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2013年5月 2日 (木)

前漢帝国の興亡Ⅰ    漢の高祖劉邦   (中編)

 楚の懐王は最初に関中に入った者を関中王に封ずると宣言しました。楚の主力軍を率いる項羽は黄河を渡って河北で秦の正規軍と戦っていたため貴重な時間を潰しました。ただ最精鋭の軍隊を持っていたため秦軍との戦闘が解決しさえすればもっとも有利であったともいえます。
 
 
 一方、劉邦軍は寄せ集めの悲しさから黄河の南、河南地方をうろついているだけでした。韓の歴代宰相を輩出した名門出身の張良が劉邦軍に加わったのは劉邦が沛公になって反秦連合軍に加わった直後だと書きました。
 
 張良は若年ながらかつて始皇帝の暗殺を試みたほど胆力を持った人物でしたが、劉邦はこの張良を気に入り彼の言う事はほとんどすべて受け入れます。張良は河南地方に土地勘があるためにまともに函谷関を突破するのは不可能だと悟り一旦南の南陽地方に出てから搦め手の武関から関中に入る策を進言しました。
 
 
 劉邦は自軍の弱さを知っていたため項羽のように敵を殲滅する事をせず降伏を勧めなるだけ戦闘を避けながら関中に駒を進めます。ちょうどその頃項羽が秦の主力軍を降伏させたという悲報が秦の宮廷に入りました。
 
 
 始皇帝亡き後、暗愚な二世皇帝胡亥を操って国政を壟断していた宦官趙高は、敗戦の責任を皇帝に問われる事を恐れ逆に兵を率いて宮廷に乱入しました。混乱の中二世皇帝は自殺します。
 
 趙高は、胡亥の兄の子公子嬰を担ぎ出しもはや皇帝足る実態なしとして秦王として即位させました。しかし逆に公子嬰は乱臣趙高を誅殺し自立します。結果論ですが、二世皇帝に胡亥ではなく公子嬰がなっていれば秦は滅びなかったかもしれないと思えば惜しい気がします。
 
 秦本国が大混乱に陥る中、武関を降して関中に入った劉邦軍は十万に膨れ上がっていました。首都咸陽を望む覇上に布陣します。
 
 子嬰は抵抗の無駄を悟り、白い死装束、首には秦王の印綬を掛けて覇上に赴き降伏を申し出ました。劉邦はこれを許し紀元前206年、秦は名実ともに滅亡します。
 
 
 劉邦は、略奪で人心を失うのを恐れ秦の府庫を封印し軍を覇上に返します。ただこの時蕭何は宮中の書庫にあった戸籍、秦の法令、地図などを持ち出しました。彼の趣味という一面はありますが、この時の書類が後の漢帝国建国に大いに役立った事は言うまでもありません。
 
 
 項羽は四十万という大軍で函谷関へ達しようとしていました。大軍に膨れ上がったため兵糧が不足がちになった項羽軍では、降伏して嫌々従っていた秦兵の間に不満が渦巻きます。項羽はこの不満分子を計画的に始末する狡猾な策を実行しました。あるとき秦兵の宿営地に深夜三方から鬨の声が上がります。パニックに陥った秦兵たちは声の上がっていない一方に向けて殺到しました。しかしそこには深い崖がありました。後から後から逃げてくる者たちに押され秦兵たちは次々と崖に落ちます。夜が明けるとそこには崖をうずめた秦兵二十万の死体と、せっせと崖を埋める楚兵の姿がありました。
 
 生き残ったのは章邯、司馬欣、董翳ら秦軍の幹部クラスのみ。この時の衝撃で章邯は精彩を欠くようになります。
 
 
 ところで、項羽軍が函谷関へ迫る中関中を平和裏に手中に収めた劉邦に「函谷関を閉じてしまえば項羽は関中に入れません」と小賢しい進言をした者がありました。しかしこんな小細工が通用するはずもなく、かえって項羽の怒りを買い項羽は劉邦を殺すつもりで鴻門というところに呼びつけました。
 
 
 
 出かければ確実に殺されます。それは従者も同様でした。そんな時項羽の叔父項伯が秘かに劉邦陣営の張良を訪ねます。かつて張良に命を助けられた事があり、彼が劉邦と共に殺されるのが忍びなく逃亡を勧めに来たのでした。
 
 
 張良は、項伯を伴い劉邦に引き合わせます。項伯としては張良を助けるつもりが成り行き上劉邦と義兄弟の杯を交わされ劉邦主従の命を助ける羽目になりました。
 
 
 鴻門では項羽と劉邦が対面して座り、左右に張良と項伯が控えました。最初の項羽と謀臣范増の打ち合わせでは項羽の目配せで刺客が討ち入り劉邦主従を殺す手はずでしたが、張良から策を授けられた項伯が巧みにそれをかわしなかなか機会が訪れませんでした。
 
 范増は、余興の剣の舞にかこつけて劉邦を斬る作戦に切り替えますが、今度は項伯が立ち上がり同じく剣の舞を舞って邪魔しました。
 
 
 酒宴の最中、劉邦は言葉の限りをつくして自分が項羽に敵対する意思の無い事を陳弁します。そこへ劉邦の家臣樊噲が乱入し決死の覚悟で項羽を説得しました。范増は何度となく項羽に目配せしますが、この時項羽は劉邦を殺す意思を失ったのだと思います。自分に敵対する者には容赦しないが、憐みを乞う存在に対しては甘いという悪い癖が出たのです。
 
 
 間もなく劉邦は、項羽に暇乞いをして虎口を脱しました。これを世に「鴻門之会」と称します。
 
 
 劉邦の降伏を受け入れた項羽は、約束だった関中王を反故にし四川と漢中地方(陝西省南部)だけを領土とする漢中王に封じました。関中の残りの地は章邯ら降伏した秦将三人に与えます。
 
 
 項羽は、咸陽に入ると降伏していた秦王子嬰を殺し財宝を略奪し宮殿に火を放ちました。その劫火は三カ月も沈火しなかったそうですから誇張があるにしても凄まじいものでした。有名な始皇帝陵もこの時項羽に暴かれ略奪されたそうです。
 
 
 范増は天下を統べるためには関中の地を離れるべきではないと進言しますが、項羽は故郷に錦を飾りたかったのでしょう。彭城を中心に九郡を治め西楚の覇王を名乗ります。項羽の論功行賞には露骨な差別がありました。功績がある者でも項羽と関係が深くないものには薄く、逆に関係が深い者は優遇されました。
 
 これが諸将に不満をいだかせる原因となり、後々項羽を苦しめる事となっていきます。翌紀元前205年項羽は義帝に祭り上げていた懐王を暗殺します。これも人心を離れさせる大きな要因でした。
 
 
 一方、僻地の漢中に追いやられた劉邦軍では山道を進む中次々と逃亡兵が出ます。将来性の無い劉邦を見限ったのでしょう。そんな中、最も信頼する腹心蕭何までもが逃亡したと聞いて劉邦は激怒します。追いかけて捕まえさせると劉邦は時には怒鳴り、時には泣きながら蕭何を責めました。
 
 ところが蕭何が言うには、自分は逃げたのではなく、逃げた一人の男を捕まえに行ったとのこと。話を聞いてみるとそれは韓信という男で、劉邦が覇業を成すには絶対に必要な人材だと蕭何は主張するのです。
 
 
 初めは逃亡の口実だと疑った劉邦ですが、蕭何があまりにも真剣なので男と会ってみる事にします。そこで初めてなかなかの人物だと認めた劉邦は、蕭何の推挙もあり韓信に大将軍の位を授け全軍の指揮を任せました。
 
 
 一度決めると思いきりがいいのが劉邦の良いところですが、韓信は劉邦の期待に応え項羽の去った後再び取って返し関中を分割統治していた章邯ら三王を滅ぼし瞬く間に関中を回復しました。
 
 
 漢中を治める王という事で劉邦はこのころ漢王と称します。後にこれが帝国の国号となり民族の名前になるのですから面白いですね。
 
 
 項羽が義帝(懐王)を暗殺したという事件は、劉邦にとって項羽を討つ大義名分になりました。関中の本国を丞相(宰相)となった蕭何に守らせ、劉邦は函谷関から東へ打って出ました。
 
 蕭何は、関中を上手く治め劉邦が負けても負けても兵力と兵糧を供給し続け後に勲功第一に挙げられます。
 
 
 紀元前205年、山東の斉の反乱を鎮圧するため本拠彭城を留守にしていた項羽の隙をついて劉邦は諸将の連合軍五十六万を率い彭城に入城しました。ところが急報を受けた項羽は精兵三万だけを選抜し戻ってきます。
 
 
 大軍で安心しすっかり弛緩しきっていた連合軍は、怒髪天を突く勢いで急行してきた楚軍に大敗し四散しました。この戦いは項羽の武勇を際立たせただけに終わりましたが、劉邦の父劉太公と妻呂氏まで捕虜になったくらいですから壊滅と言ってもよいものでした。
 
 劉邦も命からがら逃亡し、滎陽(ケイヨウ、河南省滎陽市)にいったん落ち着きます。
 
 
 この後項羽の楚と劉邦の漢は血で血を洗う抗争に入っていきます。次回楚漢の攻防、項羽の死、劉邦の天下統一を描きます。

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