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2013年3月

2013年3月 3日 (日)

藤原摂関家 番外編  能信(よしのぶ)の章

 藤原摂関家といいながら有名どころの道長・頼通をあえて描かなかった同シリーズ。それにはわけがありまして、彼らの出世は門閥と類い稀なる幸運で成ったものでもし別の人物でも同じ条件なら似たように出世しただろうと私が判断したからです。
 
 ですから時平のように、摂政関白には就任していなくても重要な役割を果たした人物は取り上げますし、本記事の能信(よしのぶ)のように事実上藤原摂関政治にとどめを刺した人物などは興味を持って取り上げる次第です。
 
 
 ところでこの藤原能信という人物、一般にはまったく無名の人物だと思います。官位も正二位とはいえ権大納言止まり。
 
 
 この能信という人物、実は関白道長の子で、頼通とは異母兄弟にあたります。道長の正室源倫子の子供たちがともに関白になった頼通、教通兄弟や有名な一条天皇の中宮彰子です。
 
 一方、能信の母は源明子でした。どちらも権門の娘ながら能信の母明子は父を早くに無くしていたため倫子の子供たちと差がつけられたのです。
 
 頼道らは、倫子の邸宅のあった地名から鷹司殿と呼ばれ、能信らは明子の邸宅のあった土地から高松殿と呼ばれます。
 
 
 他の下級貴族から見れば権大納言など目がくらむような出世ですが、異母兄弟たちとあからさまな差をつけられると人間我慢ならないものです。
 
 能信の兄頼宗は積極的に鷹司殿に取り入って晩年に内大臣の地位を得ますが、能信は強烈な対抗心を持って決して慣れ合わなかったそうです。
 
 
 能信は、中宮大夫(皇后の世話をする役職)の仕事に一生を捧げます。同じ道長の娘で三条天皇の中宮になりながらもついに皇子を生まなかった妍子(けんし)の忘れ形見禎子内親王(ていしないしんのう)の世話に一生を賭けたのです。
 藤原摂関家にとって女子など例え皇族であっても関係ありません。皇子なら次の天皇になる可能性がありますが、女子の場合は完全に黙殺されました。
 能信は、禎子の不幸な境遇に自分を重ねていたのでしょう。誰も見向きもしない彼女の面倒を見、成長すると後朱雀天皇と結婚させます。
 後朱雀天皇には他に摂関家が送り込んだ娘などがおり、禎子内親王は皇后に祭り上げられるもほとんど顧みられませんでした。
 彼女の唯一の男子、尊仁親王も皇位を継ぐ可能性は限りなくゼロに近いものでした。次の天皇にも尊仁の異母兄後冷泉天皇が即位しました。
 ところが頼通らが送り込んだ娘たちは不思議と男子を産まず、後継ぎの心配がなされます。
 能信は、1045年後朱雀天皇が病気で明日をも知れぬ時をとらえて、中宮大夫の職を最大限に利用して天皇に進言します。次の後冷泉天皇の皇太子には尊仁親王を選ばれるようにと。これができたのは天皇に信任されていた事も大きかったでしょう。
 異母兄頼通らを出し抜く形で後朱雀の許可を得、無事に尊仁親王を皇太弟にする事が出来たのです。
 しかし、後冷泉天皇は即位したのが21歳。まだまだ長生きするのは確実だと見られていました。関白頼通らは天皇に自分たちの娘を嫁がせ、皇子を産ませればさっさと尊仁を廃嫡すればいいだけと歯牙にもかけませんでした。
 ここらあたり能信の賭けだったのでしょう。かつて皇太弟尊仁親王の将来性は真っ暗で、誰も娘を嫁がせようとしませんでした。困り果てた能信でしたが、尊仁に意向を聞いてみると能信の養女で幼馴染の茂子で良いとの事。
 茂子も憎からず思っているようなので、ひとまず後宮に入れる事となります。茂子は貞仁親王を産みました。
 ところが運命とは分からぬもので、1068年後冷泉天皇は44歳で急逝してしまいます。尊仁は後を受けて35歳で即位しました。後三条天皇です。
 後三条天皇は宇多天皇以来170年ぶりに藤原氏を外戚にしない天皇でした。能信は茂子の産んだ貞仁親王を膝の上に載せて遊んでやったりしていたそうです。
 1062年に茂子は若くして亡くなっています(生没年不詳)。後三条天皇の男子はこの茂子の産んだ貞仁親王しかいなかったので自動的に貞仁が皇太子になりました。
 能信自身も茂子の後を追うように1065年死去しています。享年71歳。ですから能信は後三条天皇の即位もその子貞仁の即位も見ていなかったのです。
 実は、この貞仁親王こそのちに院政を始めた白河天皇でした。後三条、白河の二代は、藤原摂関家を制肘する御代でした。亡き能信の意思を継ぐように…。
 後年、白河は能信の事を語る時敬意をこめて「大夫どの」と呼んだそうです。

承平天慶の乱   後編

 伊予守紀淑人の海賊対策は懐柔策でした。武力を用いても敵わないばかりか純友の勢力は瀬戸内海沿岸諸国に広がっていたので軍事的制圧は一国の兵力くらいではとても不可能でした。
 
 もちろん、朝廷と徹底的に対決する覚悟の純友が屈服するとは紀淑人も思っていませんでした。ただ配下の海賊たちに動揺が走り切り崩すことを狙ったのです。
 
 淑人は、降伏した者には海賊の罪を問わず衣食・土地を与えて農民としての自立を促します。こうして純友配下の海賊のうち二千五百人あまりが帰服したそうです。純友は勢力の立て直しのために逼塞しなければならなくなりました。瀬戸内海に出没する海賊船もめっきり減ります。
 
 
 同じころ関東では将門が従兄弟の貞盛や叔父良兼、良正と血で血を洗う抗争の真っ最中でした。将門の武勇は敵常陸平氏上総平氏連合軍を圧し有利に戦いを進めていました。
 
 そんな中938年、武蔵国では新たに赴任してきた国司武蔵権守興世王・武蔵介源経基(頼朝・義経の先祖)と地元の豪族武蔵武芝との間に争いが起こっていました。
 
 興世王らは正式な国守が赴任してきていないにもかかわらず勝手に国内を巡視し、武芝が饗応しなかった事を怒り武芝の倉庫を略奪するなど暴虐の限りを尽くしました。もともと武芝は国守を饗応する慣習自体に反対でましてや正式な巡視でないのだから理は武芝側にありました。
 
 このままでは合戦になってしまいます。将門は関東の調停者として武蔵国に乗り込みまず武芝を訪問します。武芝から「貴方にすべてお任せする」と依頼を受け興世王に面会すると、軽い気持ちが大事件になった事を後悔していた興世王も二つ返事でこれに応じ将門の仲介で興世王、武芝は和解の酒宴を張りました。
 
 
 ところがその場にちょうどいなかった武蔵介源経基は、興世王と武芝が自分のいないところで組み自分を攻め滅ぼそうとしていると誤解し、慌てふためいて京都に逃げ帰りました。そして将門や興世王についてあることない事讒言します。
 
 間の悪い事に、常陸国府の倉を襲い追撫を受けていた藤原玄明(はるあき)も将門のところに逃亡していました。常陸国府側は将門に対し玄明引き渡しを要求しますが、将門はあくまでしらをきり通します。
 
 経基の報告だけでは半信半疑だった朝廷も常陸国府からの訴えを受けてどうやら将門が反逆を企てているらしいと確信しました。さらに将門に追われた貞盛が京都に逃げてきたものですから決定的になります。
 
 貞盛は、朝廷に訴え念願の将門追撫の官符を手に入れました。これで貞盛側が官軍、将門は賊軍となりました。
 
 一方、将門は玄明から常陸国府の暴虐を聞き、自ら出陣して常陸国府を陥れます。将門自身にどこまで朝廷と対決する気があったかは分かりません。ただ持ち前の義侠心から逃げてきたものたちの面倒を見ているうちに話が大事になっていったというのが真相に近いでしょう。
 
 
 常陸国府に続き、将門軍は下総、下野、上野の国府を攻め国司達を追放します。その頃すっかり側近に収まっていた興世王は将門を唆して朝廷から独立した別の王国を築こうとささやきます。
 
 これは朝廷支配で苦しめられていた関東の住民にも熱狂的な支持で迎えられました。将門は新皇と称し、勝手に部下たちを関東諸国の国司に任命します。さらに本拠地下総国猿島郡石井に新皇の宮殿を建設しました。
 
 官符を手に入れた貞盛は秘かに本拠常陸に戻り、反将門陣営を糾合しようとしますが上手くいきませんでした。そのうえ将門側に貞盛の所在地を察知され逃げまどう始末でした。
 
 
 それでも不屈の貞盛は諦めません。下野の有力豪族藤原秀郷のもとに赴いた貞盛は、官符を見せながら秀郷を説きました。
 
 秀郷はさすがに冷静で、新皇の熱狂騒ぎを冷ややかな目で見ていました。そこへ官符を見せられ将門の将来性を見限ります。
 
 秀郷は貞盛の求めに応じ数千騎という大軍を動員し南下しました。貞盛も本拠常陸に戻り旧臣たちを糾合、さらに常陸国守の息子藤原為憲(工藤氏、伊東氏の祖)を加え連合軍は四千騎を数えたと言われています。
 
 もとより誇張はあるでしょうが将門を圧する大軍であった事は間違いありません。940年2月、将門は機先を制し自ら数百騎を率いて迎撃しました。
 
 両軍は川口の村で激突します。さすがに将門の軍は強く連合軍は大軍であるにもかかわらず勝ちきることはできませんでした。そこで一度引き体制を立て直した連合軍は、別路を通って将門の本拠地石井を急襲します。
 
 石井の宮殿は連合軍の放火で炎上したと伝えられます。その時別の場所にいた将門は、わずか400ほどの手兵しか手元にありませんでした。
 
 猿島郡北方の山で将門は最後の決戦を挑みます。その日は烈風が激しく吹きすさむ荒天でした。当初将門軍は追い風を背に受け有利に戦を進めます。追い風に乗った方が矢の威力が増すのです。
 
 ところが一陣の風が戦陣を吹き抜けます。それを合図にしたように風向きが逆転、将門軍は向かい風の不利を受けなければなりませんでした。そんな中連合軍の放った一本の矢が将門のこめかみを貫通、関東一円に勇名を轟かせた将門は絶命します。総大将を討たれ将門軍は崩れ立ちました。連合軍はこれを追い一気に勝負を決します。
 
 
 こうして将門の乱は終息しました。朝廷の派遣した征東将軍藤原忠文が関東に到着したのはその後でした。秀郷、貞盛の発言力は大いに上がります。
 
 
 
 藤原純友はそのころようやく紀淑人に仕掛けられた傷が癒え再び勢力を盛り返しつつありました。瀬戸内海沿岸諸国を荒らしまわり摂津という京都の玄関口まで迫ります。
 
 
 朝廷は、純友の反乱の方をより深刻にとらえ小野好古を追捕山陽南海両道凶賊使長官に任命します。副将として大蔵春実(はるざね)、源経基らを引き連れ西国各地で動員した兵を与えました。
 
 兵力は不明ですが、かなりの数であった事は間違いありません。好古は山陽道、四国と転戦し純友軍を追い詰めます。
 
 941年4月、純友軍は起死回生の策として総兵力を集め大宰府を攻めました。ほとんど守備兵力が無かった大宰府は純友軍に蹂躙され占領されます。
 
 伊予にあってこの報告を受けた好古は、同5月九州に上陸し陸路から大宰府を目指しました。同時に水軍は博多湾に向かいます。水軍を指揮したのは大蔵春実、藤原慶幸(よしゆき)らでした。
 
 博多湾には純友の海賊軍がひしめいていました。官軍は敵前上陸の作戦を取り海賊軍を激しく攻め立てます。官軍側も多くの損害を出しましたが、純友軍の軍船八百余艘を捕獲し海賊勢数百人を射殺したといわれます。
 
 
 博多湾の決戦で純友軍主力はほとんど壊滅しました。しかし純友はかろうじて死地を脱し伊予に逃亡します。
 
 
 6月中旬、伊予警固使橘遠保は潜伏していた藤原純友父子を逮捕。京に護送するつもりで獄に下しました。6月29日純友はその獄中で死亡します。死因ははっきりしませんが罪人として都に送られる辱めに耐えられず自害したのかもしれません。
 
 
 
 こうして世間を揺るがせた承平・天慶の乱は終わります。この大乱によって平安の朝廷が統治能力を失っていることが明らかになりました。地方では武士たちがますます力をつけ始め、これで完全に律令体制はとどめを刺されます。
 
 
 にもかかわらず朝廷では相変わらず藤原摂関家を中心とする権力闘争ばかりが繰り返されました。摂関政治は忠平の曾孫にあたる道長の時代絶頂期を迎えますが、それは時代に咲いた仇花にすぎませんでした。
 
 以後藤原摂関家の力は急速に衰え、院政そして武士の時代を迎えるのです。

承平天慶の乱   前編

 左大臣藤原時平亡きあと権力は弟忠平に移譲されました。忠平という人は果断な兄時平と違い良く言えば温厚篤実、悪く言えば事なかれ主義の無能という人物です。
 
 こういう統治体制では地方に注意が向く事はなく多くの天変地異にも何ら有効な処置はできませんでした。930年清涼殿に雷が落ちるというショッキングな事件が起こります。さまざまな天変地異を無実の罪で失脚させられ無念の思いで亡くなった菅原道真の祟りと世間では噂しましたから、醍醐天皇にとっても落雷は非情なショックでした。衝撃を受けた醍醐天皇は寝つき、他の病気も併発したため同年9月、皇太子寛明(ひろあきら)親王に位を譲りました。その7日後、醍醐天皇は崩御します。享年46歳。
 
 新しく立った朱雀天皇はわずか8歳の少年でした。左大臣忠平は摂政としてこれを支えます。
 
 
 朱雀天皇は即位するとすぐ年号を承平と改めました。災害の多かった醍醐期と違い平和な世の中の到来を人々は希望します。
 
 しかし地方の疲弊は極限にまで達しつつありました。律令制は崩壊し、貴族たちは競って荘園を経営します。国司たちは地方に赴任しても善政を敷くよりもひたすら自分の財産を増やすことに専念しました。一度国司になると一財産できるとまで言われたほどです。
 
 当然、朝廷での出世が望めない下級貴族たちの中で、任期が終わっても都に帰らず土着する者たちが出てきます。特に皇族から臣籍降下した者たちが多くいました。源氏や平氏たちです。
 
 一方、地方の豪族は自分たちの開発した土地を国司たちに収奪されないために摂関家など中央の有力貴族に寄進しその荘官となることで対抗します。国衙の役人や盗賊に対抗するため地方豪族は武装化していきます。これが武士の始まりです。
 
 武士たちは、土着した元国司源氏・平氏らと結びついて武士団を形成しました。
 
 
 ここに二人の人物がいます。桓武天皇六世の孫平将門、そして摂関家に連なる藤原北家長良の血を引く藤原純友です。
 
 
 時代は彼らを中心に回っていきます。ですから今後は二人を中心に見て行きましょう。
 
 
 平将門は、関東に土着した桓武天皇の末孫高望王(たかもちおう)の孫に当たります。その父良持(良将)は陸奥鎮守府将軍まで勤めました。
 
 父の兄弟たちも関東で有力な豪族でした。長兄国香(くにか)は常陸大掾・鎮守府将軍を歴任、次兄良兼(よしかね)も下総介に就任します。
 
 将門は、父を早く亡くしたため京にでて摂関家に出仕していたのを辞し郷里に帰りました。ところが父の土地は国香ら叔父たちに横領されていたのです。最初は話し合いで土地を返してもらおうとしますが、国香らは言を左右にして応じようとしませんでした。
 
 ついに将門は怒り武力によって取り戻そうとします。国香、良兼らは血縁関係にあった常陸大掾源護(まもる)一族と結託し将門と戦いました。
 
 劣勢の将門は、持ち前の武勇でこれを撥ね退け国香を戦死させます。その後は長男で将門とは幼馴染の貞盛が立ち良兼らと組んで将門と戦いました。
 
 これだけなら一族内の争いにすぎませんでしたが、将門の武勇が関東で評判になると藤原玄明(はるあき)ら国司と争いごとを起こした者たちが彼を頼って逃げ込みます。将門は持ち前の義侠心からこれを保護し、国司の引き渡し要求も拒否しました。
 
 関東の騒乱は都でも問題になりました。935年源護の訴えを受けた摂政忠平はかつての家人将門と源護双方を都に召喚します。
 
 将門はこの時堂々と陳弁し、朱雀天皇が15歳に達し元服した祝いの恩赦で無罪放免になりました。この事は逆に将門の評判を高めることになります。将門の周囲には国司と争ったり朝廷に不満を持つものが続々と集まり始めました。のちの大反乱の芽はすでに生まれていたのです。
 
 
 
 
 一方、藤原純友とはどういう人物だったでしょうか?長良流といいますから摂関家とも非常に近しい一族のはずでした。ところが長良流では良房の養子になった基経の子孫だけが繁栄しそれ以外の一族は没落していたようです。
 
 
 純友の父良範も太宰少弐という低い身分で終わりましたし、自身も伊予掾(国司の三等官)という程度でした。もともと剛毅な性格の純友にはこの事が我慢できませんでした。その頃瀬戸内では海賊が横行していました。純友はそれらを取り締まる役目でしたがいつしか海賊たちと深い関係を結ぶようになります。
 
 純友は朝廷に対し強い不満を持っていました。そこで任期が終わっても都に帰らず海賊たちの首領となります。
 
 
 純友の海賊団は伊予沖の日振島に根拠地を置き、瀬戸内海を航行する船を襲いました。これには朝廷も困り果て海賊討伐令を発します。ところが純友の勢力は大小の海賊を吸収し千艘の船を持つ集団にまで膨れ上がっていて、とても地方の国司程度の勢力では太刀打ちできなくなっていました。
 
 
 936年、朝廷は名官吏といわれた紀淑人(きのよしと)を伊予守に任命し海賊の平定に当たらせます。
 
 
 
 はたして紀淑人の政策は成功したのでしょうか?後編では純友、将門の戦いを描きます。

藤原摂関家の台頭Ⅲ  時平の章

 摂政藤原良房の後は養子(兄長良の三男)基経が継ぎました。良房が没した時にはすでに右大臣の顕官で権力移譲もスムーズだったため取り立てて彼の治世に見るべき業績はありません。清和・陽成・光孝・宇多四代に渡って摂政・関白を勤めます。
 
 ただ光孝天皇の時代に一つの事件が起こります。先代の陽成天皇は基経とそりが合わず17歳で強制的に退位させられました。次の天皇は陽成の同母弟で11歳の貞保親王が有力視されました。
 
 ところがこのあからさまな外戚人事はさすがに世の指弾を浴び、三代前の仁明天皇の皇子時康親王に皇位が回ってきました。55歳、政治に何の野心もない老皇族を天皇にして一時的に世間の批判をかわそうという考えでした。
 
 そういった経緯から光孝天皇と関白基経の間には隙間風が吹いていました。基経の嫡男時平が16歳の元服を迎えた時、元服式を宮中で行い天皇自らが加冠の役を務めた事も屈辱として残りました。
 
 老人であった光孝天皇は、関白基経の圧迫もあってストレスを感じ三年後の887年、58歳で病を得て死去します。それも基経に遠慮して子供たちはすべて臣籍降下させ皇太子を決められないままという哀れさでした。
 
 基経らは、新たな天皇を決めるため会議を開きます。そしてどうやら光孝天皇が第七皇子の源定省(さだみ)を秘かに皇嗣にしたかったらしいという意をくんで次の天皇に推戴することとなりました。臣籍降下していたことは問題にしようと思えばできました。実際光孝天皇即位の際にも嵯峨源氏の源融(とおる・嵯峨天皇の12男)が冗談交じりに「私にも皇位継承の資格がある」といって基経に睨まれた過去がありました。
 
 さすがに今回は、左大臣源融も沈黙していました。こうして源定省は皇籍に復し定省親王となります。そして887年第五十九代天皇として即位しました。すなわち宇多天皇です。
 
 光孝、宇多の二代は久々に藤原摂関家の息のかかっていない天皇でした。そんな中891年関白基経は死去します。56歳でした。
 
 藤原摂関家には不幸なことに、そして皇室にとっては幸いなことに基経の嫡男時平はこの時21歳。従三位ではあってもまだ参議にもなっていませんでした。藤原摂関家のホープとして果断な性格、英才の誉れ高く期待されていてもこれでは朝廷内で権力がふるえません。摂関政治にとっては最大の危機、皇室にとっては千載一遇のチャンスが巡ってきたのです。
 
 宇多天皇は、親政をはじめました。まず時平を参議に据えるのは仕方ないにしても同時に源興基ら源氏を多く登用し互いにけん制させる事で皇権強化を図ります。
 
 さらに代々学者の家柄であった菅原道真を起用したのも彼でした。
 
 
 以後道真は天皇の引き立てもあり時平と昇進を競います。宇多天皇が自分を快く思っていないという事は若い時平にも分かりました。しかし彼は隠忍自重する事を知っています。
 
 道真の異数の出世を横目に着々と実力を蓄え機会を待つのが時平の戦略でした。
 
 
 その機会は意外と早くやってきます。897年宇多天皇は突然皇太子敦仁親王を元服させ譲位しました。こうして立ったのが醍醐天皇です。
 
 宇多天皇の譲位は、藤原摂関家の圧迫を逃れ上皇として自由に政治を行う目的で成されたともいわれています。時平はこの時大納言、道真は権大納言を拝命していました。
 
 宇多上皇は譲位に際して道真に後事を託します。899年時平が左大臣になると道真も右大臣となってこれに対抗しました。
 
 
 ところが901年時平は大納言源光を味方に引き入れ道真追放のクーデターを企てます。学者の家系である道真の出世はいくら有能であっても摂関家はもとより他の門閥貴族にとっても許しがたい暴挙でした。貴族たちに憎まれていた道真にとって唯一の拠り所は宇多法皇(899年出家)の庇護だけでした。
 
 若い醍醐天皇に、道真が皇弟で自分の娘婿斎世親王を皇位に就ける陰謀があると讒言したのです。しかも時平は、この事は宇多法皇も同意していると吹き込みました。
 
 怒った醍醐天皇は、父宇多法皇に確かめる時間もなく、おそらくその余裕を時平が与えなかったのでしょうが道真から右大臣の職を解き大宰府に配流する事を決定しました。
 
 
 5日後、この事を知った宇多法皇は醍醐天皇と会うため皇居に赴きます。しかし時平は軍兵を配して法皇を中に入れませんでした。宇多は一晩中粘りましたがついに諦め寂しく去りました。
 
 道真は同じ日、護衛をつけられ京の都を追放されます。彼の息子たちも官職を解かれそれぞれ別のところに配流されました。
 
 二年後の903年、道真は遠く大宰府の地で波乱の生涯を閉じます。享年59歳。
 
 
 時平は、こうして朝廷内の権力を一手に握る存在となりました。自分の妹穏子(おんし)を醍醐天皇の妃とし次代への布石としました。
 
 
 時平は摂政関白にこそ就任していないもののそれと同等以上の権力を握って政治に当たりました。時平は別に悪辣なだけの人間ではありません。藤原摂関家では珍しく統治にも意欲を示し彼の治世は後に延喜の治と呼ばれるほど安定しました。
 
 
 しかし、909年時平はわずか39歳で死去します。これを無実の罪で陥れられた菅原道真の祟りだと世間は噂しました。
 
 
 時平死後、権力は弟の忠平に継承されます。時平の時代は摂関家の危機でした。彼は手放しかけた権力を再び摂関家に取り戻した中興の祖ともいえます。
 
 
 以後の権力闘争は藤原摂関家内部の戦いとなります。他氏が介入できる余地はすでに無くなっていました。そういう強固な体制を築いた人物こそ藤原時平でした。

藤原摂関家の台頭Ⅱ  良房の章

 嵯峨天皇の御代(809年~823年)は一般に政治が安定した時代だといわれます。たしかに日本三筆の一人に数えられる嵯峨天皇(他は空海、橘逸勢)は文化を愛好し漢詩、和歌など平安文化が花開きます。
 
 818年には弘仁格を発布して公式上は死刑を廃止しました。だからと言って平和な時代だったかというとそうでもなく、蝦夷征服は継続されましたし、天皇を初めとする貴族たちの贅沢によって国家財政は逼迫しました。室町時代の足利義政の例を考えるまでもなく文化が栄えるという事はそれだけ金がかかる事なのです。
 
 嵯峨天皇は14年の治世の後、政治に飽き皇位を弟大伴親王に譲ります。これが淳和(じゅんな)天皇です。嵯峨上皇は皇太子として自分の息子正良(まさら)親王を立てさせる事を忘れませんでした。
 
 これで面倒くさい政治の世界から離れた嵯峨上皇は好き勝手に文化の世界に遊ぶ事となります。一方、中央政治はどうだったでしょうか?
 
 太政官のトップは藤原北家の冬嗣が左大臣としてしっかりと握っていました。しかしその冬嗣も826年52歳で死去。後を継ぐべき長良(ながら)、良房の兄弟は未だ従五位上侍従、蔵人という低い身分に過ぎませんでした。
 
 しかし良房は、嵯峨天皇の皇女源潔姫(みなもとのきよひめ)を娶っていた事から上皇の引き立てを受け急激な出世を果たします。妹順子が春宮正良親王の妃であったことも大きかったと思います。
 
 834年蔵人頭・参議、840年中納言、848年には右大臣と兄長良を超える昇進でした。
 
 
 もちろん良房自身の資質もあったでしょう。しかし皇女を正室に迎えるという稀代の幸運児であった事が出世に結びついたのは間違いありません。嵯峨天皇自らが良房の将来性を高く買っていて娘を降嫁させたともいわれます。
 
 
 ところが良房がすんなり権力を握ったかというとそうでもなく、皮肉なことに彼の最大のライバルは嵯峨上皇の皇子で臣籍降下した嵯峨源氏たちだったのです。嵯峨上皇は子だくさんで50人もの子供がいたと伝えられます。とうぜんすべてを親王として養うのは国家財政上も無理なので源の姓を与え別家を立てさせました。
 
 しかし毛並みが良いことから若いころから官界で累進し中には二十代で大納言や中納言の極官に達する者もでていたのです。
 
 ここに834年(仁明天皇時代)の台閣の顔ぶれの資料があります。良房は31歳でまだ参議にすぎません。ところが嵯峨源氏は源常が23歳で中納言、源信が25歳、源定が21歳でそれぞれ参議と藤原氏以外では最大の勢力となっていました。
 
 
 淳和天皇の御代は何事もなく834年終わります。これも遊びたいがための退位でした。群臣は同時代に二人の上皇が出現するのはどうか?と難色を示しますが淳和天皇は退位を強行しました。これがますます国家財政を圧迫する事となります。
 
 
 古代律令制は完全に崩壊していました。貴族たちは競って荘園を領有し、重税で租庸調を払えなくなった農民たちを積極的に受け入れます。地方の豪族も真面目に税を払うのが馬鹿らしくなり自分たちの開発した広大な農地を都の有力貴族たちに寄進し荘園とする事で税を免れました。
 
 これで朝廷はますます貧しくなり、逆に貴族たちは富み栄えます。まさに本末転倒の状況でした。後に大規模な反乱を起こした藤原純友はこれを「国家に巣食う白蟻ども」と評しましたが言い得て妙でした。
 
 
 こういう地方の疲弊をまったく無視するかのように中央では相変わらず権力闘争が続いていました。
 
 仁明天皇の皇太子には淳和上皇の御子恒貞親王が立てられていました。ところが淳和上皇は息子の即位を見届けることなく840年死去します。
 
 
 その二年後、淳和の兄嵯峨上皇も重い病になっていました。春宮恒貞の側近伴健岑(とものこわみね。大伴氏は淳和天皇の諱(いみな)が大伴であったことから遠慮して伴氏と改名していた)、その盟友橘逸勢(たちばなのはやなり、日本三筆の一人)らは嵯峨上皇にもしものことがあれば恒貞親王の皇位継承はおろか命さえも危ないと恐れます。それは奈良から平安朝を彩った権力闘争の歴史からも容易に想像できる危惧でした。
 
 
 そしてそれを仕掛けるとすれば故冬嗣の娘順子(じゅんし)と仁明天皇との間に生まれた第一皇子道康親王を擁する藤原良房であることもはっきり分かっていたのです。
 
 
 ただ藤原氏に対して恒貞側近の貴族たちはあまりにも非力でした。実力に訴えることなどとてもできずひたすら善後策を講じるのみでした。
 
 
 842年7月、嵯峨上皇が病の末亡くなります。享年57歳。その二日後には六衛府の兵たちが皇居と京の都の要所を固めるとともに伴健岑、橘逸勢とその与党達を電撃的に急襲逮捕します。容疑は仁明天皇に対する謀反の罪でした。
 
 常識的に考えてこれはあり得ないことがわかります。というのも恒貞親王は皇太子なので何もしなくても次の皇位は約束されていたからです。むしろ困るのは道康親王を擁する良房の側でした。
 
 
 ということは陰でこれを操っていたのが中納言良房であるという事は容易に想像できます。政府は逸勢らの罪状を厳しく詮議しますが、もとより何もないのですから自白するはずありません。そればかりか連座をおそれて橘氏や伴氏の関係者が進んで出頭し身の潔白を示すほどでした。
 
 しかしこれこそ良房の思う壺でした。初めから無実の罪に陥れるつもりでしたから。逮捕から八日後、司直の追及は本命の恒貞親王にも及びます。
 
 仁明天皇は詔を発して橘逸勢、伴健岑を謀反人と断じその責任を恒貞親王に負わせました。親王は皇太子を廃されます。また親王の春宮に出仕していた藤原愛発(ちかなり、良房の叔父)らも官位を剥奪されました。
 
 謀反の首謀者とされた橘逸勢は、姓を非人と改められ伊豆に配流されます。逸勢は無念の思いを残し配流の途上憤死します。伴健岑は隠岐に流罪となりました。連座して流刑の憂き目にあった者六十余人。古代豪族大伴氏、橘氏の勢力はほとんど滅亡しました。
 
 それから数日後、良房は大納言に昇進します。仁明天皇は長子道康親王を皇太子に据えました。
 
 
 これが世に言う承和の変です。
 
 
 仁明天皇は自分の息子を皇太子にする事が出来、良房は外戚として権勢を振るえる掌中の珠を次の天皇にすることができたのです。承和の変は仁明と良房が組んだ一大政治疑獄事件といえるかもしれません。
 
 
 良房は自分の一人娘明子(あきらけいこ、母は源潔子)を道康親王に嫁がせます。さらに万全を期した布石でした。
 
 848年良房は右大臣を拝命します。藤原一族はもとより嵯峨源氏を初めとする他のライバルをも圧する権勢を手に入れていました。850年仁明天皇は病を得て急死してしまいます。後を継いだのは24歳の道康親王。すなわち文徳天皇です。
 
 
 良房の娘明子は、惟仁親王を産みました。後の清和天皇です。
 
 
 文徳天皇は、その生涯を良房の圧迫に左右されました。他に皇子がいるにもかかわらず良房の娘明子が生んだ第四皇子惟仁親王を皇太子にせざるを得ませんでした。このような状況下858年わずか八年の治世で病を得て崩御します。一説では良房による暗殺説もありますがはっきりとは分かりません。
 
 その後は良房の外孫惟仁親王が即位します。すなわち清和天皇です。この時わずか9歳。良房はこれを補佐するため人臣では初めて摂政の地位に就きます。藤原摂関政治の始まりでした。
 
 866年には応天門の変で古代豪族大伴氏最後の生き残り大納言伴善男を陥れ藤原摂関体制は盤石となります。
 
 
 位人臣を極めた良房は872年死去します。享年69歳。男子の無い良房は兄長良の三男基経を養子に迎えていました。
 
 以後基経の子孫が藤原北家摂関家の嫡流として代々摂政関白を受け継ぎます。「この世をば~」という和歌を残し摂関政治絶頂期を築いた道長は、彼の五世の孫でした。

藤原摂関家の台頭Ⅰ  冬嗣の章

 806年、強烈な個性を放った桓武天皇の崩御を受けて皇太子安殿(あで)親王が即位します。平城(へいぜい)天皇です。
 
 桓武の後を受けた三人の兄弟、平城、嵯峨、淳和(じゅんな)天皇は父桓武と比べると個性に乏しい人たちでした。もちろん芸術の分野では見るべきところもありますが崩れゆく律令体制にどう取り組んだか?がほとんど見えてこないのです。もしかしたら父ほど危機意識を持っていなかったのかもしれません。
 
 太政官の顔ぶれも、右大臣に藤原北家の内麻呂、大納言に南家の雄友をはじめ早くも藤原氏独占が始まっていました。なかでも式家百川の子緒嗣(おつぐ)は新進気鋭の参議、後の政治を主導するホープとして期待されていました。
 
 
 平城天皇の治世としてはまずまずのスタートで、最初は天皇も意欲的に政治に取り組んでいました。観察使の設置、官庁の統廃合、無駄な年中行事の廃止など父桓武によって荒廃した民力の回復にもっぱら努めます。
 
 しかし早くも暗雲が訪れました。平城天皇は皇太弟として同母弟賀美能(かみの)親王を立てます。賀美能即位の後、自分の息子高丘親王を皇太子にしてもらう約束でした。
 
 このような約束は、状況が変わると簡単に覆されるのは早良親王、他戸親王の例を見ても明らかです。
 
 平城は異母弟で潜在的に皇位を窺う可能性を持つ伊予親王を除く考えを持っていました。ある時藤原北家の宗成が伊予親王を唆して謀反を企んでいるという讒言が同じ北家の右大臣内麻呂に届けられます。ところが内麻呂は真相を調べもせずこれを庇うどころか直ちに平城天皇に報告しました。
 
 激怒した天皇は宗成と伊予親王を大和国川原寺に幽閉、二人は無実を訴えますが聞き入れられず絶望して毒を仰ぎ自害しました。
 
 それにしても同じ北家の中でも系統が違うと平気で陥れる藤原一族の権力争いには驚かされます。
 
 
 藤原一族は、平城天皇に自分の娘を入れ子を成させ外戚となる事で権力を握る事を夢見ていました。藤原式家の縄主は自分の娘を天皇の後宮に入れました。ところが天皇はその娘を寵愛せずあろうことか娘を世話するために後宮に入った母薬子(くすこ)に溺れてしまいます。
 
 薬子は式家の出身で、その関係で兄の仲成が宮中で権力を握りました。
 
 平城天皇は薬子との愛に溺れ次第に政治を顧みなくなります。そして大病したことから809年さっさと皇位を弟賀美能に譲り奈良の平城京に引っ込みました。賀美能は即位して嵯峨天皇となります。
 
 しかし平城は上皇として嵯峨の政治に口を出し、二所朝廷といわれるほど政治は混乱しました。平城上皇は仲成、薬子兄妹に唆され弟嵯峨天皇を廃して再び皇位に返り咲く陰謀をめぐらせます。これが薬子の変という大乱に発展するのです。
 
 薬子の変については以前記事にしたのでここでは詳しく書きませんが、810年結局陰謀は失敗し仲成は捕えられて処刑、薬子は自害します。平城上皇も出家し平安初期の朝廷を揺るがせた大事件は収まりました。
 
 
 実は嵯峨天皇側でこれを収拾したのが本編の主人公冬嗣(ふゆつぐ)です。薬子の変のあおりを受け皇太子高丘親王は廃されます。変わって嵯峨天皇の弟大伴親王が皇太弟に立てられました。
 
 
 冬嗣は藤原北家右大臣内麻呂の次男として生まれました。幼少期から英邁の誉れ高く嵯峨天皇は皇太弟時代からこれを重用します。810年嵯峨天皇が秘書機関として蔵人所を設置するとその初代蔵人頭(くろうどのとう)に就任するほどでした。
 
 819年には当時飛ぶ鳥を落とす勢いだった藤原北家百川の息子、参議緒継を追い越し大納言に就任します。当時は太政大臣、左右大臣は名誉職に近い役職でしたから事実上朝廷を動かす地位に就いたのです。
 
 
 冬嗣は、閨閥の形成にも心を配ります。自分の長女順子(じゅんし)を嵯峨天皇の皇子正良(まさら)親王に嫁がせるなど着々と手を打って行きました。のちに正良は淳和天皇の後を受け仁明天皇として即位しますから恐るべき慧眼です。
 
 というより、陰謀をめぐらせて正良親王を皇位に就けたともいえます。
 
 
 最終的に父を超える左大臣に昇りつめ、死後は正一位太政大臣を追贈されるほど位人臣を極めました。
 
 
 冬嗣は、摂政関白にこそなりませんでしたが事実上藤原北家の嫡流、摂関家を創始した人物といっても良いでしょう。そして人臣初の摂政として摂関政治を開始するのは彼の次男、良房(よしふさ)でした。

トルコ系民族考

 最初にお断りしておきます。資料保存用の記事ですので全く面白くありません。現在中央アジアの歴史に関して興味を覚えておりその中で重要な要素となるトルコ系民族に関する現時点での見解をまとめておく必要があり記事にした次第です。
 
 
 語族とは、言語学上同一の起源(祖語)から派生・発達したと認められる言語群の集まりを言います。かつてインドヨーロッパ語族、ウラルアルタイ語族、セム語族を世界三大語族と呼んだそうですがその後研究が進み見直しをされています。
 
 本記事で取り上げるウラルアルタイ語族に関しても、ウラル語族とアルタイ諸語の関連性が否定され別々に扱われているそうです。
 
 
 アルタイ語族も大きく三つに分類されます。トルコ諸語、モンゴル諸語、ツングース諸語です。これを民族として分ける見方もありますが東洋史家宮脇淳子先生によると言語と人種の分類はあいまいで、遊牧民族の特性として優れた一族に雑多の民族が結集して一つの集団をつくるのですべてが同じ民族集団とは一概には言えないそうなのです。宮脇先生の言では、極論するとトルコ諸語、モンゴル諸語といっても方言のようなものだそうです(苦笑)。
 
 という事で、トルコ系民族といってもトルコ諸語を話すふんわりとした民族集団、一応ルーツはモンゴロイドではあるが西へ行くにつれコーカソイド(白人種)との混血が進んでいると思って下さい。
 
 
 アジアではアルタイ語族、セム語族の他にシナチベット語族(支那、チベット、ビルマ)やオーストロアジア語族(ベトナム、クメール)、タイ・カダイ語族(タイ、ラオス)などもあります。特にシナチベット語族など支那だけで13億いますから相当な数です。
 
 
 
 さてトルコ系民族ですが、学問上はトルコ共和国と区別するためチュルク系民族と表記する場合が多いです。しかし私は突厥(とっくつ、とっけつ)や鉄勒(てつろく)などトルコ系民族を漢字表記した支那人の言語感覚に倣ってあえてトルコ系民族と呼びます。
 トルコ系民族の発祥の地はどこなのでしょうか?これにはいろいろな説がありますが同じアルタイ語族に属するモンゴル系、ツングース系民族の発祥の地を同時に考えなければ解決しないと思っています。
 古代支那の史書では、トルコ系、モンゴル系、ツングース系民族を総称して北狄という蔑称をもって呼んでいました。中でモンゴル系とツングース系は東胡と総称していたような気がします。これには資料的な裏付けがなくあくまで私の個人的な見解ですが…。
 というのもモンゴル系民族の代表である鮮卑族(北魏や隋、唐を建てた)のルーツが東胡にあるとされるのです。東胡はトルコ系と目される匈奴に攻撃され一時滅ぼされます。その生き残りのうち烏丸山に逃れたのが烏丸、鮮卑山に逃れたのが鮮卑と呼ばれるようになったと言われています。
 このうち烏丸は長城線からほど近い熱河のあたりだと分かっていますが、鮮卑の場所が分かりません。おそらく興安嶺山脈の西麓当たりではなかったかと想像しています。
 私はこの事からモンゴル系民族のルーツは興安嶺山脈西麓からモンゴル高原東部にかけてだったのではないかと考えます。一方、ツングース系民族は旧満州のうち興安嶺の東側から日本海にかけての地域。というのは遊牧に適した興安嶺からモンゴル高原までと違って、公安嶺の東側は森林が多く狩猟民族であったツングース民族に都合のよい地形だったのです。というより地勢によって民族の生態が決まったと言っても良いでしょう。
 ここでようやくトルコ系民族の考察に入るのですが、消去法からトルコ系民族のルーツはモンゴル高原西部にあったのではないかと推定されます。そして突厥の発祥の地を考えてバイカル湖周辺もそれに含めて良いでしょう。さらに匈奴がトルコ系民族だったと推定するなら河北省の北辺から西の内モンゴル地区も有力候補地になります。
 実は、トルコ系民族は支那本土に入り込んでいたという説があります。というのは史書で登場する狄がトルコ系民族ではなかったか?と言われているんです。赤狄、白狄が匈奴に発展したという説です。
 東胡モンゴル系民族説を取れば必然的にそうなりますね。一方、陝西省甘粛省以西にはインドヨーロッパ語族(アーリア人)と推定される月氏がいました。古代世界では印欧語族の広がりは世界的規模だったと言われます。楼蘭王国の遺跡で見つかった若い女性のミイラも明らかにコーカソイドの特徴を持っていたそうですし。
 古代においてはトルコ系民族はバイカル湖周辺からモンゴル高原の西半分、支那のオルドス地域(黄河の湾曲部内部)、河北に渡って存在していたと考えます。
 
 そのうち、支那本土では漢民族の数が増えたため追い出されモンゴル高原に本拠を移したのでしょう。これが匈奴です。匈奴は強大化し漢帝国を脅かす勢力になります。
 次に台頭してきたのは丁零です。「ていれい」という名前からトルコの漢字表記だと思われます。丁零はバイカル湖周辺から発祥したと言われ、匈奴の勢力が漢の攻撃や内紛で衰えた後勢力をのばします。しかし間もなくモンゴル系の鮮卑がモンゴル高原に進出し丁零を降したそうですから、この時以来モンゴル高原という呼び名は確定したのでしょう。
 モンゴル高原がモンゴル族の支配下となったあとトルコ系民族は西遷します。これが高車です。鮮卑が支那本土への侵攻に力を注いだため一時空白になったモンゴル高原を奪い返す事もあったそうですが間もなくモンゴル系の柔然が強大化したため再びこれに服属しました。
 東アジアはモンゴル系の鮮卑が建てた北魏と柔然の南北朝時代に突入します。鮮卑は支那本国の南北朝とモンゴル系民族における南北朝を同時に戦っていたのですから面白いですね。
 柔然は、555年支配下民族で製鉄奴隷として酷使していた突厥に独立され滅亡します。突厥もトルコの漢訳です。この突厥がトルコ系民族全盛時代でした。
 突厥は東では支那の北朝、隋唐と抗争し西では一時中央アジアで猛威をふるったエフタルを滅ぼしササン朝ペルシャを圧迫します。
 この突厥も東西に分裂した後、東突厥はモンゴル高原に興った同じトルコ系のウイグルに滅ぼされます。ウイグルは唐朝とは友好関係を保ってシルクロード交易で繁栄しました。西突厥も内紛分裂を繰り返した後一部はウイグルに服属しました。
 トルキスタンと呼ばれる地域はこのころトルコ系民族が定着して以降の呼び名でしょう。
 ちょうどそのころ西アジアではイスラム教が台頭していました。トルコ系民族でもイスラム教に改宗する者たちが出始めカラハン朝(9世紀中ごろ~1211年)が成立します。
 トルコ人の中には、軍人奴隷としてイスラム諸国に仕える者たちが出現しそのなかで権力を握った者たちはインドの奴隷王朝やエジプトのマムルーク朝のように自分たちの王朝を建てる者たちもいました。
 トルコ民族の西遷で一番の大きな流れはセルジューク朝(1038年~1157年)の成立でしょう。セルジューク朝の時代にトルコ人たちは現在のアナトリア半島(小アジア)まで達します。この中からオスマントルコ(1299年~1922年)が登場し現在に至るのです。

インダス文明は何故滅んだか?

 ヒマラヤに端を発しアラビア海にそそぐ大河、インダス。この地域に人々が住み始めたのはおよそ紀元前6000年前だといわれています。
 
 穀物の栽培と家畜の飼育をはじめ、紀元前4000年頃には銅を使用しろくろで土器を製作していたそうです。やがてハラッパーやモヘンジョダロに代表されるインダス文明が誕生し紀元前2600年頃から紀元前1800年頃最盛期を迎えます。
 
 そして紀元前13世紀、アーリア人の侵入によって滅びたといわれています。
 
 
 インダス文明は、土地の生産力の低さから強力な王権は誕生しなかったとされます。一方、高度な都市文化が発展し上下水道を完備する優れた文明でした。インダス文明の担い手はドラヴィダ系の人々であったと推定されますが、各地との交易で栄えていたそうです。
 
 後年、アーリア人に追われ南インドに逃れたドラヴィダ人たちがアーンドラ朝に代表される交易国家を建設したのもインダス時代の記憶が民族の深層意識に残っていたからでしょう。
 
 
 調べて行くとインダス文明は致命的な弱点を持っていた事が分かります。というのもこの土地では錫を産出せずアフガニスタンの山中にそれを求めなければならなかったのです。これが交易文明としてのインダスを形作ったのかもしれません。
 
 何故錫という金属が重要かというと青銅の材料だからです。青銅は銅と錫の合金です。鉄器が普及する前、加工しやすく丈夫な青銅は古代文明発展の絶対条件でした。
 
 インダス文明は、錫が貴重であったため他の地域の青銅器より錫の含有量が少なくもろいものしか作れなかったそうです。
 
 
 アーリア人の侵入は錫の供給源であるアフガニスタン方面からだったと推定されますから、インダス文明の死命を制するルートを通ってきたと言えます。これがインダス文明滅亡の第一の原因。
 
 
 さらに気候変動もインダス文明衰退の大きなファクターでした。インダス文明が衰亡してきた時期は、ちょうどこの地方が乾燥化してきた時期と重なるそうなのです。
 
 現在インダス流域は乾燥し砂漠化が進んでいますが、インダス文明が栄えていた頃は現在よりもっと湿潤で生活しやすい環境だったと推定されます。そして同じころ、現在インドでもっとも人口が密集しているガンジス河流域は未開のジャングルだったそうです。
 
 
 乾燥化により衰亡してきた文明に止めを刺したのがアーリア人の侵入だったのでしょう。
 
 
 古代文明の盛衰と気候変動は密接な関係があると思います。後年ガンジス下流域に興り北インドを統一するようになるマガダ国は、鉄や銅さらには石炭まで産出し豊富な金属資源で強大化したそうですから、資源の面も文明を考える上で無視できません。鉄器製造に重要である石炭があれば、木炭による製鉄より効率よく生産できるのでしょう。
 
 
 インダス文明は、まさに資源問題と気候変動で滅んだと言えます。

概説インド史Ⅱ   中世編    ヴァルダナ朝以後デリー・スルタン朝成立まで

 古代インド最後の帝王ハルシャ・ヴァルダナ(戒日王 在位606年~647年)の死と共に急速に瓦解したヴァルダナ朝。実はこのあと面白いエピソードがあるので記します。
 
 ハルシャ王は、唐の高僧玄奘三蔵を保護したことでも有名ですが実は海外交易を通じて支那大陸に唐朝が興った事も知っており明君太宗皇帝が即位したことも情報を得ていたとされます。
 
 ハルシャ王は、玄奘帰国の際家臣たちを伴わせ唐までの沿道にあった諸国に親書を託し保護を依頼しました。そしてハルシャ王の使節は太宗皇帝に謁見し東西の明君はここに交流を持つ事になります。
 
 しかし最後に太宗皇帝が送った使節はハルシャ王の崩御した直後にインドに到達し、北インドは王位を巡る争いで混乱の極にありました。
 
 唐の使節を率いてきた王玄策は、ハルシャ王の大臣で王位を簒奪しようとしていたアルジュナに一時捕われてしまいます。一念発起した王玄策は、虎口を脱し各地に檄文を出しました。これに応じた吐蕃(チベット)やネパールの兵八千を率い簒奪者アルジュナの兵と戦います。そしてなんとアルジュナの大軍を破りこれを捕らえてしまいました。王玄策は簒奪者を唐へ連行し太宗皇帝に引き渡します。その功により朝散大夫に任じられたそうです。
 
 
 しかしこれでヴァルダナ朝が復活する事はなく多くの小国に分裂し以後インド人による統一王朝は生まれませんでした。
 
 
 次に台頭してきたのは西インドに根拠地を持つラージプート族です。もともとはフーナ族(エフタル)と共にインドに侵入してきたグルジャラ族の一派とも言われ戦士階級として一時は北インドを席巻するほどの力を持ちました。
 
ラージプートの王朝が健在な間は、アラビア半島に勃興しイベリア、西アフリカから中央アジアまで猛威をふるったイスラム勢力もインド奥深くへは侵攻できませんでした。
 
 
 ところが10世紀後半、サーマン朝に仕える軍人奴隷出身の有力な将軍(氏名は謎)が任地のアフガニスタンで興したガズナ朝は第7代スルタン、マフムード(971年~1030年、在位988年~1030年)の時代にインドへの野望を露わにします。
 
 大軍を率いてカイバー峠を越えたマフムードは、中央アジア産の優秀な馬で編成された強力な騎兵軍によって分裂状態にあった北インドの諸国を次々と撃破しました。1018年ヴァルダナ朝以来の政治の中心都市カナウジ陥落、1025年にはカーティアーワール半島(パキスタンとの国境に近いインド西部の半島)の宗教都市ソームナートまで攻撃を受けました。
 
 しかし幸いなことにマフムードはインドへの領土的野心は持たず豊かなインドの物産を略奪するのみでした。ただとはいってもその略奪はすさまじく北インド一帯はガズナ朝の劫掠(ごうりゃく)で荒廃します。
 
 
 そしてとどめは次のゴール朝でした。ガズナ朝支配下のアフガニスタン、ゴール地方に11世紀初頭に興ったゴール朝は11世紀末に独立、1186年にはガズナ朝を滅ぼします。
 
 
 ゴール朝の第一回インド侵入はギヤースッディーン・ムハンマド時代の1175年ですからガズナ朝との戦争と同時進行していた形になります。
 
 ゴール朝の侵攻は、これまでのガズナ朝と違いインドの恒久支配を目指した本格的なものでした。インド側もこれを脅威に感じラージプート諸王はチャウハーン朝プリトゥヴィーラージ3世のもとに結集します。両軍は1191年デリー近郊タラーインで激突しました。この時は危機感を持っていたラージプート連合軍の奮戦でゴール軍を押し返します。
 
 しかし略奪などという安易な気持ちでなかったためムハンマドは一時の敗戦では屈しませんでした。間もなく体制を立て直したゴール軍は再びタラーインの地でラージプート連合軍と相まみえます。
 
 
 この第2次タラーインの戦いで大敗を喫したラージプート連合軍は瓦解、プリトゥヴィーラージ3世も捕えられて処刑されました。ゴール軍はそのままデリーを占領しさらに東に進軍します。1202年にはベンガル湾まで達したそうです。
 
 
 以後ゴール朝はアフガニスタンから北インドにまたがる大帝国を築きインドを支配します。ゴール朝自体は1203年イランのホラズム朝に敗北し1215年滅亡しますがゴール朝最後のスルタン、ムハンマド・ゴーリーに仕えた軍人奴隷アイバクがデリーで自立、いわゆる奴隷王朝を創始しました。(1206年~1290年)
 
 以後のハルジー朝(1290年~1320年)、トゥグルク朝(1320年~1414年)、サイード朝(1414年~1451年)、ロディ朝(1451年~1526年)もデリーを首都とし北インドを支配したので、この320年をデリー・スルタン朝の時代と呼びます。
 
 
 彼らは皆イスラム教徒であり、トルコ系(ロディ朝だけアフガン系)の王朝でした。そして次に来るのがバーブルのムガール朝。イスラム教徒が支配民族となるインド人にとっては暗黒の時代が続きます。

世界史英雄列伝(41) 『ハルシャ・ヴァルダナ』 古代インド最後の帝王

 西暦633年、西遊記で有名な唐の高僧玄奘三蔵は長い旅の末あこがれの天笠(インド)へ到達します。時のインド王戒日王は、玄奘を温かく迎えこれを保護しました。
 
 玄奘はナーランダ大学で戒賢に唯識を学びインド各地の仏教遺跡を巡ります。時には戒日王に進講もしたそうです。657部にも及ぶ貴重な仏典を携え帰国した玄奘は出国から16年の歳月を費やし唐に戻りました。
 
 玄奘の持ち帰った仏典は、後の仏教発展に大きな貢献をします。
 
 
 
 玄奘を保護し仏教に深い理解を示した開明君主戒日王こそすなわち本稿の主人公ハルシャ・ヴァルダナです。
 
 
 
 実は、玄奘は絶妙な時期にインドを訪れました。というのもそれまでの統一王朝グプタ朝が550年に滅亡し、インドは大混乱に陥っていました。そんな中、一代の英傑ハルシャ・ヴァルダナがガンジス中流域に興り北インドを統一した時期だったのです。彼の起こしたヴァルダナ朝は、英傑の死と共に急速に没落し再び戦国時代に突入します。
 
 そしてイスラム勢力が西北インドに侵入し、13世紀にはデリーを中心として北インドを支配する所謂デリースルタン朝の時代に入るのです。
 
 
 ハルシャ・ヴァルダナ(590年~647年、在位606年~647年)は、ガンジス、ジャマナ-両河の間にある聖地クルクシュートラにあった小国ヴァルダナ(ターネサル)王国の王子として生を受けます。彼の一生は決して順風満帆ではなく、父王プラバーカラの後を継いだ兄ラージャ・ヴァルダナがベンガル王シャシャーンカの姦計によって殺されるという悲劇を受けてわずか16歳で即位するところから始まりました。
 
 彼は混乱する王国を纏め、義弟の死で空位になったマウカリ朝を併合しガンジス河上流域に確固たる地位を築きます。ハルシャ王はマウカリ朝の首都であったカナウジ(曲女城)を新生王国の首都と定め王国の基礎を固めると各地に攻伐の軍を進め6年という短い期間で東はアッサムから西はカーティアワールに至る北部インド全域を平定しました。
 
 ただハルシャ王の常勝軍(『世界の歴史6 古代インド』における表現)も、デカン進出には失敗します。インド中部に勢力を張っていたチャールクヤ朝のプラケシン2世に敗れナルバター川以南へは進出できませんでした。さらにラージプターナ、シンド、パンジャーブもフーナ族(エフタルのインド呼称)、グルジャラ族(エフタルとは同系統とも別系統とも言われる異民族)に占領されたままで回復できませんでした。
 
 
 ハルシャ王は、武人であるばかりでなく文化にも高い関心を持った開明君主でした。みずからは仏教を信仰しヒンドゥー教などの諸宗教を保護します。政治に関しては重要事項は自らが決済し雨季以外は絶えず国内を巡視し治安の維持に努めたとされます。早馬の制度を整えたり関所や渡船場をまとめ商人を保護しました。
 
 5年ごとに首都カナウジに主だった各宗教の代表を集め宗教会議も開きます。北インドはそれまでと比べると比較的安定した時期だったと思います。ですから冒頭で書いた通り玄奘三蔵はとても良い時期にインドを訪れたのです。
 
 またハルシャ王は文学を愛し、自ら劇を書くほどの入れ込みようでした。ハルシャ王の宮廷には多くの文人が出入りしこの時代文化の花が咲きました。ハルシャ王の伝記である有名な「ハルシャチャリタ」もこの時代に書かれたものです。
 
 
 しかし、ハルシャ王は647年後継者を定めないまま57歳で死去します。ハルシャ王の時代戦象6万、騎兵10万にも及ぶ強力な軍隊を擁した大国も、こうして急速に瓦解しました。
 
 
 ヴァルダナ朝はハルシャ・ヴァルダナが一代で築いた国だったといえます。英傑の死と共に広大な領土を支えきれなくなり多くの小国に分裂しました。そして長い混乱の末最後はカイバー峠を越えて西北インドに侵入してきたイスラム勢力によって滅ぼされるのです。
 
 
 ハルシャ王の死は、インドにおける仏教の衰退でもありました。以後仏教はインドの民族宗教であるヒンドゥー教にとって代わられ細々と続くのみになります。しかし玄奘三蔵が持ち帰った仏典によって支那、さらには日本に新たなる仏教の息吹が伝えられこれらの地域で独自の発展をしていきます。

アーンドラ朝   古代インドの海洋帝国

 最初にインドの地勢を記します。「世界の歴史6 古代インド」(佐藤圭四郎著 河出文庫)によるとデカン(ダッカン)とはサンスクリット語で南の国を意味する『ダクシナパタ』の訛ったものだそうです。
 
 北インドへ侵入した遊牧騎馬民族アーリア人にとって入ることが難しい密林、大山脈を抱えた高原地帯、それがデカンでした。そこに住む住民は文化の進んだ自分たちとは異質の遅れた民族であり、デカンには侮蔑の意味を込めていたともいいます。
 
 
 しかし、アーリア人が蔑んだドラヴィダ人は本当に遅れた民族だったのでしょうか?実は人類最古の文明の一つインダス文明の担い手はドラヴィダ人ではなかったかといわれています。インダスの遺跡で発見されたインダス文字がドラヴィダ語族の言語の可能性が高いという研究結果があるのです。
 
 むしろ高い文明を築いていたドラヴィダ人たちを滅ぼし未開のインド亜大陸南部に追いやったのは、中央アジアからやってきた蛮族アーリア人だったのではないでしょうか。
 
 
 現在ドラヴィダ人は、南インドタミル・ナードゥ州ケーララ州アーンドラ・プラデーシュ州カルナータカ州を中心に居住し、マレーシア、マダガスカルなど海外にも広がっています。
 
 
 ドラヴィダ人の代表といえばタミル語を話すタミル人でしょう。そのほかマラヤナム語、テルグ語、カナラ語などがドラヴィダ系言語に分類されています。アーリア人が印欧語族のほりの深い白人系なら、ドラヴィダ人は古モンゴロイドです。
 
 
 ドラヴィダ系諸族のうち、歴史に最初に現れるのはアーンドラ族でした。彼らの築いた王朝は一般にアーンドラ朝と呼ばれますが、王家の名前を取ってサータヴァーハナ朝とも呼ばれます。
 
 
 アーンドラとは現在のテルグ族のことです。現在もインドの東海岸ゴターヴァリー、クリシュナー両河の河口に近い中間地帯に居住しています。
 
 
 ただアーンドラ朝の発祥の地がそこなのか、それとも別なところで発祥し最終的にこの地に落ち着いたかは謎です。
 
 
 アーンドラ朝最初の王はシムカだと伝えられますが、歴史を記すことに熱心でないインド人の事ですから何とも言えません。ではなぜアーンドラ朝の名が世界史上残ったかというとローマ帝国の記録に出ているからです。
 
 
 実はアーンドラ人は海洋民族でした。遠くローマやエジプト、東南アジアと広く貿易し南インドでローマ帝国時代の金貨が大量に発見されています。
 
 
 アーンドラ朝はいつ始まったかもはっきり分かりませんが(一説ではBC230年)、マウリア朝(BC317年~BC180年)の頃には存在していたとされます。そればかりか歩兵十万、騎兵二千、戦象千頭を集める事の出来る堂々たる大国でした。
 
 マウリア朝もこれを完全に征服する事は出来ず緩やかな従属関係しか結べませんでした。マウリア朝が衰えると独立を回復し一時はマウリア朝の首都パータリプトラを脅かすほどだったそうです。
 
 
 アーンドラ朝が最盛期を迎えるのは1世紀の終わりから2世紀にかけてのガウタミープトラ・シリー・シャータカルニ王の時代です。インド西北部に侵入してきたスキタイ系サカ族の勢力を北方に押し返し、グジャラート、マールワなど北部インドの一部も領有しました。だいたい120年頃だといわれます。
 
 
 しかしシャータカルニ王が死ぬと王朝は衰退期に入りました。西北インドへクシャーナ朝が侵入して来ると、クシャーナ朝に降伏しその尖兵となったサカ族のために北部インドの領土を奪われ、その戦争で疲弊し194年頃には分裂し崩壊の道を歩み始めます。
 
 
 滅亡の時期を220年頃という説がありますが、これはアーンドラ朝の正統が失われたという事でしょう。分裂したいくつかの小国はその後も残ったようです。そして完全に滅びたのは6世紀の末ヒンドゥー教を国教とするチャールクヤ朝が中部インドを統一した時です。
 
 
 北インドを統一したクシャーナ朝、グプタ朝がなかなか南部に勢力を広げられなかったのはアーンドラ朝に代表されるドラヴィダ人の勢力が強力だったからでしょう。海洋交易民族でもある彼らを完全に征服するには、騎兵が主力の遊牧民族や歩兵主体の農耕民族の国家では難しかったのだと思います。

バクトリアとインド・グリーク朝の王統

 前記事「概説インド史 古代編」の続きなんですが、バクトリア王国第4代国王デメトリオス1世(在位BC200年~BC180年)のインド侵入以来インド・グリーク朝とバクトリア本国の王統がどうなったかはっきりしないと書きました。
 
 その後調べてみるとどうもデメトリオス1世の弟アンティマコス1世(在位BC180年~BC171年)の時代に、彼がマウリア朝との戦争に没頭している隙にバクトリア本国の留守を守っていた将軍エウクラティデスが反乱をおこしBC171年に鎮圧に来たアンティマコス1世を逆に殺して自立したようです。
 
 以後バクトリアの正統な王統はインド・グリーク朝に受け継がれバクトリア本国はエウクラティデス1世(在位BC171年~BC145年)の簒奪王朝が支配しました。
 
 このような経緯からバクトリア王国とインド・グリーク朝は仲が悪くしばしば戦争します。ただ戦に関してはエウクラティデス1世のほうが強かったらしくインド・グリーク朝のデメトリオス2世(おそらく1世の子か孫。在位BC155年~BC150年)と戦って敗死させています。
 
 一時は再び両国は統一されたかに見えましたが、今度は王の共同統治者で息子でもあったヘリオクレスに暗殺され、強力な統治体制を築けぬまま終わりました。
 
 ヘリオクレスが王となって後を継ぎますが、父殺しの汚名で人心を失い紀元前140年~紀元前130年の間に北方からアシオイ、パシアノイ、トカロイ、サカラウロイの4種族の遊牧民の侵攻をうけ滅亡します。この4種族がスキタイ系のサカ族だったか月氏の一派だったかは分かりませんが、結局バクトリアの故地トハリスタンは中央アジアから移動してきた大月氏の領有となります。この中からクシャーナ朝が登場し再び西北インドまで広がる大帝国を築くことになりました。
 
 
 一方、インド・グリーク朝はメナンドロス1世(仏典で有名なミリンダ王、在位BC150年~BC125年)が即位し再び強勢になります。即位の時期からいってデメトリオス2世の血縁の可能性もありますが私の持っている資料では確認できませんでした。
 
メナンドロス1世は、パンシャーブ地方のシャーカラ(現シアールコット)を都に定めアフガニスタンから北インドにまたがる大きな領土を支配しました。一時はマガダ国(マウリア朝以来の北インドの中心国)の首都パータリプトラにまで攻め込む勢いだったそうです。
 
仏典では「ミリンダ王の問い」として登場し仏教を保護した王として有名です。それにしてもギリシャ人と仏教という関係は面白いですね。
 
 ところで別の資料ではデメトリオス2世の後を継いだのは息子のアポロドトス1世という説もあります。これには異説も多く逆にアポロドトスの方がデメトリオス2世の父であったという話もありはっきり分かりません。
 
 どちらにしろデメトリオス2世の後を継いだアポロドトス1世の統治期間は短くメナンドロス1世が間もなく継承した(合法、非合法は別として)という理解で良いかもしれません。
 
 
 メナンドロス1世はインド・グリーク朝の最盛期を築いた国王ですが、彼が死去すると王妃アガトクレイアが権力を握ったそうです。このあたり想像をたくましくしてしまいますね。
 
 彼女との間に息子がおらず後継王がいなかったか、それとも彼女との間の王子が幼少で彼女が摂政として政治を代行したかどちらかでしょう。
 
 
 このような不安定な体制では国を保つ事が出来ず、王権は徐々に衰退します。紀元前125年にはバクトリア本国がサカ族などの遊牧民によって滅ぼされギリシャ人の流民が多く流れ込んだため混乱に拍車をかけました。
 
 
 その後多くの小国に分裂し紀元前90年頃まではなんとか支配権を保ったものの最後はインド人の間に埋没していきます。クシャーナ朝第3代ヴィマ・カドフィセス(カニシュカ1世の父)が西北インドに侵攻した頃、つまりAD100年前後には西北インドはサカ族が支配権を握っていたそうですからそれまでに滅ぼされたのでしょう。
 ギリシャ人が古代に遠くインドまで進出し王国を築いた事はロマンがあります。現在インドにはギリシャ人の痕跡はほとんど残されていませんが、ガンダーラ美術に代表される仏教文化はギリシャ・ヘレニズム文化なしには成立しなかった事を考えると世界史上に残したギリシャ人の功績は大きかったと言えるでしょう。

概説インド史Ⅰ   古代編

 インド亜大陸、古代超大陸パンゲアから分離しその後パンゲアから分かれたもっとも大きな大陸であるユーラシアとぶつかり、そのぶつかった部分が隆起してできたのがヒマラヤ山脈だといわれます。
 
 インドの地勢はヒマラヤによってユーラシアと隔てられ西はカイバー峠、東はビルマのジャングルかインパール回廊からしか出入りできません。
 
 南には広大なデカン高原が広がり、ヒマラヤとデカンの間をガンジスという大河が西から東に流れベンガル湾に注ぎます。一方、西では古代文明を育んだインダス河がチベット高原に端を発し南流してアラビア海に注いでいました。
 
 古代から現在までインドはこの両大河の形作った沖積平野に人口が集中します。特にガンジス河沿岸は十六国と呼ばれる古代インドの群雄割拠の時代から文明が栄えていました。
 
 最初インド亜大陸はドラヴィダ人が広く分布していたと想像されます。インダス文明の担い手にも仮定されています。ところが豊かなインドを目指して西北からアーリア人が侵入してきました。だいたい紀元前1500年頃です。
 
 
 勇猛剽悍な遊牧民であったアーリア人は、平和な農耕民族ドラヴィダ人を駆逐し自ら支配階級であるバラモン(司祭階級)、クシャトリア(武士階級)となり、ドラヴィダ人たちをバイシャ(平民)、スードラ(奴隷)として差別しました。
 
 アーリア人支配を認めないドラヴィダ人たちはさらにインドの南に逃げ、独自の国家を建設します。
 
 
 主にインド史といえばガンジス沿岸平野を中心とする北インドの歴史がメインで、デカン以南の興亡はおざなりになりがちです。本稿でもアーンドラ朝などデカン以南の歴史には触れません。膨大な量となるからです。ただいつか別の記事で紹介しようと思います。
 
 
 インド人は歴史を詳しく記す習慣がありませんから仏典やジャイナ教の経典の記述から想像するしかないのですが、最初は都市国家から発展したと思われるアーリア人の建国した国々は釈尊の生きた時代である紀元前500年ごろは十六国という有力な国に収斂していました。
 
 
 なかでもガンジス下流域を占め豊富な鉱物資源で台頭したマガダ国、ガンジス中流域のもっとも人口密集地帯を占めたコーサラ国が二大強国として他を圧しました。古代インドはこの二大強国の対決を中心に進んでいきます。
 
 
 この群雄割拠時代を統一したのはマガダ国に登場した一人の英雄チャンドラグプタ(?~BC298年)でした。彼はそれまで北インドを支配していたナンダ朝マガダ国を滅ぼすと他の諸国を平定し瞬く間に北インドを征服しました。マウリヤ朝の始まりです。
 
 
 彼の統一事業は息子ビンドゥサーラ、孫のアショーカ王に受け継がれ英主といわれたアショーカの時代に上図のようにほとんどインド亜大陸全域を占めるインド史初の統一国家を出現させます。アショーカ王が最後に平定したのがカリンガ国でその戦いは凄惨を極め、衝撃を受けたアショーカ王は仏教に帰依し以後は戦争ではなく仏法によって国を治めたといわれています。
 
 
 アショーカはマウリヤ朝最盛期を築いた大王ですが、紀元前232年彼の死と共に王朝は急速に衰退します。王国は分裂し支配下にあった属国も次々と独立していきました。
 
 
 紀元前180年、マウリヤ朝の将軍であったプシャヤミトラ・シュンガが王国に反旗を翻しこれを滅ぼします。シュンガ朝の成立です。シュンガ朝は紀元前68年頃まで続いたそうです。ただシュンガ朝はマウリヤ朝の本拠マガダ国を中心にガンジス流域を平定しただけでその領域はマウリヤ時代より大きく後退しました。
 
 
 その頃、インド西北部にはアレクサンドロス大王死後に成立したギリシャ人王朝バクトリアの侵入が絶えませんでした。トハリスタン(大夏、ヒンズークシ山脈からアムダリア・シルダリア河間地方の間の地名)を本拠地とするバクトリアの4代国王デメトリオス1世(?~紀元前180年)はインドを征服すべく軍勢を率いカイバー峠を越えます。
 
 
 アレクサンドロス以来のマケドニアの流れをくむバクトリア軍は強力で 、またたくまにガンダーラ地方を平定西北インドに領土を拡大しました。マウリヤ朝は衰退期でシュンガ朝勃興期にあたったため侵略は容易であったのでしょう。
 
 デメトリオス自身は西北インドとトハリスタンを支配する強大な国家建設を目指しましたが、どうしてもカイバー峠で隔てられ統一支配が困難だったのでしょう。西北インドの地にはギリシャ人が支配するインド・グリーク朝が成立します。
 このインド・グリーク朝も歴史がはっきりせず次に名前の出てくるデメトリオス2世(在位BC155年~BC150年)が1世の直接の子孫かどうかは分かりません。1世は征服地を息子や将軍たちに分封したはずでその中の有力者が勝ち残り2世を名乗ったのでしょう。
 
 インド・グリーク朝はその後有名なメナンドロス1世(在位BC150年~BC125年)が登場しました。仏典ではミリンダ王の名で登場し仏教を保護します。メナンドロス1世の時代がインド・グリーク朝の最盛期でした。
 
 その後王朝はお決まりの後継者争いで衰退し小国に分裂したところを中央アジアから移動してきたサカ族に滅ぼされたといいます。紀元前1世紀前後の事です。
 
 バクトリアの故地には大月氏から出たクシャーナ朝が成立し、西北インドにも進出します。インド・グリーク朝によってインドへの道は開かれていましたから進出も容易であったと想像します。
 
 
 クシャーナ朝は紀元2世紀ころの第4代国王カニシュカ1世(カニシカ王)の時代に最盛期を迎えました。ただ最盛期にもベンガル湾沿岸までは勢力が及ばなかったのでインド土着の王朝は細々ながらも生き残っていたようです。
 
 
 その細々とした王国のひとつがマガダ国を支配したグプタの王国でした。AD320年その小国に一人の英雄が出現します。チャンドラグプタ1世(在位320年~335年)です。彼はビハール州北部のリッチャヴィ族の王女クマーラデーヴィーと結婚する事で同盟を結びガンジス中流域を平定、パータリプトラを首都と定めグプタ朝を創始します。
 
 第2代サムドラグプタ(在位335年~376年)は各地に遠征軍を派遣し第3代チャンドラグプタ2世(在位376年~415年)の時代には北インド全域を支配する大国となりました。
 このグプタ朝が古代インド最後の統一王朝です。4世紀に最盛期を迎え6世紀初頭中央アジアから侵入した異民族エフタルの攻撃はなんとか撃退したものの、この戦争で疲弊し各地の従属国が独立550年ごろ滅亡しました。
 
 
 以後北インドは分裂の時代に入りハルシャ・ヴァルダナ(戒日王、590年~647年)がヴァルダナ朝を興し一時盛り返したものの、その後西北からイスラム勢力が侵入しデリースルタン朝が成立します。モンゴル支配(ムガール朝)、イギリス支配と続きインド人が政権を取り戻したのは1947年のインド共和国成立以後でした。

カリンガ戦争とカリンガ人のその後

 ある方から過去記事の「超古代文明アスカ」にコメントをいただきました。そういえばアスカのあったオリッサ州って仏典で有名なカリンガ国のあった地方だったな?と思いだし、俄かにカリンガ国に対する興味が湧きだしました(苦笑)。
 
 
 一般の方は全く興味ない話だと思うのでスルーして下さいな。
 
 
 カリンガ国とは、古代インドでインド亜大陸東岸オリッサ州を中心とする地方に存在した王国です。仏典に記されている紀元前6世紀から紀元前5世紀(釈尊の生きた時代)にインドに存在した有力な十六国には数えられていませんから、もしかしたら(というよりかなりの確率で)アーリア人ではない異民族王朝だったと思います。
 
 普通に考えたらデカン高原以南に住むドラビィダ人王朝だと思いますが、それとも違う別系統の民族だったという線も捨てきれません。
 
 
 カリンガ国を有名にしたのは、インド最初の統一王朝であるマウリア朝の第三代国王、英主の誉れ高いアショーカ王に征服されたカリンガ戦争でしょう。
 
 
 カリンガ国は当時かなりの強国であったらしく、マウリア朝初代チャンドラグプタも一度征服しようとして失敗しています。アショーカ王も統一事業の最後まで残ったカリンガ国に紀元前265年戦争を仕掛けますがこの時も激戦でした。
 
 
 時のカリンガ国王はアナンタパドマナバ。マウリア軍はカリンガ国民15万を捕虜としそのうち10万を虐殺したとも言われる凄惨な戦だったそうです。カリンガ軍も必死に抵抗しマウリア軍も1万を超える戦死者を出します。おそらくカリンガ国民の死者はその数倍、古代の民族ジェノサイドでした。国土は荒廃しカリンガ人は四散します。
 
 仏典ではあまりの被害の大きさに衝撃を受けたアショーカ王が以後仏教に傾倒しその保護に努めたとされます。もちろん仏典ですから仏教帰依後のアショーカを際立たせるためそれ以前の歴史は誇張があったと見て間違いありません。ただ戦争自体は悲惨であったろうと想像します。
 
 
 私はこれでカリンガ国は完全に滅亡したと考えていたんですが、あらためて調べてみるとその後もマウリア朝の属国として残ったようですね。マウリア朝の支配が衰えると独立しチェーティ朝が成立します。
 
 カーラヴェーラ王(紀元前209年?~紀元前170年頃)の時に全盛期を迎え東南アジアなどとの交易で栄えた海洋貿易国家でした。マレーシアでは今でもインド人の事を「カリング」と呼ぶそうです。
 
 一時はマガダ国(マウリア朝の中心地)ラージャグリハ(王舎城、マガダ国の旧都)まで攻め込み、インド・グリーク朝(バクトリアのデメトリオス1世インド侵入によって成立したギリシャ人王朝)とも戦い、退却させたとも伝えられますからかなりの強国でした。
 
 その後衰退し、インド亜大陸でのカリンガ人王朝はなくなります。しかし海外交易を通じて東南アジア各地にカリンガ人居住区ができ時代が下るとそれらの民族に溶け込みました。
 
 面白いのはスリランカ北部で13世紀に成立したジャフナ王国でカリンガ人の子孫を称したそうです。実際に血縁関係があったのかどうかは分かりませんが、それだけ東南アジア各地でカリンガ人が有名だったという証拠でしょう。
 
 
 カリンガ文字はドラヴィダ語系統だそうですからやはり民族もドラヴィダ系の可能性が高いですね。

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