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2013年6月 2日 (日)

古代イランの歴史外伝  亡命の王子ペーローズ(卑路斯)その2  雑感など

 何故私がペーローズという人物にこだわるかというと私の好みの人物像とバッチリ合致するからなんですね。
 
 日本史で言えば北条時行、足利直冬、世界史ならアブドルラフマーン1世、耶律大石そしてペーローズ。これらの人物の共通点は祖国や家を滅ぼされた亡命者、いわば貴種流離譚なんです。
 ほとんどの人物は歴史の流れに逆らえず滅びゆく運命でしたが、耶律大石は西遼(カラキタイ)を、アブドルラフマーン1世(アブド・アッラフマーン)は後ウマイヤ朝を新天地で建国しています。
 両者と他の亡命者との違いは何だったのでしょうか?時行と直冬は一時は敵にひと泡吹かせたのでまだましでしたが、亡命先で成功した二人の勝因を探る事でペーローズがなぜ失敗したか分かると思います。
 まずアブドルラフマーン1世の場合は、敵であるアッバース朝がそれほど領民の心服を得ておらず、マグレブ(北アフリカ西部)やイベリア半島に親ウマイヤ派が多数残っていた事が大きかったと思います。特にモロッコは彼の母の実家でその応援を得る事が出来ました。彼はモロッコの親ウマイヤ派を糾合しイベリア半島に渡り後ウマイヤ朝を建国できたのです。
 次に耶律大石を見てみましょう。彼の場合も祖国遼を滅ぼした女真族の金は新しく征服した領民に心服されていたわけではありませんでした。特に金の勢力の及ばないモンゴル高原では、狩猟民族の女真より自分たちモンゴル族に近い契丹族に同情が集まります。遼はモンゴル高原に可敦城を建設し軍事基地化していましたから大石がそこへ逃げ込んだのは大正解でした。大石はまずモンゴル族を糾合しひとまず西へ走って勢力を回復しその後金と戦おうと決意します。そのため西行は絶望ではなく希望に満ちたものだったはず。
 一方、ぺーローズの場合は敵がイスラムという宗教であった事が不幸でした。宗教の力は偉大です。最初は嫌でも改宗しそれを信じるようになるとちょっとの事では覆すことは難しいものです。おそらくペーローズも彼に付き従った遺臣たちも、イスラム勢力の支配を覆しササン朝を再興する事を心のどこかでは無理だと分かっていたのかもしれません。とすれば彼らが採るべき道は、アブドルラフマーン1世や耶律大石のようにひとまず別の土地に新たな国家を建設する事ではなかったでしょうか。
 両者も結局祖国回復はできませんでしたが、新天地で独自の発展を遂げその王朝は長く続きます。
 ただペーローズが建国するとして、ふさわしい土地があったかどうか?一番現実的なのは彼らが拠ったトハリスタンですが、後世の歴史が示す通りイスラム勢力に飲み込まれるため滅亡は時間の問題でした。
 では北方の草原地帯はどうか?これもセルジューク朝が出てくるため無理でしょう。もともと遊牧民族でありながら都市生活に慣れ農耕民族と変わらなくなっていた彼らには草原に帰って遊牧国家を建国するという選択肢はなかったでしょう。
 とすればインドです。ちょうど当時のインドはヴァルダナ朝が崩壊し混乱の極にありました。古くはギリシャ人、サカ人の時代からインド亜大陸に進出してその土地を占領し独自の国家を築いた民族は多くいました。
 もしペーローズが一大決心をしササン朝の遺臣を糾合しインドへの新天地を求めてカイバー峠を越えていたら歴史は変わっていたかもしれません。後年同じような立場に置かれたバーブルはムガール帝国を建国したではありませんか!
 すくなくともパンシャブ地方は征服し、ササン朝の血脈は残せたかもしれませんね。しかし悲しいかな、ペーローズにはその器量がありませんでした。しょせん歴史に埋もれゆく運命だったのでしょう。

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