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2013年3月 3日 (日)

承平天慶の乱   後編

 伊予守紀淑人の海賊対策は懐柔策でした。武力を用いても敵わないばかりか純友の勢力は瀬戸内海沿岸諸国に広がっていたので軍事的制圧は一国の兵力くらいではとても不可能でした。
 
 もちろん、朝廷と徹底的に対決する覚悟の純友が屈服するとは紀淑人も思っていませんでした。ただ配下の海賊たちに動揺が走り切り崩すことを狙ったのです。
 
 淑人は、降伏した者には海賊の罪を問わず衣食・土地を与えて農民としての自立を促します。こうして純友配下の海賊のうち二千五百人あまりが帰服したそうです。純友は勢力の立て直しのために逼塞しなければならなくなりました。瀬戸内海に出没する海賊船もめっきり減ります。
 
 
 同じころ関東では将門が従兄弟の貞盛や叔父良兼、良正と血で血を洗う抗争の真っ最中でした。将門の武勇は敵常陸平氏上総平氏連合軍を圧し有利に戦いを進めていました。
 
 そんな中938年、武蔵国では新たに赴任してきた国司武蔵権守興世王・武蔵介源経基(頼朝・義経の先祖)と地元の豪族武蔵武芝との間に争いが起こっていました。
 
 興世王らは正式な国守が赴任してきていないにもかかわらず勝手に国内を巡視し、武芝が饗応しなかった事を怒り武芝の倉庫を略奪するなど暴虐の限りを尽くしました。もともと武芝は国守を饗応する慣習自体に反対でましてや正式な巡視でないのだから理は武芝側にありました。
 
 このままでは合戦になってしまいます。将門は関東の調停者として武蔵国に乗り込みまず武芝を訪問します。武芝から「貴方にすべてお任せする」と依頼を受け興世王に面会すると、軽い気持ちが大事件になった事を後悔していた興世王も二つ返事でこれに応じ将門の仲介で興世王、武芝は和解の酒宴を張りました。
 
 
 ところがその場にちょうどいなかった武蔵介源経基は、興世王と武芝が自分のいないところで組み自分を攻め滅ぼそうとしていると誤解し、慌てふためいて京都に逃げ帰りました。そして将門や興世王についてあることない事讒言します。
 
 間の悪い事に、常陸国府の倉を襲い追撫を受けていた藤原玄明(はるあき)も将門のところに逃亡していました。常陸国府側は将門に対し玄明引き渡しを要求しますが、将門はあくまでしらをきり通します。
 
 経基の報告だけでは半信半疑だった朝廷も常陸国府からの訴えを受けてどうやら将門が反逆を企てているらしいと確信しました。さらに将門に追われた貞盛が京都に逃げてきたものですから決定的になります。
 
 貞盛は、朝廷に訴え念願の将門追撫の官符を手に入れました。これで貞盛側が官軍、将門は賊軍となりました。
 
 一方、将門は玄明から常陸国府の暴虐を聞き、自ら出陣して常陸国府を陥れます。将門自身にどこまで朝廷と対決する気があったかは分かりません。ただ持ち前の義侠心から逃げてきたものたちの面倒を見ているうちに話が大事になっていったというのが真相に近いでしょう。
 
 
 常陸国府に続き、将門軍は下総、下野、上野の国府を攻め国司達を追放します。その頃すっかり側近に収まっていた興世王は将門を唆して朝廷から独立した別の王国を築こうとささやきます。
 
 これは朝廷支配で苦しめられていた関東の住民にも熱狂的な支持で迎えられました。将門は新皇と称し、勝手に部下たちを関東諸国の国司に任命します。さらに本拠地下総国猿島郡石井に新皇の宮殿を建設しました。
 
 官符を手に入れた貞盛は秘かに本拠常陸に戻り、反将門陣営を糾合しようとしますが上手くいきませんでした。そのうえ将門側に貞盛の所在地を察知され逃げまどう始末でした。
 
 
 それでも不屈の貞盛は諦めません。下野の有力豪族藤原秀郷のもとに赴いた貞盛は、官符を見せながら秀郷を説きました。
 
 秀郷はさすがに冷静で、新皇の熱狂騒ぎを冷ややかな目で見ていました。そこへ官符を見せられ将門の将来性を見限ります。
 
 秀郷は貞盛の求めに応じ数千騎という大軍を動員し南下しました。貞盛も本拠常陸に戻り旧臣たちを糾合、さらに常陸国守の息子藤原為憲(工藤氏、伊東氏の祖)を加え連合軍は四千騎を数えたと言われています。
 
 もとより誇張はあるでしょうが将門を圧する大軍であった事は間違いありません。940年2月、将門は機先を制し自ら数百騎を率いて迎撃しました。
 
 両軍は川口の村で激突します。さすがに将門の軍は強く連合軍は大軍であるにもかかわらず勝ちきることはできませんでした。そこで一度引き体制を立て直した連合軍は、別路を通って将門の本拠地石井を急襲します。
 
 石井の宮殿は連合軍の放火で炎上したと伝えられます。その時別の場所にいた将門は、わずか400ほどの手兵しか手元にありませんでした。
 
 猿島郡北方の山で将門は最後の決戦を挑みます。その日は烈風が激しく吹きすさむ荒天でした。当初将門軍は追い風を背に受け有利に戦を進めます。追い風に乗った方が矢の威力が増すのです。
 
 ところが一陣の風が戦陣を吹き抜けます。それを合図にしたように風向きが逆転、将門軍は向かい風の不利を受けなければなりませんでした。そんな中連合軍の放った一本の矢が将門のこめかみを貫通、関東一円に勇名を轟かせた将門は絶命します。総大将を討たれ将門軍は崩れ立ちました。連合軍はこれを追い一気に勝負を決します。
 
 
 こうして将門の乱は終息しました。朝廷の派遣した征東将軍藤原忠文が関東に到着したのはその後でした。秀郷、貞盛の発言力は大いに上がります。
 
 
 
 藤原純友はそのころようやく紀淑人に仕掛けられた傷が癒え再び勢力を盛り返しつつありました。瀬戸内海沿岸諸国を荒らしまわり摂津という京都の玄関口まで迫ります。
 
 
 朝廷は、純友の反乱の方をより深刻にとらえ小野好古を追捕山陽南海両道凶賊使長官に任命します。副将として大蔵春実(はるざね)、源経基らを引き連れ西国各地で動員した兵を与えました。
 
 兵力は不明ですが、かなりの数であった事は間違いありません。好古は山陽道、四国と転戦し純友軍を追い詰めます。
 
 941年4月、純友軍は起死回生の策として総兵力を集め大宰府を攻めました。ほとんど守備兵力が無かった大宰府は純友軍に蹂躙され占領されます。
 
 伊予にあってこの報告を受けた好古は、同5月九州に上陸し陸路から大宰府を目指しました。同時に水軍は博多湾に向かいます。水軍を指揮したのは大蔵春実、藤原慶幸(よしゆき)らでした。
 
 博多湾には純友の海賊軍がひしめいていました。官軍は敵前上陸の作戦を取り海賊軍を激しく攻め立てます。官軍側も多くの損害を出しましたが、純友軍の軍船八百余艘を捕獲し海賊勢数百人を射殺したといわれます。
 
 
 博多湾の決戦で純友軍主力はほとんど壊滅しました。しかし純友はかろうじて死地を脱し伊予に逃亡します。
 
 
 6月中旬、伊予警固使橘遠保は潜伏していた藤原純友父子を逮捕。京に護送するつもりで獄に下しました。6月29日純友はその獄中で死亡します。死因ははっきりしませんが罪人として都に送られる辱めに耐えられず自害したのかもしれません。
 
 
 
 こうして世間を揺るがせた承平・天慶の乱は終わります。この大乱によって平安の朝廷が統治能力を失っていることが明らかになりました。地方では武士たちがますます力をつけ始め、これで完全に律令体制はとどめを刺されます。
 
 
 にもかかわらず朝廷では相変わらず藤原摂関家を中心とする権力闘争ばかりが繰り返されました。摂関政治は忠平の曾孫にあたる道長の時代絶頂期を迎えますが、それは時代に咲いた仇花にすぎませんでした。
 
 以後藤原摂関家の力は急速に衰え、院政そして武士の時代を迎えるのです。

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