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2013年5月 2日 (木)

前漢帝国の興亡Ⅳ    呉楚七国の乱

 文帝は傍系から帝位を継いだため割合穏健な統治を行いました。それには彼の母、薄太后の影響が強かったと思います。
 
 文帝の母薄氏はその名の通り薄幸の生涯とも言える人生でした。彼女の母は戦国・魏の王族に生まれます。しかし祖国は秦に滅ぼされ薄という庶民と結婚しました。二人の間に生まれた薄氏は成人すると美しさが評判になり秦末の動乱で勃興した群雄の一人西魏の魏豹の後宮に入りました。
 
 と言っても地味な性格だったためか魏豹から顧みられることはなく孤独でした。ある時人相見の許負は彼女を見て
「貴方はいずれ天子をお産みになるでしょう」
と語りました。
 しかし、項羽側に付いた魏豹は紀元前205年韓信に滅ぼされます。薄氏は戦利品として劉邦の後宮に入れられました。
 
 後宮に入った直後、薄氏は同僚の側室たちと「私たちの誰かが寵愛される事になってもお互いに忘れないようにしましょう」と語りあったと伝えられます。
 ところが華やかな美人が揃っている劉邦の後宮で地味な彼女はまたしても顧みられる事はありませんでした。
 
 
 ある日劉邦は、側室たちが「私たちは陛下の寵愛を受けたのに彼女だけは駄目だったわね」と笑いあっているのを聞きます。不憫に思った劉邦は一夜だけ彼女を召しだしました。
 
 
 ところがその一夜の契りだけで彼女が身籠ってしまいます。生まれたのは男子、すなわり劉恒でした。
 
 
 劉恒は、高祖皇帝の庶子ということで辺境の代という国に封じられます。地図を見てもらうと分かる通り貧しい荒涼とした盆地でしかも匈奴と国境を接する難しい土地でした。漢王朝としても極論すれば高祖から可愛がられなかった彼が匈奴に殺されても仕方ないという捨て殺し的な意味合いもあったように思います。
 
 可愛い一人息子がそのような厳しい国に送りだされるのを薄氏は黙って見ておれませんでした。自分も息子に付いて行くと宣言します。高祖皇帝から寵愛されなかった彼女の希望はすんなり通りました。
 
 
 ところが何が幸いするか分かりません。高祖劉邦が崩御し呂太后の専制が始まると恵帝のライバルになる可能性のあった劉邦の庶子たちは毒殺されるか謀反をでっち上げられて次々と粛清されていきます。薄氏は劉邦から寵愛されなかった事もあり呂太后からは無視されました。というよりそのうち匈奴との戦争で殺されるから放っておけばよいという呂氏陣営側の計算があったのでしょう。
 
 もちろん代王側も警戒を怠りませんでした。後に景帝を産む竇氏(とうし)が女官として呂太后から送り込まれた時も暗殺を恐れて近づかなかったくらいでした。ところが何人かの送られた女官のうち竇氏だけが呂氏一族の専横を批判し話をしてみるとなかなか聡明だという事が分かり劉恒は彼女だけを愛しました。
 
 
 そんな中、ついに国政を壟断していた呂氏一族は太后死後の陳平・周勃らのクーデターで滅ぼされ代王劉恒は呂氏の息のかかっていない劉氏一族の諸侯王として次期皇帝に推戴されます。彼が暗殺を恐れ皇帝就任を何度も断っていた事は前記事で書きました。
 
 
 漢朝の群臣としても、たとえば個性が強く呂氏討滅に功績のあった斉王劉襄(劉恒の異母兄劉肥の子)などでは再び国政が混乱するという危惧があったのでしょう。その点穏健な性格の劉恒ならその心配はないし、なにしろ母の薄氏にしても正室の竇氏にしても実家の勢力が弱く間違っても呂氏のような存在にはならないという安心感がありました。
 
 
 文帝劉恒は、賢明な母の助言を受け戦乱で荒廃した民力の回復に努めます。例えば基礎的な税である収穫物にかかる田租も三十分の一に引き下げられ、人頭税・徭役なども軽減されました。対外的にも穏健策で臨み、一時は匈奴との間で戦争になりますが薄太后の諌めで深追いを避けるほどでした。
 
 司馬遷は文帝のことを「ああ、あに仁ならずや」と手放しで褒めています。紀元前157年文帝は在位23年で崩御しました。後を継いだのは嫡男劉啓。すなわち景帝(在位BC157年~BC141年)です。
 
 
 傍系から皇位を継いだ文帝とは異なり、景帝は生まれながらの天子でした。前漢王朝が郡国制をとっている事は以前記しました。呉楚七国の乱当時の地図を見て頂くと分かる通り諸侯王の領地が全国の半分以上を占めます。しかもそれは中原以東の豊かな土地なのです。
 
 
 王朝が存続し長く続くにはこれら諸侯王の広大な領地をどうするかが景帝治世最大の懸案でした。呂氏討滅の後各地の王には皇帝一族である劉氏が封じられました。景帝にとってもこれらは親戚の土地なので削るのは難しいのです。文帝の時にも異母弟淮南王劉長が反抗しますが、皇帝は彼を殺さずに蜀(四川省)に流罪するだけの軽い処分で済ませました。
 
 皇帝家の対応の甘さを各地の王たちは侮っていたのかもしれません。ところが景帝は治世の三年目御史大夫(副首相に当たる)晁錯(ちょうさく)の唱える削藩策を採用します。自分たちの領地が削られる事に怒った呉王劉濞(りゅうび、文帝の従兄弟)は楚王、済南王、趙王ら六国の諸侯王と語らって公然と漢朝に対し反旗を翻しました。紀元前154年の事です。実質的に呉と楚が中心になって反乱を起こしたので、世にこれを「呉楚七国の乱」と呼びます。
 呉は長江下流域の三郡五十三城を占める大国でここだけでも数十万の兵を集める事が出来ました。呉王劉濞は高祖劉邦の兄の子で人相学でいう「反乱の相」があったころから劉邦は彼の背中をなでながら
「占いによると50年後に東南部で反乱が起こるというがまさかお前ではあるまいな?天下というのはもはや劉氏だけのもではなく公のものだ。絶対に背いてはくれるなよ」
と語ったそうですが、奇しくも劉邦の危惧は現実のものとなったわけです。
 反乱軍は実に70万という大軍に膨れ上がり、まさに漢王朝の危機でした。ただ呉軍は領内の14歳から62歳までの男子を根こそぎ動員したそうですから兵の質は低いものでした。これに対し朝廷側は功臣周勃の息子周亜夫を大将に任命に討伐に当たらせますが、相手が大軍であるだけになかなか勝ちきることができませんでした。
 そんな中、朝廷では晁錯の政敵袁盎(えんおう)が「反乱軍は奸臣晁錯の討伐を大義名分にしているのですから、これを斬って彼らの怒りを治めるべきです」と献言します。景帝のためを思って献策した晁錯にとっては良い面の皮ですが、結局景帝は悩み抜くものの彼を処刑しました。
 ところがこのような小手先の懐柔策で反乱が収まるわけはなく、呉王はますます増長します。ついには東帝と称し漢王朝を否定するところまで行き着きました。が彼の勢いはここまででした。楚漢戦争でも争奪の的となった黄河南岸の大都市陽(けいよう)を攻めあぐみ、官軍が防御策を採った事もあって大軍だけに兵糧に困るようになります。もともと兵の質は低かったので、一時の勢いがなくなると逃亡兵が続出しました。
 漢の将周亜夫は反乱軍の疲弊を待ち一気に攻勢に出ます。反乱軍はこれを支えきれず大敗、呉王劉濞はたまらず逃亡しました。東越まで逃れたものの東越王は関わりを恐れてこれを殺害。呉王の首は長安に送られました。反乱に関わった王たちは、呉王の末路を見てある者は自害し、ある者は捕えられて刑死します。
 こうして前漢帝国を揺るがした呉楚七国の乱は終息しました。景帝は反乱鎮圧後諸侯王の領土を削り、郡統治下の県扱いになります。さらに国相(国の大臣)も中央から派遣された官僚が就任しました。こうして諸侯王が力をつけ大規模な反乱をおこす事は無くなります。王たちは、ただその土地の税収を貰うだけの存在になりました。
 景帝の治世でもっとも大きな事件は呉楚七国の乱でした。以後の政治は反乱後の傷を癒す事。景帝はそれに見事に成功し後に「文景の治」と呼ばれる黄金時代を築きます。
 彼の子である武帝があれだけ大規模な海外遠征をできたのも文帝景帝時代の国庫の蓄積があったからです。武帝の時代は確かに前漢王朝の絶頂期でした。しかし彼の時代に莫大な国庫の蓄積はほとんど放出され陰りが見え始めます。
 次回は武帝時代の栄光と陰を描きます。

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