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2013年5月 2日 (木)

前漢帝国の興亡Ⅱ    功臣粛清

 建国の功臣の問題は、王朝が創業期から守成期に移行するにつれ深刻になってくるのは世の常です。
 文官ならば守成期に入ってからの方がますます活躍できるでしょうが、武官はそうはいきません。創業期に拡大した軍隊は守成期に入ると普通減らされますし、いつまでも将軍が軍隊を握っていては王朝の統治体制に不都合なのです。
 支那の歴史上一番上手く処理したのは宋の太祖趙匡胤でした。彼はその人柄で将軍たちを平和裏に引退させ高額の年金を約束して彼らを労います。一方、最悪だったのは明の太祖洪武帝(朱元璋)で建国の功臣たちを殺し尽くし連座して殺されたものは少なく数えても数万、おそらくは十万人以上の犠牲者が出たとも云われています。
 
 漢の高祖劉邦はどうだったでしょうか?彼の場合朱元璋ほど徹底してはいませんが、やはり結局は武断的な処理になりました。というのも彭越にしても英布にしても、もともとは楚政権の中での同僚にすぎずたまたま時勢の変化で劉邦に従ったに過ぎなかったからです。 
 一方、巨大な勲功をたて大国斉の主となった韓信も劉邦陣営に中途参加し楚漢戦争中の怪しい動きもあって警戒される存在でした。
 劉邦が心から信頼したのは、挙兵以来の仲間ともいうべき蕭何、曹参、夏侯嬰、樊噲、盧綰、周勃らと、中途参加ながら欲がなく人から好かれていた張良、同じく中途参加ながら人間関係に細心の注意を払い疑われなかった陳平らでした。
 論功行賞では、韓信が斉から横滑りして項羽の旧領楚王、彭越は梁王、英布が淮南王に封じられます。前漢初期の地図を見ればわかりますが王朝の直轄地よりこれら諸侯王の領地の方が大きかったのです。王朝の安定にとってこの状況が良くないのは自明の理です。
 一方、沛以来の古参グループは最大でも曹参で一万六千戸程度の平陽侯、もと韓の宰相の家柄張良でさえ一万戸の留侯でした。
 皇帝の直轄領(郡)と諸侯王の国が並立する体制を郡国制と呼びます。漢王朝はこれら潜在的脅威を持つ諸侯国との暗闘から始まったとも言えます。
 紀元前202年高祖即位の年、最初に反乱を起こしたのは燕王(現在の北京付近)臧荼(ぞうと)でした。韓信が河北侵攻した時に降伏しただけでしたので、新参の外様として王朝から無言の圧迫を受けていたのでしょう。
 臧荼の反乱は簡単に鎮圧されます。燕王には劉邦の幼馴染盧綰が新たに任ぜられました。
 次に狙れたのは楚王韓信です。あるとき劉邦に「韓信は謀反を企んでいる」と讒言した者がいました。劉邦もかねてから疑っていた事もあり謀臣の陳平に相談すると
「韓信は戦上手で例え皇帝が親征されても勝ち目はありません。ここは騙して捕える方が良いでしょう」
と答えました。
 そこで劉邦は、巡幸と称して楚に赴き韓信に出迎えるように命じます。何も知らない韓信はのこのこと出かけて行き、その場で捕われました。劉邦は大功ある韓信を殺すに忍びないと、王位を剥奪し淮陰侯に格下げするにとどめました。
 この時はたして韓信に叛意はあったのでしょうか?私はなかったと思います。韓信は軍事には天才的でしたがそれ以外の特に政治的な能力は皆無でした。劉邦に対して背くなら一番効果的だったのは韓信が斉を攻略した直後。この時なら項羽との対決で身動きが取れない劉邦は何もする事が出来ず、劉邦、項羽に匹敵する第三の勢力を築くことも可能だったはずです。実際、蒯通(かいとう)という男が自立を勧めていました。
 韓信は、功績のある自分が楚王という大国の主になったのも当然だと思っており劉邦に対しても自分を取り立ててくれた事を恩に感じていました。自分の立場が漢王朝に対して危険な存在だとは夢にも思わなかったのです。以後、韓信は長安の自邸に引きこもり鬱々と楽しまなくなりました。
 翌紀元前201年、匈奴に攻められた韓王信(韓信とは別人。旧韓の王族出身)が冒頓単于と勝手に休戦交渉していたのを疑われ匈奴に亡命する事件が起こります。劉邦は親征し韓王信を破りますが、匈奴のために白登山で包囲されました。劉邦は、匈奴と不利な条約を結び命からがら逃げ帰る始末でした。
 紀元前196年、鉅鹿太守陳豨(ちんき)が反乱をおこします。実は陳豨は韓信を尊敬しており任地に出立する前挨拶に来ていました。
 その席で韓信は、「自分は功績をあげたのに領地は取り上げられ今ではこのように逼塞している。もはや劉邦に忠誠心はない」と言い放ち陳豨に策を授けていたのです。
 陳豨に鉅鹿で反乱を起こさせ、劉邦が討伐で長安を留守にした隙に自分が立ち上がってこれを抑えるという作戦でした。 
 しかしなぜ今この時期なのでしょうか?韓信は自暴自棄になっていたのかもしれません。韓信が長安で挙兵しても警戒されている中でどれくらいの兵が集まったでしょうか?
 劉邦は、韓信の目論み通り反乱を鎮圧するため長安を出立します。しかし韓信に恨みを抱いていた下僕が留守を預かる呂后に密告したのです。仰天した呂后は相国(宰相、丞相より格上)蕭何に相談します。
 蕭何は、「陳豨が討伐されたと嘘の報告をさせ韓信が祝賀を述べに来たところを捕らえなさいませ」と助言しました。
 噂を聞き反乱が失敗したと悟った韓信は病気と称して自邸に引きこもりますが、蕭何から「疑いを晴らすためにも参内した方が良い」と促され、出てきたところを逮捕されました。
  韓信は劉邦の帰還を待たずにその場で処刑され三族ことごとくが斬られます。あまりにもお粗末な反乱劇でした。一説では韓信は自分を引き立ててくれた蕭何だけは信用し、何の疑いも抱かなかったそうですから哀れを誘います。韓信は死の間際、「あの時蒯通の勧めに従っていたらこんな事にはならなかったのに」と嘆いたと伝えられます。
 反乱を鎮圧し帰還した劉邦は韓信謀反の顛末を知らされ悲しみますが、韓信の言葉を聞き激怒しました。探し出された蒯通は謀反人として処刑されそうになります。しかしこの時堂々と陳弁したため命は助けられました。
 後に蒯通は「自分の弁舌で天下を動かす事は出来なかったが、ただ自分の命を救う事だけはできた」と自嘲したそうです。
 梁王彭越は、陳豨の反乱の時出陣を促されながら病気と称して出兵せず劉邦から問責の使者を受けます。部下は劉邦に疑われた以上生きれないと覚悟し彭越に反乱を勧めたそうですが立ち上がらなかったところを見ると本当に病気だったのかもしれません。
 そのうち彭越は偽って捕えられました。最初は殺すつもりの劉邦でしたが彭越の長年の功績を考え命を助けて蜀(四川省)への流罪で済ませようとします。彭越は、呂后に泣きつき「自分は年老いており野心もありません。できれば故郷の昌邑で隠棲したのです」と劉邦へとりなしを頼みました。
 呂后は、その場では彭越に同情した様子を見せましたがいざ劉邦の前に出ると「彭越は野心家です。生かしておけば危険な存在ですから、即刻処刑なさいませ」と逆の事を訴えました。
 彭越ほどの男でも、呂后の残忍な性格を見抜けなかったのですから耄碌していたのでしょう。結局呂后に押し切られ彭越は斬刑に処せられました。
 韓信、彭越と次々と粛清され最後に残ったのが淮南王英布です。英布は生き残りをかけてついに反乱に乗り出します。劉邦はこの時も自ら兵を率いて鎮圧に向かいました。一時は劉邦が流れ矢を受けて負傷するほどの激戦でしたが、結局英布もまた敗れます。その後妻の兄弟である長沙王呉臣のもとに逃げ込みますが、連座を恐れた呉臣は逆にこれを謀殺しました。時に紀元前195年。
 英布の反乱を鎮圧した劉邦は、その時受けた矢傷が悪化し亡くなります。死の床で呂后から自分の死後の事を問われ
 「後事は相国の蕭何に任せろ。その後は曹参が良い。次は王陵だ。ただしあの男は愚直だから陳平に補佐させるがよかろう。陳平は頭が切れすぎるから警戒を怠るな。社稷を安んじるものは必ずや周勃であろう」
 と答えます。呂后は「さらにその後は…」と問いかけますが、「その後の事はお前の知った事ではない」と怒ったそうです。
 
 その後の歴史を鋭く言い表していてあまりにも出来すぎな遺言です。不世出の英雄漢の高祖劉邦の没年は紀元前195年6月1日だったと伝えられています。

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