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2013年5月

2013年5月 2日 (木)

アンティオキア

 「世界の都市の歴史」シリーズです。
 
 アンティオキアは、セレウコス朝シリアの後期の首都でありローマ時代は属州シリアの州都となりました。キリスト教がローマ帝国で国教化されると東方教会総主教座が置かれ東方におけるキリスト教の中心地となります。
 
 紀元前301年、セレウコス1世がイプソスの戦いでアンティゴノス1世(後継者王朝の一つ、フリギア王。一時期最有力な国だった。彼の孫アンティゴノス2世の時代にアンティゴノス朝マケドニアを建国)を破ると人口も多く東西貿易の要衝だったシリアの重要性が大きくなります。
 
 シリアはプトレマイオス朝エジプトも狙っていたためセレウコス1世はレバノンの山間部に発し北流して地中海に注ぐオロンテス川の河口から少しさかのぼったところに新首都アンティオキアを建設しました。
 
 それまでの首都でバビロニアにあった自らの名前を冠したセレウキアはわずか12年で遷都されます。アンティオキアという名もセレウコス1世の父アンティオコスにちなんだ名前です。
 
 
 実はセレウキアやアンティオキアと名付けられた都市はアレクサンドリアと同様いくつもあるのですがバビロニアにあった旧都セレウキア、シリア北部のセレウコス朝の新首都アンティオキアが一番有名です。
 
 
 アンティオキアはオロンテス川河口から25キロさかのぼったところにあり当時は船が海から入ってこれたそうです。オロンテス川の西側に王宮、左岸(東側)シルピウス山(海抜400m)との間の狭い地域に民間人居住区が設けられました。
 
 
 市街は長大な城壁で囲まれ、シリアの中心都市らしい威容を誇ります。このあたりの年間降水量は平均1120ミリと乾燥した他の地中海沿岸地域よりは恵まれており水源も豊富、豊かな穀物生産量がありました。都市建設に当たって最初の住民となったのはもちろんセレウコス1世に従った退役軍人とその家族などギリシャ人でしたが、大都市として発展の要素があったため周囲からシリア人やユダヤ人が多く流入しました。
 
 
 アンティオキアを首都としたセレウコス朝は、東方地域におけるバクトリア、パルティアの独立を受け緩やかに衰退、最後はミトリダテス戦争の余波を受けてシリアに進駐したローマの将軍ポンペイウスによって滅ぼされます。紀元前83年のことです。
 
 
 ローマ軍入城の前にアルメニア王ティグラネス2世の侵略を受けていましたから王朝としての命運は尽きていたのでしょう。滅亡の時も抵抗らしい抵抗はありませんでした。
 
 
 ポンペイウスはこの地をローマの属州シリアとしてその州都をアンティオキアに定めます。以後アンティオキアはシリアにおけるローマの最重要都市としてローマと運命を共にしました。
 
 
 その後イラン高原にササン朝ペルシャが興ると、シリア、メソポタミアはローマとの争奪戦の舞台となります。ローマ側がメソポタミアに侵攻した事もあれば逆にペルシャ軍がアンティオキアに迫った事もありました。
 
 
 アンティオキアに止めを刺したのは7世紀のイスラム勢力でした。東ローマ帝国はイスラム軍との戦いに敗れシリアを喪失します。10世紀に東ローマが盛り返して一時奪回しますが結局1084年セルジューク朝に征服されました。
 
 その後十字軍戦争が始まりアンティオキアも戦いの舞台になります。この頃はローマ時代のような大都市としての面影は薄れシリアの一地方都市に落ちぶれていました。以後マムルーク朝エジプト、オスマントルコと支配者を変え現在はトルコ共和国ハタイ県の県庁所在地アンタキアと呼ばれています。
 
 
 地図を見て頂けば分かる通り本来はシリア領のはずですが、トルコ系住民が多くシリアから分離独立運動を展開し1939年トルコ共和国に編入されるという歴史を持ちます。

セレウキアとクテシフォン

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 忘れたころにやってくる「世界の都市」シリーズ。今回はアレクサンドロスの後継者王朝の一つセレウコス朝初期の首都セレウキアとイラン東北の遊牧民が建国したパルティア王国後期の首都クテシフォンです。
 
 どちらも今は遺跡しか残っていませんがなぜ一つの記事にしたかというとこの両都市、実はチグリス川を挟んで存在していたんです。現在でいえばハンガリーの首都ブタペストのような関係です。
 
 簡単にいうとチグリス川の西岸にあるのがセレウキア、東岸にあるのがクテシフォンです。
 
 
 アレクサンドロス大王死後の後継者争い(ディアドコイ戦争)を生き残ってシリアからアフガニスタンにまたがる広大な領土を獲得し王朝を開いたマケドニアの将軍セレウコス。もともとバビロン総督だった彼は、メソポタミアの中心地バビロンではなく、自らの王国の首都として紀元前312年セレウキアを建設します。
 
 何故バビロンではなく新たに首都を建設したかですが、私は人口問題があったような気がします。当時のセレウコス朝の資料がないので同じ後継者王朝の一つであるプトレマイオス朝エジプトの人口構成から類推するしかないのですが、エジプトでは家族も含めても30万に満たないギリシャ人が現地の750万のエジプト人を支配していました。
 
 セレウコス朝もおそらく同じような事情を抱えていたはずで、人口はエジプトよりはるかに多かったでしょうから巨大な人口を抱えるバビロン(最盛期で100万)を首都にした場合、少数の支配階級であるギリシャ人が埋没する危険があったのだと思います。
 
 エジプトの場合も、支配階級のギリシャ人は大半が首都アレクサンドリアに居住していました。セレウコス朝はまもなくエジプトやマケドニアとの抗争から首都をシリアのアンティオキアに移しましたからセレウキアが首都だった期間は12年にすぎませんでしたが、それでも交通の要衝だったことから1世紀中ごろには人口60万を数えたそうです。逆にバビロンの方が廃れこのころは寒村にすぎなくなっていました。
 
 
 ではクテシフォンはどうだったでしょうか。チグリス川を挟んだセレウキアの対岸にはオピスという小さな町がありました。イラン高原東北部ホラサン地方に興ったパルティア王国。もともと王国の首都は発祥の地に近いホラサン地方のヘカトンピュルスにありました。しかしバビロニアの支配権を獲得するとパルティアは、この地を治める軍都の必要性を感じます。当時のこの地方の大都市はセレウキアでしたが、パルティア人はギリシャ色の強いこの都市を嫌ってチグリス川対岸にクテシフォンという名の新たな都市を建設します。だいたい紀元前1世紀中ごろの話だと伝えられますが、人口の面からも経済面からも対ローマ帝国の防衛面からもクテシフォンの重要性は日増しに増大しました。
 
 
 当初はパルティア国王が一時的な行在所として軍隊を指揮するためにクテシフォンに駐在しましたが、ローマとの戦争が常態化すると次第に首都機能がクテシフォンに移転されます。こうしてオロデス2世(在位BC57年~BC38年)の時代に、旧都ヘカトンピュルスは放棄されクテシフォンが王国の新首都と定められました。
 
 
 ただシリアまで進出していた宿敵ローマ帝国と近いために何度か占領される事もありました。古代以来の大都市バビロンはすでに寒村となりはて、セレウキアがバビロニアの中心都市として繁栄の極にありましたが、これと首都圏を形成することでクテシフォンもまた発展しました。
 
 3世紀末にパルティアを滅ぼして興ったササン朝ペルシャもクテシフォンを引き続き首都と定めます。
 
 
 この両都市がいつ滅んだかですが、まずセレウキアは167年ローマ帝国との戦争で焼き払われ一時再建しますが次第に廃れて行きました。一方、クテシフォンはササン朝の最後まで首都であり続けます。しかしこちらも7世紀イスラム教徒との戦争で占領され、イスラム勢力の中でアッバース朝が成立するとクテシフォンの西北30キロに当たるバクダードを新たに首都として建設したためゴーストタウンと化し8世紀に滅亡しました。
 
 
ちなみに、千夜一夜物語の舞台の一つイスバニルはクテシフォンがモデルだといわれます。

前漢帝国の興亡Ⅵ    帝国滅亡

 武帝に後事を託された霍光(かくこう)は名将霍去病の異母弟です。24歳で夭折した霍去病の親族であるという事はそれだけで武帝に気に入られました。彼は兄と違い軍事の才能はゼロでしたが一方政治的な能力はずば抜けていました。
 霍光は昭帝の信任を背景に、同じく後事を託された一人上官桀を政治的に追い込み謀反を起こさせて誅殺しました。昭帝は霍光を信任し続けます。後見人の一人金日磾(きんじつてい)は昭帝即位の翌年病死していましたから以後は霍光の独裁体制が確立します。
 紀元前74年、昭帝は21歳で亡くなりました。霍光は昭帝の兄の子劉賀を即位させますが品行不良を理由にすぐ廃位します。次に担ぎ出したのは武帝時代無実の罪を着せられて殺された戻太子劉拠の孫劉病己でした。すなわち宣帝です。このように霍光は武帝の遺言を盾にやりたい放題でした。
 紀元前68年、専横を極めた大将軍霍光はついに病死します。これまでじっと我慢し続けていた宣帝は、霍光一族を族滅させようやく親政を開始する事が出来ました。
 宣帝は、若いころ民間にあったので世情に通じた皇帝だったと云われます。最初は農奴解放など積極的な内政を推し進めますが、晩年は結局奢侈な生活に逆戻りしました。政治も顧みなくなり外戚と宦官はびこる王朝末期の様相を呈してきます。
 次代の元帝、次の成帝は弛緩した帝国財政の回復に努めますがほとんど成果は上がりませんでした。成帝の時代外戚の王氏が力をつけます。成帝の皇后王氏の兄にあたる王鳳は大司馬大将軍となり異母弟五人も列侯に封じられました。
 ところが成帝が後継者もなく没し、甥に当たる哀帝が即位すると王氏一族は没落します。その後哀帝は急逝し9歳の平帝(在位AD1年~5年)が即位する事となりました。
 幼帝に政治を見る事はできませんから、元帝の皇后であった王太后が後見するようになります。すると王一族の切れ者と評判だった王莽(おうもう、BC45年~AD23年)が大司馬として返り咲きました。
 王莽は、自分の娘を平帝の皇后にして外戚となると安漢公に任命されさらに諸侯王の上という殊礼で遇されました。さらに宰衡(さいこう)を加号されます。これは周の成王を補佐した周公の称号「太宰」と商(殷)の湯王を助けた伊尹の「阿衡」の称号を合わせたものでした。
 位人臣を極めた王莽が次に狙うのは帝位です。平帝はわずか14歳で亡くなりました。世間では王莽による毒殺を噂します。王莽は宣帝の曾孫劉嬰を担ぎ出しますが、すぐに皇帝に即位させませんでした。嬰を皇太子に立てると自分が仮皇帝と称して国政を取り仕切ります。
 彼の行動からも平帝毒殺説は説得力を持ちます。しかし名分のない王莽が劉氏に代わって帝位につくのは無理がありました。そこで彼は人を使って工作させ、古井戸から見つかった白石に『告ぐ、安漢公王莽、皇帝たれ』と朱色の文言が記されていたと報告させます。
 これを盾に取り群臣を動かして自分を帝位に推戴させ、仮皇帝からついに皇帝に上り詰めたのです。これを符命革命と呼びます。紀元8年、王莽は皇帝を称し国号を「新」と名付けます。劉嬰は皇帝にならぬまま廃され安定侯に封じられます。これで名実ともに前漢帝国は滅びました。
 王莽の「新」朝は簒奪した弱みからか儒教原理主義とも呼べる時代錯誤の政治を行いました。現実と遊離した理想論で国が動くはずはありません。間もなく各地で反乱が起こりました。なかでも赤眉の乱は王朝を揺るがすほどの大乱で反乱軍に首都長安を落とされ王莽は乱戦の中で殺されます。わずか一代15年の短い王朝でした。

前漢帝国の興亡Ⅴ    武帝の時代

 前漢帝国全盛期を築いたのは景帝の九男で7代皇帝を継いだ劉徹です。後に武帝(在位BC141年~BC87年)と呼ばれます。
 
 もともと彼の母王美人(美人は後宮の位)は名もなき后のひとりでした。最初景帝の皇太子は皇后栗夫人の産んだ長兄劉栄でした。ところが栗皇后は景帝の同母姉館陶公主と仲が悪く弟に王美人の産んだ劉徹を太子にするよう勧めます。栗皇后はあまりの悔しさに憤死したと伝えられます。劉栄自身も謀反の疑いを持たれ後に自決しました。
 
 武帝は、館陶公主の産んだ娘を皇后に迎えました。しかしいとこ同士の政略結婚であったためこの陳皇后とは仲が悪く後に離婚しています。
 
 
 武帝は治世の最初、郷挙里選という官吏任用法を採用し董仲舒の献策で五経博士を設置するなど内政を整えました。というのも彼の宿願であった外征に向けての準備のためです。漢王朝は劉邦が白登山で包囲されて以来匈奴との間に屈辱的な外交関係を結ばされていました。匈奴を兄、漢を弟とし毎年莫大な貢物を贈っていたのです。
 
 超大国漢の主として武帝は我慢なりませんでした。まず匈奴に対する包囲網をつくるため、かつて匈奴に追われて西に走っていた月氏と同盟を結ぶべく張騫を派遣します。この同盟は、月氏が豊かな大夏(トハリスタン)を征服し安定期に入っていたため失敗します。後に大夏の月氏のうちからクシャン朝が誕生し中央アジアから西北インドにまたがる大帝国を築いた事は以前書きました。
 
 しかし、西域への外交使節派遣で中央アジアの国際情勢が分かり大宛(フェルガナ盆地)で優秀な軍馬が手に入るようになった事は武帝を喜ばせます。こうして万全の準備を整えた武帝は大軍を派遣し匈奴を討たせました。
 
 
 武帝の匈奴遠征で活躍したのは二人の将軍です。一人は愛妾衛夫人の弟で元奴隷身分であった衛青。そして彼の従兄弟霍去病(かくきょへい)。
 衛青は、閨閥で引き立てられた印象が強いですが最初はそうであってもその実力で名声を勝ち取りました。霍去病の場合は最初から天才肌でその水際立った騎兵戦術で強力な匈奴の騎兵軍を圧倒します。車騎将軍衛青、驃騎将軍霍去病を車の両輪として武帝の匈奴攻撃は続けられました。
 一番の功績は西域から匈奴の影響力を排除しシルクロードの交易ルートを完全に取り戻した事でしょう。しかし武帝の対匈奴戦争がいつも連戦連勝だったわけではなく時には手痛い敗北を喫しました。中でも将軍李陵が精一杯の抵抗をした挙句匈奴に降伏してしまうという事件が起こります。
 怒った武帝は李陵の家族を皆殺しにするよう命じますが、李陵の友人であった史官司馬遷はただ一人彼を弁護しました。武帝は司馬遷までも死刑にしようとします。しかし司馬遷は父の代からの偉大な事業であった史記編纂を全うするため生き伸びなければなりませんでした。恥を忍んで宮刑(局部を切り取る事)を申し出宦官になった司馬遷はその屈辱をばねに史記を書き上げたといわれています。
 後に武帝は、司馬遷が宦官になっていた事を思い出し中書令という高官に取り立てます。しかし司馬遷の屈辱感はさらに増すばかりでした。彼の記した史記の人物描写が時に鬼気迫るのは自身の壮絶な生き方の反映だとも言われています。
 外征における輝かしい成果は、内実国庫に蓄えられていた莫大な富の浪費にしかすぎませんでした。武帝の強烈な個性は忠言をのべる賢臣を遠ざけお追従だけの佞臣を集めるだけでした。確かに武帝時代は前漢帝国の全盛期でしたが、早くも治世後半にはその陰りが見え始めます。
 赤字になった歳入を増やすため酷吏という苛斂誅求を旨とする悪官吏がはびこり、人心の荒廃から犯罪が増えると厳罰主義で臨みました。この時代賄賂が横行しさしもの漢帝国の屋台骨を揺るがします。
 武帝時代の世相を象徴する一つの事件が紀元前91年起こりました。巫蠱の獄(ふこのごく)と呼ばれるものです。老いて疑り深くなっていた武帝は自分を呪う者がいるという強迫観念にとらわれ佞臣の一人江充に命じ調べさせます。江充はかつて皇太子劉拠(衛夫人の子。当時皇后になっていた)に恨みを抱いていたため、無実の罪を着せ皇太子が謀反を企んでいると報告しました。
 皇太子劉拠は、進退極まり最後は自害してしまいます。衛皇后も巫蠱(呪う事)を行っていたとして皇后の地位を剥奪され自害を強要されました。
 のちに調べてみると、すべてが江充のでっちあげだと分かります。江充は一族皆殺しの刑に遭いますが後の祭りでした。武帝は我が子が冤罪で死んだ事を悔やんで涙を流します。
 皇太子劉拠の死後長らく皇太子の座はあいていました。武帝の晩年末子劉弗陵(りゅうふつりょう。後の昭帝)が太子に立てられます。武帝は霍光(霍去病の異母弟)、金日磾(きんじつてい、降伏した匈奴の王子)、上官桀の三人に後事を託して亡くなりました。享年71歳。
 次回は霍光の専横から王莽(おうもう)の台頭まで、前漢帝国がいかにして滅んだかを記します。

前漢帝国の興亡Ⅳ    呉楚七国の乱

 文帝は傍系から帝位を継いだため割合穏健な統治を行いました。それには彼の母、薄太后の影響が強かったと思います。
 
 文帝の母薄氏はその名の通り薄幸の生涯とも言える人生でした。彼女の母は戦国・魏の王族に生まれます。しかし祖国は秦に滅ぼされ薄という庶民と結婚しました。二人の間に生まれた薄氏は成人すると美しさが評判になり秦末の動乱で勃興した群雄の一人西魏の魏豹の後宮に入りました。
 
 と言っても地味な性格だったためか魏豹から顧みられることはなく孤独でした。ある時人相見の許負は彼女を見て
「貴方はいずれ天子をお産みになるでしょう」
と語りました。
 しかし、項羽側に付いた魏豹は紀元前205年韓信に滅ぼされます。薄氏は戦利品として劉邦の後宮に入れられました。
 
 後宮に入った直後、薄氏は同僚の側室たちと「私たちの誰かが寵愛される事になってもお互いに忘れないようにしましょう」と語りあったと伝えられます。
 ところが華やかな美人が揃っている劉邦の後宮で地味な彼女はまたしても顧みられる事はありませんでした。
 
 
 ある日劉邦は、側室たちが「私たちは陛下の寵愛を受けたのに彼女だけは駄目だったわね」と笑いあっているのを聞きます。不憫に思った劉邦は一夜だけ彼女を召しだしました。
 
 
 ところがその一夜の契りだけで彼女が身籠ってしまいます。生まれたのは男子、すなわり劉恒でした。
 
 
 劉恒は、高祖皇帝の庶子ということで辺境の代という国に封じられます。地図を見てもらうと分かる通り貧しい荒涼とした盆地でしかも匈奴と国境を接する難しい土地でした。漢王朝としても極論すれば高祖から可愛がられなかった彼が匈奴に殺されても仕方ないという捨て殺し的な意味合いもあったように思います。
 
 可愛い一人息子がそのような厳しい国に送りだされるのを薄氏は黙って見ておれませんでした。自分も息子に付いて行くと宣言します。高祖皇帝から寵愛されなかった彼女の希望はすんなり通りました。
 
 
 ところが何が幸いするか分かりません。高祖劉邦が崩御し呂太后の専制が始まると恵帝のライバルになる可能性のあった劉邦の庶子たちは毒殺されるか謀反をでっち上げられて次々と粛清されていきます。薄氏は劉邦から寵愛されなかった事もあり呂太后からは無視されました。というよりそのうち匈奴との戦争で殺されるから放っておけばよいという呂氏陣営側の計算があったのでしょう。
 
 もちろん代王側も警戒を怠りませんでした。後に景帝を産む竇氏(とうし)が女官として呂太后から送り込まれた時も暗殺を恐れて近づかなかったくらいでした。ところが何人かの送られた女官のうち竇氏だけが呂氏一族の専横を批判し話をしてみるとなかなか聡明だという事が分かり劉恒は彼女だけを愛しました。
 
 
 そんな中、ついに国政を壟断していた呂氏一族は太后死後の陳平・周勃らのクーデターで滅ぼされ代王劉恒は呂氏の息のかかっていない劉氏一族の諸侯王として次期皇帝に推戴されます。彼が暗殺を恐れ皇帝就任を何度も断っていた事は前記事で書きました。
 
 
 漢朝の群臣としても、たとえば個性が強く呂氏討滅に功績のあった斉王劉襄(劉恒の異母兄劉肥の子)などでは再び国政が混乱するという危惧があったのでしょう。その点穏健な性格の劉恒ならその心配はないし、なにしろ母の薄氏にしても正室の竇氏にしても実家の勢力が弱く間違っても呂氏のような存在にはならないという安心感がありました。
 
 
 文帝劉恒は、賢明な母の助言を受け戦乱で荒廃した民力の回復に努めます。例えば基礎的な税である収穫物にかかる田租も三十分の一に引き下げられ、人頭税・徭役なども軽減されました。対外的にも穏健策で臨み、一時は匈奴との間で戦争になりますが薄太后の諌めで深追いを避けるほどでした。
 
 司馬遷は文帝のことを「ああ、あに仁ならずや」と手放しで褒めています。紀元前157年文帝は在位23年で崩御しました。後を継いだのは嫡男劉啓。すなわち景帝(在位BC157年~BC141年)です。
 
 
 傍系から皇位を継いだ文帝とは異なり、景帝は生まれながらの天子でした。前漢王朝が郡国制をとっている事は以前記しました。呉楚七国の乱当時の地図を見て頂くと分かる通り諸侯王の領地が全国の半分以上を占めます。しかもそれは中原以東の豊かな土地なのです。
 
 
 王朝が存続し長く続くにはこれら諸侯王の広大な領地をどうするかが景帝治世最大の懸案でした。呂氏討滅の後各地の王には皇帝一族である劉氏が封じられました。景帝にとってもこれらは親戚の土地なので削るのは難しいのです。文帝の時にも異母弟淮南王劉長が反抗しますが、皇帝は彼を殺さずに蜀(四川省)に流罪するだけの軽い処分で済ませました。
 
 皇帝家の対応の甘さを各地の王たちは侮っていたのかもしれません。ところが景帝は治世の三年目御史大夫(副首相に当たる)晁錯(ちょうさく)の唱える削藩策を採用します。自分たちの領地が削られる事に怒った呉王劉濞(りゅうび、文帝の従兄弟)は楚王、済南王、趙王ら六国の諸侯王と語らって公然と漢朝に対し反旗を翻しました。紀元前154年の事です。実質的に呉と楚が中心になって反乱を起こしたので、世にこれを「呉楚七国の乱」と呼びます。
 呉は長江下流域の三郡五十三城を占める大国でここだけでも数十万の兵を集める事が出来ました。呉王劉濞は高祖劉邦の兄の子で人相学でいう「反乱の相」があったころから劉邦は彼の背中をなでながら
「占いによると50年後に東南部で反乱が起こるというがまさかお前ではあるまいな?天下というのはもはや劉氏だけのもではなく公のものだ。絶対に背いてはくれるなよ」
と語ったそうですが、奇しくも劉邦の危惧は現実のものとなったわけです。
 反乱軍は実に70万という大軍に膨れ上がり、まさに漢王朝の危機でした。ただ呉軍は領内の14歳から62歳までの男子を根こそぎ動員したそうですから兵の質は低いものでした。これに対し朝廷側は功臣周勃の息子周亜夫を大将に任命に討伐に当たらせますが、相手が大軍であるだけになかなか勝ちきることができませんでした。
 そんな中、朝廷では晁錯の政敵袁盎(えんおう)が「反乱軍は奸臣晁錯の討伐を大義名分にしているのですから、これを斬って彼らの怒りを治めるべきです」と献言します。景帝のためを思って献策した晁錯にとっては良い面の皮ですが、結局景帝は悩み抜くものの彼を処刑しました。
 ところがこのような小手先の懐柔策で反乱が収まるわけはなく、呉王はますます増長します。ついには東帝と称し漢王朝を否定するところまで行き着きました。が彼の勢いはここまででした。楚漢戦争でも争奪の的となった黄河南岸の大都市陽(けいよう)を攻めあぐみ、官軍が防御策を採った事もあって大軍だけに兵糧に困るようになります。もともと兵の質は低かったので、一時の勢いがなくなると逃亡兵が続出しました。
 漢の将周亜夫は反乱軍の疲弊を待ち一気に攻勢に出ます。反乱軍はこれを支えきれず大敗、呉王劉濞はたまらず逃亡しました。東越まで逃れたものの東越王は関わりを恐れてこれを殺害。呉王の首は長安に送られました。反乱に関わった王たちは、呉王の末路を見てある者は自害し、ある者は捕えられて刑死します。
 こうして前漢帝国を揺るがした呉楚七国の乱は終息しました。景帝は反乱鎮圧後諸侯王の領土を削り、郡統治下の県扱いになります。さらに国相(国の大臣)も中央から派遣された官僚が就任しました。こうして諸侯王が力をつけ大規模な反乱をおこす事は無くなります。王たちは、ただその土地の税収を貰うだけの存在になりました。
 景帝の治世でもっとも大きな事件は呉楚七国の乱でした。以後の政治は反乱後の傷を癒す事。景帝はそれに見事に成功し後に「文景の治」と呼ばれる黄金時代を築きます。
 彼の子である武帝があれだけ大規模な海外遠征をできたのも文帝景帝時代の国庫の蓄積があったからです。武帝の時代は確かに前漢王朝の絶頂期でした。しかし彼の時代に莫大な国庫の蓄積はほとんど放出され陰りが見え始めます。
 次回は武帝時代の栄光と陰を描きます。

前漢帝国の興亡Ⅲ    呂氏討滅   (後編)

 呂太后は甥の呂産、呂台、呂禄らを諸侯王にとりたてます。そのほか呂氏一族の多くを列侯に封じるなど我が世の春を謳歌していました。劉邦は「劉氏にあらざる者を王に立てるべからず」と遺言しています。これは韓信、彭越、英布など異姓の諸侯王が反乱を起こした苦い経験から出ていました。

 

 

 

 明らかに高祖の意思に反する呂太后の振る舞いに建国の功臣たちは不満をつのらせます。この時点での彼らの状況を記します。元勲張良、蕭何はすでに亡く蕭何の後を継いで相国となった曹参も鬼籍に入っていました。

 

 

 

 右丞相(宰相)には王陵、左丞相(副宰相)に陳平が就きます。軍政を司る太尉には周勃が任ぜられていましたが実権はありません。王陵は実直だけが取り柄でしたから呂太后が呂氏一族を諸侯王に取り立てようと下問した際にも高祖皇帝の遺言を持ち出して反対しました。このため呂太后から疎まれます。

 

 

 

 一方、陳平は呂太后の意のままに動き大変重宝がられました。しかし彼女は夫劉邦の遺言を思い出すべきだったかもしれません。劉邦は「陳平は頭が切れすぎるから警戒を怠るな」と言い残しますが、別の意味で用心する必要がありました。

 

 

 

 

 

 呂太后が恵帝の後釜に据えた少帝恭はもともと病弱だったのか間もなく死去します。これには恭が呂太后に反抗したため彼女に暗殺されたという説もあるくらいです。次に皇帝に立てられたのはどこの馬の骨かもわからない少帝弘。恭は一応恵帝の庶子だといわれますが、弘ははっきりしません。おそらく恵帝の子ではなかったと思います。呂氏一族の操り人形というだけの存在でした。

 

 

 

 

 

 日に日に専横の度合いを強める呂太后を見て、王陵は彼女に唯々諾々と従っている陳平らを責めました。

 

「君たちは先帝陛下との約束を忘れたのか?死後陛下と会った時会わせる顔があるというのか?」と激しく詰ります。

 

 

 

 それに対して陳平は「朝廷で陛下に直言できる点では貴方に及びませんが、社稷を全うし劉氏の天下を安んじられる点では私の方が貴方より優れています。今は我慢の時、まあじっくりご覧になっていなさい」と答えます。

 

 

 

 王陵は一言も言い返せませんでした。呂太后は王陵を疎んじ紀元前187年地位は高くとも実権のない太傅に祭り上げます。怒った王陵は病気を理由に辞職し屋敷に引きこもりました。7年後の紀元前180年死去します。

 

 

 

 

 

 陳平が待っていたのは呂太后の死でした。この時のために劉氏の生き残りである斉王劉襄、朱虚侯劉章兄弟(恵帝の甥)や周勃、灌嬰ら元勲たちとひそかに連絡を取り合っていたのです。

 

 

 

 

 

 一方、呂氏側も太后死後の漢朝側の反撃を警戒していました。太后の甥呂産、呂禄らに近衛軍に当たる南北軍の指揮権を与えクーデターに備えます。

 

 

 

 

 

 紀元前180年、専横を極めた呂太后は腋の病気にかかりついに死去しました。彼女は呂氏一族に元勲たちを警戒するよう言い聞かせながら亡くなったといわれます。

 

 

 

 呂太后が亡くなると、呂氏一族が皇位簒奪を企んでいるという噂が流れます。それを聞きつけ我慢の限界に達した斉王劉襄はついに立ち上がりました。反乱鎮圧には元勲灌嬰が赴きますが秘かに斉王に使者を送り「陳平・周勃らが呂氏討滅の謀を巡らせております」と言わせます。両者は戦わずに兵を引きました。

 

 

 

 

 

 呂氏一族は、灌嬰の寝返りに動揺します。陳平は人を使って呂禄に「貴方がいつまでも兵権を握っているため世の中からあらぬ疑いをもたれるのです。ひとまず領地に戻られれば身は安泰でしょう」と吹き込ませます。それを信じた呂禄が兵権を返上すると周勃がいち早く取り戻しました。周勃はそのまま南北軍の軍営に乗り込み

 

「劉氏に味方する者は左袒(左肩を脱ぐこと)せよ、呂氏に従う者は右袒せよ!」と申し渡します。

 

 

 呂氏専制に不満を持っていた兵士たちは皆歓声を挙げて左袒しました。周勃は忠誠を誓った兵士たちを引き連れ宮中に乗り込みます。不意を衝かれた呂産は未央宮で斬られ次いで呂禄その他一族もことごとく捕えられました。周勃は捕えた者たちを誅殺します。こうして暴虐の限りを尽くした呂氏一族は滅びました。

 

 

 

 

 呂氏滅亡後、群臣たちは集まって次の皇帝を誰にするか協議します。そして白羽の矢が立ったのは賢明の誉れ高い恵帝の異母弟代王劉恒。最初劉恒は呂太后時代から暗殺を警戒してなかなか信用しなかったそうです。しかし長安から何度も皇帝即位を願う使者が来たためついに断りきれずこれを受け入れます。すなわち文帝です。

 

 

 

 一方、形ばかりの皇帝少帝弘は劉恒と入れ違いに宮殿から連れ去られました。幼い皇帝は臣下に「どこへ行くの?」と尋ねたそうですが答えはありませんでした。彼は長安郊外で秘かに斬られます。

 

 

 

 文帝の治世は、安定の時代でした。それまでの混乱を治めるのに彼ほどふさわしい皇帝はいなかったでしょう。血生臭い政争の時代は終わったのです。内政は安定し、農業生産は向上しました。彼の息子景帝と共に「文景の治」と称されます。

前漢帝国の興亡Ⅲ    呂氏討滅   (前編)

 漢の高祖劉邦の皇后呂氏は、その名を雉(ち)といいました。彼女は唐の則天武后、清の西太后と並ぶ支那三代悪女の一人とされます。
 
 
 呂雉は劉邦と無名時代に結婚しました。彼女の父呂公は単父(ぜんほ 山東省単県)の有力者で、宴席で亭長という低い身分であった劉邦が「進物一万銭」とはったりをかましたのを気に入り娘を与えたといわれます。
 
 この時酒宴を仕切っていたのは後の大宰相蕭何で、呂公に「劉邦がそんな大金を持っているはずありません。どうせはったりですよ」と忠告したにも関わらず、劉邦を見て一目で気に入ったそうですから人生は分かりません。
 
 
 劉邦は、龍顔で天子の相をしていたといわれ人相の知識があった呂公はそれを観て感心したそうです。当然どこの馬の骨か分からない男に大事な娘をやるわけですから妻をはじめ家族は大反対でした。
 
 
 ところが時がたつと呂公の目に狂いがなかった事が分かります。なにしろ庶人から皇帝になったのですから。
 
 
 若いころの呂雉はつつましい妻を演じていました。任侠にかぶれ家を留守がちの夫に代わり農業や家事をこなしていたそうですが、兄嫁との折り合いが悪く苦労をしたそうです。劉邦との間には息子劉盈(後の恵帝)と娘(魯元公主、趙王張耳の息子張敖【ちょうごう】と結婚)が生まれました。
 
 劉邦が漢王になった後も、彭城の戦いの直後舅劉太公とともに項羽に捕われるなど苦労の連続でした。劉邦は負けて逃げる時息子と娘さえ捨てようとしたくらいですから妻を助ける余裕もなく、もしかしたら捨てるつもりだったかもしれません。
 
 子供二人は、劉邦が馬車から捨てるたびに御者の夏侯嬰が拾ってきました。彼がいなかったら後の恵帝は存在しなかったでしょう。劉邦は怒って夏侯嬰を斬ろうとします。それに対して嬰は「どうして大切なお子様を捨てようとなさるのですか?」と泣いて訴えました。
 
 劉邦は、「子供なんぞ生きていれば何人でもつくれるわい。それよりも今は俺が生き残る方が大事だ!」と嘯いたそうですから面白いですね。捨てられそうになった子供の立場から見るとたまったものではありませんが(苦笑)。
 ちなみにこの夏侯嬰の子孫が三国志で有名な曹操です。彼の父曹嵩は夏侯家から宦官曹騰(これも曹参の子孫と言われる)の養子になっています。
 
 
 紀元前202年、宿敵項羽を滅ぼし劉邦が天下統一を果たすと呂雉も皇后に立てられます。(以後呂后と表記)嫡男劉盈は皇太子となりました。
 ところが優しい性格の劉盈を父劉邦はあまり高く評価していないなかったようなのです。それより愛妾戚夫人(せきふじん)の産んだ如意(にょい)を溺愛していましたから呂后は気が気でありませんでした。呂后は実家の呂氏一族や信頼する相国蕭何らに相談しなんとか息子の皇太子を守り抜きました。
 その恨みが劉邦の死後戚夫人に向けられたとしても不思議ではありません。
 紀元前195年不世出の英雄高祖皇帝劉邦が崩御すると皇太子劉盈が即位しました。すなわち恵帝です。呂后は呂太后となって後見に当たる事となりました。
 ある日、呂太后は「面白いものを見せてやる」と息子恵帝を誘い出します。厠に案内された恵帝が穴を覗き込むと何やら生物らしきものが蠢いています。
 母に「あれは何です?」と尋ねると「あれは人豚じゃ」と答えました。古代支那では厠は二段式で下に穴を掘り豚を飼っていたそうです。
 よく見るとなんと戚夫人ではありませんか!手足を斬り落とされ目をくり抜き薬で耳と喉を潰された無残な姿を見て恵帝は衝撃を受けました。美しかった戚夫人の変わり果てた姿に涙を浮かべた恵帝は「何もそこまでする事はないではありませんか!」と抗議します。
 しかし呂太后は「馬鹿者、この女のせいでそなたは皇太子の位を剥奪されそうになったのじゃぞ。これは当然の報いじゃ」と冷然と言い放ったそうです。
 同じころ夫人の息子趙王如意も呂太后の命で毒殺されました。もともと柔弱だった恵帝は母の残忍な所業を受け精神がおかしくなったのでしょう。以後まともに政治を執らなくなり酒色に溺れ体を壊します。わずか23年の生涯でした。
 呂太后は、戚夫人母子だけではなく恵帝のライバルになりそうな劉邦の庶子を次々と殺そうとします。まさに鬼女ですが、彼女なりに息子の行く末を案じていたのでしょう。しかしその甲斐もなく息子恵帝は即位後わずか7年で死去しました。恵帝の葬儀の際、呂太后は涙を見せなかったといわれています。
 その事実を元勲張良の息子張辟彊(ちょうへききょう)から知らされた左丞相(副宰相)陳平は、漢帝国の行く末を案じます。宮中に参内した陳平は心とは逆に呂太后に実家の呂氏一族を重く用いる事を進言しました。
 重臣陳平からお墨付きを得た呂太后は大っぴらに一族を重用し始めます。恵帝の後継は彼の遺児少帝恭が即位しました。幼少の皇帝に政務をとれるはずもありませんから、実際には呂太后の専制政治が始まります。
 彼女は、各地に封じられていた劉邦の庶子を次々と暗殺し代わりに呂氏一族を王に封じました。
 漢帝国は一体どうなってゆくのでしょうか?王朝の危機に生き残った元勲たちはどう動くのか?後編では彼らと呂氏一族との戦いを描きます。

前漢帝国の興亡Ⅱ    功臣粛清

 建国の功臣の問題は、王朝が創業期から守成期に移行するにつれ深刻になってくるのは世の常です。
 文官ならば守成期に入ってからの方がますます活躍できるでしょうが、武官はそうはいきません。創業期に拡大した軍隊は守成期に入ると普通減らされますし、いつまでも将軍が軍隊を握っていては王朝の統治体制に不都合なのです。
 支那の歴史上一番上手く処理したのは宋の太祖趙匡胤でした。彼はその人柄で将軍たちを平和裏に引退させ高額の年金を約束して彼らを労います。一方、最悪だったのは明の太祖洪武帝(朱元璋)で建国の功臣たちを殺し尽くし連座して殺されたものは少なく数えても数万、おそらくは十万人以上の犠牲者が出たとも云われています。
 
 漢の高祖劉邦はどうだったでしょうか?彼の場合朱元璋ほど徹底してはいませんが、やはり結局は武断的な処理になりました。というのも彭越にしても英布にしても、もともとは楚政権の中での同僚にすぎずたまたま時勢の変化で劉邦に従ったに過ぎなかったからです。 
 一方、巨大な勲功をたて大国斉の主となった韓信も劉邦陣営に中途参加し楚漢戦争中の怪しい動きもあって警戒される存在でした。
 劉邦が心から信頼したのは、挙兵以来の仲間ともいうべき蕭何、曹参、夏侯嬰、樊噲、盧綰、周勃らと、中途参加ながら欲がなく人から好かれていた張良、同じく中途参加ながら人間関係に細心の注意を払い疑われなかった陳平らでした。
 論功行賞では、韓信が斉から横滑りして項羽の旧領楚王、彭越は梁王、英布が淮南王に封じられます。前漢初期の地図を見ればわかりますが王朝の直轄地よりこれら諸侯王の領地の方が大きかったのです。王朝の安定にとってこの状況が良くないのは自明の理です。
 一方、沛以来の古参グループは最大でも曹参で一万六千戸程度の平陽侯、もと韓の宰相の家柄張良でさえ一万戸の留侯でした。
 皇帝の直轄領(郡)と諸侯王の国が並立する体制を郡国制と呼びます。漢王朝はこれら潜在的脅威を持つ諸侯国との暗闘から始まったとも言えます。
 紀元前202年高祖即位の年、最初に反乱を起こしたのは燕王(現在の北京付近)臧荼(ぞうと)でした。韓信が河北侵攻した時に降伏しただけでしたので、新参の外様として王朝から無言の圧迫を受けていたのでしょう。
 臧荼の反乱は簡単に鎮圧されます。燕王には劉邦の幼馴染盧綰が新たに任ぜられました。
 次に狙れたのは楚王韓信です。あるとき劉邦に「韓信は謀反を企んでいる」と讒言した者がいました。劉邦もかねてから疑っていた事もあり謀臣の陳平に相談すると
「韓信は戦上手で例え皇帝が親征されても勝ち目はありません。ここは騙して捕える方が良いでしょう」
と答えました。
 そこで劉邦は、巡幸と称して楚に赴き韓信に出迎えるように命じます。何も知らない韓信はのこのこと出かけて行き、その場で捕われました。劉邦は大功ある韓信を殺すに忍びないと、王位を剥奪し淮陰侯に格下げするにとどめました。
 この時はたして韓信に叛意はあったのでしょうか?私はなかったと思います。韓信は軍事には天才的でしたがそれ以外の特に政治的な能力は皆無でした。劉邦に対して背くなら一番効果的だったのは韓信が斉を攻略した直後。この時なら項羽との対決で身動きが取れない劉邦は何もする事が出来ず、劉邦、項羽に匹敵する第三の勢力を築くことも可能だったはずです。実際、蒯通(かいとう)という男が自立を勧めていました。
 韓信は、功績のある自分が楚王という大国の主になったのも当然だと思っており劉邦に対しても自分を取り立ててくれた事を恩に感じていました。自分の立場が漢王朝に対して危険な存在だとは夢にも思わなかったのです。以後、韓信は長安の自邸に引きこもり鬱々と楽しまなくなりました。
 翌紀元前201年、匈奴に攻められた韓王信(韓信とは別人。旧韓の王族出身)が冒頓単于と勝手に休戦交渉していたのを疑われ匈奴に亡命する事件が起こります。劉邦は親征し韓王信を破りますが、匈奴のために白登山で包囲されました。劉邦は、匈奴と不利な条約を結び命からがら逃げ帰る始末でした。
 紀元前196年、鉅鹿太守陳豨(ちんき)が反乱をおこします。実は陳豨は韓信を尊敬しており任地に出立する前挨拶に来ていました。
 その席で韓信は、「自分は功績をあげたのに領地は取り上げられ今ではこのように逼塞している。もはや劉邦に忠誠心はない」と言い放ち陳豨に策を授けていたのです。
 陳豨に鉅鹿で反乱を起こさせ、劉邦が討伐で長安を留守にした隙に自分が立ち上がってこれを抑えるという作戦でした。 
 しかしなぜ今この時期なのでしょうか?韓信は自暴自棄になっていたのかもしれません。韓信が長安で挙兵しても警戒されている中でどれくらいの兵が集まったでしょうか?
 劉邦は、韓信の目論み通り反乱を鎮圧するため長安を出立します。しかし韓信に恨みを抱いていた下僕が留守を預かる呂后に密告したのです。仰天した呂后は相国(宰相、丞相より格上)蕭何に相談します。
 蕭何は、「陳豨が討伐されたと嘘の報告をさせ韓信が祝賀を述べに来たところを捕らえなさいませ」と助言しました。
 噂を聞き反乱が失敗したと悟った韓信は病気と称して自邸に引きこもりますが、蕭何から「疑いを晴らすためにも参内した方が良い」と促され、出てきたところを逮捕されました。
  韓信は劉邦の帰還を待たずにその場で処刑され三族ことごとくが斬られます。あまりにもお粗末な反乱劇でした。一説では韓信は自分を引き立ててくれた蕭何だけは信用し、何の疑いも抱かなかったそうですから哀れを誘います。韓信は死の間際、「あの時蒯通の勧めに従っていたらこんな事にはならなかったのに」と嘆いたと伝えられます。
 反乱を鎮圧し帰還した劉邦は韓信謀反の顛末を知らされ悲しみますが、韓信の言葉を聞き激怒しました。探し出された蒯通は謀反人として処刑されそうになります。しかしこの時堂々と陳弁したため命は助けられました。
 後に蒯通は「自分の弁舌で天下を動かす事は出来なかったが、ただ自分の命を救う事だけはできた」と自嘲したそうです。
 梁王彭越は、陳豨の反乱の時出陣を促されながら病気と称して出兵せず劉邦から問責の使者を受けます。部下は劉邦に疑われた以上生きれないと覚悟し彭越に反乱を勧めたそうですが立ち上がらなかったところを見ると本当に病気だったのかもしれません。
 そのうち彭越は偽って捕えられました。最初は殺すつもりの劉邦でしたが彭越の長年の功績を考え命を助けて蜀(四川省)への流罪で済ませようとします。彭越は、呂后に泣きつき「自分は年老いており野心もありません。できれば故郷の昌邑で隠棲したのです」と劉邦へとりなしを頼みました。
 呂后は、その場では彭越に同情した様子を見せましたがいざ劉邦の前に出ると「彭越は野心家です。生かしておけば危険な存在ですから、即刻処刑なさいませ」と逆の事を訴えました。
 彭越ほどの男でも、呂后の残忍な性格を見抜けなかったのですから耄碌していたのでしょう。結局呂后に押し切られ彭越は斬刑に処せられました。
 韓信、彭越と次々と粛清され最後に残ったのが淮南王英布です。英布は生き残りをかけてついに反乱に乗り出します。劉邦はこの時も自ら兵を率いて鎮圧に向かいました。一時は劉邦が流れ矢を受けて負傷するほどの激戦でしたが、結局英布もまた敗れます。その後妻の兄弟である長沙王呉臣のもとに逃げ込みますが、連座を恐れた呉臣は逆にこれを謀殺しました。時に紀元前195年。
 英布の反乱を鎮圧した劉邦は、その時受けた矢傷が悪化し亡くなります。死の床で呂后から自分の死後の事を問われ
 「後事は相国の蕭何に任せろ。その後は曹参が良い。次は王陵だ。ただしあの男は愚直だから陳平に補佐させるがよかろう。陳平は頭が切れすぎるから警戒を怠るな。社稷を安んじるものは必ずや周勃であろう」
 と答えます。呂后は「さらにその後は…」と問いかけますが、「その後の事はお前の知った事ではない」と怒ったそうです。
 
 その後の歴史を鋭く言い表していてあまりにも出来すぎな遺言です。不世出の英雄漢の高祖劉邦の没年は紀元前195年6月1日だったと伝えられています。

前漢帝国の興亡Ⅰ    漢の高祖劉邦   (後編)

 楚漢の攻防は、劉邦が関中から出てきては項羽に叩かれ関中に戻って再び勢力を盛り返してはまた叩かれるといういたちごっこでした。
 
 実際の戦闘では武勇を誇る項羽にとても敵わなかったのです。そこで劉邦は、外交で項羽を孤立させる策を取ります。単体で十分に強い項羽は他国との同盟をほとんど考慮しなかったためこの作戦は効果的でした。
 もともと項羽派の英布や、項羽とは常に敵対してきた彭越もこの時の外交攻勢で味方に付きました。このころ張良と並び称される謀臣陳平が劉邦幕下に加わりました。韓信にしても陳平にしても元々は項羽の家臣でした。ところが項羽は人材を生かすということをしないため次々と有能な人材を去らせます。そればかりか唯一の謀臣と言っても良い范増さえ煙たく思うほどでしたから救いようがありません。
 
 まともに戦っては項羽に勝ち目がないと悟った劉邦は、黄河南岸の大都市に籠ってひたすら守りに徹する作戦に切り替えます。一方、韓信に別働隊を率いて魏や趙を攻撃させ楚の後方撹乱を図りました。
 漢軍の主力は劉邦が握って離さないため、韓信はわずか数千の兵しか与えられませんでした。しかし韓信は少数の軍を巧みに機動させまず山西の魏を滅ぼし、続いて趙に進軍します。この時「背水の陣のエピソード」が起こりますが長くなるので割愛します。(井陘の戦い
 
 韓信は、各地を平定してようやく大きな兵力を握るとそのそばから負けて逃亡してきた劉邦にごっそりと兵力を持って行かれるという繰り返しでしたがよく我慢したものです。それでも各地を転戦し黄河以北はほとんど独力で平定してしまいました。
 
 劣勢の劉邦は、謀臣陳平の策を採用し范増と項羽の離間を実行します。項羽の使者をわざと范増の使者と間違え明らかに范増の使者を優遇したり、楚軍内部に流言を放ったりして二人の仲を次第に裂きました。
 亜父(あほ、父に次ぐものという意味)と尊称され優遇されてきた范増老人でしたが、自分が疑われ献策しても受け入れられないと悟ると引退を申し出ます。范増は故郷に帰る途中、怒りが原因で腫れ物を悪化させ病死しました。
 
 楚漢の戦いは滎陽を巡る攻防で終始しますが、紀元前204年ついに陥落します。この時劉邦の危機を救ったのは山東方面で蠢動する彭越でした。この漁師上がりの盗賊を項羽は嫌いぬきます。決して項羽と正面からぶつからずゲリラ戦を仕掛ける彭越は、項羽の目の上の瘤でした。
 
 彭越の活躍で死地を脱した劉邦は、韓信に腹心の曹参と灌嬰(かんえい)をつけて斉を攻めさせました。また幼馴染の盧綰(ろわん)と従兄弟の劉賈(りゅうか)を項羽の本拠地楚に派遣し後方撹乱を行わせます。
 紀元前203年、韓信は兵を率いて斉を滅ぼしこれで黄河以北はことごとく劉邦陣営になりました。項羽も韓信の動きを無視できなくなり将軍竜且(りゅうしょ)に二十万の兵を授け韓信を討たせます。しかし逆に濰水の戦いで韓信のために一敗地にまみれ竜且は捕えられ斬刑に処されました。
 
 楚漢の戦いは、項羽のいる戦場では楚の圧勝、しかしそれ以外では次第に劉邦陣営が勢力を伸ばしつつありました。
 
 同紀元前203年。両雄は河南の広武山で対峙します。この時項羽は人質に取っていた劉邦の父や、妻呂氏を盾に降伏を迫ったそうですが、これは劉邦に拒否されます。
 
 実は、広武山の陣地のうち漢軍側が占める山上には兵糧がたっぷり蓄えられており、一方楚軍の陣地はそれがありませんでした。後方の彭城から兵糧を運ぼうにも途中を彭越のゲリラ兵に襲われるため次第に兵糧に困るようになっていきます。もちろんそうなるように劉邦が食糧庫のある山上を先に占領していたのです。
  項羽は、このままではじり貧になってしまうと危惧し一旦和睦して彭城に戻る事を考え始めます。一方、対峙に疲れ果てている漢も項羽の申し出は渡りに船でした。
 
 両軍は、広武山を国境としその西を漢が、東を楚が治める事となりました。和睦が成立すると項羽は兵を率いて戦場を去りました。劉邦も兵を西に返そうとします。
 ところが、張良と陳平は共に劉邦の袖をとらえて進言しました。
 「今こそ、天が与えた好機です。このまま楚軍を追撃なさいませ」
 信頼する謀臣二人が同じ事を進言したので劉邦は関中に戻るのを止め楚軍を追いました。同時に彭越と韓信にも項羽追撃に加わるよう使者を出します。
 
 しかし二人は言を左右にして出兵を渋りました。張良と陳平は彼らが恩賞の約束がないから渋っているのだと悟り、劉邦に進言します。最初は激怒していた劉邦ですが、二人の進言を容れ渋々ながら彭越には梁の地を、韓信には斉を与えると宣言しました。現金な事に恩賞が約束されると両者はすぐに出兵します。
 
 恩賞を約束した時の劉邦の暗い顔を眺めていた張良は、韓信も彭越も先は長くないと思ったと伝えられます。
 
 大軍に兵法なしと言われます。数十万に膨れ上がった劉邦軍は、疲弊しきっていた楚軍を追撃しついに彭城を落としました。局所的にはさすが項羽の武勇で敗北する事もありましたが、数に物を言わせて押し切ります。
 項羽はひとまず江南に落ちて再起を図ろうと南下し垓下というところで漢軍に包囲されました。
 
 この時城を囲む漢軍の中から懐かしい楚の歌が聞こえてきました。それを聞いた項羽は、故郷楚の地はことごとく漢によって占領されたのだと嘆きます。(四面楚歌)これは陳平の策だったともいわれますが、ともかく項羽の抗戦意欲を削ぐ効果は抜群でした。
 
 その日の夜、別れの宴を開いた項羽は史記にも記されている有名な詩を吟じ舞います。
 
 「力山を抜き 気世を蓋う
 時利あらずして 騅逝かず
 騅の逝かざる 奈何すべき
 虞や虞や 若を奈何せん」
 
 これには群臣も皆涙を流しました。項羽は愛妾虞美人を刺殺し手勢八百あまりを引き連れ夜陰に紛れ城を出ます。
 夜明けには漢軍も項羽の脱出に気付き灌嬰が五千騎の騎兵を率いてこれを追撃しました。烏江のほとりに達した時項羽主従はわずか二十八騎に減っていたと伝えられます。
 
 烏江の亭長は「今長江の渡し船はここにしかありません。項王には江東に逃れられ再起を計られませ」と勧めました。
 しかし、項羽は亭長の申し出に感謝しつつも「かつて私は江東の若者八千を率いて長江を渡った。しかし今私一人しかいない。江東の人々は再び私を王として迎えてくれるかもしれないが、何の面目があって彼らに会う事が出来ようか?」と答えます。
 そして、礼として名馬騅を亭長に与え再び漢軍の中に突撃しました。
 
 項羽は一人で敵兵数百人を倒しますが、手傷を負いついに最期の時を迎えます。敵兵の中に旧知の呂馬童を見つけると
「漢は私の首に千金の恩賞と一万戸の封邑を掛けているという。旧知のお前に手柄を授けてやろう。」
と自ら首を撥ねました。
 
 ここに不世出の英雄項羽は亡くなりました。恩賞に目がくらんだ兵士たちは項羽の死体に群がり結局呂馬童ら五人がそれぞれ項羽の死体の一部を持ち帰ります。恩賞は五等分され彼らに与えられたそうですが、人間のあさましさを見た思いがします。劉邦は、項羽の死体を一つに集めると丁重に葬ったと伝えられます。
 
 こうして紀元前202年、劉邦は天下統一し皇帝に即位しました。すなわち前漢、後漢合わせて四百年の治世の始まりです。
 国号はそのまま「漢」としました。王朝の創始者劉邦は死後、高祖皇帝と諡(おくりな)されます。

前漢帝国の興亡Ⅰ    漢の高祖劉邦   (中編)

 楚の懐王は最初に関中に入った者を関中王に封ずると宣言しました。楚の主力軍を率いる項羽は黄河を渡って河北で秦の正規軍と戦っていたため貴重な時間を潰しました。ただ最精鋭の軍隊を持っていたため秦軍との戦闘が解決しさえすればもっとも有利であったともいえます。
 
 
 一方、劉邦軍は寄せ集めの悲しさから黄河の南、河南地方をうろついているだけでした。韓の歴代宰相を輩出した名門出身の張良が劉邦軍に加わったのは劉邦が沛公になって反秦連合軍に加わった直後だと書きました。
 
 張良は若年ながらかつて始皇帝の暗殺を試みたほど胆力を持った人物でしたが、劉邦はこの張良を気に入り彼の言う事はほとんどすべて受け入れます。張良は河南地方に土地勘があるためにまともに函谷関を突破するのは不可能だと悟り一旦南の南陽地方に出てから搦め手の武関から関中に入る策を進言しました。
 
 
 劉邦は自軍の弱さを知っていたため項羽のように敵を殲滅する事をせず降伏を勧めなるだけ戦闘を避けながら関中に駒を進めます。ちょうどその頃項羽が秦の主力軍を降伏させたという悲報が秦の宮廷に入りました。
 
 
 始皇帝亡き後、暗愚な二世皇帝胡亥を操って国政を壟断していた宦官趙高は、敗戦の責任を皇帝に問われる事を恐れ逆に兵を率いて宮廷に乱入しました。混乱の中二世皇帝は自殺します。
 
 趙高は、胡亥の兄の子公子嬰を担ぎ出しもはや皇帝足る実態なしとして秦王として即位させました。しかし逆に公子嬰は乱臣趙高を誅殺し自立します。結果論ですが、二世皇帝に胡亥ではなく公子嬰がなっていれば秦は滅びなかったかもしれないと思えば惜しい気がします。
 
 秦本国が大混乱に陥る中、武関を降して関中に入った劉邦軍は十万に膨れ上がっていました。首都咸陽を望む覇上に布陣します。
 
 子嬰は抵抗の無駄を悟り、白い死装束、首には秦王の印綬を掛けて覇上に赴き降伏を申し出ました。劉邦はこれを許し紀元前206年、秦は名実ともに滅亡します。
 
 
 劉邦は、略奪で人心を失うのを恐れ秦の府庫を封印し軍を覇上に返します。ただこの時蕭何は宮中の書庫にあった戸籍、秦の法令、地図などを持ち出しました。彼の趣味という一面はありますが、この時の書類が後の漢帝国建国に大いに役立った事は言うまでもありません。
 
 
 項羽は四十万という大軍で函谷関へ達しようとしていました。大軍に膨れ上がったため兵糧が不足がちになった項羽軍では、降伏して嫌々従っていた秦兵の間に不満が渦巻きます。項羽はこの不満分子を計画的に始末する狡猾な策を実行しました。あるとき秦兵の宿営地に深夜三方から鬨の声が上がります。パニックに陥った秦兵たちは声の上がっていない一方に向けて殺到しました。しかしそこには深い崖がありました。後から後から逃げてくる者たちに押され秦兵たちは次々と崖に落ちます。夜が明けるとそこには崖をうずめた秦兵二十万の死体と、せっせと崖を埋める楚兵の姿がありました。
 
 生き残ったのは章邯、司馬欣、董翳ら秦軍の幹部クラスのみ。この時の衝撃で章邯は精彩を欠くようになります。
 
 
 ところで、項羽軍が函谷関へ迫る中関中を平和裏に手中に収めた劉邦に「函谷関を閉じてしまえば項羽は関中に入れません」と小賢しい進言をした者がありました。しかしこんな小細工が通用するはずもなく、かえって項羽の怒りを買い項羽は劉邦を殺すつもりで鴻門というところに呼びつけました。
 
 
 
 出かければ確実に殺されます。それは従者も同様でした。そんな時項羽の叔父項伯が秘かに劉邦陣営の張良を訪ねます。かつて張良に命を助けられた事があり、彼が劉邦と共に殺されるのが忍びなく逃亡を勧めに来たのでした。
 
 
 張良は、項伯を伴い劉邦に引き合わせます。項伯としては張良を助けるつもりが成り行き上劉邦と義兄弟の杯を交わされ劉邦主従の命を助ける羽目になりました。
 
 
 鴻門では項羽と劉邦が対面して座り、左右に張良と項伯が控えました。最初の項羽と謀臣范増の打ち合わせでは項羽の目配せで刺客が討ち入り劉邦主従を殺す手はずでしたが、張良から策を授けられた項伯が巧みにそれをかわしなかなか機会が訪れませんでした。
 
 范増は、余興の剣の舞にかこつけて劉邦を斬る作戦に切り替えますが、今度は項伯が立ち上がり同じく剣の舞を舞って邪魔しました。
 
 
 酒宴の最中、劉邦は言葉の限りをつくして自分が項羽に敵対する意思の無い事を陳弁します。そこへ劉邦の家臣樊噲が乱入し決死の覚悟で項羽を説得しました。范増は何度となく項羽に目配せしますが、この時項羽は劉邦を殺す意思を失ったのだと思います。自分に敵対する者には容赦しないが、憐みを乞う存在に対しては甘いという悪い癖が出たのです。
 
 
 間もなく劉邦は、項羽に暇乞いをして虎口を脱しました。これを世に「鴻門之会」と称します。
 
 
 劉邦の降伏を受け入れた項羽は、約束だった関中王を反故にし四川と漢中地方(陝西省南部)だけを領土とする漢中王に封じました。関中の残りの地は章邯ら降伏した秦将三人に与えます。
 
 
 項羽は、咸陽に入ると降伏していた秦王子嬰を殺し財宝を略奪し宮殿に火を放ちました。その劫火は三カ月も沈火しなかったそうですから誇張があるにしても凄まじいものでした。有名な始皇帝陵もこの時項羽に暴かれ略奪されたそうです。
 
 
 范増は天下を統べるためには関中の地を離れるべきではないと進言しますが、項羽は故郷に錦を飾りたかったのでしょう。彭城を中心に九郡を治め西楚の覇王を名乗ります。項羽の論功行賞には露骨な差別がありました。功績がある者でも項羽と関係が深くないものには薄く、逆に関係が深い者は優遇されました。
 
 これが諸将に不満をいだかせる原因となり、後々項羽を苦しめる事となっていきます。翌紀元前205年項羽は義帝に祭り上げていた懐王を暗殺します。これも人心を離れさせる大きな要因でした。
 
 
 一方、僻地の漢中に追いやられた劉邦軍では山道を進む中次々と逃亡兵が出ます。将来性の無い劉邦を見限ったのでしょう。そんな中、最も信頼する腹心蕭何までもが逃亡したと聞いて劉邦は激怒します。追いかけて捕まえさせると劉邦は時には怒鳴り、時には泣きながら蕭何を責めました。
 
 ところが蕭何が言うには、自分は逃げたのではなく、逃げた一人の男を捕まえに行ったとのこと。話を聞いてみるとそれは韓信という男で、劉邦が覇業を成すには絶対に必要な人材だと蕭何は主張するのです。
 
 
 初めは逃亡の口実だと疑った劉邦ですが、蕭何があまりにも真剣なので男と会ってみる事にします。そこで初めてなかなかの人物だと認めた劉邦は、蕭何の推挙もあり韓信に大将軍の位を授け全軍の指揮を任せました。
 
 
 一度決めると思いきりがいいのが劉邦の良いところですが、韓信は劉邦の期待に応え項羽の去った後再び取って返し関中を分割統治していた章邯ら三王を滅ぼし瞬く間に関中を回復しました。
 
 
 漢中を治める王という事で劉邦はこのころ漢王と称します。後にこれが帝国の国号となり民族の名前になるのですから面白いですね。
 
 
 項羽が義帝(懐王)を暗殺したという事件は、劉邦にとって項羽を討つ大義名分になりました。関中の本国を丞相(宰相)となった蕭何に守らせ、劉邦は函谷関から東へ打って出ました。
 
 蕭何は、関中を上手く治め劉邦が負けても負けても兵力と兵糧を供給し続け後に勲功第一に挙げられます。
 
 
 紀元前205年、山東の斉の反乱を鎮圧するため本拠彭城を留守にしていた項羽の隙をついて劉邦は諸将の連合軍五十六万を率い彭城に入城しました。ところが急報を受けた項羽は精兵三万だけを選抜し戻ってきます。
 
 
 大軍で安心しすっかり弛緩しきっていた連合軍は、怒髪天を突く勢いで急行してきた楚軍に大敗し四散しました。この戦いは項羽の武勇を際立たせただけに終わりましたが、劉邦の父劉太公と妻呂氏まで捕虜になったくらいですから壊滅と言ってもよいものでした。
 
 劉邦も命からがら逃亡し、滎陽(ケイヨウ、河南省滎陽市)にいったん落ち着きます。
 
 
 この後項羽の楚と劉邦の漢は血で血を洗う抗争に入っていきます。次回楚漢の攻防、項羽の死、劉邦の天下統一を描きます。

前漢帝国の興亡Ⅰ    漢の高祖劉邦   (前編)

 紀元前221年、戦国時代の支那大陸を統一した秦王政は自らの帝国が永遠に続く事を願って始皇帝と名乗ります。しかし過酷な法家思想による専制支配は長く続かず統一国家はわずか三代14年で滅びました。
 
 始皇帝は天下統一を果たすとそれまでの王を超える皇帝の権威を示すため各地に巡幸しました。会稽あるいは下相(江蘇省徐州の東南100キロあたり)での出来事ともいわれますが、始皇帝の大行列を丘の上から眺めていた一人の若者が突然叫びます。
 
 「我取って代わるべし!」
 
 隣で見ていた彼の叔父は仰天し「一族皆殺しになるぞ!」と慌てて彼の口をふさいだそうです。この若者の名を項羽(羽は字、本名は籍)、その叔父を項梁といいました。かつて秦に滅ぼされた楚の名族出身で、項羽の祖父項燕は滅びゆく祖国を支え秦の大軍と戦って殺された楚の将軍でした。
 
 
 一方、秦の首都咸陽に徭役で駆り出されていた時始皇帝の行列を見かけた一人の男は「大丈夫たる者、ああ成りたいものだなあ」と感嘆したそうです。この男の名を劉邦と呼びます。
 
 
 司馬遷の記した史記に載ってるエピソードですが、後に秦末の混乱期を台頭し天下を争う二人の英雄の性格を上手く言い表していて興味深い話です。
 
 
 
 
 彼らの活躍を描く前にまず一つの事件から書き起こさなければなりません。紀元前209年7月といいますから、始皇帝が巡幸先で崩御し二世皇帝が即位した直後のことです。
 
 
 徐州の南100キロ足らずの大沢郷というところが舞台でした。徭役で駆り出された農民の一団が長雨にたたられその場に立往生します。秦の法律では期日までに咸陽に到着しなければ全員死刑でした。どうせ殺されるなら一か八か立ち上がって反乱をおこそうという気分を農民たちが持ったとしてもおかしくありません。農民たちは引率する秦の役人を殺し秦に反旗を翻します。この支那史上初の農民反乱の指導者を陳勝・呉広といいました。
 
 
 文字通り鋤鍬を武器とした蜂起でしたが、秦の専制支配で人心が既に離れていたのでしょう。反乱は燎原の火のように広がり各地で秦の討伐軍を破る勢いでした。 陳勝呉広の乱は、反秦の志を持つ各地の野心家たちを糾合します。会稽郡呉県(江蘇省蘇州市)では、項梁と項羽が郡太守を斬って立ち上がりました。一方、徐州の北70キロの沛県(江蘇省徐州市沛県)でも亭長という田舎の警察署長のような卑役についていた劉邦が、周囲に推戴されこれも県令を斬って自立します。この時劉邦48歳。
 
 
 劉邦という人物は貧しい農民から立ち上がって天下を取るという大出世を成した人物だというイメージがありますが、調べてみるとある程度の土地をもった小地主の息子だったようです。若いころから任侠の道に投じ家業を嫌い町をふらついていました。そんなときに劉邦と任侠の契りを結んだのが狗肉売りの樊噲(はんかい)、葬儀屋の周勃、幼馴染の盧綰(ろわん)、県令の御者をやっている夏侯嬰(かこうえい)らでした。
 
 一方、県の書記をしていた蕭何(しょうか)や獄吏の曹参(そうしん)らは同郷の劉邦を保護し陰に日向に助けます。
 
 
 陳勝呉広の乱をうけて地方の顔役である劉邦を推戴し混乱期に当たろうと考えたのは蕭何らだったといわれています。漢創業の功臣たちがこの時期に劉邦のもとに集まってきていたのは面白いですが、県令にその有能ぶりを認められ中央の役人に推挙しようと言われた蕭何さえ秦帝国の行末を見限っていた事実は興味をそそられます。
 
 
 
 陳勝らの挙兵から二カ月後、江南で兵をあげた項梁らは精兵八千を率い反乱に合流すべく長江を渡りました。しかし一時は秦の首都咸陽を脅かすほどだった反乱軍も秦に章邯(しょうかん)という名将が登場した事により雲行きが怪しくなってきます。
 
 章邯は少府という租税を扱う文官でしたが、祖国の危機に始皇帝の陵墓建設に駆り出されていた囚人二十万を赦して軍隊にする事を献策して容れられ自ら将軍となって討伐に当たりました。
 
 そのころ陳勝は楚の旧都陳で即位し盟友の呉広を仮王としていましたが、内紛で呉広は誅殺され陳勝自身も部下に殺されわずか半年で反乱は瓦解しました。
 
 
 陳勝らの自滅で図らずも反秦の盟主的立場に立たされた項梁は、そのころ自軍に加わった范増(はんぞう)の策を採用し羊飼いをしていた楚王の末裔を探し出し懐王と名乗らせました。項梁は楚の復興を大義名分にして秦に対抗しようというのです。項梁は武信君と名乗り傀儡の楚宮廷とは一線を画しました。このころ沛公劉邦も手兵二千を率いて項梁軍に加わります。
 
 
 反秦勢力の盟主となった項梁でしたが、紀元前208年章邯に定陶で敗北し戦死してしまいました。項梁の軍は甥の項羽が引き継ぎますが、皮肉なことに項梁が作った楚の傀儡政権はかつての楚の旧臣たちが集まり宮廷を成していました。楚の宮廷を主導するのは項氏よりも名門貴族であった宋義。項梁健在の時には彼に一目置いていた宋義も若造の項羽を侮り項羽から実験を奪おうとします。
 
 宋義は、諸将を集め最初に関中(秦の首都咸陽を含む函谷関以西のいわゆる関中盆地)に入った者を関中王にすると宣言しました。一方、主力軍を率いる項羽に対しては関中とは別方向である黄河を渡った河北の趙の救援を命じます。
 
 そのころ章邯率いる秦の主力軍三十万は秦末に再興した趙の都邯鄲に近く当時趙王がいた鉅鹿を包囲していました。この鉅鹿攻防戦が反秦闘争の天王山になる事は衆目の一致するところでした。
 
 
 項羽は七万の兵を率い北上しますが、黄河を渡る前に宋義が同じく秦末に再興した山東の斉と通じている事実を知り激怒します。急遽楚の都彭城(徐州市)に取って返した項羽は裏切り者の宋義を一刀のもとに斬り殺しました。
 
 
 この暴挙に震え上がった楚の諸将は以後項羽の威を恐れ唯々諾々と従うようになります。項羽に実権を取り戻す范増の策だったともいわれますが真相は分かりません。ともかく項羽は懐王を再び傀儡の地位に戻し楚軍の主催者となりました。
 
 
 項羽自身も鉅鹿が天王山であるという認識は持っていましたから、混乱を治めると再び軍を率い北上します。黄河を渡った時項羽は兵船をすべて焼き払わせ背水の陣の覚悟を将兵に持たせたといわれます。鉅鹿は秦の大軍に十重二十重に包囲されていました。
 
 項羽は、そこへ自ら先陣を切って突撃します。風のように襲いかかった楚軍は、遮二無二秦軍の陣地を陥れ次々と敵を求めて動き回りました。項羽率いる楚軍の底しれぬ武勇に大軍であった秦軍は混乱します。
 
 このころ章邯は、功績をあげすぎた事で秦の宮廷から疑われて嫌気がさしていたため戦意を失っていたともいわれます。章邯は側近の勧めで項羽に降伏しました。
 
 
 項羽は意外にも章邯の降伏を許し命を助けます。項羽という人間は敵対する者には容赦しませんが降伏し哀れみを乞う人物に対しては優しいという意外な一面を持っていました。
 
 
 ともかく秦の主力軍を撃破した事は項羽の威勢をいやがうえにも増しました。戦後項羽のもとに伺候した趙の実力者陳余、張耳もその他の諸将も項羽の威を恐れさながら臣下のようであったと伝えられます。
 
 
 項羽は、降伏した秦軍を加え関中に向けて進軍を開始しました。しかし一足先に関中盆地に入った者がいます。別軍を率いた劉邦でした。
 
 劉邦は、自軍に参加した旧韓の宰相家の名門張良(字は子房)の知恵で防備の固い函谷関を避け、裏口に当たる武関を通って関中に入るルートをとりました。
 
 
 次回は河南を転戦し先んじで関中に入った劉邦の苦闘、項羽との対立、鴻門之会、楚漢の激闘を描きます。

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