前漢帝国の興亡Ⅴ 武帝の時代
前漢帝国全盛期を築いたのは景帝の九男で7代皇帝を継いだ劉徹です。後に武帝(在位BC141年~BC87年)と呼ばれます。
もともと彼の母王美人(美人は後宮の位)は名もなき后のひとりでした。最初景帝の皇太子は皇后栗夫人の産んだ長兄劉栄でした。ところが栗皇后は景帝の同母姉館陶公主と仲が悪く弟に王美人の産んだ劉徹を太子にするよう勧めます。栗皇后はあまりの悔しさに憤死したと伝えられます。劉栄自身も謀反の疑いを持たれ後に自決しました。
武帝は、館陶公主の産んだ娘を皇后に迎えました。しかしいとこ同士の政略結婚であったためこの陳皇后とは仲が悪く後に離婚しています。
武帝は治世の最初、郷挙里選という官吏任用法を採用し董仲舒の献策で五経博士を設置するなど内政を整えました。というのも彼の宿願であった外征に向けての準備のためです。漢王朝は劉邦が白登山で包囲されて以来匈奴との間に屈辱的な外交関係を結ばされていました。匈奴を兄、漢を弟とし毎年莫大な貢物を贈っていたのです。
超大国漢の主として武帝は我慢なりませんでした。まず匈奴に対する包囲網をつくるため、かつて匈奴に追われて西に走っていた月氏と同盟を結ぶべく張騫を派遣します。この同盟は、月氏が豊かな大夏(トハリスタン)を征服し安定期に入っていたため失敗します。後に大夏の月氏のうちからクシャン朝が誕生し中央アジアから西北インドにまたがる大帝国を築いた事は以前書きました。
しかし、西域への外交使節派遣で中央アジアの国際情勢が分かり大宛(フェルガナ盆地)で優秀な軍馬が手に入るようになった事は武帝を喜ばせます。こうして万全の準備を整えた武帝は大軍を派遣し匈奴を討たせました。
武帝の匈奴遠征で活躍したのは二人の将軍です。一人は愛妾衛夫人の弟で元奴隷身分であった衛青。そして彼の従兄弟霍去病(かくきょへい)。
衛青は、閨閥で引き立てられた印象が強いですが最初はそうであってもその実力で名声を勝ち取りました。霍去病の場合は最初から天才肌でその水際立った騎兵戦術で強力な匈奴の騎兵軍を圧倒します。車騎将軍衛青、驃騎将軍霍去病を車の両輪として武帝の匈奴攻撃は続けられました。
一番の功績は西域から匈奴の影響力を排除しシルクロードの交易ルートを完全に取り戻した事でしょう。しかし武帝の対匈奴戦争がいつも連戦連勝だったわけではなく時には手痛い敗北を喫しました。中でも将軍李陵が精一杯の抵抗をした挙句匈奴に降伏してしまうという事件が起こります。
怒った武帝は李陵の家族を皆殺しにするよう命じますが、李陵の友人であった史官司馬遷はただ一人彼を弁護しました。武帝は司馬遷までも死刑にしようとします。しかし司馬遷は父の代からの偉大な事業であった史記編纂を全うするため生き伸びなければなりませんでした。恥を忍んで宮刑(局部を切り取る事)を申し出宦官になった司馬遷はその屈辱をばねに史記を書き上げたといわれています。
後に武帝は、司馬遷が宦官になっていた事を思い出し中書令という高官に取り立てます。しかし司馬遷の屈辱感はさらに増すばかりでした。彼の記した史記の人物描写が時に鬼気迫るのは自身の壮絶な生き方の反映だとも言われています。
外征における輝かしい成果は、内実国庫に蓄えられていた莫大な富の浪費にしかすぎませんでした。武帝の強烈な個性は忠言をのべる賢臣を遠ざけお追従だけの佞臣を集めるだけでした。確かに武帝時代は前漢帝国の全盛期でしたが、早くも治世後半にはその陰りが見え始めます。
赤字になった歳入を増やすため酷吏という苛斂誅求を旨とする悪官吏がはびこり、人心の荒廃から犯罪が増えると厳罰主義で臨みました。この時代賄賂が横行しさしもの漢帝国の屋台骨を揺るがします。
武帝時代の世相を象徴する一つの事件が紀元前91年起こりました。巫蠱の獄(ふこのごく)と呼ばれるものです。老いて疑り深くなっていた武帝は自分を呪う者がいるという強迫観念にとらわれ佞臣の一人江充に命じ調べさせます。江充はかつて皇太子劉拠(衛夫人の子。当時皇后になっていた)に恨みを抱いていたため、無実の罪を着せ皇太子が謀反を企んでいると報告しました。
皇太子劉拠は、進退極まり最後は自害してしまいます。衛皇后も巫蠱(呪う事)を行っていたとして皇后の地位を剥奪され自害を強要されました。
のちに調べてみると、すべてが江充のでっちあげだと分かります。江充は一族皆殺しの刑に遭いますが後の祭りでした。武帝は我が子が冤罪で死んだ事を悔やんで涙を流します。
皇太子劉拠の死後長らく皇太子の座はあいていました。武帝の晩年末子劉弗陵(りゅうふつりょう。後の昭帝)が太子に立てられます。武帝は霍光(霍去病の異母弟)、金日磾(きんじつてい、降伏した匈奴の王子)、上官桀の三人に後事を託して亡くなりました。享年71歳。
次回は霍光の専横から王莽(おうもう)の台頭まで、前漢帝国がいかにして滅んだかを記します。
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