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2013年4月 2日 (火)

吐谷渾と吐蕃 氷雪の国の興亡

 チベット高原は、南をヒマラヤ山脈、北を崑崙山脈、西をヒンズークシ、カラコルム山脈、東をタンラ山脈など四川の山々に囲まれ平均高度3000メートルを超える世界の屋根です。
 
 その大部分は荒涼たる不毛の土地で、延々と氷原と湖沼が広がっています。380万平方キロという広大な土地でありながらチベット人が400万あまりしかいないということはいかに人の居住に適さない土地か分かるでしょう。
 
 この中でかろうじて人が住めるのは首都ラサのあるヒマラヤ北麓のヤルツァンポ川流域。ここは比較的温暖で牧畜と農業ができました。そして青海地方のツァイダム盆地。黄河源流地帯にも近く水が豊富で、ここも古くから農業と牧畜が営まれていました。
 
 支那の歴史書では、青海地方から甘粛、陝西に分布し農業と牧畜を営む人々を羌(きょう)と呼びました。羌という字は羊と人を合成した字といわれ、人々が羊を放牧していたであろうことが分かります。
 
 
 羌は現在のチベット人の源流の一つだと言われますが、これとは別に陝西から四川方面に分布していたチベット系の人々は氐(てい)と呼ばれました。
 
 
 羌は支那本土に近いところから早くから歴史書に登場しますが、漢民族とトルコ・モンゴル系遊牧国家の角逐に巻き込まれ統一国家を築けない状態が続きました。
 
 そのなかでようやくチベット系の王国が4世紀ごろ登場します。それが吐谷渾(とよくこん)です。ただし支配民族はモンゴル系鮮卑族の慕容部でした。
 これには面白い伝説があって、鮮卑族慕容部で部族長の慕容渉帰が死去すると嫡男慕容廆が後を継ぎます。このとき渉帰の庶長子である吐谷渾は、父から700戸を分け与えられて独立していました。
 ところが吐谷渾の馬が、部族長の慕容廆の馬たちに危害を加えたために慕容部から追放され最終的に現在の青海地方に落ち着いたそうです。彼らの子孫たちは始祖の名前を取って吐谷渾と名乗るようになったとか。
 どこまで信用できる話か分かりませんが、鮮卑系の遊牧民が青海地方に入りもともとそこに住んでいた羌人たちを糾合し国家を建設した事は間違いなさそうです。
 吐谷渾は同じ鮮卑系の北魏や漢民族の南朝と交易し8世紀ごろまで続きます。遊牧民族の国としては珍しく平和を愛する国民性だったのでしょう。ツァイダム盆地がそれだけ豊かだったと言えるかもしれません。
 吐谷渾自身が外に出てくるという歴史はあまりなかったように思います。逆に国際関係のパワーバランスから隋や唐に攻め込まれる事はあったにしても。
 こういう平和国家は外患によって滅ぼされるものです。チベット高原内陸部に興った吐蕃(とばん)に最初に攻撃されたのが663年。唐の高宗は吐谷渾を助けるため五万の軍勢を派遣しますが逆に吐蕃軍に敗北。その後も吐蕃軍の攻撃は続き8世紀中ごろには完全に滅ぼされました。
 吐谷渾の遺民は多くが唐に逃れ、残った者は吐蕃に吸収されました。
 次に吐蕃を見てみます。吐蕃とは「トボット=チベット」の当て字でしょう。吐蕃こそチベット民族初の統一王朝でした。
 もともと小国に分かれていたチベット高原を統一したのは、ラサ南東、ヤルルン部に興ったソンツェンガンポ(在位630年~650年)です。彼はチベット高原を統一するとシルクロードの支配権を巡って唐と激しく対立します。時には唐朝の公主(文成公主、唐の太宗皇帝の娘)を妻に迎えるなど和平を結ぶ事もありましたが、シルクロードの支配権は唐にとって絶対に譲れないものだったために根本的解決はできませんでした。
 面白い話もあり、645年王玄策がインド・ヴァルダナ朝の混乱を抑え簒奪者を逮捕して長安に護送したというエピソードは、実は吐蕃インド進出の名分に過ぎなかったともいわれています。王玄策は名前だけ利用されたのです。
 実際、ヴァルダナ朝やガンジス河北岸の小国を服属させたのは吐蕃でしたから。
 吐蕃は、最盛期にはシルクロードからガンジス北岸まで支配する大帝国でした。しかし絶頂期は長く続かず710年唐と一時講和。8世紀末には内乱で国力が衰えます。755年唐朝の大規模な内乱、安史の乱で混乱に乗じて唐本土侵略を目論みますが失敗。790年にはシルクロード進出を唐・ウイグルの連合軍に阻まれ50年戦争の末の840年河西、隴右、西域というシルクロードの大部分をウイグルに奪われて講和しました。
 敗戦で国力が衰え、人心の不安があったのでしょう。その後吐蕃は仏教を国教とし侵略政策を止めます。822年唐と完全に講和し首都ラサに唐蕃会盟碑を建立しました。しかし拡大政策が終わると内部が混乱してくるのは世の習い。
 王位継承権を巡る争いから国を二分する大規模な内乱に発展して877年滅亡しました。
 といっても完全に滅びたわけでなく王国の一部は西チベットに移って842年グゲ王国を建国しました。こちらは1630年まで続いたそうです。

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