2023年1月
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31        
無料ブログはココログ

« 藤原摂関家の台頭Ⅰ  冬嗣の章 | トップページ | 藤原摂関家の台頭Ⅲ  時平の章 »

2013年3月 3日 (日)

藤原摂関家の台頭Ⅱ  良房の章

 嵯峨天皇の御代(809年~823年)は一般に政治が安定した時代だといわれます。たしかに日本三筆の一人に数えられる嵯峨天皇(他は空海、橘逸勢)は文化を愛好し漢詩、和歌など平安文化が花開きます。
 
 818年には弘仁格を発布して公式上は死刑を廃止しました。だからと言って平和な時代だったかというとそうでもなく、蝦夷征服は継続されましたし、天皇を初めとする貴族たちの贅沢によって国家財政は逼迫しました。室町時代の足利義政の例を考えるまでもなく文化が栄えるという事はそれだけ金がかかる事なのです。
 
 嵯峨天皇は14年の治世の後、政治に飽き皇位を弟大伴親王に譲ります。これが淳和(じゅんな)天皇です。嵯峨上皇は皇太子として自分の息子正良(まさら)親王を立てさせる事を忘れませんでした。
 
 これで面倒くさい政治の世界から離れた嵯峨上皇は好き勝手に文化の世界に遊ぶ事となります。一方、中央政治はどうだったでしょうか?
 
 太政官のトップは藤原北家の冬嗣が左大臣としてしっかりと握っていました。しかしその冬嗣も826年52歳で死去。後を継ぐべき長良(ながら)、良房の兄弟は未だ従五位上侍従、蔵人という低い身分に過ぎませんでした。
 
 しかし良房は、嵯峨天皇の皇女源潔姫(みなもとのきよひめ)を娶っていた事から上皇の引き立てを受け急激な出世を果たします。妹順子が春宮正良親王の妃であったことも大きかったと思います。
 
 834年蔵人頭・参議、840年中納言、848年には右大臣と兄長良を超える昇進でした。
 
 
 もちろん良房自身の資質もあったでしょう。しかし皇女を正室に迎えるという稀代の幸運児であった事が出世に結びついたのは間違いありません。嵯峨天皇自らが良房の将来性を高く買っていて娘を降嫁させたともいわれます。
 
 
 ところが良房がすんなり権力を握ったかというとそうでもなく、皮肉なことに彼の最大のライバルは嵯峨上皇の皇子で臣籍降下した嵯峨源氏たちだったのです。嵯峨上皇は子だくさんで50人もの子供がいたと伝えられます。とうぜんすべてを親王として養うのは国家財政上も無理なので源の姓を与え別家を立てさせました。
 
 しかし毛並みが良いことから若いころから官界で累進し中には二十代で大納言や中納言の極官に達する者もでていたのです。
 
 ここに834年(仁明天皇時代)の台閣の顔ぶれの資料があります。良房は31歳でまだ参議にすぎません。ところが嵯峨源氏は源常が23歳で中納言、源信が25歳、源定が21歳でそれぞれ参議と藤原氏以外では最大の勢力となっていました。
 
 
 淳和天皇の御代は何事もなく834年終わります。これも遊びたいがための退位でした。群臣は同時代に二人の上皇が出現するのはどうか?と難色を示しますが淳和天皇は退位を強行しました。これがますます国家財政を圧迫する事となります。
 
 
 古代律令制は完全に崩壊していました。貴族たちは競って荘園を領有し、重税で租庸調を払えなくなった農民たちを積極的に受け入れます。地方の豪族も真面目に税を払うのが馬鹿らしくなり自分たちの開発した広大な農地を都の有力貴族たちに寄進し荘園とする事で税を免れました。
 
 これで朝廷はますます貧しくなり、逆に貴族たちは富み栄えます。まさに本末転倒の状況でした。後に大規模な反乱を起こした藤原純友はこれを「国家に巣食う白蟻ども」と評しましたが言い得て妙でした。
 
 
 こういう地方の疲弊をまったく無視するかのように中央では相変わらず権力闘争が続いていました。
 
 仁明天皇の皇太子には淳和上皇の御子恒貞親王が立てられていました。ところが淳和上皇は息子の即位を見届けることなく840年死去します。
 
 
 その二年後、淳和の兄嵯峨上皇も重い病になっていました。春宮恒貞の側近伴健岑(とものこわみね。大伴氏は淳和天皇の諱(いみな)が大伴であったことから遠慮して伴氏と改名していた)、その盟友橘逸勢(たちばなのはやなり、日本三筆の一人)らは嵯峨上皇にもしものことがあれば恒貞親王の皇位継承はおろか命さえも危ないと恐れます。それは奈良から平安朝を彩った権力闘争の歴史からも容易に想像できる危惧でした。
 
 
 そしてそれを仕掛けるとすれば故冬嗣の娘順子(じゅんし)と仁明天皇との間に生まれた第一皇子道康親王を擁する藤原良房であることもはっきり分かっていたのです。
 
 
 ただ藤原氏に対して恒貞側近の貴族たちはあまりにも非力でした。実力に訴えることなどとてもできずひたすら善後策を講じるのみでした。
 
 
 842年7月、嵯峨上皇が病の末亡くなります。享年57歳。その二日後には六衛府の兵たちが皇居と京の都の要所を固めるとともに伴健岑、橘逸勢とその与党達を電撃的に急襲逮捕します。容疑は仁明天皇に対する謀反の罪でした。
 
 常識的に考えてこれはあり得ないことがわかります。というのも恒貞親王は皇太子なので何もしなくても次の皇位は約束されていたからです。むしろ困るのは道康親王を擁する良房の側でした。
 
 
 ということは陰でこれを操っていたのが中納言良房であるという事は容易に想像できます。政府は逸勢らの罪状を厳しく詮議しますが、もとより何もないのですから自白するはずありません。そればかりか連座をおそれて橘氏や伴氏の関係者が進んで出頭し身の潔白を示すほどでした。
 
 しかしこれこそ良房の思う壺でした。初めから無実の罪に陥れるつもりでしたから。逮捕から八日後、司直の追及は本命の恒貞親王にも及びます。
 
 仁明天皇は詔を発して橘逸勢、伴健岑を謀反人と断じその責任を恒貞親王に負わせました。親王は皇太子を廃されます。また親王の春宮に出仕していた藤原愛発(ちかなり、良房の叔父)らも官位を剥奪されました。
 
 謀反の首謀者とされた橘逸勢は、姓を非人と改められ伊豆に配流されます。逸勢は無念の思いを残し配流の途上憤死します。伴健岑は隠岐に流罪となりました。連座して流刑の憂き目にあった者六十余人。古代豪族大伴氏、橘氏の勢力はほとんど滅亡しました。
 
 それから数日後、良房は大納言に昇進します。仁明天皇は長子道康親王を皇太子に据えました。
 
 
 これが世に言う承和の変です。
 
 
 仁明天皇は自分の息子を皇太子にする事が出来、良房は外戚として権勢を振るえる掌中の珠を次の天皇にすることができたのです。承和の変は仁明と良房が組んだ一大政治疑獄事件といえるかもしれません。
 
 
 良房は自分の一人娘明子(あきらけいこ、母は源潔子)を道康親王に嫁がせます。さらに万全を期した布石でした。
 
 848年良房は右大臣を拝命します。藤原一族はもとより嵯峨源氏を初めとする他のライバルをも圧する権勢を手に入れていました。850年仁明天皇は病を得て急死してしまいます。後を継いだのは24歳の道康親王。すなわち文徳天皇です。
 
 
 良房の娘明子は、惟仁親王を産みました。後の清和天皇です。
 
 
 文徳天皇は、その生涯を良房の圧迫に左右されました。他に皇子がいるにもかかわらず良房の娘明子が生んだ第四皇子惟仁親王を皇太子にせざるを得ませんでした。このような状況下858年わずか八年の治世で病を得て崩御します。一説では良房による暗殺説もありますがはっきりとは分かりません。
 
 その後は良房の外孫惟仁親王が即位します。すなわち清和天皇です。この時わずか9歳。良房はこれを補佐するため人臣では初めて摂政の地位に就きます。藤原摂関政治の始まりでした。
 
 866年には応天門の変で古代豪族大伴氏最後の生き残り大納言伴善男を陥れ藤原摂関体制は盤石となります。
 
 
 位人臣を極めた良房は872年死去します。享年69歳。男子の無い良房は兄長良の三男基経を養子に迎えていました。
 
 以後基経の子孫が藤原北家摂関家の嫡流として代々摂政関白を受け継ぎます。「この世をば~」という和歌を残し摂関政治絶頂期を築いた道長は、彼の五世の孫でした。

« 藤原摂関家の台頭Ⅰ  冬嗣の章 | トップページ | 藤原摂関家の台頭Ⅲ  時平の章 »

 日本史」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 藤原摂関家の台頭Ⅱ  良房の章:

« 藤原摂関家の台頭Ⅰ  冬嗣の章 | トップページ | 藤原摂関家の台頭Ⅲ  時平の章 »