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2013年3月 3日 (日)

藤原摂関家の台頭Ⅲ  時平の章

 摂政藤原良房の後は養子(兄長良の三男)基経が継ぎました。良房が没した時にはすでに右大臣の顕官で権力移譲もスムーズだったため取り立てて彼の治世に見るべき業績はありません。清和・陽成・光孝・宇多四代に渡って摂政・関白を勤めます。
 
 ただ光孝天皇の時代に一つの事件が起こります。先代の陽成天皇は基経とそりが合わず17歳で強制的に退位させられました。次の天皇は陽成の同母弟で11歳の貞保親王が有力視されました。
 
 ところがこのあからさまな外戚人事はさすがに世の指弾を浴び、三代前の仁明天皇の皇子時康親王に皇位が回ってきました。55歳、政治に何の野心もない老皇族を天皇にして一時的に世間の批判をかわそうという考えでした。
 
 そういった経緯から光孝天皇と関白基経の間には隙間風が吹いていました。基経の嫡男時平が16歳の元服を迎えた時、元服式を宮中で行い天皇自らが加冠の役を務めた事も屈辱として残りました。
 
 老人であった光孝天皇は、関白基経の圧迫もあってストレスを感じ三年後の887年、58歳で病を得て死去します。それも基経に遠慮して子供たちはすべて臣籍降下させ皇太子を決められないままという哀れさでした。
 
 基経らは、新たな天皇を決めるため会議を開きます。そしてどうやら光孝天皇が第七皇子の源定省(さだみ)を秘かに皇嗣にしたかったらしいという意をくんで次の天皇に推戴することとなりました。臣籍降下していたことは問題にしようと思えばできました。実際光孝天皇即位の際にも嵯峨源氏の源融(とおる・嵯峨天皇の12男)が冗談交じりに「私にも皇位継承の資格がある」といって基経に睨まれた過去がありました。
 
 さすがに今回は、左大臣源融も沈黙していました。こうして源定省は皇籍に復し定省親王となります。そして887年第五十九代天皇として即位しました。すなわち宇多天皇です。
 
 光孝、宇多の二代は久々に藤原摂関家の息のかかっていない天皇でした。そんな中891年関白基経は死去します。56歳でした。
 
 藤原摂関家には不幸なことに、そして皇室にとっては幸いなことに基経の嫡男時平はこの時21歳。従三位ではあってもまだ参議にもなっていませんでした。藤原摂関家のホープとして果断な性格、英才の誉れ高く期待されていてもこれでは朝廷内で権力がふるえません。摂関政治にとっては最大の危機、皇室にとっては千載一遇のチャンスが巡ってきたのです。
 
 宇多天皇は、親政をはじめました。まず時平を参議に据えるのは仕方ないにしても同時に源興基ら源氏を多く登用し互いにけん制させる事で皇権強化を図ります。
 
 さらに代々学者の家柄であった菅原道真を起用したのも彼でした。
 
 
 以後道真は天皇の引き立てもあり時平と昇進を競います。宇多天皇が自分を快く思っていないという事は若い時平にも分かりました。しかし彼は隠忍自重する事を知っています。
 
 道真の異数の出世を横目に着々と実力を蓄え機会を待つのが時平の戦略でした。
 
 
 その機会は意外と早くやってきます。897年宇多天皇は突然皇太子敦仁親王を元服させ譲位しました。こうして立ったのが醍醐天皇です。
 
 宇多天皇の譲位は、藤原摂関家の圧迫を逃れ上皇として自由に政治を行う目的で成されたともいわれています。時平はこの時大納言、道真は権大納言を拝命していました。
 
 宇多上皇は譲位に際して道真に後事を託します。899年時平が左大臣になると道真も右大臣となってこれに対抗しました。
 
 
 ところが901年時平は大納言源光を味方に引き入れ道真追放のクーデターを企てます。学者の家系である道真の出世はいくら有能であっても摂関家はもとより他の門閥貴族にとっても許しがたい暴挙でした。貴族たちに憎まれていた道真にとって唯一の拠り所は宇多法皇(899年出家)の庇護だけでした。
 
 若い醍醐天皇に、道真が皇弟で自分の娘婿斎世親王を皇位に就ける陰謀があると讒言したのです。しかも時平は、この事は宇多法皇も同意していると吹き込みました。
 
 怒った醍醐天皇は、父宇多法皇に確かめる時間もなく、おそらくその余裕を時平が与えなかったのでしょうが道真から右大臣の職を解き大宰府に配流する事を決定しました。
 
 
 5日後、この事を知った宇多法皇は醍醐天皇と会うため皇居に赴きます。しかし時平は軍兵を配して法皇を中に入れませんでした。宇多は一晩中粘りましたがついに諦め寂しく去りました。
 
 道真は同じ日、護衛をつけられ京の都を追放されます。彼の息子たちも官職を解かれそれぞれ別のところに配流されました。
 
 二年後の903年、道真は遠く大宰府の地で波乱の生涯を閉じます。享年59歳。
 
 
 時平は、こうして朝廷内の権力を一手に握る存在となりました。自分の妹穏子(おんし)を醍醐天皇の妃とし次代への布石としました。
 
 
 時平は摂政関白にこそ就任していないもののそれと同等以上の権力を握って政治に当たりました。時平は別に悪辣なだけの人間ではありません。藤原摂関家では珍しく統治にも意欲を示し彼の治世は後に延喜の治と呼ばれるほど安定しました。
 
 
 しかし、909年時平はわずか39歳で死去します。これを無実の罪で陥れられた菅原道真の祟りだと世間は噂しました。
 
 
 時平死後、権力は弟の忠平に継承されます。時平の時代は摂関家の危機でした。彼は手放しかけた権力を再び摂関家に取り戻した中興の祖ともいえます。
 
 
 以後の権力闘争は藤原摂関家内部の戦いとなります。他氏が介入できる余地はすでに無くなっていました。そういう強固な体制を築いた人物こそ藤原時平でした。

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