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2013年5月 2日 (木)

アンティオキア

 「世界の都市の歴史」シリーズです。
 
 アンティオキアは、セレウコス朝シリアの後期の首都でありローマ時代は属州シリアの州都となりました。キリスト教がローマ帝国で国教化されると東方教会総主教座が置かれ東方におけるキリスト教の中心地となります。
 
 紀元前301年、セレウコス1世がイプソスの戦いでアンティゴノス1世(後継者王朝の一つ、フリギア王。一時期最有力な国だった。彼の孫アンティゴノス2世の時代にアンティゴノス朝マケドニアを建国)を破ると人口も多く東西貿易の要衝だったシリアの重要性が大きくなります。
 
 シリアはプトレマイオス朝エジプトも狙っていたためセレウコス1世はレバノンの山間部に発し北流して地中海に注ぐオロンテス川の河口から少しさかのぼったところに新首都アンティオキアを建設しました。
 
 それまでの首都でバビロニアにあった自らの名前を冠したセレウキアはわずか12年で遷都されます。アンティオキアという名もセレウコス1世の父アンティオコスにちなんだ名前です。
 
 
 実はセレウキアやアンティオキアと名付けられた都市はアレクサンドリアと同様いくつもあるのですがバビロニアにあった旧都セレウキア、シリア北部のセレウコス朝の新首都アンティオキアが一番有名です。
 
 
 アンティオキアはオロンテス川河口から25キロさかのぼったところにあり当時は船が海から入ってこれたそうです。オロンテス川の西側に王宮、左岸(東側)シルピウス山(海抜400m)との間の狭い地域に民間人居住区が設けられました。
 
 
 市街は長大な城壁で囲まれ、シリアの中心都市らしい威容を誇ります。このあたりの年間降水量は平均1120ミリと乾燥した他の地中海沿岸地域よりは恵まれており水源も豊富、豊かな穀物生産量がありました。都市建設に当たって最初の住民となったのはもちろんセレウコス1世に従った退役軍人とその家族などギリシャ人でしたが、大都市として発展の要素があったため周囲からシリア人やユダヤ人が多く流入しました。
 
 
 アンティオキアを首都としたセレウコス朝は、東方地域におけるバクトリア、パルティアの独立を受け緩やかに衰退、最後はミトリダテス戦争の余波を受けてシリアに進駐したローマの将軍ポンペイウスによって滅ぼされます。紀元前83年のことです。
 
 
 ローマ軍入城の前にアルメニア王ティグラネス2世の侵略を受けていましたから王朝としての命運は尽きていたのでしょう。滅亡の時も抵抗らしい抵抗はありませんでした。
 
 
 ポンペイウスはこの地をローマの属州シリアとしてその州都をアンティオキアに定めます。以後アンティオキアはシリアにおけるローマの最重要都市としてローマと運命を共にしました。
 
 
 その後イラン高原にササン朝ペルシャが興ると、シリア、メソポタミアはローマとの争奪戦の舞台となります。ローマ側がメソポタミアに侵攻した事もあれば逆にペルシャ軍がアンティオキアに迫った事もありました。
 
 
 アンティオキアに止めを刺したのは7世紀のイスラム勢力でした。東ローマ帝国はイスラム軍との戦いに敗れシリアを喪失します。10世紀に東ローマが盛り返して一時奪回しますが結局1084年セルジューク朝に征服されました。
 
 その後十字軍戦争が始まりアンティオキアも戦いの舞台になります。この頃はローマ時代のような大都市としての面影は薄れシリアの一地方都市に落ちぶれていました。以後マムルーク朝エジプト、オスマントルコと支配者を変え現在はトルコ共和国ハタイ県の県庁所在地アンタキアと呼ばれています。
 
 
 地図を見て頂けば分かる通り本来はシリア領のはずですが、トルコ系住民が多くシリアから分離独立運動を展開し1939年トルコ共和国に編入されるという歴史を持ちます。

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