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2013年6月

2013年6月 2日 (日)

古代イランの歴史外伝  亡命の王子ペーローズ(卑路斯)その2  雑感など

 何故私がペーローズという人物にこだわるかというと私の好みの人物像とバッチリ合致するからなんですね。
 
 日本史で言えば北条時行、足利直冬、世界史ならアブドルラフマーン1世、耶律大石そしてペーローズ。これらの人物の共通点は祖国や家を滅ぼされた亡命者、いわば貴種流離譚なんです。
 ほとんどの人物は歴史の流れに逆らえず滅びゆく運命でしたが、耶律大石は西遼(カラキタイ)を、アブドルラフマーン1世(アブド・アッラフマーン)は後ウマイヤ朝を新天地で建国しています。
 両者と他の亡命者との違いは何だったのでしょうか?時行と直冬は一時は敵にひと泡吹かせたのでまだましでしたが、亡命先で成功した二人の勝因を探る事でペーローズがなぜ失敗したか分かると思います。
 まずアブドルラフマーン1世の場合は、敵であるアッバース朝がそれほど領民の心服を得ておらず、マグレブ(北アフリカ西部)やイベリア半島に親ウマイヤ派が多数残っていた事が大きかったと思います。特にモロッコは彼の母の実家でその応援を得る事が出来ました。彼はモロッコの親ウマイヤ派を糾合しイベリア半島に渡り後ウマイヤ朝を建国できたのです。
 次に耶律大石を見てみましょう。彼の場合も祖国遼を滅ぼした女真族の金は新しく征服した領民に心服されていたわけではありませんでした。特に金の勢力の及ばないモンゴル高原では、狩猟民族の女真より自分たちモンゴル族に近い契丹族に同情が集まります。遼はモンゴル高原に可敦城を建設し軍事基地化していましたから大石がそこへ逃げ込んだのは大正解でした。大石はまずモンゴル族を糾合しひとまず西へ走って勢力を回復しその後金と戦おうと決意します。そのため西行は絶望ではなく希望に満ちたものだったはず。
 一方、ぺーローズの場合は敵がイスラムという宗教であった事が不幸でした。宗教の力は偉大です。最初は嫌でも改宗しそれを信じるようになるとちょっとの事では覆すことは難しいものです。おそらくペーローズも彼に付き従った遺臣たちも、イスラム勢力の支配を覆しササン朝を再興する事を心のどこかでは無理だと分かっていたのかもしれません。とすれば彼らが採るべき道は、アブドルラフマーン1世や耶律大石のようにひとまず別の土地に新たな国家を建設する事ではなかったでしょうか。
 両者も結局祖国回復はできませんでしたが、新天地で独自の発展を遂げその王朝は長く続きます。
 ただペーローズが建国するとして、ふさわしい土地があったかどうか?一番現実的なのは彼らが拠ったトハリスタンですが、後世の歴史が示す通りイスラム勢力に飲み込まれるため滅亡は時間の問題でした。
 では北方の草原地帯はどうか?これもセルジューク朝が出てくるため無理でしょう。もともと遊牧民族でありながら都市生活に慣れ農耕民族と変わらなくなっていた彼らには草原に帰って遊牧国家を建国するという選択肢はなかったでしょう。
 とすればインドです。ちょうど当時のインドはヴァルダナ朝が崩壊し混乱の極にありました。古くはギリシャ人、サカ人の時代からインド亜大陸に進出してその土地を占領し独自の国家を築いた民族は多くいました。
 もしペーローズが一大決心をしササン朝の遺臣を糾合しインドへの新天地を求めてカイバー峠を越えていたら歴史は変わっていたかもしれません。後年同じような立場に置かれたバーブルはムガール帝国を建国したではありませんか!
 すくなくともパンシャブ地方は征服し、ササン朝の血脈は残せたかもしれませんね。しかし悲しいかな、ペーローズにはその器量がありませんでした。しょせん歴史に埋もれゆく運命だったのでしょう。

古代イランの歴史外伝  亡命の王子ペーローズ(卑路斯)

 実は古代イランの歴史という壮大なシリーズを書いたきっかけの一つは、最後の章でペーローズの事を書きたかったからです。
 
 公式の歴史では、ササン朝ペルシャは彼の父ヤズデギルド3世がメルブで暗殺されたところで終わっています。しかしササン朝の遺臣は生き残っていただろうし、新興のイスラム勢力の支配に我慢できなかった人もいたでしょう。
 
 
 そんな彼らの希望の星がペーローズでした。ササン朝は東の辺境地帯に防衛のため軍隊を駐留させていました。ペーローズはその軍隊と共にいたため助かったと言えます。イスラム勢力側もわざわざ遠征してまでこれを滅ぼすことはしませんでした。こちらに向かってくれば別ですが、すでに王朝としての命運は尽き放っておいても立ち枯れするだろうと読んだのです。結果的にこの判断は正解でした。
 
 
 ペーローズは最初アフガニスタン東部のトハリスタン(大夏)に駐屯します。すぐに唐に亡命したわけではなかったようです。最初は援軍を求めて唐に使者を送ります。しかし時の皇帝高宗はあまりにも遠隔だという理由で、返礼の使者は送ったものの援軍も物資も送りませんでした。
 
 その代わり彼を現地の都督(司令官)に任じ、その地を支配する事は認めました。もともとそこは唐の力が及んでいなかった土地ですからどうなろうと知った事ではなかったのです。
 
 
 ペーローズは、ついには自ら唐に赴いて援軍を求めました。661年という説、670年という説がありますがこの時右武衛将軍に封じられており来唐自体は事実だったようです。
 
 
 唐側も、さすがに無視するわけには行かなくなり侍郎裴行儉が兵を送ろうとしますが、やはり遠すぎて実現しませんでした。結局ササン朝と唐はあまりにも離れ過ぎていたのです。これがインドあたりの大国を頼ったのなら可能性はありました。というのも逆のパターンではありますが、後年インド亜大陸を叩きだされたムガール帝国2代皇帝フマユーンがサファビー朝ペルシャに亡命しイスマイリ1世の援軍を得てインドを奪回した史実がありました。
 
 不幸なことにペーローズ亡命の時期インドは混乱期で強大な統一王朝がありませんでした。
 
 
 結局20数年間、ペーローズは異国トハリスタンの地で過ごします。その晩年ははっきりと分かりませんが677年には完全に唐に亡命し長安にゾロアスター教寺院を建立したそうです。この頃には祖国回復は諦めていたのでしょう。間もなく病を得て長安で没します。未確認情報ですが、高宗の廟の前にペーローズの名前を刻んだ碑文と石像が残っているそうです。
 
 ただ現地トハリスタンで没したという話もあり真相は不明です。ペーローズの遺臣たちは彼の死後もイスラム勢力への抵抗運動を続けますが次第に忘れ去られていきます。8世紀にも彼の子孫と称するペルシャの王族がいたそうですが確認のしようもありません。
 
 
 貴種流離譚であるペーローズの物語はロマンがあります。人はこのような話が好きなのかもしれませんね。

古代イランの歴史Ⅴ  ササン朝ペルシャ

 ササン朝の創始者アルダシールは、古代ペルシャ語のアルタフシャサつまりギリシャ語で言うところのアルタクセルクセスの中世ペルシャ語形です。
 
 ということはパルティアの創始者アルサケスとも共通する名前です。皮肉なことにパルティアとササン朝は同じ名前の人物が創始したと言えます。
 
 
 アルダシール1世(在位226年~241年)は、王朝創業時ゾロアスター教徒の支援を受けたため同教を保護し国教とします。230年、アルダシールはメソポタミア平原全土を支配下に収め北シリアのニシビスを包囲しました。ここはローマ帝国との国境でしたので初めてローマ軍と対峙した事になります。240年にはユーフラテス川上流にあった東西交易の要衝、隊商都市ハトラを占領しました。治世の晩年、アルダシール1世は強大なローマ帝国との戦争に突入し、その戦役の中で没します。
 
 後を継いだのは息子のシャプール1世(中世ペルシャ語ではシャープフルがより近い発音。在位240年~272年)でした。シャプール1世はアーリア人だけでなく支配下の異民族すべてを統べる「諸王の王」を称します。ササン朝の統治体制は彼の時代に確立したといえるでしょう。
 
 
 時のローマ皇帝ゴルディアス3世(在位238年~244年)は、パルティアに続き新たな宿敵となったササン朝ペルシャが地中海方面へ進出してくる事を恐れ自ら軍を率いシリアに遠征しました。ローマ軍はメソポタミアまで進みササン朝の首都クテシフォンを望むところまで来ますがマッシケの戦いでシャプール1世に敗れ戦死します。後を継いだアラビア人とも言われるローマ皇帝フィリップスは莫大な賠償金を払ってササン朝と講和しました。
 
 
 その後もローマとの戦争は続き260年エデッサの戦いではローマ皇帝ヴァレリアヌスが捕虜になるという前代未聞の屈辱的大敗を喫します。ヴァレリアヌスは幽閉中に死去しました。シャプール1世にとってはこれ以上ない栄誉です。馬上のシャプールが跪いて命乞いするヴァレリアヌスを見降ろしているという浮き彫りを王家の墓所の岩肌に刻ませたほどでした。ただササン朝の優位は長く続かず時にはローマ軍がメソポタミア平原を蹂躙したこともあります。
 
 
 例えば背教者として有名なユリアヌス皇帝は、343年自ら軍を率いメソポタミア平原に進出ササン朝軍を破って首都クテシフォンを指呼の間に迎えます。しかし最後の決戦で敗れ戦死してしまいました。
 
 ペルシャ王シャプール2世(在位309年~379年)は、ローマと講和してニシビスを確保し、アルメニアを分割させました。
 
 
 ササン朝時代、ゾロアスター教が国教でしたが、キリスト教徒が多く入り込み特に大都市を中心に信者を獲得します。ササン朝が東方教会の中心地アンテイオキアを一時占領した事も影響したのだと思います。
 
 
 ササン朝とローマ帝国、その後を継いだビザンツ帝国(東ローマ帝国)は、時には戦い時には講和しつつも互いの国家そのものは尊重し滅ぼすところまではいかないという不思議な関係でした。ところがササン朝の脅威は東から来ます。
 
 
 中央アジアに勃興した遊牧民エフタルがにわかに強大化したのです。白いフン族、あるいは白匈奴とも呼ばれる謎の遊牧民ですがその軍隊は強力で周辺諸国を悩ませました。インドのグプタ朝などはエフタルの侵入が原因で衰退し滅んだくらいです。
 
 ササン朝ではワフラーム5世(在位421年~439年)の時代に一時撃退しますが、次のヤズデギルト2世の時代にはエフタルがササン朝の王位継承問題に介入するほどの影響力を持ちました。
 
 そんなエフタルの軛(くびき)を脱したのはホスロー1世(在位531年~579年)の時代です。ビザンツ帝国最盛期を築いていたユスティニアヌス大帝と和平を結び西方国境を安定させると最大の懸案だったエフタル対策に乗り出します。
 
 エフタルのさらに東方、北方アジアで突厥(とっくつ、トルコの漢訳)が勃興するとこれと同盟を結びエフタルを挟撃したのです。ササン朝と突厥に東西から攻められさしもの強大を誇ったエフタルも567年滅亡します。しかしこれは狼を退治するために虎を呼び込んだようなものでした。突厥はサマルカンドなどの豊かなトランスオクシアナ地方を占領しササン朝の東方国境を脅かし始めます。ササン朝は突厥との戦争で国力を疲弊させていきました。
 
 
 ホスロー1世はササン朝の中興の祖だといわれます。しかし彼の時代を最後にササン朝は急速に衰えました。ササン朝の支配下オリエントの南アラビア砂漠ではイスラム教が勃興します。アラビア半島を統一したイスラム勢力はまずビザンツ帝国からシリアを奪い633年ペルシャ領にも侵入を始めました。
 
 636年カーディシーヤの戦い、642年ニハーバンドの戦いで敗北したササン朝は坂道を転がり落ちるように没落していきます。ササン朝の首都クテシフォンはイスラム勢力によって陥落、最後の王ヤズデギルド3世はイラン高原を東に走り抵抗を続けました。イスラム勢力に対抗するため遠く唐にまで援軍を求めたほどです。
 
 しかし中央アジアのメルブで再起を図っていたヤズデギルドは651年メルブ総督マーフワイフの裏切りに遭い殺されてしまいました。こうしてササン朝ペルシャは断絶します。
 
 
 ヤズデギルド3世の王子ペーローズ(卑路斯)はイスラム勢力の追手を逃れ唐に亡命します。唐は678年ペーローズを冊封して波斯(ペルシャ)王としました。ペーローズはトハリスタン(大夏)の地に留まり20数年間亡命生活を送ったそうです。付き従うササン朝の遺臣数千名と共に。
 
 しかし結局祖国復興はできず異国の土となりました。ちなみに異説でペーローズが唐を経由して日本まで至ったという話があるのですが、もとより伝説に過ぎません。ただ記録によれば670年から674年まで(661年という説もあり)唐の首都長安に来朝したのは間違いなさそうです。この時右武衛将軍に封じられています。唐とイスラム勢力が751年タラス河畔で戦った原因の一つには、このペーローズの亡命があったのでしょう。
 
 
 巨大帝国の最後の生き残り、亡命の王子、一種の貴種流離譚は人々の心をとらえて離しません。ペーローズの来日も彼に同情する誰かが流した噂だったのかもしれませんね。
 
 
 ともかく、ササン朝ペルシャの滅亡をもって古代以来のイランの歴史は中断します。以後はイスラム化したイランの歴史が始まって行くのです。

古代イランの歴史Ⅳ  アルサケス朝パルティア王国(後編)

 カルラエの敗北、クラッススの戦死は第一回三頭政治を崩壊させました。バランサーのいなくなったカエサルとポンペイウスは厳しく対立し戦争に突入します。カエサルはその戦いに勝利しローマの独裁者への道を歩み始めました。しかし間もなく独裁を恐れた元老院の共和主義者によって暗殺されます。その混乱を治めたのはカエサルの養子オクタヴィアヌスとカエサルの有力な将軍だったアントニウスです。彼らはカエサルの老将レピドゥスを引き込んで第二回三頭政治を開始しました。
 
 シリアを含むローマ東方領土はアントニウスの担当となります。彼はエジプトの女王クレオパトラに誘惑されローマを蔑にする政治を行いました。彼が決意したパルティア遠征も彼女に唆されたという説があるくらいです。
 
 
  一方、パルティアの情勢はどうだったでしょうか?カルラエの勝利の立役者スレナスは、その名声が王を凌ぐ事を恐れたオロデス2世によって間もなく粛清されました。王は自ら軍を率い報復のシリア侵入を試みますがもともと軍事的才能に乏しかったため失敗します。後を継いだフラアテス4世(在位BC38年~BC2年)までシリアを巡ってローマとパルティアは一進一退の攻防を続けていました。
 
 
 アントニウスは、シリアを巡る東方問題を解決しその名声によってライバル、オクタヴィアヌスを打倒しようと考えていたのかもしれません。この時も10万を超える大軍が動員されたそうですが、勇猛ではあってもやはり軍事的才能に乏しいアントニウスのパルティア遠征は失敗します。その後アクティウムの海戦でオクタヴィアヌスに敗れたアントニウスは、エジプトの首都アレクサンドリアでクレオパトラと共に自害、野望は潰えました。
 
 
 その後もアルメニアの帰順を巡ってパルティアはローマとしばしば争います。そして戦争の無い時は国内の政争に明け暮れ国力は次第に疲弊していきます。
 
 
 220年、アケメネス朝発祥の地と同じファールス地方にアルダシール1世が独立します。パルティア王アルタバヌス5世の討伐軍を破りパルティアの本拠地メソポタミアに攻め入りました。相次ぐ内紛で求心力を失っていたパルティアでは、メソポタミアの諸都市が次々と離反してアルダシール側に付きました。
 
 もともとアルダシールはパルティアに服属するペルシス王国の王でした。ただその領土は属国のうちでは最大でアルメニアよりも大きかったといわれます。彼の父バーバクの時代から勢力を伸ばし婚姻政策や謀略によって次々と領土を拡大していったそうです。このバーバクの時代にすでに独立を果たしていたともいわれます。
 
 208年、バーバクはパルティア王ヴォロゲセス4世(あるいは5世)と戦って敗死します。これで再びペルシス王国はパルティアに服属したのでしょう。しかし息子アルダシールの時代に再び叛き今度は成功したのです。
 
 
 224年(226年という説も?)、パルティアの首都クテシフォンがアルダシールによって陥落。パルティア最後の王アルタバヌス5世は捕えられて処刑されました。アルダシールは、ササン朝ペルシャを興しクテシフォンを都に定めます。
 
 
 ただしアルダシール1世の戦いは続きました。というのもパルティアという国は中央集権制ではなく封建制だったため各地に有力な諸侯が存在したのです。特にアルメニアなどはパルティア王家出身の王が立っていたためこれらの勢力と時には戦い時には懐柔して勢力を拡大しました。
 
 
 ササン朝は、自分たちの大義名分を主張するためアケメネス朝の正統な後継者だと主張しました。そのためパルティア時代を否定しあたかも異民族の征服王朝であったかのように振舞います。しかしパルティア人の言語は東北イラン語であるパルティア語で古代ペルシャ語とは異なるもののその先祖を辿れば同じアーリア系言語にいきつくそうです。
 
 アケメネス朝、パルティア、ササン朝は同じイラン高原に栄えたアーリア系の王朝であったと言えます。

古代イランの歴史Ⅳ  アルサケス朝パルティア王国(前編)

 紀元前330年、マケドニアのアレクサンドロス大王によってアケメネス朝ペルシャは滅ぼされます。イラン高原もマケドニアの領有となりました。しかしアレクサンドロスは自らの帝国の首都と定めたバビロンで没します。享年32歳。
 
 
 アレクサンドロスが後継者を定めず没したため彼の遺領を巡って将軍たちが相争います。これをディアドコイ(後継者)戦争と呼びますが、この中で生き残ったのはアンティゴノス朝マケドニア、プトレマイオス朝エジプト、そしてバビロン総督だったセレウコスの興したセレウコス朝シリアでした。イラン高原もセレウコス朝が支配します。
 
 ところがセレウコス朝は、地中海沿岸部を巡ってプトレマイオス朝と戦争に突入し東方はおろそかになっていきました。紀元前256年、王国最東端バクトリアの総督ディオドトスは反乱を起こし独立します。これをバクトリア王国と呼びます。セレウコス朝側は、独立を認めず何度も討伐軍を起こしますが、バクトリアはイラン北東部ホラサン地方にいたパルティア人と結びこれと対抗しました。
 
 長い戦いの末、結局セレウコス朝側が折れる形でバクトリアとパルティアの独立を認めます。一応セレウコス朝の宗主権だけは残されましたが、こうしてパルティアは歴史上に登場しました。
 
 
 ところで、パルティア人とはどういう人たちだったのでしょうか?アーリア人であった事は間違いなさそうですが、早くからイラン高原に定住し農耕や都市生活に順応したアケメネス朝治下のアーリア人と違い、最後まで遊牧生活を捨てず蛮風をいつまでも持ち続けた人たちだったようです。このため次に出てくるササン朝は、彼らを同じ民族とは認めず自らをアケメネス朝の正統な後継者と主張します。
 
 パルティア人は、最初カスピ海とアラル海の間の平原で遊牧生活をしていたようです。その後次第に南下しアケメネス朝の支配下に組み込まれます。セレウコス朝の混乱をみて独立の好機と捉えたのかもしれません。
 
 
 アルサケス朝パルティアの創始者はアルサケスという人物でした。支那の歴史書でパルティアの事を安息国と呼ぶのは、このアルサケスの名前から来ています。古代ペルシャ語では「アルタクシャサ」。ギリシャ語読みでは「アルタクセルクセス」です。
 
 
 アルサケスがアサ-クというパルティアの都市で即位したのは紀元前238年だといわれます。しかし歴代ペルティア君主が「アルサケス」の称号を持っていた事、そして2代国王ティリダテスの業績がはっきりしているのに比べアルサケスに関してはほとんど記録がないため研究者の間では初代アルサケスは実在せずティリダテスが初代国王ではないか?とも言われますが、はっきりしません。
 
 ただ歴代ローマ皇帝が「カエサル」という称号を持っていた史実もあり、それだけでアルサケスの実在を疑う事はできません。本稿では一応実在の人物としておきます。
 
 パルティアは、6代国王ミトリダテス1世(在位BC171年~BC138年)の時代に大きく版図を広げます。それまではヘカトンピュロスを首都とする一地方政権にすぎませんでしたが、弱体化したセレウコス朝を討ってイラン高原に進出、紀元前148年には旧メディア王国の首都エクバタナを陥落させています。紀元前141年にはバビロニアに侵入しセレウキアを占領しました。これによってセレウコス朝は東方の領土をほとんど失いシリアの一地方政権に落ちぶれます。はるか西方ではイタリア半島にローマが勃興、東方世界への進出を開始していました。
 
 
 イラン高原の主人公となったパルティアと、セレウコス朝を滅ぼしてオリエントに進出したローマはいずれ衝突する運命でした。紀元前2世紀末、パルティアは新たな脅威ローマに対抗するためチグリス川を挟んだセレウキアの対岸に新首都クテシフォンを建設し王国の中心を西方に移します。第9代、ミトリダテス2世の時代でした。
 
 
 ミトリダテス2世(在位BC124年~BC87年)は、アルメニアを保護国化しローマの将軍スラと交渉してユーフラテス川を両国の国境と定めます。
 
 
 パルティアは、他のオリエント諸国と違って封建制を採用し王権はそれほど強力ではありませんでした。そのため強力な王がいるときは問題になりませんでしたが、王権が弱体化すると貴族たちの権力争いで内紛が絶えませんでした。さらに拡大する一方のローマは、豊かなメソポタミア平原を狙ってしばしば侵入を試みます。
 
 オロデス2世とミトリダテス3世の王位継承を巡る内戦で疲弊した時を見計らって、ローマ三頭政治の一人クラッススが12万を超える大軍でローマ領シリアを出発、パルティアに侵略を開始しました。紀元前53年ミトリダテス3世を敗死させようやく王権を握ったオロデス2世は、将軍スレナスを大将としてこれを迎え撃たせました。
 
 三頭政治の他の両雄カエサルやポンペイウスの輝かしい戦功に比べ実績の無かったクラッススが、彼らに比肩する軍功をあげようと標的にしたのがパルティアでした。確かにパルティアを征服できればカエサルやポンペイウスに勝るとも劣らぬ名声を得られます。しかし商人上がりに過ぎない彼の野心は高いものとなりました。
 
 両軍は北シリア、カルラエの地で激突します。パルティア軍は、ローマ軍の4分の1でした。しかし歩兵中心のローマ軍と違い全軍騎兵で固めたパルティア軍は、ローマ軍と直接対決せず遠巻きに矢を射かけました。
 
 世にパルティア式射術(Parthian Shot)という言葉があります。馬を操るのに巧みだったパルティア人は馬で逃げながらひょいと後ろを向いて矢を射かける事が出来たのです。敵は敗走していると勘違いして嵩にかかって攻めているのですから、一瞬に攻守が逆転するパルティア式射術は脅威でした。
 
 この時のローマ軍もこれにさんざんやられたそうです。クラッススは、自慢のローマ重装歩兵による突撃を実行させてもらえず成すすべもなく敗れ去りました。クラッススの息子プブリウスは深追いして戦死、ローマ軍は4000人の負傷者を置き去りにして潰走しました。クラッスス自身も間もなく殺され、彼の首はオロデス2世に献上されます。ローマ史上でもほとんど例を見ないような大敗北でした。降伏した大量のローマ兵捕虜たちは東方に送られ二度と祖国の土を踏む事はありませんでした。

古代イランの歴史Ⅲ  アケメネス朝ペルシャ(後編)

 ダレイオスは、キュロス王家の遠縁に当たります。キュロス2世の祖父キュロス1世とダレイオスの曽祖父アリアラムネスが兄弟でした。この程度の血縁で王位を継ぐ事が出来たのが不思議です。ただダレイオスの父ヒュスタスべスは重要な地位に就いておりヒルカニアとパルティア(イラン高原北東部)のサトラップ(総督)を務める大貴族でした。ダレイオス本人もカンビセス2世の槍持ちとしてエジプト遠征に従軍しています。
 
 これは王の信任が厚い側近しか就けない役職で、高い地位でした。ダレイオスはバビロンのサトラップ、ゴブリュアスの娘と結婚しており三人の子供がいました。実家の実力も閨閥もたしかに王たるにふさわしい力を備えています。この力を背景にダレイオスは力づくで王位を奪ったのでしょう。
 
 
 彼の王位継承は万人に認められたものではなかったようです。王国各地で反乱が続発しその鎮圧に追われます。しかしダレイオスは、着実にそれを平定しキュロス2世が創業したアケメネス朝ペルシャを完成させました。
 
 ダレイオスは、国内を20のサトラペイア(州)に纏め、サトラップ(総督)を派遣して支配しました。また「王の目」「王の耳」と呼ばれる監察官を各地に派遣します。彼の時代に新都ペルセポリスを建設しますが、ここは宗教都市にしか過ぎなかったという説があります。王国の中心は政都スサであり続けました。
 
 首都スサから小アジアのサルデスを結ぶ「王の道」を建設したのも彼です。国内を中央集権でまとめ、なおかつ支配下の諸国民には寛容政策で臨みます。まさにアケメネス朝の最盛期を築いたのがダレイオス1世でした。
 
 ダレイオス1世は、その後黒海の北岸現在のウクライナ地方にあったスキタイへ遠征しますが敵の焦土戦術に苦しめられて撤退します。
 
 
 アケメネス朝ペルシャの拡大は、ギリシャ人たちと衝突する運命でした。ギリシャ人は本土のみならず商圏を求めて地中海各地に進出していました。ペルシャの支配下にある小アジアにもエーゲ海沿岸イオニア地方を中心にギリシャ人の植民都市が数多くありました。最初は緩やかな従属関係を結んでいましたが、ダレイオスのスキタイ遠征失敗を見て小アジア西岸イオニア地方のギリシャ人が反乱を起こします。
 
 
 イオニアのギリシャ人たちは本土に応援を求めました。こうしてアケメネス朝ペルシャとギリシャのポリス(都市国家)連合との50年に渡るペルシャ戦争が始まります。戦争の途中でダレイオス1世は死去し、息子のクセルクセス1世に受け継がれました。
 
 紀元前480年、百万とも号するペルシャの大軍が陸路ギリシャ本土を襲います。これを迎え撃ったスパルタ王レオニダス指揮下のギリシャ軍はテルモピュライの隘路で激突し全員玉砕。ギリシャの運命は風前の灯と思われました。
 
 ところがアテナイでは全市民が海上に逃れ、サラミス湾で海軍同士の決戦が行われます。そこでアテナイ海軍は歴史的な勝利をあげました。陸路をすすんでいたクセルクセス1世は、退路を断たれる事を恐れ撤退しますが、軍の主力は依然としてギリシャ本土に残されました。翌年、プラタイアでペルシャ軍とギリシャ連合軍の間に戦いが起こりますがここでもギリシャ軍が勝利しました。
 
 大軍とはいえ各地から寄せ集められ戦意の低いペルシャ軍と負けたら滅亡するギリシャ連合軍の気合の違いだったのでしょう。以後クセルクセスは陸路からのギリシャ侵攻を諦めます。戦線はこのまま膠着状態に陥りました。
 
 
 クセルクセス1世は、紀元前465年側近アルタバノスに暗殺されます。後を継いだ息子アルタクセルクセス1世時代の紀元前449年カリアスの和約でようやくギリシャとの講和が成立し戦争は終結しました。
 
 とはいうものの超大国であったアケメネス朝ペルシャはギリシャ世界に影響力を与え続けました。アテナイとスパルタを盟主とするポリス群が争ったペロポネソス戦争でも、両陣営はペルシャの援助を勝ち取るべく競い合ったそうです。
 
 
 ギリシャ人たちは、その後ペルシャ領内にも進出し商人や傭兵となってペルシャ社会に溶け込みました。有名なクセノフォンの『アナバシス』などはこの時代に書かれたものです。
 
 
 その後ギリシャ社会とペルシャは共に衰退していきます。ペルシャ末期の王たち、アルタクセルクセス3世、アルセスは共に宦官パゴアスに暗殺されるなど王朝は混迷を極めました。アケメネス朝最後の王ダレイオス3世は、そういった混乱の中傍系から王位を継ぎます。ですから最初から求心力がなかったのです。
 
 ギリシャ世界では辺境のマケドニアがフィリッポス2世、アレクサンドロス(3世)という2代の王の時代に力を付けギリシャ世界を統一した時、ペルシャ王国はがたがたになっていました。
 
 アレクサンドロスが遠征してきたとき、あれほど強勢を誇ったアケメネス朝ペルシャが簡単に瓦解したのはすでに内部から崩壊が始まっていたからでした。
 
 紀元前330年、アレクサンドロスとのガウガメラの決戦に敗れバクトリアに逃れていたダレイオス3世は、サトラップ(総督)ベッソスに裏切られて殺されます。アケメネス朝はこれで滅亡しました。世界帝国の栄光を築いたアケメネス朝ペルシャの最期というにはあまりにも哀れな出来事でした。
 

古代イランの歴史Ⅲ  アケメネス朝ペルシャ(前編)

 アケメネス朝ペルシャの創始者キュロス2世、そしてキュロスの覇業に大きな役割を果たしたメディアの将軍ハルパゴス、二人の間にはいったいどのような関係があったのでしょうか?
 
 
 ギリシャの歴史家ヘロドトスは語ります。メディアの王アステュアゲスにはマンダネという娘がおりました。ある日彼はマンダネが放尿すると全アジアが洪水に襲われるという夢を見ます。薄気味悪くなった王が夢占いさせるといずれマンダネが全アジアの王を産むだろうということでした。
 
 アジアの王はメディアの国王である自分でなければならないという自負を持っていたアステュアゲスは、マンダネを辺境にあった属国アンシャンの王カンビセスに嫁がせました。
 
 ところがその後、またアステュアゲスは夢をみます。今度はマンダネの陰部から一本の葡萄の木が生えアジア全土を覆うというものでした。恐怖にかられたアステュアゲスは、忠臣ハルパゴスにマンダネの産んだキュロスを殺すよう命じます。
 
 ところが赤子を殺すのをためらったハルパゴスは、配下の牛飼いに命じて殺させようとしました。しかし牛飼いもまた人の子でした。そんな残忍な事が出来るはずありません。ちょうど牛飼いの子が病で死んでいた直後だったので、妻と相談しハルパゴスにはキュロスと偽って実の子の遺体を渡しました。その後キュロスは牛飼いの子として育てられます。
 
 
 しかしキュロスが長ずるにつれとても一介の牛飼いの子とは思えない王者の風格を示し始めたので評判になります。不審に思ったアステュアゲス王が調べさせると事実が発覚しました。事ここに至っては今更殺す事も出来ずアンシャンの両親のもとに戻します。
 
 怒りの持って行きようのない王は、結果的に自分を騙したハルパゴスに報復しました。秘かにハルパゴスの子を殺しその肉を偽って本人に食べさせたのです。真相が分かってもハルパゴスは顔色一つ変えず、以前通り忠勤に励みます。
 
 
 それから十数年後、アステュアゲス王の危惧通りアンシャン王に即位したキュロスは打倒メディアを掲げて挙兵しました。キュロス追討軍を指揮したハルパゴスが、土壇場で裏切りそれが決定的要因となってメディア王国が滅んだ事は前記事で紹介しました。
 
 
 実は、ハルパゴスは表向き忠誠を誓いながら裏では復讐の機会を待っていたのです。キュロスの挙兵に当たってもひそかに援助したのは彼でした。この事から分かる事はいくら専制君主といえども部下の心を踏みにじってはいけないという事、そして人の復讐心は恐ろしいという事でしょうか。
 
 
 紀元前550年、キュロスはメディア王国の首都エクバタナに入城します。メディア王国の領土を受け継いで自らの王国を建国しました。これをアケメネス朝ペルシャと言います。
 
 
 キュロスは、紀元前548年メディアの同盟国だった小アジアのリディア王国を討ちます。キュロスが周辺諸国を併呑してどんどん大きくなっていく姿を見た新バビロニアの王ナボニドスは危機感を覚え大軍を動員してキュロスを討ちました。
 
 しかし紀元前539年新興の意気に燃えるペルシャ軍の前にオピスの戦いで敗北。勢いに乗ったペルシャ軍はバビロンに無血入城し、ここに新バビロニア王国もペルシャに滅ぼされました。その後のキュロスは、各地で起こった反ペルシャ勢力との戦いに明け暮れ血みどろの戦いの中で没します。
 
 ヘロドトスによれば、紀元前529年カスピ海の東岸にあったマッサゲタイ人との戦いで戦死したとされます。ところが後年、アレクサンドロス大王がペルシャ遠征の途中キュロス2世の霊廟のあるパサルカダエを訪れた時、遺体を確認したところ戦死の原因となった外傷はなかったと記録されています。
 
 
 このあたり伝聞でしか分からなかったヘロドトスの限界かもしれません。マッサゲタイ人との戦いで敗北したという話とキュロス2世の死去の話を混同したのでしょうか?
 
 
 キュロス2世の後を継いだのは息子カンビセス2世です。カンビセスは紀元前525年エジプト第26王朝を滅ぼし文字通りオリエント世界を統一します。アッシリア帝国に続く第二の世界帝国でした。
 
 三代を継いだのは、弟のスメルディスですが、実ははっきりとしません。というのもまもなく傍系から出たダレイオス1世に簒奪されるからです。
 
 
 公式の歴史では、スメルディスはカンビセス2世の時代に、反乱の疑いで殺されていたとされるのです。カンビセス2世が後継者を定めずに亡くなると王国は混乱しマゴス僧(メディアの祭司)で亡くなったスメルディスと瓜二つだった同名のスメルディスが王弟を騙り王国乗っ取りを計ったとされます。ところが王の遠縁にあたるダレイオスがこれを見破り、偽者を倒して自らが王位を継いだというのです。
 
 しかしこの話、どうも不自然さが拭いきれません。王弟とそっくりな顔の人物もいたでしょう。同名の人物もいたでしょう。ただそっくりでかつ同名という可能性は天文学的な確率でしかありえません。研究者の間では、ダレイオスが自らの簒奪を正統化するためにでっち上げた話ではないかという意見が大勢を占めています。ダレイオスに倒されたのはやはりスメルディス本人であったのでしょう。私もこの意見に賛成です。
 
 ともかく、以後はダレイオスの子孫がペルシャの王位を継承していくこととなります。ダレイオス1世(在位BC522年~BC486年)はアケメネス朝最盛期を築いた大王です。
 
 
 後編では、ダレイオス1世の覇業、ギリシャ諸国との戦いであるペルシャ戦争、そして王朝の滅亡を描きます

古代イランの歴史Ⅱ  メディア王国からアケメネス朝の成立まで

 メディアとはイラン北西部エクバタナ(現在のハマダン)あたりの地名です。メディア王国を築いた人々はアーリア人でした。
 
 アーリア人が中央アジアからイラン高原に移動を開始したのは紀元前2000年頃だといわれています。だいたい1000年くらいかけて徐々に浸透し紀元前1000年前後には高原の多数派になっていました。ギリシャの歴史家ヘロドトスによれば、デイオケスという人物がアーリア人を纏めてメディア王国を建国しました。
 
 デイオケスは、エクバタナを都に定め七重の城壁で囲んだそうです。紀元前714年メディア王ダーイウィックは、強国アッシリアと対抗するためアッシリアの北、現在のアルメニアにあったウラルトゥと同盟します。しかし当時オリエント世界最強の軍事力を持っていたアッシリアのサルゴン2世の前に一敗地にまみれ、その後しばらくメディア王国は泣かず飛ばずの時代を迎えました。アッシリアの属国化していたのかもしれません。
 
 メディア王国は一時スキタイの支配を28年受けたという記録もありますから、アッシリアとの戦争の打撃は大きかったのでしょう。サルゴン2世から始まるアッシリアの全盛期の間メディア王国の記録はほとんど残されていません。
 
 しかし、満つれば欠けるが世の習い。史上初の世界帝国を築いたアッシリアもアッシュールバニパル王の治世を最後に衰退期に入ります。アッシリアの退潮を決定的にしたのは帝国の重要な領土であったバビロニアにおいてカルディア人の将軍ナボポラッサルが独立し新バビロニア王国を建国した事でした。
 
 さしものアッシリアも領土のあちこちで反乱が相次ぎその対処に追われていました。アッシリアは支配下の異民族に対し武断政治で臨みます。国家の軍事力が強力な間はそれで良かったのですが、支配民族に不満がたまるためいったん崩れ出すと留まるところを知りません。
 
 メディア王キュアクサレス2世は、紀元前612年新バビロニアと同盟を結びアッシリアの本国へ侵攻します。紀元前609年アッシリアの首都ニネヴェはメディア・新バビロニア連合軍によって陥落しました。アッシリア軍は騎兵、歩兵、戦車、工兵と分かれた当時としては最先端の軍事力を誇っていましたが、さしものアッシリア軍も疲弊していたのでしょう。騎兵を主力とするメディア軍の前に敗れ去ります。
 
 
 世界帝国アッシリアの滅亡は、権力の空白地帯を生みました。その中で台頭したのはイラン高原を領土とするメディア、新バビロニア(カルディア)、アナトリアに興ったリディア、エジプトの四国でした。世に四大国時代と呼びます。
 
 
 しかしその時代は長続きせず、まもなく新バビロニアはシリアの支配権を巡ってサイス朝エジプトと抗争を始めました。メディア王国もアナトリアに進出しリディアとの戦争を開始します。両軍はハリュス川で戦いますが戦闘中に日食が起こったので恐れ慄きハリュス川を国境とする事で和睦します。
 
 
 四大国で一番の強勢となったのは新バビロニアでした。エジプトとの戦争に勝ちシリアを版図に加えナボポラッサル王の子ネブカドネザル大王の時代に全盛期を迎えます。有名なバビロンのイシュタル門や空中庭園は彼の時代に建設されたものです。一説では人口百万を数える世界最大の大都市でした。
 
 
 一方、メディアもそれに次ぐ力を持ちます。通常ならここで新バビロニアとメディアの抗争が始まるのですが対アッシリア戦争で結んだ同盟がまだ生きていたのでしょう。両国の間に波風が立つ事はほとんどありませんでした。
 
 
 メディア王国は、大国化するにつれ多くの国を服属させていきます。その中の一つに旧エラム王国の一都市を起源とするアンシャン王国という小国がありました。その若き王キュロス2世はメディア王国に対し反乱を起こします。紀元前552年アステュアゲス王は将軍ハルパゴスに命じてこれを討たせました。圧倒的な大軍であったメディア軍でしたが、突然のハルパゴスの裏切りで全軍崩壊、キュロスはそのまま王都エクバタナに進軍します。
 
 メディア王国最後の王アステュアゲスは捕えられて処刑されました。こうしてメディ王国は滅亡します。紀元前550年のことです。
 
 
 このキュロスこそアケメネス朝ペルシャの創始者でした。ハルパゴスの裏切り劇には伏線があり、キュロス2世の勝利にも関係するので次章で詳しく説明します。
 
 
 次回は、史上二番目の世界帝国アケメネス朝ペルシャの歴史を語ります。

古代イランの歴史Ⅰ  先史時代~エラム王国

 イラン高原はカスピ海からペルシャ湾の間にある高原で、その西には古くから文明を育んだメソポタミア平原があります。メソポタミアとはザクロス山脈で隔てられ高原東部とはカヴィール砂漠、ルート砂漠で隔てられています。
 
 カスピ海のすぐ南にはエルブルズ山脈という5000m級の山々が連なる大山脈がありイラン高原との境を成します。中央部は乾燥した平原ですが、平均高度1000mもあるため夏それほど暑くならず意外と過ごしやすいそうです。
 
 一部には雪の降る所もあり、特に北方のエルブルズ山脈の麓は、万年雪の高峰からの雪解け水が豊富です。この地域は古来から都市が発達し、現在のイラン共和国の首都テヘランもこのような環境のもとにあります。
 
 また、エルブルズ山脈とカスピ海の間はマザンダランと呼ばれる南北に狭い地域で、温暖で雨も多く豊かな穀倉地帯が広がります。現在と違い古代はイラン高原との交通は困難で高原の人々はマザンダランを夢の国とか、巨人や異人の住む不思議の国と見ていたようです。
 
 一方ザクロス山脈とメソポタミア平原との間のペルシャ湾岸地域はフージスタンと呼ばれ、湿気もあり夏とても暑くなります。イランと一概に言っても地域によってこれだけの違いがあるのです。
 
 
 イラン高原に人が最初に住んだのは紀元前7000年頃だといわれます。もともとシリアという世界最古の農耕が始まった地域、そしてメソポタミアという古代文明が発祥した地域に近くそれらの人々が移住してきたのでしょう。
 
 
 現在はイラン(アーリア)人が住んでいますが、彼らが中央アジアから高原に移住してきたのは紀元前2000年頃だといわれますから、この時住んでいたのはメソポタミアと同様セム系の人々だったと推定されます。
 
 
 イランとはアーリア人の自称で、ギリシャ人はペルシャと呼びました。このイラン地域が歴史に登場したのは意外と古く紀元前2700年頃でした。メソポタミアに最初の文明を開いたシュメール人の記録に「エラム」という国名が登場します。「エラム」とは高地の国というような意味だそうです。
 
 シュメールの有名な神話ギルガメシュ物語にも英雄王ギルガメシュがエラムまで侵攻したという一節があります。メソポタミアの国家はしばしばエラムに侵攻しました。というのもメソポタミアでは手に入らない木材や鉱物資源が豊富にあったからです。
 
 
 エラムもまた、メソポタミアとの戦争の過程で力を付け、逆にメソポタミアの都市国家群に侵攻した事もあったようです。エラムの中心地は現在のイラン南部フージスタンを含むザクロス山脈に沿った地域でした。
 
 
 エラム王国はなかなか強力で、何度かメソポタミアやバビロニアの王たちから侵略を受けますが決して屈することなく独立を保ちます。紀元前2000年頃から紀元前1200年頃まではこのような状況が続いたようですが、次に興った初の世界帝国アッシリアのアッシュールバニパル王(在位BC668年~BC627年)は、エラム王国へ本格的に侵攻し、この戦いでエラムは壊滅的な打撃を受けます。この後エラム王国がどのように滅んでいったかは分かっていませんが、イラン高原にアーリア人の流入が続きいつしか高原の主人はアーリア人になっていました。
 
 
 エラムの次に高原で成立したメディア王国はアーリア人の国家だといわれます。メディア王国の中心地はイラン高原西北部のエクバタナ(現在のハマダン)でしたから、エラム王国は弱体化した後メディア王国へ吸収されたのでしょう。
 
 メディアの属国のうちから、アケメネス朝ペルシャが興ります。次回はアーリア人による最初の大帝国アケメネス朝ペルシャの成立と発展、滅亡を描きます。

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