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2013年2月 9日 (土)

桓武天皇と平安遷都

  「鳴くよ鶯(うぐいす)平安京」で平安遷都は794年だと皆さんご存じだと思います。
 
 平安遷都を挙行したのは桓武天皇、イメージからすると即位してすぐ平安遷都しそこから平安時代が始まったと思いがちですが、実は即位したのは781年。
 
 多くの困難を克服し、在位14年目にしてやっと実行できた大事業だったのです。同時に彼は反乱を起こした蝦夷の征服という大仕事もやっています。
 
 彼の治世が日本にとって良かったのか?悪かったのか?それは読者それぞれが判断してもらうとして一代の英傑だった事は間違いありません。そんな古代日本に強烈な個性を放つ桓武天皇の生涯を追っていく事にしよましょう。
 
 
 本来ならば桓武天皇は即位出来ない存在でした。というのも奈良朝は天武天皇に始まる天武系の天子に皇位を独占され、天智系は締め出されていたのです。
 
 しかし770年天武系最後の天子称徳女帝が53歳で没すると、女帝の寵愛を笠に着て暴虐の限りを尽くしていた悪僧弓削の道鏡は宮廷クーデターによって追われ、あらゆる権力を奪われて下野に流されます。道鏡に気脈を通じていた一派もことごとく追放されました。
 
 これを主導した右大臣・吉備真備(きびのまきび)や左大臣・藤原永手(北家)、内大臣藤原良継(式家)らは話し合いで次の天皇を決めなければなりませんでした。
 
 吉備真備は、天武の孫ですでに臣籍降下していた大納言・文屋浄三(ぶんやのきよみ)を推しましたが、藤原一族は天智天皇の孫にあたる大納言・白壁王(しらかべおう)を強力に推薦して譲りませんでした。
 
 中でも藤原式家の百川(ももかわ)は、舞台裏で暗躍しついに白壁王を皇位に就けることに成功します。すでに老境に達し毒にも薬にもならない白壁王でしたが、彼の御子山部王(やまべおう)の英邁を知った百川が全力で後押しした結果でした。
 
 これが光仁天皇(在位770年~782年)です。この時62歳。百川が将来性に賭けた山部は親王になります。時に33歳。
 
 
 光仁天皇が息子の山部を皇太子にできなかったのは、話し合いで擁立されたという負い目と遠慮があったのでしょう。皇太子には天武系の井上内親王を母に持つ他戸(おさべ)親王を据え、渡来系の高野新笠(たかのにいがさ)を母に持つ山部はそのまま据え置かれました。
 
 しかし、次第に朝廷内で権力を握りはじめた藤原百川は皇后井上内親王と皇太子他戸親王が光仁天皇を呪い殺そうとしていると無実の罪を着せ、大和国宇智郡に護送し幽閉してしまいます。母子は三年後の同じ日に死んでいます。その不自然さから百川に毒殺されたという説も有力です。
 
 
 こうして、百川の推す山部が皇太子となります。百川は娘旅子を山部の夫人とし外戚として大きな権力を握るという野望を持っていました。
 
 光仁天皇は権臣百川を恐れ何もできませんでした。おそらく山部親王を愛していたと同じくらい他部親王を愛していたはずです。しかし百川と結んだ山部に逆らう事は出来なかったのです。
 
 
 光仁天皇の治世に見るべき出来事はありません。ただ晩年、蝦夷で大規模な反乱が起きそれを鎮圧できないままその短い治世を終わります。皇太子となった山部は、百川と組んで次の自分の治世のための体制固めを行いました。
 
 百川は権力を独占するために同族の藤原一族でも容赦せず陥れました。山部のライバルになるであろう天武系の皇子たちを粛清し、それに連座する形で朝廷の反対派を次々と処刑します。藤原京家の参議浜成(はまなり)もこの時失脚した一人です。以後藤原四家のうち京家は没落しました。
 
 
 血なまぐさい権力闘争の末、山部親王は781年即位します。これが桓武天皇です。光仁天皇の精一杯の抵抗は山部に対し即位したら弟の早良親王を皇太弟に立てるべしと遺言した事でした。
 
 
 桓武天皇が即位した時、百川はすでに亡くなっていました。779年従三位式部卿兼中衛大将で没します。もし桓武即位まで生きていたら外戚として史実より早く摂関政治が始まっていたかもしれません。後783年右大臣を追贈。823年百川の娘旅子の産んだ淳和天皇(百川の孫)が即位するとさらに従一位太政大臣を追贈されました。
 
 桓武の皇后に冊立されたのは藤原式家良継の娘乙牟漏(おとむろ)。彼女との間には安殿(あで)親王、賀美能(かみの)親王が生まれていました。百川の娘旅子は夫人(後宮の位、第2夫人)となります。
 
 安殿はのちの平城(へいぜい)天皇、賀美能がのちの嵯峨天皇です。旅子の皇子大伴(おおとも)親王はのちに淳和(じゅんな)天皇となりました。
 
 
 即位した桓武天皇が最初に取り組んだのは蝦夷の反乱鎮圧です。蝦夷の地(現在の東北地方)は朝廷の悪政で疲弊していました。赴任した国司はひたすら蝦夷の人々から収奪する事しか考えていなかったのです。朝廷で定められた租庸調以上の重税を課し、差額を懐に入れいていたそうです。これでは蝦夷の人々はたまりません。反抗したら殺されます。
 
 ついにアテルイを首長とする大規模な反乱が起こりました。朝廷は何度も万単位の討伐軍を送りますが怒りに燃えた蝦夷軍によってことごとく撃退されます。
 
 
 桓武天皇は、切り札として最初大伴家持、さらに坂上田村麻呂を抜擢してこれに当たらせました。
 
 
 一方、同時進行として桓武は遷都を企てます。彼は帝王の大事業として軍事遠征と大土木事業を考えていたようです。寺社勢力が強い奈良の平城京に飽き飽きしていた事も理由の一つでした。
 
 彼の新都構想を支えたのは百川の甥種継。天皇は種継を造営官に任命し新しい国都を建設させます。784年のことです。
 
 最初に新しい国都として予定されたのは淀川沿いの長岡でした。3月に開始してその年の11月には桓武は平城京を捨て長岡京に移り住んだそうです。もちろん宮殿は建設途上でした。
 
 
 蝦夷との大戦争、国都建設、民衆の負担は重く国家財政を圧迫します。群臣からはどちらかを中止するよう献策を受けますが、桓武は逆に意固地になってこれをおし進めました。
 
 
 そんななか785年、造営官の種継が暗殺されるという大事件が起こりました。寵臣を殺されて激怒した桓武は犯人を捜します。そしてどうやら皇太弟早良親王の関係者らしいと分かると春宮職を務める古代豪族の佐伯、大伴氏を中心に事件に関与したとされる者たちことごとく処刑しました。
 
 累は早良親王にも及びます。親王は太子の位を剥奪され淡路国に流罪と決まりました。早良は兄に無実を訴えますが聞き届けられず、早良は食事を断って無言の抵抗を示します。移送途中、淀川の高瀬橋のほとりで早良親王は憤死しました。しかし遺体はわざわざ淡路国に運ばれそこで埋葬されます。
 
 種継暗殺事件の真相はわかりません。一説では大伴氏らの個人的恨みであったとも伝えられます。しかし桓武はこれを機に早良を廃嫡し、自分の息子安殿親王を皇太子にすることができたのです。
 
 ただ事件の後始末は後味悪いものになりました。無実の罪を訴えながら憤死した早良親王は怨霊となって桓武を苦しめます。これは桓武の自責の念が招いた結果だったのかもしれません。
 
 大伴家持も早良親王と昵懇であったことから疑われます。蝦夷の地で反乱鎮圧に苦労するかつての老歌人は事件の発生した25日前に亡くなっていました。桓武は家持の死後、すべての官位を剥奪して庶民に落とすという心ない仕打ちをしています。
 
 
 自分の息子安殿を皇太子にしたいがための粛清で人心は荒廃します。長岡京建設は事故や災害で遅々として進みませんでした。人々はこれを早良親王の祟りだと噂します。
 
 
 792年、桓武はついに長岡京建設を諦めました。新たに選定されたのはそこから北に入った盆地。桓武天皇は忌まわしい祟りから逃れるように平安京という名前を冠しました。
 
 794年、桓武天皇は建設途中の平安京に遷都を挙行します。これが平安時代の始まりです。
 
 
 同時進行で蝦夷遠征も続けられました。坂上田村麻呂を征夷大将軍に任命し十万もの大軍を動員してようやく平定できたのは802年。国家財政は完全に傾いていました。
 
 人心は荒廃し、決して平安の都とはいえない現状でした。
 
 
 ただ桓武天皇の強烈な意志は、欠点も多いとはいえ一つの時代を築いた事は確かです。文化的にも804年最澄・空海らを載せた遣唐使を派遣しています。
 
 
 806年、桓武天皇は在位25年にして崩御しました。享年70歳。皇太子安殿親王が後を継ぎます。平城(へいぜい)天皇です。
 
 
 桓武天皇は彼なりに崩れゆく律令体制を立て直そうとしたのだと思います。 それが平安遷都であり蝦夷遠征だったのでしょう。しかしどんな施策にも光と影があります。平城天皇、そして嵯峨天皇の治世は桓武が生み出した影を清算する時代でした。それが薬子の変であり後の承和の変だったのでしょう。

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