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2013年4月

2013年4月 2日 (火)

肥後高岡城の謎

 先日、行きつけのセブンイレブン(といっても自宅から5キロは離れている)に行った時の事。
 
 途中の坂を登る時墓地の横に何やら看板があるとは思っていたんですが、あまりに暇だったので車を止めて読んでみたんです。
 
 すると高岡城跡とあるではありませんか!読んでみると古代山城跡の記述が。
 
 
 朝鮮式山城というか当時朝鮮という国はありませんから半島式山城というべきですが、その城がこの地にあったんですね。
 
 
 おそらく古墳時代あたりに築城されたのでしょう。最初の地図で言うと築山郵便局からセブンイレブンにかけてが城域だったんでしょうね。
 
 ただ山城といっても比高10mもありませんからほとんど平城、贔屓目にみて平山城というところでしょうか。
 
 
 何故この地に古代山城があったか謎なんですが、近くに日岳がありこの山は古代には狼煙をあげて有明海の灯台の役目を果たしていたそうです。ちなみに日岳は戦国期にはこの地の豪族大野氏の居城がありました。
 
 それと関係あったのかもしれませんね。
 
 
 ところで看板に矛盾があります(苦笑)。1762年というのは江戸時代ですからいくらなんでも古代山城とは関係ないでしょう。おそらく山城の築城者は平安時代までこの地を支配していた日置氏のはずで、後で入り込んできた荘園領主の紀氏(のちの大野氏)との関連はないと思います。
 
 その大野氏も隣国小代氏との合戦で滅ぼされていますから直接の子孫はいないはず。お姫様というかこの地の庄屋(名主?)の娘さんか何かの墓でしょう。
 
 何でもかんでも城跡に結びつけるのは感心できませんね(苦笑)。
 
 
 ま、ちょっとした発見でした。今度市民図書館に行って調べてみようと思います♪

班超と戦ったクシャン朝の大王は誰か?

 班超(32年~102年)といえば新末後漢初の混乱で途絶えた西域経営を事実上たった一人で回復した人物として世界史上有名です。「虎穴に入らずんば虎子を得ず」のエピソードでもよく知られていますよね。
 
 
 後漢の西域経営は事実上班超一人で成され、彼の死後は再び元の黙阿弥になってしまったことからその功績は計りしれません。
 
 ところで班超が、西域統一の過程で中央アジアから北インドにまたがる大帝国を築いたクシャン朝(1世紀~3世紀)と戦ったエピソードはあまり知られていません。というのも史書では月氏と記されているからです。
 
 
 以前このブログで記事にした通り、匈奴に追われ西遷した月氏の後身がクシャン朝です。後漢書班超伝によれば永元二年(90年)、班超の西域進出を警戒した月氏の王が副王謝(名前)を大将とする七万の大軍を派遣し疏勒(カシュガル)にいた班超を攻撃したそうです。
 
 この時班超は手元に少数の兵力しかいませんでしたが、良く防衛しパミール越えで食料不足に陥った月氏軍が亀茲(クチャ)王に兵糧援助を求めた使者を待ち伏せして斬り、その首を謝に送って震え上がらせたといいます。
 
 謝は恐れて兵を引き、班超は危機を脱しました。
 
 
 では、遠征軍を派遣したクシャン朝の王は誰だったのでしょうか?実は歴代クシャン朝の王は在位年代が不明なのです。一番有名なカニシカ王(カニシュカ1世)でさえ在位年に複数説があるくらいですから。
 
 
 最大公約数的にカニシュカ1世の在位年を144年~173年とします。彼は四代国王でそれまでに三人の王が立っています。
 
 初代クジュラ・カドフィセスは(在位不明~80年)ですからこれは違います。可能性があるのはその子で二代を継いだヴィマ・タクトか孫の三代ヴィマ・カドフィセスでしょう。ただしヴィマ・カドフィセスはカニシュカの即位年から144年が在位最後の年だと推定されますから一番可能性が高いのは二代ヴィマ・タクトでしょう。
 
 
 ただ、ヴィマ・タクトの時代は北西インドへの侵入を本格化させた時ですからそんな余裕があったかどうか?北西インドを征服するくらいだから七万位大した数じゃないと言ってしまえばそれまでですが…。
 
 
 私が考えるにクシャン朝の西域遠征は威力偵察程度にすぎなかったのではないでしょうか?だとすればあっさり引き下がった理由も納得できます。クシャン朝の主進行方向は北西インド、その背後に当たる西域を安定させておくために遠征したという理解が一番自然な気がしますが、皆さまはどうお考えですか?実際、班超がパミールを越えてくる事はなかったわけですから牽制策は成功したと思います。
 
 
 ところで副王の謝ですが、クシャン朝が同じアーリア系のペルシャと同じ系統の言語を使用していたと仮定すれば、おそらくシャプールの音訳ではないかと考えています。

吐谷渾と吐蕃 氷雪の国の興亡

 チベット高原は、南をヒマラヤ山脈、北を崑崙山脈、西をヒンズークシ、カラコルム山脈、東をタンラ山脈など四川の山々に囲まれ平均高度3000メートルを超える世界の屋根です。
 
 その大部分は荒涼たる不毛の土地で、延々と氷原と湖沼が広がっています。380万平方キロという広大な土地でありながらチベット人が400万あまりしかいないということはいかに人の居住に適さない土地か分かるでしょう。
 
 この中でかろうじて人が住めるのは首都ラサのあるヒマラヤ北麓のヤルツァンポ川流域。ここは比較的温暖で牧畜と農業ができました。そして青海地方のツァイダム盆地。黄河源流地帯にも近く水が豊富で、ここも古くから農業と牧畜が営まれていました。
 
 支那の歴史書では、青海地方から甘粛、陝西に分布し農業と牧畜を営む人々を羌(きょう)と呼びました。羌という字は羊と人を合成した字といわれ、人々が羊を放牧していたであろうことが分かります。
 
 
 羌は現在のチベット人の源流の一つだと言われますが、これとは別に陝西から四川方面に分布していたチベット系の人々は氐(てい)と呼ばれました。
 
 
 羌は支那本土に近いところから早くから歴史書に登場しますが、漢民族とトルコ・モンゴル系遊牧国家の角逐に巻き込まれ統一国家を築けない状態が続きました。
 
 そのなかでようやくチベット系の王国が4世紀ごろ登場します。それが吐谷渾(とよくこん)です。ただし支配民族はモンゴル系鮮卑族の慕容部でした。
 これには面白い伝説があって、鮮卑族慕容部で部族長の慕容渉帰が死去すると嫡男慕容廆が後を継ぎます。このとき渉帰の庶長子である吐谷渾は、父から700戸を分け与えられて独立していました。
 ところが吐谷渾の馬が、部族長の慕容廆の馬たちに危害を加えたために慕容部から追放され最終的に現在の青海地方に落ち着いたそうです。彼らの子孫たちは始祖の名前を取って吐谷渾と名乗るようになったとか。
 どこまで信用できる話か分かりませんが、鮮卑系の遊牧民が青海地方に入りもともとそこに住んでいた羌人たちを糾合し国家を建設した事は間違いなさそうです。
 吐谷渾は同じ鮮卑系の北魏や漢民族の南朝と交易し8世紀ごろまで続きます。遊牧民族の国としては珍しく平和を愛する国民性だったのでしょう。ツァイダム盆地がそれだけ豊かだったと言えるかもしれません。
 吐谷渾自身が外に出てくるという歴史はあまりなかったように思います。逆に国際関係のパワーバランスから隋や唐に攻め込まれる事はあったにしても。
 こういう平和国家は外患によって滅ぼされるものです。チベット高原内陸部に興った吐蕃(とばん)に最初に攻撃されたのが663年。唐の高宗は吐谷渾を助けるため五万の軍勢を派遣しますが逆に吐蕃軍に敗北。その後も吐蕃軍の攻撃は続き8世紀中ごろには完全に滅ぼされました。
 吐谷渾の遺民は多くが唐に逃れ、残った者は吐蕃に吸収されました。
 次に吐蕃を見てみます。吐蕃とは「トボット=チベット」の当て字でしょう。吐蕃こそチベット民族初の統一王朝でした。
 もともと小国に分かれていたチベット高原を統一したのは、ラサ南東、ヤルルン部に興ったソンツェンガンポ(在位630年~650年)です。彼はチベット高原を統一するとシルクロードの支配権を巡って唐と激しく対立します。時には唐朝の公主(文成公主、唐の太宗皇帝の娘)を妻に迎えるなど和平を結ぶ事もありましたが、シルクロードの支配権は唐にとって絶対に譲れないものだったために根本的解決はできませんでした。
 面白い話もあり、645年王玄策がインド・ヴァルダナ朝の混乱を抑え簒奪者を逮捕して長安に護送したというエピソードは、実は吐蕃インド進出の名分に過ぎなかったともいわれています。王玄策は名前だけ利用されたのです。
 実際、ヴァルダナ朝やガンジス河北岸の小国を服属させたのは吐蕃でしたから。
 吐蕃は、最盛期にはシルクロードからガンジス北岸まで支配する大帝国でした。しかし絶頂期は長く続かず710年唐と一時講和。8世紀末には内乱で国力が衰えます。755年唐朝の大規模な内乱、安史の乱で混乱に乗じて唐本土侵略を目論みますが失敗。790年にはシルクロード進出を唐・ウイグルの連合軍に阻まれ50年戦争の末の840年河西、隴右、西域というシルクロードの大部分をウイグルに奪われて講和しました。
 敗戦で国力が衰え、人心の不安があったのでしょう。その後吐蕃は仏教を国教とし侵略政策を止めます。822年唐と完全に講和し首都ラサに唐蕃会盟碑を建立しました。しかし拡大政策が終わると内部が混乱してくるのは世の習い。
 王位継承権を巡る争いから国を二分する大規模な内乱に発展して877年滅亡しました。
 といっても完全に滅びたわけでなく王国の一部は西チベットに移って842年グゲ王国を建国しました。こちらは1630年まで続いたそうです。

楼蘭(鄯善ぜんぜん)第二王国成立の謎

 タクラマカン砂漠に栄えたオアシスの通商国家。さまよえる湖ロプノールの移動と共に衰退し砂漠に消えた蜃気楼。20世紀初頭、学者・探検家であったヘディンによって発見された楼蘭の美少女のミイラ。
 
 楼蘭は我々日本人にとってシルクロードの象徴ともいうべき国で、ロマンを沸き立たせます。
 
 
 楼蘭、支那側呼称では鄯善(ぜんぜん)と呼びますが、この国が二度興って滅びた事をご存知でしょうか?
 
 
 楼蘭第一王国は、紀元前10世紀ころにはすでに存在していたともいわれます。はっきりと文献にあらわれるのは史記によると紀元前2世紀。
 
 漢と匈奴という東アジアの二大国に近いため常にこれらの勢力の間で揺れ動き、最後は後漢の侵略をうけ傀儡国家となり消息が分からなくなります。
 
 その後しばらく楼蘭王国は記録が乏しくどうなったか分からなくなりました。しかし2世紀後半後漢が内乱で西域の統制力を失うと再び楼蘭の名前が出始めます。
 
 この楼蘭王国は、前の王国と同様アーリア系民族であったことは間違いなさそうですが使用文字が西方のクシャン朝文字と酷似しているという指摘があります。あきらかに王国の支配層が代わっているのですが、これに関して古来から楼蘭王国はクシャン朝に侵略された、あるいは一度滅亡した王国をクシャン朝からの移民団が再興し再び楼蘭王国を名乗ったなどと様々な説があります。
 
 遠く離れたクシャン朝(仏教を保護したカニシカ王で有名)と楼蘭王国、一見何の関係もなさそうですが実は関係大ありなんです。
 
 というのもクシャン朝を建国したのは月氏という印欧語族に属するアーリア系遊牧民族で、もともとは甘粛回廊からタリム盆地にかけて広く分布していた民族でした。
 
 支那と西域を結ぶシルクロード交易を支配し繁栄していましたが、匈奴の冒頓単于の攻撃を受け敗北、西に逃れてトハリスタン(大夏、現在のアフガニスタン北部からタジキスタン、ウズベキスタン、トルクメニスタンにまたがる地)を征服してそこに落ち着いた民族です。
 
 月氏の有力氏族からでたのがクシャン朝で、中央アジアから北インドにまたがる大帝国を築きます。第4代カニシュカ1世(カニシカ王)の時代に最盛期を迎えました。
 
 
 ですから再び祖先が住んでいた地に戻って来る事も不自然ではありません。しかしクシャン朝から楼蘭までの間のオアシス諸国がクシャン朝の侵略を受けた形跡がないので、どうも侵略説は違うような気がします。とすれば移民説が有力となっていますが、移民としても国を建国できるだけの大規模な移民団(少なくとも数千、おそらく万単位)を送り込んだはずですからタクラマカン砂漠越えが無事にできるとは到底思えません。
 
 
 という事で移民したルートが問題になってくるのです。ここからは私の独断で何の資料的裏付けもないのですがあるルートが浮かんできます。
 
 私の説を述べる前に、月氏西遷直後の状況を見てみましょう。月氏は匈奴の攻撃を受けた後実は二波に分かれて逃亡します。大半はタリム盆地を西に逃げトハリスタンに落ち着きました。これを大月氏と呼びます。
 
 一方、一部は現在の青海省のあるツァイダム盆地に逃れました。これを歴史上小月氏と呼びます。
 
 ツァイダム盆地は、黄河の源流地帯でもあり遊牧に適した土地でした。水源も豊富なことから農業もでき小月氏はここで生き伸びました。
 
 
 チベット東北のツァイダム盆地とトハリスタン、地図で見ると相当離れていて連絡は途絶えているように見えます。しかし実は崑崙山脈南麓のルート(崑崙バイパス)を通じて連絡は続いていたと私は考えます。その状況証拠として敦煌西域の南山中(おそらく崑崙山脈南麓からチベット高原にかけて)に月氏の余種である婼羌(しゃくきょう?)や葱茈羌,白馬羌,黄牛羌がおりそれぞれ酋長がいたという支那の記録が残っています。
 
 私はクシャン朝本国と、同族である小月氏は崑崙バイパスを通じて連絡があったと見ています。チベット高原は歩いて渡るには困難ですが馬なら簡単に走破できると思います。
 
 
 クシャン朝の移民団はこの崑崙バイパスを通って楼蘭の地に至ったのではないでしょうか?しかも新生楼蘭王国は灌漑を行いオアシスで農業を営んでいたそうですから移民団の中にツァイダム盆地で農業をしていた小月氏の人たちが相当含まれていたのではないかと考えます。
 
 
 第二楼蘭王国も長くは続きませんでした。支那本土は後漢から三国時代、そして五胡十六国の大動乱時代へ突入します。
 
 混乱の余波は楼蘭にも及び、最後は華北を統一したモンゴル系鮮卑族の建てた北魏に滅ぼされました。西暦445年の事です。
 
 
 都市としての楼蘭は7世紀ころまで続いたそうですが、ロプノールが移動し河道も変わったためうち捨てられ砂漠に消える運命でした。

シルクロード基礎知識

 シルクロードというのは19世紀ドイツの地理学者リヒトホーフェンが提唱し、その弟子に当たるスウェーデンの地理学者・探検家のヘディン(楼蘭遺跡の発見で有名)がその著書で広めた名称です。
 
 ヨーロッパと東アジアを結ぶ交易ルートの代名詞でもともとは中央アジアを横断する陸上ルートを指していたのですが、最近はインド洋も含む海上交易ルートも含めてそう呼ぶようです。
 
 何故シルクかというと絹がその主要交易品だったからですが、実は最初もっとも重要な交易品があり、それは支那文明で珍重された玉(ヒスイ)でした。玉は円盤状に加工され璧(へき)として尊ばれます。有名な完璧の故事も和氏(かし)の璧という古今無双の財宝が引き金だったのは支那の歴史に詳しい方ならご存知でしょう。
 
 
 狭義の意味でのシルクロードは中央アジアを横断する陸上ルートを指しますが、甘粛回廊の終着駅敦煌からアムダリア・シルダリアの河間地方ソグディアナの間にはいくつかの難所があります。もっとも知られているのがタリム盆地の大部分を占めるタクラマカン砂漠。そしてその西にはパミール高原が控えます。
 
 タクラマカン越えにはいくつかのルートがあり、大きく分けて砂漠の南側崑崙山脈の麓のオアシス地帯を抜ける西域南道と、砂漠の北天山山脈の麓を抜ける西域北道です。
 
 西域北道も二つに分けられ天山山脈の南側のオアシス地帯を通る道は天山南路、山脈の北側を抜ける道は天山北路と呼ばれます。
 
 簡単にルートを示すと
 
◇西域北道
 
◆天山北路…敦煌 - トルファン -  ウルムチ - イリ渓谷 - ソグディアナ
◆天山南路…敦煌 - 楼蘭 - コルラ - クチャ - カシュガル - パミール高原  
 
◇西域南道…敦煌 - 楼蘭 - ニヤ - ホータン - ヤルカンド - カシュガル - パミール高原
 
となります。
 
 
 
 実は一番古くから開通していたのが西域南道だといわれ、ホータンで産出する玉が支那で珍重されていたどうです。一説では紀元前10世紀ごろから玉の交易が行われたともされ、上の和氏の璧の和氏も紀元前にこの交易ルートを支配していたアーリア系遊牧民族月氏なのではないかとも言われています。
 
 
 楼蘭王国は玉を扱う中継貿易で栄え、 ヘディンが発見したという楼蘭の美少女のミイラも紀元前19世紀頃の人だという鑑定がなされています。
 
 
 西域からの主要交易品が玉であり、支那からは絹がもたらされました。このほか南ロシアからモンゴルに至る草原の道も主要な交易ルートで、実はこちらの方が交易品の流通量は多かったのではないかともいわれています。
 
 実際、草原の道は遊牧騎馬民族が運ぶのでスピードも速く確実です。歴史上スキタイや匈奴、突厥などの有力な遊牧帝国が成立したのは草原の道の交易ルートを支配したからでしょう。
 
 このほか、崑崙山脈の南側、チベット高原の北縁を抜けるバイパスもありヤルカンドから南下し崑崙山脈を越え南麓沿いに東進し青海(チンハイ)省のツァイダム盆地から甘粛、陝西に下ります。
 
 
 このツァイダム盆地は、遊牧に適した土地で黄河の水源地帯でもあることから農耕もできました。チベットの中では最も早くから開けた地方の一つで吐谷渾(とよくこん)などのチベット系遊牧国家が成立したのもこのためです。
 このルートを仮に崑崙バイパスと名付けますが、鄯善(ぜんぜん 楼蘭王国の支那呼称)第二王国の成立の謎にも関わってきます(のちに記事にする予定)。
 他に「西域都護班超と月氏(クシャン朝)の戦争」、「吐谷渾と吐蕃 氷雪の国の興亡」(ともに仮題)なども記事にする予定でおります(笑)。

陰陽五行説と古代支那の暦法

 俗に漢は火徳によって天下を取ったので漢の高祖劉邦は火徳の象徴である赤龍の生まれ変わりであるなどという事があります。
 
 古代支那人は、世の中の森羅万象を陰と陽に分け、さらに木火土金水の五行で説明しました。これは西洋における地水風火の4大元素の思想に通じるもので、例えば同じ木の要素でも陽に当たるのが木の兄(甲)、陰に当たるのが木の弟(乙)となります。五行それぞれに陰陽がありますからこれがすなわち十干です。
 
 一方、四季に関しても五行を当てはめ春なら木、夏なら火、秋なら金、冬なら水、そして各季節の最後、次の季節との境目を土と定めました。土用の丑の日の土用とはこのことです。一季節三カ月ですから3×4で12でこれに子丑寅などの十二支を配しました。一説では十二支は黄道十二宮から取ったともいわれますが煩雑になるのでここではこのくらいにとどめておきます。
 
 陰陽五行思想の根幹がこの十干十二支である事は理解できたと思います。
 
 
 ところで歴代支那の王朝は自分たちの王朝の正統性を主張するためにこの陰陽五行思想を利用しました。
 
 
 例えば伝説の支那の帝王である黄帝を黄土に初めて文明を開いたということで土性と定め、次の夏王朝が金性、商(殷)王朝が水性、周王朝が木性、漢王朝が火性の徳をもって天下を治めたという思想です。この場合周と漢の間にある秦王朝は閏で正統ではないという見方です。
 
 このように木→火→土→金→水という関係は、相生(そうしょう)の関係と言い前者が後者を生みだす関係です。陰陽五行説では相生の関係は前者が後者を生む時エネルギーを奪われるので言わば禅譲によって王朝が交代したという事(建前ではあるが)を説明しています。
 
 
 一方、禅譲ではなく放伐によって王朝交代がなされたとも解釈されるのでこの場合は相剋(そうこく)という関係で説明されます。順番ではなく一つ空けた五行は相性が悪く前者が後者を剋するとされるのです。たとえば木と土なら木剋土と言い最悪の相性です。同様に火剋金、土剋水、金剋木、水剋火となります。
 
 この場合は秦を水徳と説明すると漢との関係性が甚だおかしくなるのです。漢を火徳とすれば水剋火でむしろ水徳の秦の方が強い事になります。ということで放伐理論で説明する時は漢は土剋水で土徳だと主張しなければならなくなるのです。
 
 
 この考え方は戦国時代中期頃成立した思想ですが、各王朝は自分の正統性を主張するために時にはこじつけとも思われる手法さえ使いました。
 
 
 これが暦とどんな関係があるのか疑問に思われる方も多いと思いますが、実は大いに関係があります。12カ月を冬至のある月を子月(だいたい太陽暦では12月)に定め、丑寅卯辰巳~と定めるのは共通ですが、正月をどこに持ってくるか問題となってくるのです。
 
 
 自分の王朝がどの徳を有しているかで変わってくるからです。これも説明すると長くなるし私も完全に把握しているとは言い難いのでそんなものだと思って下さい。
 
 例えば周王朝は一年で一番日が短い冬至の月を正月と定めました。その前の商(殷)は冬至の次の月、すなわち丑月を正月に。さらにその前の夏王朝は寅月(2月)を正月としました。
 
 
 春秋戦国時代は、この陰陽五行思想が生まれたために各諸侯も自分たちを正統とするため独自の暦を採用します。一例をあげると楚では亥月(11月)を正月としています。
 
 
 ですから後世歴史を見てみると年代にずれが生じてくるのです。ある国では年が改まっているのに別の国ではまだ前の年のままだというように。
 
 
 研究者によると、例えば諸侯国の一つ衛の君主の在位年が10年ほどずれているそうなんです。
 
 
 
 古代支那の歴史書といえば孔子の編纂した春秋(春秋時代の語源ともなった)や司馬遷の史記が有名ですが、両者の編纂姿勢には違いがあったと言われます。
 
 孔子は、史実より思想を優先させ儒教の思想に合わせて記録を取捨選択したそうですが、司馬遷は記録を重視し矛盾が生じるのを覚悟でそのまま記したと言います。
 
 
 どちらが良いかはそれぞれの判断でしょうが、史記の年代記述に矛盾が多いのはこのためだとか。しかし私は司馬遷の姿勢を評価しますね。

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