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2013年7月

2013年7月 1日 (月)

モンゴル台頭前の東アジア(外伝)  完顔陳和尚

 完顔陳和尚(かんわんちんわしょう)、この名前を聞いてピンとくる人はほとんどいないと思います。世界史的には超マイナーな人なんですが、私好みの玄人受けする名将です。
 
 完顔陳和尚(1192年~1232年)は女真族が建てた金王朝末期の将軍でした。陳和尚というと変な名前に聞こえますが、これ実は幼名で本名は彝(い)。字は良佐。なぜか幼名が一番有名です。
 
 その姓から分かる通り金の帝室の一族ですが嫡流とはかなり離れていたようです。豊州出身とありますが、実は支那で豊州と呼ばれるところは複数あり私の考える彼の出身地第一候補は吉林省の豊州、第二候補は内モンゴル自治区の豊州です。吉林省はもともと女真族の出身地ですので一番可能性が高いですが、金の領土は内モンゴルにも拡大しておりこちらの可能性も捨てきれません。
 
 
 陳和尚の父完顔乞哥も金の将軍で1206年南宋との戦いで戦死しています。1215年そのころ中都燕京(現在の北京)に住んでいた陳和尚はモンゴルの侵攻をうけ家族ともども捕えられてしまいました。モンゴルの将軍は陳和尚が聡明な事に驚き側近に取り立てます。
 
 ところが陳和尚は敵であるモンゴルに仕える事を潔しとせず従兄の斜烈と語らって豊州の母を連れ脱出しました。この時モンゴルの監察官を斬り黄河を渡って開封に遷都していた金朝の宣宗に謁見します。
 
 宣宗は、これを喜び斜烈を将軍に取り立てました。陳和尚も従兄に従って軍職に就きます。1225年、斜烈が軍中で病気になると陳和尚は彼に代わって軍中の裁判を行いました。ところが斜烈の部下は仲間が罪を受けて処刑された事を逆恨みし陳和尚が越権行為を行ったと訴えました。
 
 陳和尚は投獄されます。ところが1226年斜烈が病死してしまい、これを惜しんだ哀宗は陳和尚を釈放し軍籍に復帰させました。燕罪が晴れ哀宗は無実の罪で投獄した事を謝ります。
 
 1228年、モンゴル軍は本格的に侵攻を開始します。陳和尚は自ら先鋒を買ってでわずか400騎の寡兵で8000ものモンゴル軍先鋒を撃破しました。これはモンゴルの侵略が始まって以来の快挙で、陳和尚は一躍英雄に祭り上げられます。定遠大将軍、平涼府判官に任じられた陳和尚は以後金軍の中で一際輝きました。
 
 陳和尚は河南・陝西地方を転戦しモンゴル軍を各地で破ります。彼の軍隊はウイグル人、ナイマン族、羌、漢人などモンゴルに追われた亡命者で形成され、モンゴルに対する復讐心が強いため士気高く精強な軍隊でした。逆を言えば、かつて精強を誇った女真族の軍隊は使い物にならなくなっていたとも言えます。
 
 忠孝軍と名付けられた陳和尚の軍隊は、モンゴル軍の間にも天敵として恐れられるようになっていきました。
 
 
 ところで陳和尚は武勇だけの人物ではありません。文人王渥と交友があり孝経、春秋左氏伝、論語、小学などを愛読し軍中でも暇ができると詩文を書いたそうです。
 
 1231年、陳和尚は倒回谷の戦いで大勝利を収め禦侮中郎将に任じられます(加官?)。しかし一個人の力で歴史の大きな流れを変えるのは不可能でした。陳和尚の居ない戦場では金軍はモンゴル軍に敗北を続け次第に追い詰められていきました。
 
 
 1232年1月、開封西南の三峰山(河南省兎県付近)で金とモンゴルの最後の決戦が行われます。金軍は騎兵2万、歩兵13万という大軍を集めました。対するモンゴル軍はチンギス汗の4男トゥルイ(実戦の指揮官はスブタイ)率いる4万の騎兵。陳和尚もこの戦いに参加します。
 
 ところがモンゴル軍の強さは圧倒的で、金軍はこの戦いで大敗、事実上王朝の命運は尽きました。王朝はその後2年生きながらえますが、滅亡は時間の問題でした。
 
 陳和尚はモンゴル軍に捕えられます。陳和尚の将器を惜しんだトゥルイはモンゴルに仕えるよう説得します。しかし陳和尚はこれを拒否。腕を折られ脚を斬られても節義を曲げず最後は口を耳まで裂かれて殺されたそうです。
 
 これにはモンゴルの将兵も衝撃を受け名将の死を惜しみます。享年41歳。金朝は鎮南郡節度使を追贈し石像を建てて陳和尚の忠義を称えました。

モンゴル台頭前の東アジアⅣ  西遼(カラ・キタイ)   後編

 大石はモンゴル高原の北部にある可敦城に逃亡します。唐代には北庭都護府が置かれ遊牧ウイグル帝国時代も有力な拠点の一つでした。遼のモンゴル高原支配は緩やかなものでしたがおそらく遼も可敦城を拠点にしていたのでしょう。
 
 
 大石の率いる契丹族は鮮卑から分かれた部族で、モンゴル高原にいた遊牧部族とは同系統の言葉を話していたと考えられます。一方、金を建国した女真族はツングース系で遊牧民族とは言いながら狩猟や一部農耕もする毛色の違った民族でした。半農半牧ということからトルコ族に近かったかもしれません。
 
 
 純粋な遊牧民族からはこのような民族は蔑みの対象になりますが、一方農耕民族支配には都合が良く順応もしやすいのです。半農半牧の民族は遊牧民と農耕民の長所を取り上げる合理性がありしばしば純粋な遊牧国家を破りました。そしていったん農耕民族社会を征服すれば長期間政権を維持する事が出来ます。オスマントルコなどはその典型ですね。
 
 
 モンゴル高原にいた遊牧民たちは、自分達に近い大石の不運に同情します。無意識な女真族に対する敵愾心もあったのでしょう。大石のもとへ18部とも云われるモンゴル高原の遊牧民たちが集まりました。
 
 
 金に征服された契丹族の対応は二つに分かれます。征服者金朝に降伏してそのまま仕えた者。この中からのちにモンゴル帝国の宰相になる耶律楚材が出現します。一方、敵である金に服属するのを良しとしない勢力は、可敦城に大石ありと伝え聞いて続々とモンゴル高原に移動しました。
 
 
 大石は、集まった諸部族に推戴され汗(ハーン)を名乗り自立します。1130年、大石の勢力を無視できなくなった金は、降将耶律余賭を大将とする討伐軍を派遣しました。おそらく軍の主力は契丹人で、同族同士殺し合いをさせようとする狡猾な意図でした。
 
 両軍は交戦します。しかし大石は突然軍を引きました。自軍を纏めさらに西に向かいます。もしかしたら耶律余賭と暗黙の了解ができていたのかもしれません。余賭には討伐の成功を報告させる事が出来るし、大石は自軍を温存できるからです。想像ですが、余賭軍が金に報告した戦死者のうち大石軍に参加した者がかなりいたと思われます。
 
 
 大石は途中トルコ系諸族を糾合しつつアルタイ山脈を越え天山ウイグル領をかすめながら西へ進みました。目指したのは中央アジア。ここには往時の大帝国の影もないカラハン朝がありました。大石の軍はほとんど抵抗も受けず1132年カラハン朝を滅ぼしベラザグン(キルギス共和国首都ビシュケクとイシク湖の間を流れるチュー川流域)に都を定めました。ベラザグンはフスオルダと改名されます。
 
 と言っても遊牧民の都ですから、建物があったかどうかは分かりません。遊牧国家(支那の史書では行国と言う)の首都は王庭と呼び自然の要害に囲まれた場所に設けられた大規模なテント群でした。
 
 大石は即位して天祐皇帝と名乗り支那風に元号を天慶と定めました。遊牧民の間からはグル・ハーンと呼ばれたそうです。これが西遼(カラ・キタイ)の始まりです。西遼のユニークなところは、この地でも北面官南面官の制度を維持した事です。ただ遠方の異民族に対しては徴税官を派遣するだけの緩やかな支配に留まりました。
 
 
 大石は、ベラザグンを拠点に四方に遠征軍を送ります。東は天山ウイグルから西はのちに大帝国を築くホラズムシャー朝を服属させ中央アジアに大帝国が出現しました。
 
 西カラハン朝を支援していたセルジューク朝スルタン、サンジャルは突如出現した異民族を警戒します。1141年サンジャルは西遼を攻撃するため大軍を派遣しました。大石はこれをサマルカンド近郊のカトワン平原で迎え撃ち散々に破りました。この一戦で西遼の中央アジアにおける覇権が確立したと考えます。
 
 
 1143年、大石は金への復讐を誓い祖国奪回を目指して7万の兵力を率いて出陣します。しかしその行軍中俄かに病を発して崩御しました。享年58歳。遠征軍は引き返します。
 
 
 
 
以後西遼は80年に渡って中央アジアに君臨しました。しかし英雄耶律大石に匹敵する君主は出現せず、次第に衰退していきます。最後は耶律直魯古がチンギス汗に追われたナイマン部のクチュルクを保護し娘婿にしたのが災いし、クチュルクに国を乗っ取られてしまいました。1211年の事だと言われています。1213年耶律直魯古は没し西遼の王統は絶えました。
 
 簒奪者クチュルクの運命もすでに極まっており、1218年ジュべ率いるモンゴル軍に攻撃されパミール高原に逃亡するも間もなく捕殺されました。
 
 
 西遼の故地はチンギス汗の次男チャガタイに与えられます。生き残った契丹人はモンゴルに仕えたのでしょう。その後はようとして知れません。
 

モンゴル台頭前の東アジアⅣ  西遼(カラ・キタイ)   前編

 一度滅亡した王朝が再興したことは世界史上めったにありません。というのは滅亡するにはそれ相応の理由があるためで、生き残った王族や遺臣がいかに頑張っても覆すのは容易でないからです。
 
 しかし、王朝再興に成功した稀有の例もないわけではありません。例えばウマイヤ家の皇子でアッバース朝の討手に追われながらシリアからイベリア半島への長い逃避行の末後ウマイヤ朝を創始したアブドルラフマーン(アブドゥ・アッラフマーン・ブン・ムアーウィア)1世。そして今回紹介する西遼(カラ・キタイ)の創始者耶律大石(1087年~1143年)です。
 
 実は両者とも私の大好きな人物で、ブログを開始したごく初期の頃「世界史英雄列伝」で紹介しました。今回ある程度資料がそろったので本格的に彼の人生に迫ってみたいと思ったのが本シリーズを書いたきっかけです。
 
 
 耶律大石は、遼を建国した契丹族の首長耶律氏の一族です。といっても大石の先祖は、初代耶律阿保機の末子(第4子)耶律牙里果から始まっていますから遼室からはかなり離れています。大石は牙里果7世の子孫にあたります。
 大石が生まれたころは王朝末期でした。遼史では天慶5年(1115年)科挙の状元(第一等の成績)となり翰林院に進んだとありますが、帝室の一族として優遇措置があったはずで本当にトップの成績だったかは分かりません。
 平和な時なら、順調に官位を進み大官に出世して生涯を終わったはずでした。ところが遼の東には女真族の金朝が勃興し、遼は金と宋の挟み撃ちに遭い存亡の危機に見舞われます。1122年宋軍は15万の大軍で国境を越え遼の当時の首都燕京(現在の北京)に迫りました。
 遼の皇帝天祚帝は、宋と同時に攻め込んだ強敵金軍に対抗するため大同の陣中でした。主力が出払った燕京にはわずかな守備兵しかいなかったといいます。大石は宰相李処温と相談し第7代興宗の孫(天祚帝にとっては叔父)耶律涅里を無理やり擁立し天錫帝と名乗らせました。
 史書ではこれを遼と区別して北遼と呼ぶそうです。大石は軍事統帥として燕京の軍隊を掌握します。宋軍は大軍ではありましたが、大石は長年の観察から士気が低いと判断し自ら軽兵を率いて撃って出ます。白溝河というところで両軍はぶつかり、大石は宋軍をさんざんに打ち破りました。
 大石はこの段階で宋とは講和し最大の強敵金に当たろうとしますが、宋軍の総大将童貫(水滸伝でも有名な悪宦官。宰相・太尉・領枢密院を兼任していた)は北遼の足元を見てこれを拒否。そればかりか漢人の宰相李処温に密使を送り寝返りさえ勧めました。
 大石は、自らの情報網でこれを察知すると李処温を斬り危険を未然に防ぎます。そんな中老齢であったのか心労による病気か分かりませんが天錫帝は崩御します。大石は皇太子だった秦王耶律定を奉じ抵抗を続けました。
 宋軍単独では北遼軍に勝てないと悟った童貫は、大同を攻略し山西の陰山に逃亡した天祚帝を追撃中の金の皇帝完顔阿骨打に泣きつきます。阿骨打は宋のあまりにも虫の良い要求に憤慨したそうですが、追撃戦を一時中断し軍を燕京に振り向けました。
 大石は、居庸関で金軍を防ごうとしますが敗北して捕えられました。指導者を失った燕京政府は瓦解します。金の皇帝完顔阿骨打は大石の将器を認めこれを厚遇しました。しかし1123年大石は隙を見て秦王を奉じ脱出、天祚帝のもとへ向かいました。
 ところが天祚帝は、大石が自分を差し置いて勝手に皇帝を擁立した事を怒り責めます。大石は天祚帝が逃亡したから仕方なく擁立したと強弁し、皇帝は一言も言い返せなかったそうです。
 しかし、この事件の後両者の関係はぎくしゃくし始めます。大石にとっては、天祚帝が敵であるはずの宋と秘かに連絡を取って金軍に逆襲しようとした事も気に入らなかったようです。天祚帝も人望の厚い大石が近くにいては自分の権力が危ないと思い始めていました。
 このまま天祚帝のもとにいたらわが身が危ないと悟った大石は、機会を持ちました。1124年、金軍が天祚帝を捕縛するため軍隊を差し向けてきたという報告を受けると自分に心服する契丹族の軍隊200騎余りを率いてモンゴル高原に脱出します。
 果たして大石に勝算はあったのでしょうか?後編ではモンゴル高原における大石、そして西遼の建国を描きます。

モンゴル台頭前の東アジアⅢ  西夏

 井上靖の不朽の名作「敦煌」。主人公の趙行徳は科挙に失敗し開封の街をさまよっていた時、一人の西夏女と遭遇し西域へと旅立ちます。行徳は、西夏の勃興期に出くわし運命に翻弄されながらも敦煌に辿りつき貴重な仏教遺跡を守るために命を賭け死んでいきました。
 
 このロマンチックな物語は私の大好きな作品の一つなんですが、小説の舞台になったのがこれから紹介する西夏です。のちに映画化されたのである程度の歴史の流れはご存知の方も多いと思います。
 
 
 西夏は党項(タングート)という民族が建国しました。党項はチベット系の羌(きょう)の後身だと云われます。以前記事で紹介した吐谷渾(とよくこん)も羌系だとされますが、党項はこれとは早くから分化していたようです。支那人は党項羌と呼んでいましたから羌の後身である事は知っていたのでしょう。
 
 当初、党項は隋・唐と吐谷渾に挟まれ河西回廊で細々と遊牧生活を送っていたようですが、吐谷渾が吐蕃に滅ぼされると、一部はこれに服属したものの大部分は北東の黄河が几状に湾曲する内部、オルドス地方に逃れます。
 
 党項族の首長拓跋赤辞は、唐に降り慶州(現在の寧夏回族自治区)を与えられ平西公に封じられます。唐は拓跋赤辞に皇帝の姓である李姓を下賜します。以後首長一族は李姓を名乗りました。
 
 
 党項は唐末の黄巣の乱で軍功をあげ首長李氏は夏国公、定難軍節度使に任じられます。以後党項の李氏一族はオルドスに君臨する藩鎮となりました。
 
 
 唐は間もなく滅び支那大陸は五代十国の混乱期に入ります。党項は時にはこれに従い時には対立しながらオルドスに独自の権力を扶植しました。混乱の支那大陸を宋が統一したとき、党項内部でも対立が起こっていました。
 
 党項の首長李継捧(りけいほう)は、配下の党項族五万テントと四州八県をそっくり引き連れて宋に降伏します。後継者争いに敗れたからだとも云われますが、継捧の弟李継遷(りけいせん)はこれに従わず夏州の北方に移り契丹族の遼と結びました。遼は990年李継遷を夏国王に封じます。
 
 
 これが西夏の始まりです。支那の歴史観では夏というのは中華と同義語で、西方の異民族が夏王を名乗るのを我慢できなかったため西夏と呼んだのです。
 
 1002年、李継遷は夏州に続いて霊州を宋から奪います。都を霊州に定め西平府と改名し、オルドスから河西回廊方面をうかがいました。実はオルドスや河西回廊の南にあるツァイダム盆地は名馬の産地で、宋は遼と対抗するためにこの方面からの軍馬補給に依存していました。そこを西夏に断たれ、シルクロードの経路である河西回廊を奪われたため東西交易も中断しました。
 
 1004年、宋と遼の間に澶淵の盟(せんえんのめい)が結ばれると、西夏は宋と遼の双方から平西王に認められます。継遷はまもなく没し息子の李徳明(在位1004年~1031年)が後を継ぐと宋との関係は一応の平和を取り戻しました。軍馬交易は復活し数千頭の軍馬(種馬)が宋に渡ったそうです。
 しかしこのような徳明の対応に長男元昊(げんこう)は不満を持ちます。
「我が党項は馬と羊によって成り立っています。今中原(宋)に軍馬を輸出すれば敵を利するばかりか、こちらがその代償として得た茶や絹などの贅沢品によって我が国民は堕落しようとしています。父上、どうかこのような事は止めて下さいませ」
 わずか13歳の息子に諌められて徳明はどのように思ったでしょうか?この少年こそ、のちに河西回廊から敦煌にまたがる西夏帝国を建国した李元昊若き日の姿でした。
 
 
  李元昊(1003年~1048年、在位1038年~1048年)は、1032年29歳の時父の死を受け西夏国を継承します。その前から父に代わって軍を指揮し河西回廊征服を担当していました。首都興慶府(現在の銀川市)を整備し官制を整えるなどまず内政に着手します。西夏文字を制定したのも彼でした。
 
 内政を整えると元昊は西方遠征に出発します。甘粛一帯に勢力を張っていた甘州ウイグルを滅ぼすと、そのまま西進して当時漢人の曹氏が王だった敦煌を攻略します。1035年頃の出来事です。
 
 1038年、河西回廊を完全に制圧した元昊は、皇帝に即位して国号を「大夏」と定めます。すなわち西夏の景宗です。
 
 西夏は遼と結び、東西から宋を圧迫します。宋は50万の大軍を動員して西夏を討ちますが、数は少なくとも精強な西夏の騎兵に翻弄され勝つ事ができませんでした。実力で勝てない事が分かると宋は西夏に対し経済制裁を加えました。これには景宗も困り果てます。結局両者は痛み分けに終わり1044年名目上宋を君、西夏を臣とするも歳幣として絹15万匹、銀7万2千両、茶3万斤を西夏に贈るという条件で講和が結ばれました。
 
 景宗は名を捨てて実を取った形ですが、宋は遼と西夏に毎年莫大な歳幣を贈ることとなったため経済的に疲弊していきます。さらに防衛のため大軍を国境沿いに貼り付けないといけなかったため宋は困窮し、これが王安石の改革に繋がるのです。
 
 
 西夏の全盛期を築いた初代皇帝景宗は1048年崩御します。ところが以後西夏は凡君しか出現せず緩やかに衰退していきました。遼が滅亡して金が興るとこれに服属します。景宗が宋と遼の二大国を手玉に取り独自の勢力圏を築いた気概はすでに失われていました。
 
 
 独立の気概の無い民族、国家は周辺の野心ある国家の餌食になるというのは歴史の必然です。しかも経済力だけはあるというのですから狙われるのは時間の問題でした。チンギス汗によってモンゴル帝国が成立すると西夏にも侵略の魔の手が伸びてきます。
 
 
 西夏が長らく金に服属していたというのがモンゴルの大義名分でした。どちらにしろ攻撃される運命にあったのですが東西貿易で栄え退廃し建国時の精強さを失っていた西夏軍はモンゴル軍に対抗できず1227年チンギス汗の親征を受けて首都興慶府陥落、最後の西夏王李睍(りけん)はモンゴルに降伏するも翌年毒殺され滅亡しました。
 現在党項族の痕跡は残っていませんが、四川省北部に住む少数民族チャン族が西夏語に近い言葉を話しその子孫ではないかと言われています。またチベット族の間にも党項の末裔がかなり含まれているとされます。もともと羌族とチベット族は同系民族ですのでその可能性は高いでしょう。

モンゴル台頭前の東アジアⅡ  金(女真)   後編

 水滸伝や岳飛の物語に幼いころから親しんできた私は、支那贔屓でした。ところが大人になってから改めて歴史を調べてみると宋の滅亡は自業自得ではなかったかと考えが変わります。かえって宋の朝廷に翻弄された女真に同情さえ覚えるようになりました。
 
 それはともかく、もともと漢族の住む土地を支配する気のなかった金は占領した華北の地に宋人の傀儡政権「楚」や「斉」を建てて間接支配を行おうとします。しかしこれは失敗し、結局本拠地を華北に移し本格的な異民族支配に臨みました。
 
 
 支那大陸は俗に南船北馬と呼ばれます。黄河と長江の中間にある淮河を境に、北は馬の移動に便利な平原、南部は河川やクリークが縦横に走る湿地帯が連続していました。
 
 
 金軍は江南に逃げた高宗を追って淮河を渡りますが、岳飛などの義勇軍に阻まれて追い返されます。腐敗しきった宋の官軍は役立たずでしたが、祖国の危機に立ちあがった義軍は士気も高く手強い相手でした。
 
 岳飛(1103年~1143年)は、豪農出身で1122年開封防衛の義軍に応じ軍功をあげ頭角を現します。1134年には宋の節度使に任じられました。岳飛の率いる岳家軍は任侠によって結ばれており結束の強い軍隊でした。湿地帯での対騎兵戦術に長じ人ではなく馬を斬る斬馬刀や籐で作られた軽くて丈夫な盾など創意工夫で金軍と戦います。これは士気の低い官軍では出来ない芸当でした。
 
 
 金は、かつての北宋の首都開封を根拠地として南宋攻略を本格化させます。岳飛などの活躍で局地的な勝利はありましたが、大勢は金軍が押し気味でした。しかし騎兵が主力の金は長江を渡って南宋の本拠地を攻撃する自信が持てず1138年第一次の和議が成立します。主戦派の和議反対など紆余曲折がありましたが、結局1142年淮河を両国の境とする第二次講和が成立します。
 
 金が兄、宋が弟という宋にとっては遼よりもさらに屈辱的な内容でした。歳幣も銀25万両、絹25万匹と増額されます。
 
 
 和議成立によって、金に拘留されていた高宗の母は帰国を許され、異郷で亡くなっていた徽宗上皇の棺も返されます。しかし高宗の兄欽宗の帰国は弟高宗によって拒否されました。高宗の皇位継承に疑問を持つ勢力があって帰国した欽宗を担ぐ事を警戒したからだと伝えられます。
 
 
 南宋では、1130年すでに金から解放されていた秦檜(しんかい)が宰相になっていました。金との和平交渉を担当した秦檜は金の恐ろしさ実力を熟知しておりまともに戦ったらとても勝てないと考えていました。金のスパイではないか?という声も当時からあったそうですが、秦檜にとっては和平こそが南宋生き残りの最善の策だと信じていたのだと思います。
 
 秦檜の弱腰外交は主戦派の岳飛らの反発を招きます。1140年岳飛ら主戦派は秦檜の意向を無視して北伐を開始。一時は開封を間近にするまで進みます。しかし金との全面戦争を望まない秦檜は、岳飛に無実の罪を着せて処刑し北伐を中止させました。
 
 これだけをみると秦檜はとんでもない売国奴のように見えますが、彼の動きは皇帝であった高宗の意向なくしてはできません。高宗自身が、安泰を望み金と全面戦争に突入するのを避けたかったと解釈するのが自然です。
 
 
 まさか皇帝を非難するわけにはいきませんから、人々の憎しみが秦檜に集中したのでしょう。このあたり石田三成と似ていますね。
 
 岳飛など主戦派を粛清した秦檜は、1142年金との講和を成立させ両国に平和が到来します。南宋は、北伐を諦めた代わりに交易に力を入れ経済が発展し空前の繁栄期を迎えました。
 
 金も、遼の漢民族支配を踏襲し統治は安定します。1124年西夏を、1126年には高麗を服属させていましたから今回の宋の屈服でまさに中華皇帝の実力を持ちました。
 
 
 金の3代皇帝熙宗(きそう、在位1135年~1149年)の時代、女真人は大挙華北に移住しさしもの精強を誇った金にも陰りが見え始めます。遊牧民族が漢化した途端弱くなるというのは北魏然り、遼然り、そして金然りでした。歴史の必然の流れなのかもしれません。
 
 
 宋との和平で安心したのか熙宗は酒に溺れ政治を顧みなくなりました。熙宗の従兄海陵王完顔迪古乃(かんわんてくない)は、朝廷内で宰相格の重職を歴任していましたが、熙宗が人心を失ったのを見てこれを廃し殺害します。みずから皇帝に立ち1153年首都を会寧府から華北の燕京(中都)に移しました。官制改革に取り組むなど積極的な統治を行います、さらに支那大陸の統一を目指し1161年南宋攻撃の準備を命じました。
 
 ところが平和に慣れていたモンゴル高原の契丹人たちはこれに反発、反乱を起こします。海陵王は強引に南宋征伐に向かいますが軍の士気が上がらず失敗、北に戻ろうとして部下に殺されます。
 
 即位の事情も簒奪に近いものでしたから、帝位に就いた事も否定され史書には海陵王とだけ記されました。
 
 
 海陵王のあとは、皇族の烏禄が擁立されます。世宗です。世宗は北進してきた南宋軍を撃破し契丹族の反乱も鎮圧します。同時期南宋でも明君として名高い孝宗が立ったため、両国の間に講和が成立し以後40年間の平和をもたらしました。
 
 
 世宗は、内政に力を尽くし大定の治と呼ばれる安定をもたらします。しかし1189年彼の後を継いだ章宗(世宗の皇太孫。世宗の父皇太子完顔胡土瓦は早世)は北宋の徽宗皇帝に憧れる暗君でした、甘やかされて育ったせいか徽宗同様書画に懲り政治を顧みなくなりました。
 
 その頃モンゴル高原では、タタールや契丹の反乱が相次ぎます。遼が満州地域を軽視したのと同じく、金は遊牧民の住むモンゴル高原を軽く見ていました。自ら鎮圧するよりも土地の有力者に命じて鎮圧させる方法を取り、そのためにケレイト族などの台頭を招きます。1207年チンギス汗が即位しモンゴル高原を統一したのも金のモンゴル軽視が原因の一つでした。
 
 1208年、病死した章宗に代わって金の7代衛紹王(章宗の叔父筋の傍系王族)が即位するとチンギス汗は金への朝貢を拒否します。そのまま断交し1211年には金領に侵攻しました。金軍は各地で敗退を重ね宮中では胡沙虎のクーデターが起こり衛紹王は殺されます。
 
 胡沙虎も間もなく殺され宣宗が後を継ぎますが、モンゴル軍には敵しがたくついに降伏します。毎年歳貢をモンゴルに贈る事、金の皇族の娘をチンギス汗に嫁がせることなど屈辱的な条件でした。
 
 
 ところが1214年、金はモンゴルの圧力を恐れ首都を燕京から南の開封に移します。チンギス汗はこれを背信行為と詰り軍を南下させました。半年以上の籠城戦の末開封は陥落します。金は黄河以北の領土を失い河南の一地方政権に落ちぶれました。
 
 モンゴルは、金の存続を許さずその後何度も侵略を繰り返します。金は完顔陳和尚(かんわんちんわしょう、1192年~1232年)などの活躍で何度かモンゴル軍を撃退しますが、大勢を覆す事は出来ず1232年三峰山の戦いで主力部隊が壊滅、1234年には首都開封も包囲され占領されました。
 
 金の皇帝哀宗は首都を脱出しなおも戦い続けますが、モンゴルと南宋軍に挟撃され自殺、後を継いだ末帝は即位後わずか半日でモンゴル軍に捕えられ処刑されました。こうして金王朝は滅亡します。
 
 
 それにしても南宋の愚かさはどうでしょう?遼を滅ぼすために金を引き入れ、今度は金を滅ぼすためにモンゴルに協力したのです。南宋も結局最後はモンゴルに滅ぼされることになります。
 
 
 王朝の勃興と滅亡を見てくると感慨深いですね。繁栄すればするほど滅亡が哀れです。ほとんどの民族は一度王朝を打ち立て滅亡すると歴史の表舞台から消えます。ところが女真族は長い雌伏の末再び立ち上がり大帝国を築きました。すなわち「清」です。 この奇跡のようなバイタリティはどこから来るのでしょうか?とても不思議です。

モンゴル台頭前の東アジアⅡ  金(女真)   前編

 満洲、現在の支那東北部は南北に延びる興安嶺山脈を境に大きく地勢が分かれます。山脈の西は、モンゴル高原から連なる遊牧に適した草原地帯。山脈の東は森林が多く狩猟に適します。どちらも冬季には寒冷になりますが山脈東部は水も豊富で小規模な農業もできました。
 
 古来この土地にはツングース系の半農半牧の狩猟民族が住みつきます。古代支那人はこれらの民族を扶余、粛慎や靺鞨(まっかつ)などと呼んで蔑みました。女真(ジュシェン)はその中から登場した民族です。女真とは「ジュシェン」の当て字です。
 
 靺鞨族も建国に関わったと言われる渤海は、926年契丹族の遼に滅ぼされます。満洲の女真族は契丹に服属しますが、遼はあまりこの土地に魅力を感じなかったようです。強力な支配をせずほとんど放置に近い状態に留め置きます。遊牧もできず交易の利もすくないという判断なのでしょう。のちに女真族の主要交易品となった朝鮮人参の栽培はまだ盛んではなかったのかもしれません。
 
 遼は黒水靺鞨から出たと言われる女真族のうち、遼に服属したものを熟女真、服属しない者たちを生女真と呼んで区別しました。阿骨打を出した完顔(わんやん)部は生女真です。
 
 
 完顔部の本拠地は現在の黒龍江省ハルビン東南の阿城市付近。完顔阿骨打(かんわんあくだ ワンヤンアグダ、1068年~1123年)は周辺の女真族を纏め上げ東満州を統一します。この段階で遼が討伐軍を送っていればのちの滅亡はなかったと思いますが、遼最後の皇帝天祚帝(てんそてい)は安愚な人物で酒に溺れ政務を顧みなくなっていました。
 
 1114年、阿骨打は遼満洲支配の拠点の一つである寧江州(ハルビン西南100キロ)を攻略します。公然たる挑戦です。翌年、阿骨打は即位し、支那風に国号を「大金」と定めました。都は上京会寧府。「金」の由来は本拠地を流れる松花江の支流阿什(あし)河からきています。女真語でこの川をアルチェフ(金)と呼んでいたのに因みます。
 
 阿骨打は軍を進め遼の熟女真支配の拠点であった黄龍府を落としました。やっと重い腰を上げた遼の天祚帝ですが、時すでに遅く親征したにもかかわらず金軍に大敗して都に逃げ帰ります。阿骨打はそのまま南下し東京道の首府遼陽府を占領しました。
 
 満洲地域をほぼ統一した阿骨打に対し、遼は講和を持ちかけます。ところが身の程を知らない宋が、宿敵遼を滅ぼす好機とばかり海路使者を送って阿骨打に同盟を持ちかけました。単独では遼に勝てないので金軍の力を利用しようというのです。
 
 阿骨打は悩みます。単独でも遼を滅ぼすことは可能だし、遼との講和の話にも傾きかけていました。宋は自国に有利な条件を持ち出し、阿骨打はその虫の良さに反発していました。ところが遼は、金と宋が結んだと勘違いし金に攻撃を掛けてきたのです。こうなれば仕方ありません。阿骨打は1122年遼征服の軍を発します。
 
 さしもの強勢を誇った遼も、この頃は支配層が東西貿易の贅沢品に慣れ退廃の極みに達していました。金の騎馬軍は、軍規の緩みきった遼軍を各地で撃破します。
 
 遼の支配する漢人地域燕雲十六州は、金軍が大同を宋軍が燕京(現在の北京)を攻めるという約束でした。阿骨打はそれを守り大同を攻略します。遼の天祚帝はたまらず西夏との国境に近い山西の陰山に逃亡しました。
 
 ところが宋軍は、遼の留守部隊が守る燕京を攻略することができませんでした。このとき留守部隊を指揮していたのは遼の王族耶律大石。遼の宰相李処温と共に遼7代興宗の孫を無理やり擁立し天錫帝として即位させます。
 
 大石は燕京を都とする北遼を建国し自らは軍事統帥として軍を指揮しました。宋は宰相童貫率いる15万の大軍でしたが、少数の大石軍に翻弄されて敗北。李処温の宋への内通も発覚し大石はこれを処刑しました。
 
 宋軍は20万に増強し再び燕京を攻めます。北遼は天錫帝が急死し皇太子秦王が後を継ぐという混乱の中にありましたが、大石は堅く守って宋につけいる隙を与えませんでした。
 
 結局宋は阿骨打に泣きつきます。金軍は燕京に軍を振り向けこれを簡単に攻略しました。宋軍が弱すぎるのか金軍が強いのか、ともかく大石は1123年秦王を奉じて天祚帝のいる陰山に落ち伸びます。
 
 
 金朝を興した一代の英傑、阿骨打は1123年9月19日遼の天祚帝追撃戦の途中病を発して崩御しました。享年56歳。後を継いだのは弟太宗呉乙買。太宗は1125年逃亡中の天祚帝をついに捕えます。ここに契丹族の建てた遼は滅亡しました。
 
 
 太宗は、宋との約束を守り長城線の南の漢人地域燕雲十六州を宋に割譲します。ところが宋は毎年遼に贈っていた歳幣を金に振り替えるという約束を反故にしあろうことか逃亡していた遼の天祚帝と共謀して金を追い落とそうとした陰謀まで発覚、太宗は烈火のごとく怒ります。
 
 
 
 宋朝側の対応は理解に苦しみます。まともに戦って金軍に敵うはずもないし、そもそも同盟を持ちかけたのは宋側でした。朝廷が腐敗し現実が見えなくなっていたのか、それとも女真を蛮族と侮っていたのか?
 
 どちらにしろ宋は高い代償を払う事になりました。1126年太宗は宋の背信行為を詰り軍を南下させます。敗残の遼軍にさえ勝てない宋軍が金軍の精強な騎兵部隊に勝てるはずありません。各地で起こった戦いはほとんど鎧袖一触。華北平原を席巻し黄河を渡って宋の首都開封を包囲します。
 
 宋では徽宗皇帝が退位し息子の欽宗が即位していました。さすがに首都の宋軍は包囲に耐え両国はいったん講和します。しかし金軍が北に去ると宋は再び和約を違え軍を北上させようとします。我慢の限界に達した太宗は、1127年再び軍を返し開封を包囲、激戦の末これを落としました。首都は陥落し、徽宗上皇、欽宗皇帝以下多くの皇族が北方に連れ去られます。これを靖康の変とよびます。
 
 徽宗、欽宗は幽閉され皇女や貴妃たちも金の後宮に入れられるか酷いケースでは洗衣院という売春施設で娼婦に落とされたそうです。宋の朝廷が約束を破らなければ起こらない悲劇でした。北宋末期は朝廷の腐敗が極に達していたといいますが、そのために運命を狂わされた人々にとっては甚だしい迷惑でした。
 
 宋の皇族で一人だけその難を逃れた人物がいます。欽宗皇帝の弟(徽宗の9男)康王趙構です。南京(商丘)に逃れた康王はそこで即位し、宋を再興します。すなわち南宋の高宗です。
 
 
 高宗は、金軍の追撃を逃れ長江を渡りました。臨安(杭州)を都としたこの国を北宋と区別し南宋と呼びます。後編では金と南宋の抗争、南宋の忠臣岳飛と史上悪臣として有名な秦檜、そして金の滅亡を描きます。

モンゴル台頭前の東アジアⅠ  遼(契丹)

 満洲平原を南流し渤海湾にそそぐ大河、遼河。上流は二つに分かれ吉林省に源流を持つ東遼河と、河北省北縁の山岳地帯を源流とし大きく弧を描くように内蒙古自治区を東流しながら合流する西遼河があります。
 
 遼河沿いには古来鮮卑族宇文部の流れをくむ奚(けい)という民族がいました。だいたい4世紀ころには史書に現れます。遼河下流域は肥沃で農耕に適した土地だったそうです。奚は遊牧民族とは云いながらかなり農耕に比重を置いた生活をしていたようです。
 
 一方、遼河上流域は遊牧に適した土地で、奚からわかれた部族がそこで遊牧生活をしていました。彼らは契丹と称します。同じ鮮卑族の拓跋部(たくばつぶ)は北魏を、契丹とは同系の宇文部も北周を建国し、隋唐王朝もその流れをくむ鮮卑系王朝だったのに対し、契丹は唐代を通じて目立った動きはありません。
 
 ところが、唐代末期の10世紀契丹族に耶律阿保機(872年~926年)という英雄が出現します。契丹の8つの部族を統一し916年にはテングリ・ハーン(天可汗)を称し自立します。阿保機は遼河沿いに進出し同系の奚をも併合しました。
 
 東は狩猟民族女真を攻めて服属させ、西のモンゴル高原にも進出します。阿保機は遼河にちなんで国号を支那風に「遼」と称しました。
 
 926年には海東の盛国と呼ばれて栄えていた渤海(満洲東部から沿海州、朝鮮半島北部に広がっていた国)を滅ぼし俄かに強大化しました。阿保機は渤海遠征の帰途、扶余城で病死します。後を継いだのは次男の堯骨。死後支那風に太宗と諡(おくりな)されるので以後太宗(在位926年~947年)と記します。
 
 
 その頃支那本土は五代十国の大乱期でした。突厥系沙陀族の建国した後唐(こうとう)では激しい内紛が起こり、将軍の石敬瑭(せきけいとう)は権力奪取のためにあろうことか遼の太宗に援助を求めます。代償は燕雲十六州(現在の北京から大同にまたがる支那北縁の土地)割譲でした。
 
 
 自分の仕える王朝を滅ぼすために外国に援助を求めるのは言語道断ですが、石敬瑭は遼軍の援助で権力闘争に勝ち後唐を滅ぼして自らの王朝「後晋(こうしん)」を建国しました。
 燕雲十六州問題は後々まで尾を引きます。漢人が建てた後周、そして北宋も強力な遼軍が守る十六州を回復できず滅びました。
 一方、遼にとって長城線の内側にまたがるこの地を得た事は大きな利益でした。太宗は、農耕民統治を本格化させ遊牧民に対しては北面官、農耕民に対しては南面官を儲けて支配します。遼の漢人支配は以後台頭した女真族の金、モンゴル族の元でも継承されました。このような遊牧民族による漢人支配体制を征服王朝と呼びます。
 趙匡胤が建てた久々の漢人による統一王朝「宋」は長城線の内側に遊牧民王朝の領土があるのに我慢できず、979年燕雲十六州に侵攻しました。宋はその威信にかけて戦いを続けましたが、歩兵中心の宋軍は騎兵が主力の遼軍に完敗します。
 結局、1004年名目上は宋を兄、遼を弟としたものの宋は遼に対して毎年絹二万匹、銀十万両という莫大な贈り物(歳幣)を贈るという屈辱的な和平条件を飲まされました。これを澶淵の盟(せんえんのめい)と呼びます。
 宋は、北宋南宋を通じて軍隊の弱い王朝でした。文化と経済は栄えますが、その分軍事力がおろそかになったのでしょう。澶淵の盟は両国の間に一応の平和をもたらします。しかし宋は、戦で勝てなかっただけにこの恨みは内攻しました。 
 遊牧王朝というのは貿易を重視します。遼王朝も例外ではなくシルクロードや草原の道を通じての東西貿易の他に、なんと日本にまで使節を送ったそうです。対日貿易は上手くいかなかったようですが、東西貿易の原資は宋からの歳幣だったのですから、元手はタダ。遼は莫大な利益をあげます。これもまた宋にとっては悔しかったのでしょう。
 遼は、森林が多く遊牧に適さない満洲東部はほとんど放置します。そこに住む女真族の首長完顔阿骨打(かんわんあくだ)が1114年寧江州(ハルビン西南100キロ)を攻撃して陥落させた時もほとんど対応できませんでした。
 阿骨打は、女真族をまとめ上げ国号を「大金」と称し、公然と遼の支配に挑戦します。遼はその頃東西貿易によってもたらされた贅沢品に慣れ昔の精強な遊牧民族としての力を失っていました。金討伐軍は連戦連敗、次第に領土を蚕食されていきます。
 これを見ていた宋の宮廷は、1118年海路秘かに完顔阿骨打に使者を送り遼を挟撃しようと持ちかけます。金が北から、宋が南から同時に攻めようというのです。
 阿骨打に示された条件は、宋が遼に贈っていた歳幣を金に振り替える事、金はこの戦争で長城線を越えない事、燕雲十六州に関しては燕京は宋が攻め、大同は金が攻めるも戦後十六州の帰属は宋に帰する事といういささか虫の良い要求でした。
 ところが宋の遼討伐軍は、出陣前に起こった江南の方臘の乱鎮圧に振り向けられたため出発が遅れ、しかも金との戦争で疲弊していたはずの遼の燕京留守部隊にさえ負けるという醜態を晒します。
 
 
 
 1122年、それでも阿骨打は約束通り大同を落としました。遼最後の皇帝天祚帝(てんそてい)はたまらず山西の陰山に逃亡しました。一方、宋は燕京さえ陥落させる事が出来ず可骨打に泣きつきます。金軍は宋軍を助けて燕京を落としました。
 
 
 燕京にいた漢人官僚たちはそのまま金の支配下になる事を願いますが、阿骨打は約束通り兵を引きました。しかし宋は約束を破ります。歳幣を反故にしたばかりか陰山に逃げた天祚帝と秘かに連絡を取り金追い落としさえ画策したのです。
 
 1125年陰謀は発覚しました。烈火のごとく怒った金は軍を再び南下させます。落ち目の遼軍にさえ勝てない宋軍は鎧袖一触、瞬く間に滅ぼされて徽宗(当時は上皇)、欽宗以下宋の皇帝一族はことごとく捕えられ満洲の北辺に幽閉されます。陰謀の代償は高くつきました。宋室で一人だけ逃れた康王(徽宗の第9子、欽宗の弟)は江南に逃れ南宋を建国します。
 
 
 
 1125年、遼の天祚帝は金軍に捕えられ滅亡しました。その少し前王族の耶律大石は一部の契丹人を率いてモンゴル高原に逃れさらに西に向かって中央アジアに新たな国を建国しました。これを西遼またはカラ・キタイ(黒い契丹、または大きな契丹の意味)と呼びます。
 
 
 ただ大部分の契丹人はそのまま金王朝に仕え、金がモンゴルに滅ぼされると元朝に仕えました。有名な耶律楚材も遼の遺臣の子孫の一人です。

エトルリア    ローマ文明の母

 皆さんはエトルリアあるいはエトルリア人という言葉を聞いた事はありますか?よほど世界史に詳しい方しかご存じないと思います。高校生世界史でもかろうじて名前が出てくるくらいか?
 
 エトルリア人はだいたい紀元前8世紀から紀元前1世紀にかけてイタリア半島に住んでいました。ローマに代表されるラテン人はエトルリア人の後からイタリア半島に入ってきたといわれます。
 
 民族系統は不明。エトルリア人自体もローマの発展と共にラテン人と同化し現在民族としては残っていません。しかし痕跡は残っています。
 
 エトルリア人は、半島中部を中心に12の都市からなる連合を形成していました。イメージ的にはギリシャのポリス(都市国家)連合に近いと思います。エトルリア起源の都市も多く、例えばフィレンツェはエトルリア時代「フラレンティア」と呼ばれていました。エトルリア都市ペルージャは現在もそのままの名前で残っていますね。
 
 エトルリア人がローマのようなラテン人ではなかったのは確実ですが、謎の民族といわれながらもルーツを推定する事は出来ます。彼らは小アジア西岸のリディアからやってきたという伝説を持っています。ということは地中海沿岸ではなくアジアが起源だった可能性があります。もしかしたらフェニキア人同様セム系の民族だった可能性さえあるのです。そうでなかったとしてもミノア文明を築いた人々に近い原地中海人だったのではないでしょうか?
 
 
 エトルリア人は商業民族としても有名で、ギリシャとは鉄の交易が盛んでした。研究者の中には古代地中海を騒がせた海の民の一部はエトルリア人ではなかったかとも推定しています。
 
 
 ラテン人たちがイタリア半島に入った時エトルリア人は堂々たる文明を築いていました。ラテン人たちはエトルリア人居住区の南に定住しますが、ローマはラテン人とエトルリア人居住区の境界に築かれました。
 
 よく言えば進取の気鋭に満ちた人々、悪く言えば両勢力のあぶれ者たちが集まったといわれます。初期のローマはラテン人とエトルリア人が混住していた都市でした。王政時代のローマで最後の三人の王はエトルリア系だったとも言われます。
 
 
 エトルリア人は、最初ラテン人を文明の遅れた野蛮人と歯牙にもかけていませんでした。そのため争いになる事も少なかったように思います。ところがローマが発展してくると次第に脅威に感じ始めます。
 
 ローマが王政を廃止し、共和制に移行した陰にはエトルリア人支配からの脱却を目指したという事もあったでしょう。あぶれ者たちの集まりであったローマはラテン人とエトルリア人の良いところを積極的に取りいれる事が出来ました。
 
 こうして強大化したローマは、同じラテン人諸都市だけでなくエトルリア諸都市さえも圧迫し始めます。ローマがエトルリア諸都市をどのように支配していったか良く分かっていません。というのもローマ人はエトルリア人に一時支配されていたという屈辱の歴史を消したかったからです。
 
 しかし、ローマが他のラテン諸都市を支配し始めたのとあまり違わない時期に、あるいは戦争であるいは外交によって従わせていったのだともいいます。そして最後は同化政策によって痕跡を消したのです。
 
 ただ私が考えるに、ローマ建国神話であるロムルスの話はどうもエトルリア起源のような気がします。もともとエトルリア人がリディアから来たという伝承がローマ人に伝わりローマ人はトロイの子孫(両者はともに小アジア西部)という話になったのではないでしょうか?
 
 ちなみに、イタリア西岸に近い地中海をティレニア海と呼びますが、ティレニアとは古代ギリシャ語でのエトルリアの呼び名です。

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