2023年1月
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31        
無料ブログはココログ

« モンゴル台頭前の東アジアⅡ  金(女真)   後編 | トップページ | モンゴル台頭前の東アジアⅣ  西遼(カラ・キタイ)   前編 »

2013年7月 1日 (月)

モンゴル台頭前の東アジアⅢ  西夏

 井上靖の不朽の名作「敦煌」。主人公の趙行徳は科挙に失敗し開封の街をさまよっていた時、一人の西夏女と遭遇し西域へと旅立ちます。行徳は、西夏の勃興期に出くわし運命に翻弄されながらも敦煌に辿りつき貴重な仏教遺跡を守るために命を賭け死んでいきました。
 
 このロマンチックな物語は私の大好きな作品の一つなんですが、小説の舞台になったのがこれから紹介する西夏です。のちに映画化されたのである程度の歴史の流れはご存知の方も多いと思います。
 
 
 西夏は党項(タングート)という民族が建国しました。党項はチベット系の羌(きょう)の後身だと云われます。以前記事で紹介した吐谷渾(とよくこん)も羌系だとされますが、党項はこれとは早くから分化していたようです。支那人は党項羌と呼んでいましたから羌の後身である事は知っていたのでしょう。
 
 当初、党項は隋・唐と吐谷渾に挟まれ河西回廊で細々と遊牧生活を送っていたようですが、吐谷渾が吐蕃に滅ぼされると、一部はこれに服属したものの大部分は北東の黄河が几状に湾曲する内部、オルドス地方に逃れます。
 
 党項族の首長拓跋赤辞は、唐に降り慶州(現在の寧夏回族自治区)を与えられ平西公に封じられます。唐は拓跋赤辞に皇帝の姓である李姓を下賜します。以後首長一族は李姓を名乗りました。
 
 
 党項は唐末の黄巣の乱で軍功をあげ首長李氏は夏国公、定難軍節度使に任じられます。以後党項の李氏一族はオルドスに君臨する藩鎮となりました。
 
 
 唐は間もなく滅び支那大陸は五代十国の混乱期に入ります。党項は時にはこれに従い時には対立しながらオルドスに独自の権力を扶植しました。混乱の支那大陸を宋が統一したとき、党項内部でも対立が起こっていました。
 
 党項の首長李継捧(りけいほう)は、配下の党項族五万テントと四州八県をそっくり引き連れて宋に降伏します。後継者争いに敗れたからだとも云われますが、継捧の弟李継遷(りけいせん)はこれに従わず夏州の北方に移り契丹族の遼と結びました。遼は990年李継遷を夏国王に封じます。
 
 
 これが西夏の始まりです。支那の歴史観では夏というのは中華と同義語で、西方の異民族が夏王を名乗るのを我慢できなかったため西夏と呼んだのです。
 
 1002年、李継遷は夏州に続いて霊州を宋から奪います。都を霊州に定め西平府と改名し、オルドスから河西回廊方面をうかがいました。実はオルドスや河西回廊の南にあるツァイダム盆地は名馬の産地で、宋は遼と対抗するためにこの方面からの軍馬補給に依存していました。そこを西夏に断たれ、シルクロードの経路である河西回廊を奪われたため東西交易も中断しました。
 
 1004年、宋と遼の間に澶淵の盟(せんえんのめい)が結ばれると、西夏は宋と遼の双方から平西王に認められます。継遷はまもなく没し息子の李徳明(在位1004年~1031年)が後を継ぐと宋との関係は一応の平和を取り戻しました。軍馬交易は復活し数千頭の軍馬(種馬)が宋に渡ったそうです。
 しかしこのような徳明の対応に長男元昊(げんこう)は不満を持ちます。
「我が党項は馬と羊によって成り立っています。今中原(宋)に軍馬を輸出すれば敵を利するばかりか、こちらがその代償として得た茶や絹などの贅沢品によって我が国民は堕落しようとしています。父上、どうかこのような事は止めて下さいませ」
 わずか13歳の息子に諌められて徳明はどのように思ったでしょうか?この少年こそ、のちに河西回廊から敦煌にまたがる西夏帝国を建国した李元昊若き日の姿でした。
 
 
  李元昊(1003年~1048年、在位1038年~1048年)は、1032年29歳の時父の死を受け西夏国を継承します。その前から父に代わって軍を指揮し河西回廊征服を担当していました。首都興慶府(現在の銀川市)を整備し官制を整えるなどまず内政に着手します。西夏文字を制定したのも彼でした。
 
 内政を整えると元昊は西方遠征に出発します。甘粛一帯に勢力を張っていた甘州ウイグルを滅ぼすと、そのまま西進して当時漢人の曹氏が王だった敦煌を攻略します。1035年頃の出来事です。
 
 1038年、河西回廊を完全に制圧した元昊は、皇帝に即位して国号を「大夏」と定めます。すなわち西夏の景宗です。
 
 西夏は遼と結び、東西から宋を圧迫します。宋は50万の大軍を動員して西夏を討ちますが、数は少なくとも精強な西夏の騎兵に翻弄され勝つ事ができませんでした。実力で勝てない事が分かると宋は西夏に対し経済制裁を加えました。これには景宗も困り果てます。結局両者は痛み分けに終わり1044年名目上宋を君、西夏を臣とするも歳幣として絹15万匹、銀7万2千両、茶3万斤を西夏に贈るという条件で講和が結ばれました。
 
 景宗は名を捨てて実を取った形ですが、宋は遼と西夏に毎年莫大な歳幣を贈ることとなったため経済的に疲弊していきます。さらに防衛のため大軍を国境沿いに貼り付けないといけなかったため宋は困窮し、これが王安石の改革に繋がるのです。
 
 
 西夏の全盛期を築いた初代皇帝景宗は1048年崩御します。ところが以後西夏は凡君しか出現せず緩やかに衰退していきました。遼が滅亡して金が興るとこれに服属します。景宗が宋と遼の二大国を手玉に取り独自の勢力圏を築いた気概はすでに失われていました。
 
 
 独立の気概の無い民族、国家は周辺の野心ある国家の餌食になるというのは歴史の必然です。しかも経済力だけはあるというのですから狙われるのは時間の問題でした。チンギス汗によってモンゴル帝国が成立すると西夏にも侵略の魔の手が伸びてきます。
 
 
 西夏が長らく金に服属していたというのがモンゴルの大義名分でした。どちらにしろ攻撃される運命にあったのですが東西貿易で栄え退廃し建国時の精強さを失っていた西夏軍はモンゴル軍に対抗できず1227年チンギス汗の親征を受けて首都興慶府陥落、最後の西夏王李睍(りけん)はモンゴルに降伏するも翌年毒殺され滅亡しました。
 現在党項族の痕跡は残っていませんが、四川省北部に住む少数民族チャン族が西夏語に近い言葉を話しその子孫ではないかと言われています。またチベット族の間にも党項の末裔がかなり含まれているとされます。もともと羌族とチベット族は同系民族ですのでその可能性は高いでしょう。

« モンゴル台頭前の東アジアⅡ  金(女真)   後編 | トップページ | モンゴル台頭前の東アジアⅣ  西遼(カラ・キタイ)   前編 »

 世界史」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: モンゴル台頭前の東アジアⅢ  西夏:

« モンゴル台頭前の東アジアⅡ  金(女真)   後編 | トップページ | モンゴル台頭前の東アジアⅣ  西遼(カラ・キタイ)   前編 »