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2013年2月 9日 (土)

飢餓の戦場ニューギニア

 ニューギニアはオーストラリア北方にあるグリーンランドに次ぐ世界でニ番目に大きな島です。面積は77万平方キロ。日本からは南へ5000kmの距離にあります。
 
 大東亜戦争における三大悲劇、インパール、ガタルカナルと並ぶニューギニアの戦い。戦史に詳しい方なら戦闘の経過も含めてご存じだと思います。
 
 簡単に経過を説明するとニューギニア東南にある連合軍の一大基地ポートモレスビー攻略のために1942年3月オーエンスタンレー山脈の裏側ラエに日本軍は上陸しました。しかし島のほとんどがジャングル、そして5000m級のスタンレー山脈を越えての攻撃は失敗。
 
 ガタルカナルの戦いの最中にも、ニューギニア北方のニューブリテン島にある日本軍のラバウル基地と、ポートモレスビーの連合軍基地は一大航空戦を展開し地上でも激しい戦闘が続けられました。
 
 餓島と呼ばれたガタルカナル島攻防戦が日本軍の敗北に終わると、ニューギニアにおいても連合軍が主導権を握るようになっていきました。
 
 連合軍の圧倒的な制空権下、20万もの日本軍は次第に追い詰められ各地で玉砕が続きます。補給も完全に断たれ組織的抵抗力を失った日本軍はジャングルを逃げまどい終戦時に生き残り無事に本土に帰れたのはわずか2万あまりという地獄の戦場でした。
 
 
 しかし今回の記事は戦闘の経過を追っていくものではありません。そのような地獄の戦場で日本軍はいかに生き残ったか?というのが主題です。
 
 
 1944年といえば、サイパン陥落、マリアナ沖海戦、レイテ沖海戦、比島決戦と戦場は次第に日本本土に近付きつつあった時期です。完全に戦争の表舞台から遠ざかり戦略的価値が低下したニューギニアの戦場は、アメリカ軍が去りオーストラリア軍がこれを肩代わりしていました。
 
 
 米軍の激しい空襲は次第に散発的になり、日本軍はいまだ連合軍の手に落ちていないニューギニア西部ソロン方面への困難な撤退作戦を敢行します。しかし補給もなく飢えと病気で多くの将兵が倒れました。ジャングルに点在する白骨死体を追っていくだけでソロンへの道が分かると言われるほどの惨状でした。
 
 生き残った兵も幽鬼のような姿になり、ソロン島を望む地点に到着したとたん安心して倒れる兵も数多くいたそうです。
 
 ソロンを中心にする西部ニューギニア地区には、海軍設営隊や陸海軍の生き残り部隊が健在で撤退してきた部隊もここにあった基地群に収容されました。
 
 
 しかし、日本本土でさえ危うい状況では補給は絶望的で、現地の日本軍は起き残るために自活の道を模索する事になります。幸いにして連合軍の空襲も散発的になり時間だけはたっぷりありました。
 
 ところが最初の危機が起こります。ビタミン不足からなる脚気でした。糧食も残り少なく野生のマンゴーやバナナも食べ尽くした現状では仕方ない事でした。満足な食事もえられないまま日本軍は連合軍の襲来に備え防御陣地の構築に力を尽くしていたのです。
 
 
 生野菜の欠乏は致命的でした。兵站を担当する海軍設営隊は、本土から持ってきたあらゆる食物の種を蒔き、栽培を試みます。
 
 が日本と気候が違うニューギニアでは成長しても立ち腐れするものが多く困難を極めました。ただもともと熱帯性の甘藷(かんしょ、サツマイモ)だけが成長し収穫できるようになります。設営隊は甘藷を食料生産の基礎にすえ、あらゆる食物の栽培を試します。
 
 ある時、将兵の一人がパパイアの芽を発見します。付近の伐採が進み日光が当たるようになると、昔兵士や現地住民が食べたパパイアの種が芽をふいたのでした。
 
 設営隊は、パパイアの芽を大切に保護しこれも3カ月で収穫できるようになります。果実だけでなくパパイアの根も大根のような味がする貴重な食料でした。葉は煙草の代用になります。さらに南瓜(カボチャ)も収穫できるようになっていきました。
 
 設営隊を初めとする海軍部隊は、航空部隊が去り使われなくなった飛行場の滑走路まで耕して畑にします。しかし陸軍側はなかなかそのふんぎりがつかないようでした。機械を相手にし現実的な海軍と、精神性を重んじる陸軍の差だったのかもしれません。その決断の遅れで陸軍の死者は増え続けました。
 
 各地の部隊は、色々な植物を試し栽培できる事が分かると種子や株そして情報も交換しました。中央の陸海軍の対立はニューギニアの戦場ではありませんでした。生き残るためには協力し合う必要があったのです。
 
 
 一応の食糧自活の目処が立つと、人間は贅沢なもので今度は動物性タンパクを欲するようになります。あり合わせの材料で魚取りの網を作ったり、トラックのエンジンをとりだしてカヌーに取り付け即席の漁船を仕立てるなど人間の知恵は逆境でますます冴えわたりました。
 
 兵隊の中に鍛冶屋がいたため、石炭の代わりに木炭を製造し簡単な金属精錬施設までつくりました。さらに海水を利用した塩田まで作り上げます。
 
 
 漁船によって魚や貝が採れだし、これらを現地住民の鶏や家鴨と交換し卵や鶏肉まで兵士の食卓に上るようになりました。恐るべき日本人のサバイバル能力です。製塩に成功すると、味噌醤油が作れるようになります。さらには椰子酒までもができるようになったのです!
 
 
 主戦場から取り残され後方地域になったことも幸いしたのかもしれません。わずかに生き残った日本軍将兵は、このようにして終戦の日まで生き抜きました。
 
 
 8月15日、日本が連合軍に降伏したというニュースは西部ニューギニアにも伝わりました。しかし僻地でもあり連合軍の進駐はさらに数カ月後になります。
 
 敗戦の虚脱感は当然ありましたが、何よりも空襲が無くなったのは喜ばれました。
 
 現地に進駐したオランダ軍は日本軍捕虜を使役します。最初の復員船が出航したのは昭和21年(1946年)5月のことでした。
 
 
 現地で命をつないだ日本軍将兵はニューギニアを離れる時複雑な心境だったそうです。ニューギニアは人口密度が低く、せっかく日本人が開拓した広大な農場は数年にして元のジャングルに戻るからです。
 
 多くの戦友が倒れた中、生き残る事が出来た幸運に感謝しつつ島を離れたことでしょう。
 
 
 
 戦争は悲惨です。しかし逆境の中生き抜いた日本軍将兵を私は誇りに思います。まだまだ日本は捨てたものではありません。より良い世の中にするために私たちは先人に学ばなければならないのです!

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