セレウキアとクテシフォン
忘れたころにやってくる「世界の都市」シリーズ。今回はアレクサンドロスの後継者王朝の一つセレウコス朝初期の首都セレウキアとイラン東北の遊牧民が建国したパルティア王国後期の首都クテシフォンです。
どちらも今は遺跡しか残っていませんがなぜ一つの記事にしたかというとこの両都市、実はチグリス川を挟んで存在していたんです。現在でいえばハンガリーの首都ブタペストのような関係です。
簡単にいうとチグリス川の西岸にあるのがセレウキア、東岸にあるのがクテシフォンです。
アレクサンドロス大王死後の後継者争い(ディアドコイ戦争)を生き残ってシリアからアフガニスタンにまたがる広大な領土を獲得し王朝を開いたマケドニアの将軍セレウコス。もともとバビロン総督だった彼は、メソポタミアの中心地バビロンではなく、自らの王国の首都として紀元前312年セレウキアを建設します。
何故バビロンではなく新たに首都を建設したかですが、私は人口問題があったような気がします。当時のセレウコス朝の資料がないので同じ後継者王朝の一つであるプトレマイオス朝エジプトの人口構成から類推するしかないのですが、エジプトでは家族も含めても30万に満たないギリシャ人が現地の750万のエジプト人を支配していました。
セレウコス朝もおそらく同じような事情を抱えていたはずで、人口はエジプトよりはるかに多かったでしょうから巨大な人口を抱えるバビロン(最盛期で100万)を首都にした場合、少数の支配階級であるギリシャ人が埋没する危険があったのだと思います。
エジプトの場合も、支配階級のギリシャ人は大半が首都アレクサンドリアに居住していました。セレウコス朝はまもなくエジプトやマケドニアとの抗争から首都をシリアのアンティオキアに移しましたからセレウキアが首都だった期間は12年にすぎませんでしたが、それでも交通の要衝だったことから1世紀中ごろには人口60万を数えたそうです。逆にバビロンの方が廃れこのころは寒村にすぎなくなっていました。
ではクテシフォンはどうだったでしょうか。チグリス川を挟んだセレウキアの対岸にはオピスという小さな町がありました。イラン高原東北部ホラサン地方に興ったパルティア王国。もともと王国の首都は発祥の地に近いホラサン地方のヘカトンピュルスにありました。しかしバビロニアの支配権を獲得するとパルティアは、この地を治める軍都の必要性を感じます。当時のこの地方の大都市はセレウキアでしたが、パルティア人はギリシャ色の強いこの都市を嫌ってチグリス川対岸にクテシフォンという名の新たな都市を建設します。だいたい紀元前1世紀中ごろの話だと伝えられますが、人口の面からも経済面からも対ローマ帝国の防衛面からもクテシフォンの重要性は日増しに増大しました。
当初はパルティア国王が一時的な行在所として軍隊を指揮するためにクテシフォンに駐在しましたが、ローマとの戦争が常態化すると次第に首都機能がクテシフォンに移転されます。こうしてオロデス2世(在位BC57年~BC38年)の時代に、旧都ヘカトンピュルスは放棄されクテシフォンが王国の新首都と定められました。
ただシリアまで進出していた宿敵ローマ帝国と近いために何度か占領される事もありました。古代以来の大都市バビロンはすでに寒村となりはて、セレウキアがバビロニアの中心都市として繁栄の極にありましたが、これと首都圏を形成することでクテシフォンもまた発展しました。
3世紀末にパルティアを滅ぼして興ったササン朝ペルシャもクテシフォンを引き続き首都と定めます。
この両都市がいつ滅んだかですが、まずセレウキアは167年ローマ帝国との戦争で焼き払われ一時再建しますが次第に廃れて行きました。一方、クテシフォンはササン朝の最後まで首都であり続けます。しかしこちらも7世紀イスラム教徒との戦争で占領され、イスラム勢力の中でアッバース朝が成立するとクテシフォンの西北30キロに当たるバクダードを新たに首都として建設したためゴーストタウンと化し8世紀に滅亡しました。
ちなみに、千夜一夜物語の舞台の一つイスバニルはクテシフォンがモデルだといわれます。
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