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2013年6月 2日 (日)

古代イランの歴史Ⅴ  ササン朝ペルシャ

 ササン朝の創始者アルダシールは、古代ペルシャ語のアルタフシャサつまりギリシャ語で言うところのアルタクセルクセスの中世ペルシャ語形です。
 
 ということはパルティアの創始者アルサケスとも共通する名前です。皮肉なことにパルティアとササン朝は同じ名前の人物が創始したと言えます。
 
 
 アルダシール1世(在位226年~241年)は、王朝創業時ゾロアスター教徒の支援を受けたため同教を保護し国教とします。230年、アルダシールはメソポタミア平原全土を支配下に収め北シリアのニシビスを包囲しました。ここはローマ帝国との国境でしたので初めてローマ軍と対峙した事になります。240年にはユーフラテス川上流にあった東西交易の要衝、隊商都市ハトラを占領しました。治世の晩年、アルダシール1世は強大なローマ帝国との戦争に突入し、その戦役の中で没します。
 
 後を継いだのは息子のシャプール1世(中世ペルシャ語ではシャープフルがより近い発音。在位240年~272年)でした。シャプール1世はアーリア人だけでなく支配下の異民族すべてを統べる「諸王の王」を称します。ササン朝の統治体制は彼の時代に確立したといえるでしょう。
 
 
 時のローマ皇帝ゴルディアス3世(在位238年~244年)は、パルティアに続き新たな宿敵となったササン朝ペルシャが地中海方面へ進出してくる事を恐れ自ら軍を率いシリアに遠征しました。ローマ軍はメソポタミアまで進みササン朝の首都クテシフォンを望むところまで来ますがマッシケの戦いでシャプール1世に敗れ戦死します。後を継いだアラビア人とも言われるローマ皇帝フィリップスは莫大な賠償金を払ってササン朝と講和しました。
 
 
 その後もローマとの戦争は続き260年エデッサの戦いではローマ皇帝ヴァレリアヌスが捕虜になるという前代未聞の屈辱的大敗を喫します。ヴァレリアヌスは幽閉中に死去しました。シャプール1世にとってはこれ以上ない栄誉です。馬上のシャプールが跪いて命乞いするヴァレリアヌスを見降ろしているという浮き彫りを王家の墓所の岩肌に刻ませたほどでした。ただササン朝の優位は長く続かず時にはローマ軍がメソポタミア平原を蹂躙したこともあります。
 
 
 例えば背教者として有名なユリアヌス皇帝は、343年自ら軍を率いメソポタミア平原に進出ササン朝軍を破って首都クテシフォンを指呼の間に迎えます。しかし最後の決戦で敗れ戦死してしまいました。
 
 ペルシャ王シャプール2世(在位309年~379年)は、ローマと講和してニシビスを確保し、アルメニアを分割させました。
 
 
 ササン朝時代、ゾロアスター教が国教でしたが、キリスト教徒が多く入り込み特に大都市を中心に信者を獲得します。ササン朝が東方教会の中心地アンテイオキアを一時占領した事も影響したのだと思います。
 
 
 ササン朝とローマ帝国、その後を継いだビザンツ帝国(東ローマ帝国)は、時には戦い時には講和しつつも互いの国家そのものは尊重し滅ぼすところまではいかないという不思議な関係でした。ところがササン朝の脅威は東から来ます。
 
 
 中央アジアに勃興した遊牧民エフタルがにわかに強大化したのです。白いフン族、あるいは白匈奴とも呼ばれる謎の遊牧民ですがその軍隊は強力で周辺諸国を悩ませました。インドのグプタ朝などはエフタルの侵入が原因で衰退し滅んだくらいです。
 
 ササン朝ではワフラーム5世(在位421年~439年)の時代に一時撃退しますが、次のヤズデギルト2世の時代にはエフタルがササン朝の王位継承問題に介入するほどの影響力を持ちました。
 
 そんなエフタルの軛(くびき)を脱したのはホスロー1世(在位531年~579年)の時代です。ビザンツ帝国最盛期を築いていたユスティニアヌス大帝と和平を結び西方国境を安定させると最大の懸案だったエフタル対策に乗り出します。
 
 エフタルのさらに東方、北方アジアで突厥(とっくつ、トルコの漢訳)が勃興するとこれと同盟を結びエフタルを挟撃したのです。ササン朝と突厥に東西から攻められさしもの強大を誇ったエフタルも567年滅亡します。しかしこれは狼を退治するために虎を呼び込んだようなものでした。突厥はサマルカンドなどの豊かなトランスオクシアナ地方を占領しササン朝の東方国境を脅かし始めます。ササン朝は突厥との戦争で国力を疲弊させていきました。
 
 
 ホスロー1世はササン朝の中興の祖だといわれます。しかし彼の時代を最後にササン朝は急速に衰えました。ササン朝の支配下オリエントの南アラビア砂漠ではイスラム教が勃興します。アラビア半島を統一したイスラム勢力はまずビザンツ帝国からシリアを奪い633年ペルシャ領にも侵入を始めました。
 
 636年カーディシーヤの戦い、642年ニハーバンドの戦いで敗北したササン朝は坂道を転がり落ちるように没落していきます。ササン朝の首都クテシフォンはイスラム勢力によって陥落、最後の王ヤズデギルド3世はイラン高原を東に走り抵抗を続けました。イスラム勢力に対抗するため遠く唐にまで援軍を求めたほどです。
 
 しかし中央アジアのメルブで再起を図っていたヤズデギルドは651年メルブ総督マーフワイフの裏切りに遭い殺されてしまいました。こうしてササン朝ペルシャは断絶します。
 
 
 ヤズデギルド3世の王子ペーローズ(卑路斯)はイスラム勢力の追手を逃れ唐に亡命します。唐は678年ペーローズを冊封して波斯(ペルシャ)王としました。ペーローズはトハリスタン(大夏)の地に留まり20数年間亡命生活を送ったそうです。付き従うササン朝の遺臣数千名と共に。
 
 しかし結局祖国復興はできず異国の土となりました。ちなみに異説でペーローズが唐を経由して日本まで至ったという話があるのですが、もとより伝説に過ぎません。ただ記録によれば670年から674年まで(661年という説もあり)唐の首都長安に来朝したのは間違いなさそうです。この時右武衛将軍に封じられています。唐とイスラム勢力が751年タラス河畔で戦った原因の一つには、このペーローズの亡命があったのでしょう。
 
 
 巨大帝国の最後の生き残り、亡命の王子、一種の貴種流離譚は人々の心をとらえて離しません。ペーローズの来日も彼に同情する誰かが流した噂だったのかもしれませんね。
 
 
 ともかく、ササン朝ペルシャの滅亡をもって古代以来のイランの歴史は中断します。以後はイスラム化したイランの歴史が始まって行くのです。

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