2023年1月
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31        
無料ブログはココログ

« カリンガ戦争とカリンガ人のその後 | トップページ | バクトリアとインド・グリーク朝の王統 »

2013年3月 3日 (日)

概説インド史Ⅰ   古代編

 インド亜大陸、古代超大陸パンゲアから分離しその後パンゲアから分かれたもっとも大きな大陸であるユーラシアとぶつかり、そのぶつかった部分が隆起してできたのがヒマラヤ山脈だといわれます。
 
 インドの地勢はヒマラヤによってユーラシアと隔てられ西はカイバー峠、東はビルマのジャングルかインパール回廊からしか出入りできません。
 
 南には広大なデカン高原が広がり、ヒマラヤとデカンの間をガンジスという大河が西から東に流れベンガル湾に注ぎます。一方、西では古代文明を育んだインダス河がチベット高原に端を発し南流してアラビア海に注いでいました。
 
 古代から現在までインドはこの両大河の形作った沖積平野に人口が集中します。特にガンジス河沿岸は十六国と呼ばれる古代インドの群雄割拠の時代から文明が栄えていました。
 
 最初インド亜大陸はドラヴィダ人が広く分布していたと想像されます。インダス文明の担い手にも仮定されています。ところが豊かなインドを目指して西北からアーリア人が侵入してきました。だいたい紀元前1500年頃です。
 
 
 勇猛剽悍な遊牧民であったアーリア人は、平和な農耕民族ドラヴィダ人を駆逐し自ら支配階級であるバラモン(司祭階級)、クシャトリア(武士階級)となり、ドラヴィダ人たちをバイシャ(平民)、スードラ(奴隷)として差別しました。
 
 アーリア人支配を認めないドラヴィダ人たちはさらにインドの南に逃げ、独自の国家を建設します。
 
 
 主にインド史といえばガンジス沿岸平野を中心とする北インドの歴史がメインで、デカン以南の興亡はおざなりになりがちです。本稿でもアーンドラ朝などデカン以南の歴史には触れません。膨大な量となるからです。ただいつか別の記事で紹介しようと思います。
 
 
 インド人は歴史を詳しく記す習慣がありませんから仏典やジャイナ教の経典の記述から想像するしかないのですが、最初は都市国家から発展したと思われるアーリア人の建国した国々は釈尊の生きた時代である紀元前500年ごろは十六国という有力な国に収斂していました。
 
 
 なかでもガンジス下流域を占め豊富な鉱物資源で台頭したマガダ国、ガンジス中流域のもっとも人口密集地帯を占めたコーサラ国が二大強国として他を圧しました。古代インドはこの二大強国の対決を中心に進んでいきます。
 
 
 この群雄割拠時代を統一したのはマガダ国に登場した一人の英雄チャンドラグプタ(?~BC298年)でした。彼はそれまで北インドを支配していたナンダ朝マガダ国を滅ぼすと他の諸国を平定し瞬く間に北インドを征服しました。マウリヤ朝の始まりです。
 
 
 彼の統一事業は息子ビンドゥサーラ、孫のアショーカ王に受け継がれ英主といわれたアショーカの時代に上図のようにほとんどインド亜大陸全域を占めるインド史初の統一国家を出現させます。アショーカ王が最後に平定したのがカリンガ国でその戦いは凄惨を極め、衝撃を受けたアショーカ王は仏教に帰依し以後は戦争ではなく仏法によって国を治めたといわれています。
 
 
 アショーカはマウリヤ朝最盛期を築いた大王ですが、紀元前232年彼の死と共に王朝は急速に衰退します。王国は分裂し支配下にあった属国も次々と独立していきました。
 
 
 紀元前180年、マウリヤ朝の将軍であったプシャヤミトラ・シュンガが王国に反旗を翻しこれを滅ぼします。シュンガ朝の成立です。シュンガ朝は紀元前68年頃まで続いたそうです。ただシュンガ朝はマウリヤ朝の本拠マガダ国を中心にガンジス流域を平定しただけでその領域はマウリヤ時代より大きく後退しました。
 
 
 その頃、インド西北部にはアレクサンドロス大王死後に成立したギリシャ人王朝バクトリアの侵入が絶えませんでした。トハリスタン(大夏、ヒンズークシ山脈からアムダリア・シルダリア河間地方の間の地名)を本拠地とするバクトリアの4代国王デメトリオス1世(?~紀元前180年)はインドを征服すべく軍勢を率いカイバー峠を越えます。
 
 
 アレクサンドロス以来のマケドニアの流れをくむバクトリア軍は強力で 、またたくまにガンダーラ地方を平定西北インドに領土を拡大しました。マウリヤ朝は衰退期でシュンガ朝勃興期にあたったため侵略は容易であったのでしょう。
 
 デメトリオス自身は西北インドとトハリスタンを支配する強大な国家建設を目指しましたが、どうしてもカイバー峠で隔てられ統一支配が困難だったのでしょう。西北インドの地にはギリシャ人が支配するインド・グリーク朝が成立します。
 このインド・グリーク朝も歴史がはっきりせず次に名前の出てくるデメトリオス2世(在位BC155年~BC150年)が1世の直接の子孫かどうかは分かりません。1世は征服地を息子や将軍たちに分封したはずでその中の有力者が勝ち残り2世を名乗ったのでしょう。
 
 インド・グリーク朝はその後有名なメナンドロス1世(在位BC150年~BC125年)が登場しました。仏典ではミリンダ王の名で登場し仏教を保護します。メナンドロス1世の時代がインド・グリーク朝の最盛期でした。
 
 その後王朝はお決まりの後継者争いで衰退し小国に分裂したところを中央アジアから移動してきたサカ族に滅ぼされたといいます。紀元前1世紀前後の事です。
 
 バクトリアの故地には大月氏から出たクシャーナ朝が成立し、西北インドにも進出します。インド・グリーク朝によってインドへの道は開かれていましたから進出も容易であったと想像します。
 
 
 クシャーナ朝は紀元2世紀ころの第4代国王カニシュカ1世(カニシカ王)の時代に最盛期を迎えました。ただ最盛期にもベンガル湾沿岸までは勢力が及ばなかったのでインド土着の王朝は細々ながらも生き残っていたようです。
 
 
 その細々とした王国のひとつがマガダ国を支配したグプタの王国でした。AD320年その小国に一人の英雄が出現します。チャンドラグプタ1世(在位320年~335年)です。彼はビハール州北部のリッチャヴィ族の王女クマーラデーヴィーと結婚する事で同盟を結びガンジス中流域を平定、パータリプトラを首都と定めグプタ朝を創始します。
 
 第2代サムドラグプタ(在位335年~376年)は各地に遠征軍を派遣し第3代チャンドラグプタ2世(在位376年~415年)の時代には北インド全域を支配する大国となりました。
 このグプタ朝が古代インド最後の統一王朝です。4世紀に最盛期を迎え6世紀初頭中央アジアから侵入した異民族エフタルの攻撃はなんとか撃退したものの、この戦争で疲弊し各地の従属国が独立550年ごろ滅亡しました。
 
 
 以後北インドは分裂の時代に入りハルシャ・ヴァルダナ(戒日王、590年~647年)がヴァルダナ朝を興し一時盛り返したものの、その後西北からイスラム勢力が侵入しデリースルタン朝が成立します。モンゴル支配(ムガール朝)、イギリス支配と続きインド人が政権を取り戻したのは1947年のインド共和国成立以後でした。

« カリンガ戦争とカリンガ人のその後 | トップページ | バクトリアとインド・グリーク朝の王統 »

 世界史」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 概説インド史Ⅰ   古代編:

« カリンガ戦争とカリンガ人のその後 | トップページ | バクトリアとインド・グリーク朝の王統 »