藤原摂関家の台頭Ⅰ 冬嗣の章
806年、強烈な個性を放った桓武天皇の崩御を受けて皇太子安殿(あで)親王が即位します。平城(へいぜい)天皇です。
桓武の後を受けた三人の兄弟、平城、嵯峨、淳和(じゅんな)天皇は父桓武と比べると個性に乏しい人たちでした。もちろん芸術の分野では見るべきところもありますが崩れゆく律令体制にどう取り組んだか?がほとんど見えてこないのです。もしかしたら父ほど危機意識を持っていなかったのかもしれません。
太政官の顔ぶれも、右大臣に藤原北家の内麻呂、大納言に南家の雄友をはじめ早くも藤原氏独占が始まっていました。なかでも式家百川の子緒嗣(おつぐ)は新進気鋭の参議、後の政治を主導するホープとして期待されていました。
平城天皇の治世としてはまずまずのスタートで、最初は天皇も意欲的に政治に取り組んでいました。観察使の設置、官庁の統廃合、無駄な年中行事の廃止など父桓武によって荒廃した民力の回復にもっぱら努めます。
しかし早くも暗雲が訪れました。平城天皇は皇太弟として同母弟賀美能(かみの)親王を立てます。賀美能即位の後、自分の息子高丘親王を皇太子にしてもらう約束でした。
このような約束は、状況が変わると簡単に覆されるのは早良親王、他戸親王の例を見ても明らかです。
平城は異母弟で潜在的に皇位を窺う可能性を持つ伊予親王を除く考えを持っていました。ある時藤原北家の宗成が伊予親王を唆して謀反を企んでいるという讒言が同じ北家の右大臣内麻呂に届けられます。ところが内麻呂は真相を調べもせずこれを庇うどころか直ちに平城天皇に報告しました。
激怒した天皇は宗成と伊予親王を大和国川原寺に幽閉、二人は無実を訴えますが聞き入れられず絶望して毒を仰ぎ自害しました。
それにしても同じ北家の中でも系統が違うと平気で陥れる藤原一族の権力争いには驚かされます。
藤原一族は、平城天皇に自分の娘を入れ子を成させ外戚となる事で権力を握る事を夢見ていました。藤原式家の縄主は自分の娘を天皇の後宮に入れました。ところが天皇はその娘を寵愛せずあろうことか娘を世話するために後宮に入った母薬子(くすこ)に溺れてしまいます。
薬子は式家の出身で、その関係で兄の仲成が宮中で権力を握りました。
平城天皇は薬子との愛に溺れ次第に政治を顧みなくなります。そして大病したことから809年さっさと皇位を弟賀美能に譲り奈良の平城京に引っ込みました。賀美能は即位して嵯峨天皇となります。
しかし平城は上皇として嵯峨の政治に口を出し、二所朝廷といわれるほど政治は混乱しました。平城上皇は仲成、薬子兄妹に唆され弟嵯峨天皇を廃して再び皇位に返り咲く陰謀をめぐらせます。これが薬子の変という大乱に発展するのです。
薬子の変については以前記事にしたのでここでは詳しく書きませんが、810年結局陰謀は失敗し仲成は捕えられて処刑、薬子は自害します。平城上皇も出家し平安初期の朝廷を揺るがせた大事件は収まりました。
実は嵯峨天皇側でこれを収拾したのが本編の主人公冬嗣(ふゆつぐ)です。薬子の変のあおりを受け皇太子高丘親王は廃されます。変わって嵯峨天皇の弟大伴親王が皇太弟に立てられました。
冬嗣は藤原北家右大臣内麻呂の次男として生まれました。幼少期から英邁の誉れ高く嵯峨天皇は皇太弟時代からこれを重用します。810年嵯峨天皇が秘書機関として蔵人所を設置するとその初代蔵人頭(くろうどのとう)に就任するほどでした。
819年には当時飛ぶ鳥を落とす勢いだった藤原北家百川の息子、参議緒継を追い越し大納言に就任します。当時は太政大臣、左右大臣は名誉職に近い役職でしたから事実上朝廷を動かす地位に就いたのです。
冬嗣は、閨閥の形成にも心を配ります。自分の長女順子(じゅんし)を嵯峨天皇の皇子正良(まさら)親王に嫁がせるなど着々と手を打って行きました。のちに正良は淳和天皇の後を受け仁明天皇として即位しますから恐るべき慧眼です。
というより、陰謀をめぐらせて正良親王を皇位に就けたともいえます。
最終的に父を超える左大臣に昇りつめ、死後は正一位太政大臣を追贈されるほど位人臣を極めました。
冬嗣は、摂政関白にこそなりませんでしたが事実上藤原北家の嫡流、摂関家を創始した人物といっても良いでしょう。そして人臣初の摂政として摂関政治を開始するのは彼の次男、良房(よしふさ)でした。
« トルコ系民族考 | トップページ | 藤原摂関家の台頭Ⅱ 良房の章 »
「 日本史」カテゴリの記事
- 畠山重忠と惣検校職(そうけんぎょうしき)(2022.09.16)
- 佐々木氏の本貫の地佐々木庄はどこにあったか?(2022.02.20)
- 豊臣三中老のその後(2022.01.27)
- 鎌倉殿の13人の有名子孫たち(2022.01.20)
- 土肥遠平と小早川氏(2022.01.15)
コメント