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2013年6月 2日 (日)

古代イランの歴史Ⅲ  アケメネス朝ペルシャ(前編)

 アケメネス朝ペルシャの創始者キュロス2世、そしてキュロスの覇業に大きな役割を果たしたメディアの将軍ハルパゴス、二人の間にはいったいどのような関係があったのでしょうか?
 
 
 ギリシャの歴史家ヘロドトスは語ります。メディアの王アステュアゲスにはマンダネという娘がおりました。ある日彼はマンダネが放尿すると全アジアが洪水に襲われるという夢を見ます。薄気味悪くなった王が夢占いさせるといずれマンダネが全アジアの王を産むだろうということでした。
 
 アジアの王はメディアの国王である自分でなければならないという自負を持っていたアステュアゲスは、マンダネを辺境にあった属国アンシャンの王カンビセスに嫁がせました。
 
 ところがその後、またアステュアゲスは夢をみます。今度はマンダネの陰部から一本の葡萄の木が生えアジア全土を覆うというものでした。恐怖にかられたアステュアゲスは、忠臣ハルパゴスにマンダネの産んだキュロスを殺すよう命じます。
 
 ところが赤子を殺すのをためらったハルパゴスは、配下の牛飼いに命じて殺させようとしました。しかし牛飼いもまた人の子でした。そんな残忍な事が出来るはずありません。ちょうど牛飼いの子が病で死んでいた直後だったので、妻と相談しハルパゴスにはキュロスと偽って実の子の遺体を渡しました。その後キュロスは牛飼いの子として育てられます。
 
 
 しかしキュロスが長ずるにつれとても一介の牛飼いの子とは思えない王者の風格を示し始めたので評判になります。不審に思ったアステュアゲス王が調べさせると事実が発覚しました。事ここに至っては今更殺す事も出来ずアンシャンの両親のもとに戻します。
 
 怒りの持って行きようのない王は、結果的に自分を騙したハルパゴスに報復しました。秘かにハルパゴスの子を殺しその肉を偽って本人に食べさせたのです。真相が分かってもハルパゴスは顔色一つ変えず、以前通り忠勤に励みます。
 
 
 それから十数年後、アステュアゲス王の危惧通りアンシャン王に即位したキュロスは打倒メディアを掲げて挙兵しました。キュロス追討軍を指揮したハルパゴスが、土壇場で裏切りそれが決定的要因となってメディア王国が滅んだ事は前記事で紹介しました。
 
 
 実は、ハルパゴスは表向き忠誠を誓いながら裏では復讐の機会を待っていたのです。キュロスの挙兵に当たってもひそかに援助したのは彼でした。この事から分かる事はいくら専制君主といえども部下の心を踏みにじってはいけないという事、そして人の復讐心は恐ろしいという事でしょうか。
 
 
 紀元前550年、キュロスはメディア王国の首都エクバタナに入城します。メディア王国の領土を受け継いで自らの王国を建国しました。これをアケメネス朝ペルシャと言います。
 
 
 キュロスは、紀元前548年メディアの同盟国だった小アジアのリディア王国を討ちます。キュロスが周辺諸国を併呑してどんどん大きくなっていく姿を見た新バビロニアの王ナボニドスは危機感を覚え大軍を動員してキュロスを討ちました。
 
 しかし紀元前539年新興の意気に燃えるペルシャ軍の前にオピスの戦いで敗北。勢いに乗ったペルシャ軍はバビロンに無血入城し、ここに新バビロニア王国もペルシャに滅ぼされました。その後のキュロスは、各地で起こった反ペルシャ勢力との戦いに明け暮れ血みどろの戦いの中で没します。
 
 ヘロドトスによれば、紀元前529年カスピ海の東岸にあったマッサゲタイ人との戦いで戦死したとされます。ところが後年、アレクサンドロス大王がペルシャ遠征の途中キュロス2世の霊廟のあるパサルカダエを訪れた時、遺体を確認したところ戦死の原因となった外傷はなかったと記録されています。
 
 
 このあたり伝聞でしか分からなかったヘロドトスの限界かもしれません。マッサゲタイ人との戦いで敗北したという話とキュロス2世の死去の話を混同したのでしょうか?
 
 
 キュロス2世の後を継いだのは息子カンビセス2世です。カンビセスは紀元前525年エジプト第26王朝を滅ぼし文字通りオリエント世界を統一します。アッシリア帝国に続く第二の世界帝国でした。
 
 三代を継いだのは、弟のスメルディスですが、実ははっきりとしません。というのもまもなく傍系から出たダレイオス1世に簒奪されるからです。
 
 
 公式の歴史では、スメルディスはカンビセス2世の時代に、反乱の疑いで殺されていたとされるのです。カンビセス2世が後継者を定めずに亡くなると王国は混乱しマゴス僧(メディアの祭司)で亡くなったスメルディスと瓜二つだった同名のスメルディスが王弟を騙り王国乗っ取りを計ったとされます。ところが王の遠縁にあたるダレイオスがこれを見破り、偽者を倒して自らが王位を継いだというのです。
 
 しかしこの話、どうも不自然さが拭いきれません。王弟とそっくりな顔の人物もいたでしょう。同名の人物もいたでしょう。ただそっくりでかつ同名という可能性は天文学的な確率でしかありえません。研究者の間では、ダレイオスが自らの簒奪を正統化するためにでっち上げた話ではないかという意見が大勢を占めています。ダレイオスに倒されたのはやはりスメルディス本人であったのでしょう。私もこの意見に賛成です。
 
 ともかく、以後はダレイオスの子孫がペルシャの王位を継承していくこととなります。ダレイオス1世(在位BC522年~BC486年)はアケメネス朝最盛期を築いた大王です。
 
 
 後編では、ダレイオス1世の覇業、ギリシャ諸国との戦いであるペルシャ戦争、そして王朝の滅亡を描きます

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