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2013年7月 1日 (月)

モンゴル台頭前の東アジアⅡ  金(女真)   前編

 満洲、現在の支那東北部は南北に延びる興安嶺山脈を境に大きく地勢が分かれます。山脈の西は、モンゴル高原から連なる遊牧に適した草原地帯。山脈の東は森林が多く狩猟に適します。どちらも冬季には寒冷になりますが山脈東部は水も豊富で小規模な農業もできました。
 
 古来この土地にはツングース系の半農半牧の狩猟民族が住みつきます。古代支那人はこれらの民族を扶余、粛慎や靺鞨(まっかつ)などと呼んで蔑みました。女真(ジュシェン)はその中から登場した民族です。女真とは「ジュシェン」の当て字です。
 
 靺鞨族も建国に関わったと言われる渤海は、926年契丹族の遼に滅ぼされます。満洲の女真族は契丹に服属しますが、遼はあまりこの土地に魅力を感じなかったようです。強力な支配をせずほとんど放置に近い状態に留め置きます。遊牧もできず交易の利もすくないという判断なのでしょう。のちに女真族の主要交易品となった朝鮮人参の栽培はまだ盛んではなかったのかもしれません。
 
 遼は黒水靺鞨から出たと言われる女真族のうち、遼に服属したものを熟女真、服属しない者たちを生女真と呼んで区別しました。阿骨打を出した完顔(わんやん)部は生女真です。
 
 
 完顔部の本拠地は現在の黒龍江省ハルビン東南の阿城市付近。完顔阿骨打(かんわんあくだ ワンヤンアグダ、1068年~1123年)は周辺の女真族を纏め上げ東満州を統一します。この段階で遼が討伐軍を送っていればのちの滅亡はなかったと思いますが、遼最後の皇帝天祚帝(てんそてい)は安愚な人物で酒に溺れ政務を顧みなくなっていました。
 
 1114年、阿骨打は遼満洲支配の拠点の一つである寧江州(ハルビン西南100キロ)を攻略します。公然たる挑戦です。翌年、阿骨打は即位し、支那風に国号を「大金」と定めました。都は上京会寧府。「金」の由来は本拠地を流れる松花江の支流阿什(あし)河からきています。女真語でこの川をアルチェフ(金)と呼んでいたのに因みます。
 
 阿骨打は軍を進め遼の熟女真支配の拠点であった黄龍府を落としました。やっと重い腰を上げた遼の天祚帝ですが、時すでに遅く親征したにもかかわらず金軍に大敗して都に逃げ帰ります。阿骨打はそのまま南下し東京道の首府遼陽府を占領しました。
 
 満洲地域をほぼ統一した阿骨打に対し、遼は講和を持ちかけます。ところが身の程を知らない宋が、宿敵遼を滅ぼす好機とばかり海路使者を送って阿骨打に同盟を持ちかけました。単独では遼に勝てないので金軍の力を利用しようというのです。
 
 阿骨打は悩みます。単独でも遼を滅ぼすことは可能だし、遼との講和の話にも傾きかけていました。宋は自国に有利な条件を持ち出し、阿骨打はその虫の良さに反発していました。ところが遼は、金と宋が結んだと勘違いし金に攻撃を掛けてきたのです。こうなれば仕方ありません。阿骨打は1122年遼征服の軍を発します。
 
 さしもの強勢を誇った遼も、この頃は支配層が東西貿易の贅沢品に慣れ退廃の極みに達していました。金の騎馬軍は、軍規の緩みきった遼軍を各地で撃破します。
 
 遼の支配する漢人地域燕雲十六州は、金軍が大同を宋軍が燕京(現在の北京)を攻めるという約束でした。阿骨打はそれを守り大同を攻略します。遼の天祚帝はたまらず西夏との国境に近い山西の陰山に逃亡しました。
 
 ところが宋軍は、遼の留守部隊が守る燕京を攻略することができませんでした。このとき留守部隊を指揮していたのは遼の王族耶律大石。遼の宰相李処温と共に遼7代興宗の孫を無理やり擁立し天錫帝として即位させます。
 
 大石は燕京を都とする北遼を建国し自らは軍事統帥として軍を指揮しました。宋は宰相童貫率いる15万の大軍でしたが、少数の大石軍に翻弄されて敗北。李処温の宋への内通も発覚し大石はこれを処刑しました。
 
 宋軍は20万に増強し再び燕京を攻めます。北遼は天錫帝が急死し皇太子秦王が後を継ぐという混乱の中にありましたが、大石は堅く守って宋につけいる隙を与えませんでした。
 
 結局宋は阿骨打に泣きつきます。金軍は燕京に軍を振り向けこれを簡単に攻略しました。宋軍が弱すぎるのか金軍が強いのか、ともかく大石は1123年秦王を奉じて天祚帝のいる陰山に落ち伸びます。
 
 
 金朝を興した一代の英傑、阿骨打は1123年9月19日遼の天祚帝追撃戦の途中病を発して崩御しました。享年56歳。後を継いだのは弟太宗呉乙買。太宗は1125年逃亡中の天祚帝をついに捕えます。ここに契丹族の建てた遼は滅亡しました。
 
 
 太宗は、宋との約束を守り長城線の南の漢人地域燕雲十六州を宋に割譲します。ところが宋は毎年遼に贈っていた歳幣を金に振り替えるという約束を反故にしあろうことか逃亡していた遼の天祚帝と共謀して金を追い落とそうとした陰謀まで発覚、太宗は烈火のごとく怒ります。
 
 
 
 宋朝側の対応は理解に苦しみます。まともに戦って金軍に敵うはずもないし、そもそも同盟を持ちかけたのは宋側でした。朝廷が腐敗し現実が見えなくなっていたのか、それとも女真を蛮族と侮っていたのか?
 
 どちらにしろ宋は高い代償を払う事になりました。1126年太宗は宋の背信行為を詰り軍を南下させます。敗残の遼軍にさえ勝てない宋軍が金軍の精強な騎兵部隊に勝てるはずありません。各地で起こった戦いはほとんど鎧袖一触。華北平原を席巻し黄河を渡って宋の首都開封を包囲します。
 
 宋では徽宗皇帝が退位し息子の欽宗が即位していました。さすがに首都の宋軍は包囲に耐え両国はいったん講和します。しかし金軍が北に去ると宋は再び和約を違え軍を北上させようとします。我慢の限界に達した太宗は、1127年再び軍を返し開封を包囲、激戦の末これを落としました。首都は陥落し、徽宗上皇、欽宗皇帝以下多くの皇族が北方に連れ去られます。これを靖康の変とよびます。
 
 徽宗、欽宗は幽閉され皇女や貴妃たちも金の後宮に入れられるか酷いケースでは洗衣院という売春施設で娼婦に落とされたそうです。宋の朝廷が約束を破らなければ起こらない悲劇でした。北宋末期は朝廷の腐敗が極に達していたといいますが、そのために運命を狂わされた人々にとっては甚だしい迷惑でした。
 
 宋の皇族で一人だけその難を逃れた人物がいます。欽宗皇帝の弟(徽宗の9男)康王趙構です。南京(商丘)に逃れた康王はそこで即位し、宋を再興します。すなわち南宋の高宗です。
 
 
 高宗は、金軍の追撃を逃れ長江を渡りました。臨安(杭州)を都としたこの国を北宋と区別し南宋と呼びます。後編では金と南宋の抗争、南宋の忠臣岳飛と史上悪臣として有名な秦檜、そして金の滅亡を描きます。

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