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2013年4月 2日 (火)

班超と戦ったクシャン朝の大王は誰か?

 班超(32年~102年)といえば新末後漢初の混乱で途絶えた西域経営を事実上たった一人で回復した人物として世界史上有名です。「虎穴に入らずんば虎子を得ず」のエピソードでもよく知られていますよね。
 
 
 後漢の西域経営は事実上班超一人で成され、彼の死後は再び元の黙阿弥になってしまったことからその功績は計りしれません。
 
 ところで班超が、西域統一の過程で中央アジアから北インドにまたがる大帝国を築いたクシャン朝(1世紀~3世紀)と戦ったエピソードはあまり知られていません。というのも史書では月氏と記されているからです。
 
 
 以前このブログで記事にした通り、匈奴に追われ西遷した月氏の後身がクシャン朝です。後漢書班超伝によれば永元二年(90年)、班超の西域進出を警戒した月氏の王が副王謝(名前)を大将とする七万の大軍を派遣し疏勒(カシュガル)にいた班超を攻撃したそうです。
 
 この時班超は手元に少数の兵力しかいませんでしたが、良く防衛しパミール越えで食料不足に陥った月氏軍が亀茲(クチャ)王に兵糧援助を求めた使者を待ち伏せして斬り、その首を謝に送って震え上がらせたといいます。
 
 謝は恐れて兵を引き、班超は危機を脱しました。
 
 
 では、遠征軍を派遣したクシャン朝の王は誰だったのでしょうか?実は歴代クシャン朝の王は在位年代が不明なのです。一番有名なカニシカ王(カニシュカ1世)でさえ在位年に複数説があるくらいですから。
 
 
 最大公約数的にカニシュカ1世の在位年を144年~173年とします。彼は四代国王でそれまでに三人の王が立っています。
 
 初代クジュラ・カドフィセスは(在位不明~80年)ですからこれは違います。可能性があるのはその子で二代を継いだヴィマ・タクトか孫の三代ヴィマ・カドフィセスでしょう。ただしヴィマ・カドフィセスはカニシュカの即位年から144年が在位最後の年だと推定されますから一番可能性が高いのは二代ヴィマ・タクトでしょう。
 
 
 ただ、ヴィマ・タクトの時代は北西インドへの侵入を本格化させた時ですからそんな余裕があったかどうか?北西インドを征服するくらいだから七万位大した数じゃないと言ってしまえばそれまでですが…。
 
 
 私が考えるにクシャン朝の西域遠征は威力偵察程度にすぎなかったのではないでしょうか?だとすればあっさり引き下がった理由も納得できます。クシャン朝の主進行方向は北西インド、その背後に当たる西域を安定させておくために遠征したという理解が一番自然な気がしますが、皆さまはどうお考えですか?実際、班超がパミールを越えてくる事はなかったわけですから牽制策は成功したと思います。
 
 
 ところで副王の謝ですが、クシャン朝が同じアーリア系のペルシャと同じ系統の言語を使用していたと仮定すれば、おそらくシャプールの音訳ではないかと考えています。

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