田勝家軍、上野から滝川一益軍が上杉景勝を一斉に攻撃しました。森長可もこれに呼応し五千を率い信越国境を越えます。森軍の進軍速度はすさまじく上杉の本拠春日山城を指呼の間に臨むほど越後領奥地に進みました。
 
 
 圧倒的な織田軍の攻勢により上杉氏滅亡は時間の問題でした。ところが6月2日、有名な本能寺の変が起きます。数日して攻める織田軍各陣営にも伝えられ各軍勢は潮の引くごとく撤退していきました。上杉景勝はこれによって絶体絶命の窮地を脱したわけですが、一方越後国内に取り残される形になった森勢にも本能寺の変の急報は6月6日には早くも伝わっていたそうです。
 
 長可はすぐさま決断し困難な撤退作戦を始めます。嵩にかかって攻めかかる上杉勢をあしらいつつほとんど被害を出さなかったのですから長可はさすが名将だと言えるでしょう。
 
 海津城にもどった長可は重臣を集め善後策を協議します。そして出た結論は、信長亡きあと領国の維持は困難、本拠の美濃兼山に撤退すべし、と決します。
 
 
 しかし、この絶好の機会を見逃さなかった春日信達は武田旧臣(先の一揆には加わらなかった連中?)を語らって「人質を返さねば美濃帰還を妨害する」と申し出ました。そればかりか実力を以て阻止しようとふたたび蜂起します。
 
 長可はこれに屈せず人質を伴ったまま強行突破を試みました。帰還する森勢と一揆勢は合戦に及び、ここでも長可は一揆勢を蹴散らします。
 
 
 冷静に考えると信達たちはおとなしく森勢を帰した方が良かったと思います。どちらにしろ主がいなくなるのですから無駄な犠牲を出す必要もありません。一方上野国から滝川一益を帰した真田昌幸は上手い対応をします。昌幸は道案内まで出して一益の帰還を助けたそうですから人質も殺されずに済み、残った無主の城は自分の物になりました。
 
 
 一揆勢は森長可を完全に滅ぼすつもりだったのでしょうか?でなければ帰還を妨害する意味が分かりません。
 
 
 長可は家臣を派遣し一揆勢と交渉させます。「森軍に手出しすれば人質の安全は保証しない」と再三に渡って警告しましたが何度も裏切られたため長可は一揆勢に深い恨みをもちました。
 
 
 結局、川中島領を脱出し深志城に達した長可は、一揆勢との約束を破り信達の子庄助をはじめ人質全員を処刑し美濃に去りました。要らない事をしなければ犠牲を出さずに済んだはずです。一揆勢は反省したのでしょうか?
 
 
 
 無主の地になった川中島四郡には上杉景勝が入りました。信達はこれに従い再び海津城代に任じられたそうです。しかし裏切りの虫は生来のものだったのでしょう。北条氏が南から川中島に迫ると、当時北条方だった真田昌幸の調略にはまり内応を約束します。
 
 ところが上杉方も信達を心の底から信用していなかったようで、間もなく陰謀は発覚、捕えられた信達は磔刑に処せられました。裏切り者の末路です。
 
 
 
 
 
 話はこれだけでは終わりません。森長可はその後羽柴秀吉に従い小牧長久手の合戦では舅の池田勝入斎恒興とともに三河討ち入りの軍に加わって戦死。兼山領は長可の弟忠政が継ぎます。秀吉も長可の戦死は気の毒に思ったのでしょう。この時森家は七万石に加増されていたようです。
 
 
 秀吉死後、忠政は徳川家康に接近。1600年3月、かねて希望していた川中島十三万七千五百石に転封が許可されました。これは家康の尽力とも、もともと豊臣政権下で決定していたともされますが不明です。
 
 
 川中島に入った忠政が最初にした事は、かつて兄を苦しめた春日信達の親類縁者を探し出し処刑する事でした。驚くべき執念深さですが、森家中も恨みを持ち続けていたのでしょう。
 
 一人の馬鹿者のためにとばっちりをくった親類縁者にとっては迷惑千万だったことでしょう。もし真田昌幸のように気持ちよく送り出していればこのような悲劇は起こらなかったかもしれません。
 
 
 忠政は領国支配に対し兄以上の厳しい態度で臨んだと伝えられます。領民にとっても信達の悪行は最悪の結果となって返ってきました。このまま大規模一揆でも発生すればまた多くの犠牲者が出たに違いありません。小規模なものは何度か発生したそうですが…。
 
 
 ところが幸か不幸か、関ヶ原の後論功行賞で備前、備中、美作を賜った小早川秀秋が急死したためお家断絶し、森家に美作十九万石へ転封の話が出ます。
 
 
 忠政も栄転話に二つ返事でこれを受け、川中島を去りました。ところが美作入国の際も一揆が起こったそうですから、忠政という人物は元々統治能力に欠けていたのかもしれません。これだけ悪政を続けるとお取り潰しになっても仕方ないんですが、幕府に取り入る能力(だけ)には長けていたのでしょう。
 
 森家は美作津山十九万石を元禄時代まで保ちます。しかし1697年四代長成が死去し、末期養子で二代長継の第24子!衆利(あつとし)が五代を継ぐと、のちに発狂し幕府は森家から津山藩を召し上げます。
 
 ただ隠居していた長継が健在で、その子も多数いたため幕府は長継に備中西江原藩(2万石)、長俊(長継の五男)に播磨三日月藩(1万5千石)、関長治(同六男)に備中新見藩(1万8千石)を立藩させ家名を残しました。

第2次中東戦争  英仏植民地帝国の終焉

 以前の記事でイギリスは近代に入って以来ほとんど敗北していないと書きましたが、もちろん勝率100%ではなく敗北も経験しています。その中でもこの戦争は致命的なものの一つかもしれません。
 
 
 一般の方は、第2次中東戦争は英仏イスラエル連合軍の戦術的勝利で米ソの介入により痛み分けになったという印象を持っていらっしゃると思います。しかし戦争の勝敗が戦争目的を達成できたかどうかというものならば、明らかに英仏は敗北でした。しかも植民地帝国として終焉、言いかえるなら帝国主義的植民地支配に完全に終止符がうたれた事は間違いありません。
 
 
 一方同盟国の中ではイスラエルだけが勝利し、戦闘には敗北したものの戦争目的は達成できたエジプトも実質的には勝利でした。
 
 
 それでは第2次中東戦争がどういう経緯で始まり、どのような結果を迎えたか見て行く事にしましょう。
 
 
 
 1952年のエジプト革命以後権力闘争の末エジプト大統領に就任したナセルは、米ソどちらの陣営にも属さない非同盟主義を標榜しスエズ運河地帯からのイギリス軍撤退を要求します。
 
 たとえ一時的には撤退しても、必要な時には軍隊を派遣しいつでも運河を奪回できると最初はこれを甘く見ていたイギリスですが、1956年7月ナセルがスエズ運河国有化宣言を行うと両国の関係は急速に悪化します。
 
 それまで英仏から兵器を買っていたエジプトは、英仏の怒りを買い武器供給を断たれました。困ったナセルは、反共の旗を捨てソ連に急接近しました。中東での橋頭保となり得るエジプトの接近に気を良くしたソ連は、エジプトに対しMiG‐15ジェット戦闘機200機、T-34/85戦車200両、JS‐3スターリン重戦車100両、自走砲100両、火砲数百門など大規模な軍事援助を与えます。
 
 
 これは中東の軍事バランスを壊す恐れがあり、英仏は警戒します。そんな中イスラエル国防相ペレスが英仏両国を訪問しました。
 
 この時、英仏側とイスラエルのどちらから持ちかけたのか不明ですが三国は対エジプトの秘密同盟を結びます。第1次中東戦争でようやく独立を勝ち取ったイスラエルも、自国を敵視するエジプトの強大化は国家の存亡にもかかわる危機でした。
 
 
 イスラエルは、スエズ運河を利用できないのでシナイ半島の付け根にあるアカバ湾最奥のアカバだけが唯一の貿易補給港でした。その安全を脅かすエジプト軍をシナイ半島から排除するのが戦争目的。一方、英仏は生意気なエジプトを懲らしめ再びスエズ運河を奪回するのが目的でした。
 
 
 
 秘密協定に基づき、イスラエルには英仏から続々と軍事援助がもたらされます。なかでも当時イスラエル陸軍の主力戦車M-4シャーマン戦車に搭載できるフランス製の長砲身75㎜砲は喜ばれました。そのほかフランス製AMX-13軽戦車やダッソー・ミステール戦闘機などもこの時援助されたものだと思います。
 
 
 三国の戦争計画はこうでした。まずイスラエルがエジプトに宣戦布告しシナイ半島に侵入。英仏はこれを調停するという名目でスエズ運河地帯に軍隊を派遣、なし崩しに戦争目的を達成しようといういささか虫の良い計画でした。
 
 
 まずこの戦争における各軍の兵力を見てみましょう。
 
◇同盟軍側
 
◆イスラエル軍  総兵力25万、戦闘車両520台、火砲870門、航空機160機、艦艇5隻
 
◆イギリス軍   総兵力3万4千、戦闘車両110台、航空機180機、艦艇18隻
 
◆フランス軍   総兵力2万、戦闘車両40台、火砲70門、航空機60機、艦艇16隻
 
 
◇エジプト軍   総兵力25万、戦闘車両700台、火砲770門、航空機230機、艦艇9隻
 
 
 イスラエルとエジプトだけで互角、これに英仏の遠征軍が加わるんですから勝敗は戦う前から決していました。
 
 
 英仏連合軍がキプロスに集結し終えたのを確認した後、1959年10月26日イスラエルはエジプトに宣戦布告、機甲部隊を中心にシナイ半島に侵入しました。
 
 
 シナイ上空は、フランス製の最新鋭ジェット戦闘機ダッソー・ミステールがエアカバーを行いました。エジプト軍もMiG‐15を投入しこれに対抗します。機体の性能自体はほぼ互角でした。しかし第2次大戦のエースパイロットやそれに教育を受けたイスラエル空軍はパイロットの技量でエジプト空軍を圧倒、制空権を握ります。
 
 ガザ地区の戦闘など一部ではエジプト軍も頑強に抵抗しますが負ければ国家が滅ぶイスラエル軍の方が士気が高く戦闘を有利に進めます。戦車戦でも高性能のフランス製75㎜砲に換装したシャーマン戦車や同じ主砲を搭載するAMX-13軽戦車が、エジプト軍のT-34/85戦車を次々と撃破していきます。重装甲のスターリン戦車もイスラエル軍の正確な射撃の前には敵ではありませんでした。
 
 
 そんな中、英仏両国は1956年10月30日イスラエルエジプト双方に停戦を呼びかけます。従わなければ軍隊を派遣するという恫喝のオマケまでついていました。イスラエルの背後に英仏がいる事は明らかでしたから当然ナセルはこれを拒否します。
 
 すると待ってましたとばかり英仏両軍はスエズ運河地帯に攻撃を開始しました。この時まだエジプト軍主力はシナイ半島に残っています。攻撃はその退路を完全に断つことになりました。
 
 まず空母やキプロスの空軍基地から発進した戦闘機・攻撃機がエジプト国内の空軍基地を空爆。エジプト軍もこれを阻止せんとして空中戦が発生します。英軍の戦闘機はホーカー・シーホークやホーカー・ハンター、フランス軍もミステールやリパブリックF84Fサンダーストリーク(アメリカ製)で、エジプト空軍のMiG-15と性能的には大して変わりませんでしたがやはり技量の違いは圧倒的でエジプト空軍はほとんどの航空機を失いました。
 
 英仏両軍は、空挺部隊をスエズ運河の要衝ポートサイドに降下させこれを占領。続々と陸軍を上陸させスエズ運河地帯を占領していきます。
 
 11月2日には国連が当事者4カ国に停戦を促しエジプト・イスラエルはこれを受け入れようとします。ところがイスラエルの離脱を恐れた英仏は圧力をかけてイスラエルの停戦協定受け入れを翻させました。
 
 このままでは中東における重要な同盟国が敗北してしまうと危惧したソ連は、戦争も辞さずと英仏に圧力をかけてきました。
 
 さらにアメリカまでこれに同調します。実は英仏はアメリカと事前協議をしていませんでした。事後承諾で事足りると甘く考えていたのです。しかしアメリカのアイゼンハワー大統領は英仏の暴挙に激怒します。
 
 米ソは強調し、英仏を恫喝します。二大超大国を敵に回したくない英仏は渋々停戦協定を受け入れました。エジプトイスラエルも反対する理由はありません。こうして第2次中東戦争は終わりました。
 
 
 アメリカが何故英仏に圧力をかける側に回ったかですが、諸説あってはっきりしません。面子を潰されたとか中東地域での戦争を望んでいなかったなど色々言われています。
 
 ただいくつかの本を読んだ中で私が一番しっくりした理由は、
 
①味方ではないにしても敵でもなかったエジプトを完全に敵に回してしまった。
②アメリカはハンガリー動乱などでソ連と対峙中で英仏の行動はアメリカの世界戦略を邪魔するものだった。
③上に関連して戦争を起こすにしてもタイミングが最悪だった。
④イスラエルはアメリカのコントロール下に置きたかったのに英仏が勝手な真似をした。
 
などがあげられるでしょう。
 
 
 ともかく、これで英仏の国際的威信は地に落ち西側陣営ではアメリカ一極体制が確立しました。1960年代の植民地独立ラッシュはこの時の英仏の敗北の影響が大きかったと思います。もはや植民地支配の時代ではなくなっていたのです。
 
 
 一方、スエズ運河を守り抜いたエジプトは戦争には敗北し大きな被害を出しつつも戦略目的は達成したといえます。イスラエルもまたシナイ半島の占領あるいは非武装化という戦争目的こそ達成できませんでしたが、英仏の最新鋭兵器を導入しその気になればいつでもシナイ半島を奪取出来るという自信をつけたので勝利と言えるでしょう。イスラエルは戦車部隊の目覚ましい働きに注目し、以後機甲戦術万能主義に向かいます。
 
 第3次中東戦争の勝利は第2次中東戦争の経験を上手く活かしたものだったと言えるかもしれません。

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