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2013年6月 2日 (日)

古代イランの歴史外伝  亡命の王子ペーローズ(卑路斯)

 実は古代イランの歴史という壮大なシリーズを書いたきっかけの一つは、最後の章でペーローズの事を書きたかったからです。
 
 公式の歴史では、ササン朝ペルシャは彼の父ヤズデギルド3世がメルブで暗殺されたところで終わっています。しかしササン朝の遺臣は生き残っていただろうし、新興のイスラム勢力の支配に我慢できなかった人もいたでしょう。
 
 
 そんな彼らの希望の星がペーローズでした。ササン朝は東の辺境地帯に防衛のため軍隊を駐留させていました。ペーローズはその軍隊と共にいたため助かったと言えます。イスラム勢力側もわざわざ遠征してまでこれを滅ぼすことはしませんでした。こちらに向かってくれば別ですが、すでに王朝としての命運は尽き放っておいても立ち枯れするだろうと読んだのです。結果的にこの判断は正解でした。
 
 
 ペーローズは最初アフガニスタン東部のトハリスタン(大夏)に駐屯します。すぐに唐に亡命したわけではなかったようです。最初は援軍を求めて唐に使者を送ります。しかし時の皇帝高宗はあまりにも遠隔だという理由で、返礼の使者は送ったものの援軍も物資も送りませんでした。
 
 その代わり彼を現地の都督(司令官)に任じ、その地を支配する事は認めました。もともとそこは唐の力が及んでいなかった土地ですからどうなろうと知った事ではなかったのです。
 
 
 ペーローズは、ついには自ら唐に赴いて援軍を求めました。661年という説、670年という説がありますがこの時右武衛将軍に封じられており来唐自体は事実だったようです。
 
 
 唐側も、さすがに無視するわけには行かなくなり侍郎裴行儉が兵を送ろうとしますが、やはり遠すぎて実現しませんでした。結局ササン朝と唐はあまりにも離れ過ぎていたのです。これがインドあたりの大国を頼ったのなら可能性はありました。というのも逆のパターンではありますが、後年インド亜大陸を叩きだされたムガール帝国2代皇帝フマユーンがサファビー朝ペルシャに亡命しイスマイリ1世の援軍を得てインドを奪回した史実がありました。
 
 不幸なことにペーローズ亡命の時期インドは混乱期で強大な統一王朝がありませんでした。
 
 
 結局20数年間、ペーローズは異国トハリスタンの地で過ごします。その晩年ははっきりと分かりませんが677年には完全に唐に亡命し長安にゾロアスター教寺院を建立したそうです。この頃には祖国回復は諦めていたのでしょう。間もなく病を得て長安で没します。未確認情報ですが、高宗の廟の前にペーローズの名前を刻んだ碑文と石像が残っているそうです。
 
 ただ現地トハリスタンで没したという話もあり真相は不明です。ペーローズの遺臣たちは彼の死後もイスラム勢力への抵抗運動を続けますが次第に忘れ去られていきます。8世紀にも彼の子孫と称するペルシャの王族がいたそうですが確認のしようもありません。
 
 
 貴種流離譚であるペーローズの物語はロマンがあります。人はこのような話が好きなのかもしれませんね。

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