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2013年5月 2日 (木)

前漢帝国の興亡Ⅲ    呂氏討滅   (後編)

 呂太后は甥の呂産、呂台、呂禄らを諸侯王にとりたてます。そのほか呂氏一族の多くを列侯に封じるなど我が世の春を謳歌していました。劉邦は「劉氏にあらざる者を王に立てるべからず」と遺言しています。これは韓信、彭越、英布など異姓の諸侯王が反乱を起こした苦い経験から出ていました。

 

 

 

 明らかに高祖の意思に反する呂太后の振る舞いに建国の功臣たちは不満をつのらせます。この時点での彼らの状況を記します。元勲張良、蕭何はすでに亡く蕭何の後を継いで相国となった曹参も鬼籍に入っていました。

 

 

 

 右丞相(宰相)には王陵、左丞相(副宰相)に陳平が就きます。軍政を司る太尉には周勃が任ぜられていましたが実権はありません。王陵は実直だけが取り柄でしたから呂太后が呂氏一族を諸侯王に取り立てようと下問した際にも高祖皇帝の遺言を持ち出して反対しました。このため呂太后から疎まれます。

 

 

 

 一方、陳平は呂太后の意のままに動き大変重宝がられました。しかし彼女は夫劉邦の遺言を思い出すべきだったかもしれません。劉邦は「陳平は頭が切れすぎるから警戒を怠るな」と言い残しますが、別の意味で用心する必要がありました。

 

 

 

 

 

 呂太后が恵帝の後釜に据えた少帝恭はもともと病弱だったのか間もなく死去します。これには恭が呂太后に反抗したため彼女に暗殺されたという説もあるくらいです。次に皇帝に立てられたのはどこの馬の骨かもわからない少帝弘。恭は一応恵帝の庶子だといわれますが、弘ははっきりしません。おそらく恵帝の子ではなかったと思います。呂氏一族の操り人形というだけの存在でした。

 

 

 

 

 

 日に日に専横の度合いを強める呂太后を見て、王陵は彼女に唯々諾々と従っている陳平らを責めました。

 

「君たちは先帝陛下との約束を忘れたのか?死後陛下と会った時会わせる顔があるというのか?」と激しく詰ります。

 

 

 

 それに対して陳平は「朝廷で陛下に直言できる点では貴方に及びませんが、社稷を全うし劉氏の天下を安んじられる点では私の方が貴方より優れています。今は我慢の時、まあじっくりご覧になっていなさい」と答えます。

 

 

 

 王陵は一言も言い返せませんでした。呂太后は王陵を疎んじ紀元前187年地位は高くとも実権のない太傅に祭り上げます。怒った王陵は病気を理由に辞職し屋敷に引きこもりました。7年後の紀元前180年死去します。

 

 

 

 

 

 陳平が待っていたのは呂太后の死でした。この時のために劉氏の生き残りである斉王劉襄、朱虚侯劉章兄弟(恵帝の甥)や周勃、灌嬰ら元勲たちとひそかに連絡を取り合っていたのです。

 

 

 

 

 

 一方、呂氏側も太后死後の漢朝側の反撃を警戒していました。太后の甥呂産、呂禄らに近衛軍に当たる南北軍の指揮権を与えクーデターに備えます。

 

 

 

 

 

 紀元前180年、専横を極めた呂太后は腋の病気にかかりついに死去しました。彼女は呂氏一族に元勲たちを警戒するよう言い聞かせながら亡くなったといわれます。

 

 

 

 呂太后が亡くなると、呂氏一族が皇位簒奪を企んでいるという噂が流れます。それを聞きつけ我慢の限界に達した斉王劉襄はついに立ち上がりました。反乱鎮圧には元勲灌嬰が赴きますが秘かに斉王に使者を送り「陳平・周勃らが呂氏討滅の謀を巡らせております」と言わせます。両者は戦わずに兵を引きました。

 

 

 

 

 

 呂氏一族は、灌嬰の寝返りに動揺します。陳平は人を使って呂禄に「貴方がいつまでも兵権を握っているため世の中からあらぬ疑いをもたれるのです。ひとまず領地に戻られれば身は安泰でしょう」と吹き込ませます。それを信じた呂禄が兵権を返上すると周勃がいち早く取り戻しました。周勃はそのまま南北軍の軍営に乗り込み

 

「劉氏に味方する者は左袒(左肩を脱ぐこと)せよ、呂氏に従う者は右袒せよ!」と申し渡します。

 

 

 呂氏専制に不満を持っていた兵士たちは皆歓声を挙げて左袒しました。周勃は忠誠を誓った兵士たちを引き連れ宮中に乗り込みます。不意を衝かれた呂産は未央宮で斬られ次いで呂禄その他一族もことごとく捕えられました。周勃は捕えた者たちを誅殺します。こうして暴虐の限りを尽くした呂氏一族は滅びました。

 

 

 

 

 呂氏滅亡後、群臣たちは集まって次の皇帝を誰にするか協議します。そして白羽の矢が立ったのは賢明の誉れ高い恵帝の異母弟代王劉恒。最初劉恒は呂太后時代から暗殺を警戒してなかなか信用しなかったそうです。しかし長安から何度も皇帝即位を願う使者が来たためついに断りきれずこれを受け入れます。すなわち文帝です。

 

 

 

 一方、形ばかりの皇帝少帝弘は劉恒と入れ違いに宮殿から連れ去られました。幼い皇帝は臣下に「どこへ行くの?」と尋ねたそうですが答えはありませんでした。彼は長安郊外で秘かに斬られます。

 

 

 

 文帝の治世は、安定の時代でした。それまでの混乱を治めるのに彼ほどふさわしい皇帝はいなかったでしょう。血生臭い政争の時代は終わったのです。内政は安定し、農業生産は向上しました。彼の息子景帝と共に「文景の治」と称されます。

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