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2013年8月

2013年8月 2日 (金)

金属の硬度

 本来なら趣味書庫あたりで書くべき記事ですが今までの流れで日本史書庫の記事にしました。
 
 金属に興味を持ってくると、それぞれの硬さはどうなの?という素人考えに行き尽きます(笑)。そこでさっそく調べてみました。ところが色々な硬度の基準があるらしく私が最初に思い浮かべたダイヤモンドの硬度10などというのは所謂モース硬度というやつらしいです。
 
 ただモース硬度は鉱物の硬さを表す単位で、金属に換算するのは適切ではないとか。という事で色々調べた結果ビッカース硬度(HV)というのが良いらしいです。
 
 ビッカース硬度は、押し込みの硬さを表す単位で圧痕表面積で試験荷重を割って算出します。これが最も普及しているそうです。
 
 という事で各金属と、比較のために主要な鉱物のビッカース硬度を示します。
 
 
◎ダイヤモンド   7140~15300
 
◎炭化ケイ素(セラミックなど)   2350
 
◎サファイヤ    2300
 
◎超硬合金(炭化タングステンなど)  1700~2050
 
◎石英   1103
 
◎クロムモリブデン鋼    302~415
 
◎チタン合金60種(64合金)   280前後
 
◎鋳鉄   160~180
 
◎アルミ合金(7000系、超々ジュラルミン)    155前後
 
◎チタン合金  110~150
 
◎黄銅(真鍮)  80~150
 
◎純鉄   110
 
◎ハードプラチナ  100前後
 
◎青銅   50~100
 
◎アルミ合金(超ジュラルミンなど)  45~100
 
◎マグネシウム合金  49~75
 
◎純プラチナ   50前後
 
◎純マグネシウム  46
 
◎銀    25
 
◎金    22(ただし熱処理により~50)
 
◎鉛   3.9前後
 
 
 
 調べてみて驚きました。クロムモリブデン鋼ってチタン合金より硬度があったんですね。そして流石のタングステン合金。これだけ硬ければAPFSDS(装弾筒付翼安定徹甲弾)の弾芯に使われるわけですよ。
 
 我が日本が開発した超々ジュラルミン、普通の超ジュラルミンと比べると段違いに硬いですね。さすが我が国♪
 
 あとまさかの純鉄より硬い真鍮。そんなに硬い印象なかったんで勉強になりました。青銅は錫と銅の配合具合で硬度が倍違ってくるですね。
 
 
 心残りは劣化ウランの硬度が分からなかった事。誰かご存じないですか?(ビッカース高度で)比重が重いのは知ってましたが硬さがどれくらいあるのか非常に興味があります。

アルミニウムとジュラルミン

 コモンメタル(普遍の金属、一般の金属)といえば、鉄・銅・亜鉛・金・銀・水銀・錫・鉛などとともにアルミニウムがあげられます。
 
 アルミニウムは近代産業にかかせない金属の一つですが、自然界にはアルミニウム単体ではほとんど存在しません。一般的にはボーキサイト(鉄礬土【てつばんど】)を水酸化ナトリウムで処理しアルミナ(酸化アルミニウム)を取りだした後、それを氷晶石(ヘキサフルオロアルミン酸ナトリウム、Na3AlF6)とともに溶融して電気分解して生成します。ちなみになんで氷晶石を一緒に入れるかというと、アルミナ単体では融点が高い(2000℃)からだそうです。氷晶石を混ぜると融点降下を促し1000℃で溶融塩電解できるのだとか。
 
 ですから大量の電気が必要で、だいたいアルミニウム1トンを取りだすのにボーキサイト4トンと13000~14000kWhの電力が必要だそうです。まさに近代工業力の結晶ともいうべき金属です。
 
 アルミニウムは、軽量で加工しやすいことから多くの工業製品に利用されますが、そのほとんどは合金の形で使われます。というのはアルミニウム単体では強度が足りないのです。
 
 一番有名なアルミニウム合金がジュラルミンです。ジュラルミンはアルミに銅4%、マグネシウム0.5%、マンガン0.5%を混ぜて作られます。ジュラルミンは1910年代ドイツのツェッぺリン飛行船やユンカース飛行機の航空機用資材として初めて導入されました。
 
 しかし腐食性や強度に不満があり第2次大戦頃の主要航空機には超ジュラルミンが使用されます。これはアルミに銅4.5%、マグネシウム1.5%を混ぜた合金です。現在でも飛行機の機体にはこれが用いられます。
 
 ところで超ジュラルミンを超える強度を持つ超々ジュラルミンという合金があります。実はこれ日本で作られたものです。アメリカ製軍用機に使用されている超ジュラルミンを見てもっと硬い合金を作ろうとして開発されました。
 
 
 1936年、海軍航空廠の要請により住友金属が開発します。超々ジュラルミンは亜鉛5.5%、マグネシウム2.5%、銅1.6%を混ぜた合金です。
 
 
 有名な零式艦上戦闘機の設計者堀越二郎は、軽量化と強度という二律背反する性能を高いレベルで調和させるために機体の素材に超々ジュラルミンを採用します。大戦中墜落した零戦をみた米軍兵士は、その硬さに驚いたそうです。(と言っても機銃弾を跳ね返すほどではないので全体的な防御力は弱い)
 
 現在でもアルミ合金は軽量化と強度を求められる様々な工業製品に使われています。

製鉄と石炭

 またこの男は何にでも興味持つなとお思いでしょう(苦笑)。
 
 ちょうどひと月ほど前、ローカルニュースで肥後の刀工がどのようにして日本刀を作るのか紹介しておりました。
 
 おそらく肥後同田貫という頑丈な戦場刀の一派の方だと思うんですが、(玉名市に同田貫の石碑がある)どのように材料の鉄鉱石を集めるのか興味を持ちました。
 
 するといきなり有明海の海岸で砂鉄を集め始めたのにはびっくりしました。昔ながらのたたら製鉄なんですね。刀工の方が言うには、有明海の海岸の砂は鉄分を多く含んでいるのだそうです。そういえば有明海は白い砂浜というより黒っぽい砂浜です。10kgの砂鉄から1kgくらい(もっと少なかったかな?)しか鉄はできないそうですね。
 
 その刀工さんは、大量の木炭を使用したたらの中に砂鉄と一緒に入れ鞴(ふいご)で空気を送りながら鉄を作っていました。こうしてできた銑鉄を再び火に入れ真っ赤に熱してから良く知られているようにカンカンとハンマー?で叩いて日本刀の形が次第に出来上がっていく様は感動ものでした。
 
 
 
 とここまでは長い前置き(笑)。現在では製鉄には木炭ではなく石炭が使われます。再生が難しく環境破壊にもなる木炭に代わって安価な石炭を使用した事によって鉄はより大量生産ができるようになりました。
 
 ではなぜ石油ではなく石炭を使用するかご存知ですか?実は私もこの記事のために調べるまで知らなかったのですが、火力だけが理由じゃないんですよ。
 
 石炭は鉄鉱石から酸素を取り除くために使われるそうです。石炭に含まれる炭素が鉄鉱石の中の酸素をはぎ取る作用、いわゆる還元反応によって鉄は作られるのです。ですから石炭もそのままでは使えず、ほぼ100%炭素にするため蒸し焼きにしてコークスを作り製鉄に使用しています。石油コークスもあるそうなんですが、効率や資源の問題を考えると石炭が良いのだとか。
 
 
 現代の鉄製造の過程は
 
①まず鉄鉱石とコークス、石灰を高炉に入れる。この場合コークスは燃料と還元剤を兼ねる。
②高炉内でコークスを燃焼させ、コークスの炭素が鉄鉱石から炭素を奪う。
③この時熱と一酸化炭素、二酸化炭素が生じ、それを熱源として鉄鉱石を溶かす。
④こうして出来た銑鉄はこの段階では炭素含有力が多く硬いものの、もろい状態。
⑤銑鉄はさらに転炉に入れられ炭素を除去し、ニッケルなどの必要な合金元素を入れる。
⑥転炉は耐火煉瓦で覆われておりここで銑鉄をどろどろに溶かす。
⑦こうしてできたのが鋼鉄で、粘り強く硬い金属となる。これを様々に加工し利用される。
 
 
というものです。どうです?分かったような分からないような不思議な感じでしょ(笑)。興味のある方(いないと思いますが…)は、ネットなどで検索してみてくださいな♪

飛鳥の戦乱Ⅴ(完結編)  壬申の乱

 古代日本の英雄、天智天皇は自分の地位を守り抜くため多くの皇族や功臣を粛清し続けました。皇位を脅かす可能性があれば無実の者でも平気で切ったのです。
 
 天智天皇の同母弟大海人皇子は、そんな兄の姿を見て次は自分の番だと戦々恐々としていたそうです。しかし天皇もさすがに血を分けた弟まで殺そうとは考えていませんでした。それどころか最初は嫡男がいなかったため大海人皇子を太子(皇太弟)にまでしたのです。
 
 彼を味方に引き付けておくため、天智天皇は自分の娘を后として与えます。鸕野讚良皇女(うののさららのひめみこ)すなわち後の持統女帝です。
 
 
 叔父と姪の結婚は現代の感覚から見ると異常にみえますが、当時は血の高貴さを保つためにしばしばみられました。二人の間には草壁皇子(くさかべのみこ)が生まれます。一方天智天皇の別の娘(大田皇女)からは大津皇子(おおつのみこ)が生まれました。
 
 天智天皇と大海人皇子の蜜月時代は、天智天皇の嫡男大友皇子が成長してきたことから微妙な関係になってきます。天智天皇は、なんとかして息子に皇位を継がせたいと考えだしたのです。
 
 大友皇子が父天智天皇とは似ても似つかぬ詩歌を愛し文学的才能に秀でた秀才だったことも溺愛の対象だったのでしょう。聡明な大海人皇子は、兄の変貌ぶりを冷静に観察し身を慎み失敗を避けるようになりました。
 
 
 そんなある日、史書では671年10月17日とつたえられますが天智天皇は明日をも知れぬ重病を7月からずっと患っておりついに弟大海人皇子を病床に招きました。
 
 「朕の病気は重い。お前に皇位を譲るから受けてくれないか?」
この天智天皇の申し出に大海人皇子は迷うことなく
「兄上、何を弱気な事を仰います。皇位は倭姫皇后にお譲りなさいませ。政治は大友皇子にお任せください。私は大友皇子を補佐いたしましょう」
と婉曲に断りました。
 
 
 もしこの時大海人皇子が天智天皇の申し出を受けていたらどうでしょう?天皇の性格からして後顧の憂いを断つためにでっち上げの謀反の罪を着せて処刑していた可能性が高いと思います。
 
 
 そればかりか大海人皇子は身の危険を感じ、帰宅するよりも早く髪をおろし出家します。そして大和盆地の南山深い吉野に隠棲するのです。
 
 
 大海人皇子は天皇の討手を恐れ、ひたすら慎ましく暮らします。というのも皇位継承のライバルだった古人大兄皇子は同じく出家し僻地に逃れながら天智天皇の討手に殺されていたからです。
 
 
 大海人皇子側は警戒を怠りませんでした。672年1月7日一代の英傑天智天皇は病床に着いたままついに崩御します。享年46歳。
 
 後継には天智の願い通り、愛息大友皇子がなりました。ここで大友皇子に関して即位して天皇になったという説と即位式を挙げる前に壬申の乱で滅ぼされたので天皇になっていないという説がありますが、明治三年にやはり実質的な天皇であったとされ弘文天皇と諡(おくりな)されています。本稿では大友皇子として書き進めます。
 
 
 大友皇子側は、朝廷内の空気がいまだ大海人皇子に同情的な事に警戒します。野心家が皇子を担ぎ出したら憂慮すべき事態に発展するからです。
 
 邪魔者は早いうちに除くのが良いとばかり、吉野に討手が差し向けられました。ところが大海人皇子に心を寄せる者も多く急報は吉野側にまもなくもたらされます。
 
 
 大海人皇子側は急ぎ善後策を協議しますが、東国へ脱出し再起を図るのが良いと決します。大海人皇子一行は吉野から大和盆地南の山地を抜け伊賀を北上、伊勢に脱出しました。この間何度も近江朝廷側の討手と戦うという危機の連続でした。
 
 
 大海人皇子が東国に脱出したらしいという報告が入ると、近江朝廷側は美濃や尾張の国司に兵を集め大海人皇子を討てと命じます。この時集まった軍兵は実に二万ともいわれます。
 
 
 ところが地方豪族の間には大海人皇子に心を寄せる者が多く、大海人皇子の使者を受けると続々と味方に付き始めました。地方の兵といっても兵力を出すのは地方豪族たちです。これらが大海人皇子側に付いたことで追討軍は瓦解、逆に大海人皇子の兵力となりました。天智天皇の律令専制体制で権力を奪われた地方豪族の不満が根強かったためともいわれます。それが大海人皇子側に地方豪族が雪崩をうった原因の一つでしょう。
 
 
 さらに尾張国司小子部連や美濃の豪族多品治(おおのほんじ)らも大海人皇子側に投じ不破の関を閉じて近江朝廷と対決の姿勢を示しました。
 一方、近江朝廷側の戦備は遅れます。吉備や筑紫にまで使者を送り募兵を命じますが、筑紫大宰栗隈王(くりくまのきみ)は大海人皇子に同情的でこれを拒否、吉備に至っては国司当麻公広島(たぎまのきみひろしま)が大海人皇子側だと分かり使者に殺されるという顛末でした。
 それでも数万ともいわれる兵力が大津京に集結します。両軍はともにに数万規模、壬申の乱が古代最大の内乱だといわれる所以です。
 大海人皇子軍は、兵力を二手に分けます。不破の関から直接近江を衝く主力軍は村国男依が率い、伊勢・伊賀路から大和に入る第二軍は紀臣阿閉麻呂(きのおみあべまろ)が大将となりました。これは大和で大海人皇子側に立って挙兵した大伴吹負(おおとものふけい)を援けるためです。
 近江朝廷側は、軍を二手に分けなければなりませんでした。大和盆地の敵にも対処する必要があったためです。近江軍は奮戦し大和の戦闘で大伴軍を破りました。ところが主戦場である近江では大海人軍に敗れ敗走します。近江朝廷軍は瀬田を最後の防衛線にしますが、古来瀬田を守りきった者はいません。この時も激戦の末突破を許しました。672年7月22日のことです。
 同じころ大和でも第二軍の援軍が間に合い大海人軍が優勢になりました。
 そして翌23日、大海人軍は敗走する朝廷軍を追ってついに大津京になだれ込みました。炎上する宮廷で大友皇子は自害します。わずか25年の生涯でした。
 古代日本を揺るがした壬申の乱はわずか一か月あまりで集結します。大海人皇子は寛大な戦後処理を行いました。死罪になったのは右大臣中臣金(なかとみのこがね)だけ。蘇我果安(そがのはたやす)は近江の戦闘で戦死していましたから、他の大臣たちは流罪で済みました。
 戦後処理を終えた大海人皇子は673年2月大和に入り即位します。都は再び飛鳥に戻されました。すなわち飛鳥浄御原宮です。
 大海人皇子は天武天皇と諡されました。天武天皇は兄天智天皇の律令体制を継承し確立した天皇といっても良いでしょう。一方、壬申の乱で地方豪族の力に助けられたことから中央政界にこれら地方出身者が登用され始めます。奈良時代に吉備氏や毛野氏が高官として登場するのもこのためです。
 天武天皇の治世は、大和中心から全国規模の統治体制に発展した時代だったと言えるかもしれません。

飛鳥の戦乱Ⅳ  白村江の戦い

 中大兄皇子が目指したのは唐に倣った律令制でした。それまでの大臣・大連という朝廷の官を廃し左右大臣を置きます。律令体制が確立するにはまだ時間がかかりますが、この時代にその萌芽があったといえるでしょう。
 
 
 さらに左右大臣を補佐する役目として内臣(うちつおみ)を置き側近ナンバーワンの中臣鎌足をこれに任命します。内臣は後に内大臣に発展する役職でした。
 
 左大臣には阿倍倉梯麻呂、右大臣には蘇我石川麻呂と蘇我入鹿討伐に功績のあった者がそれぞれ就任します。しかし649年功臣の一人阿倍倉梯麻呂が死去すると中大兄皇子は蘇我石川麻呂を警戒します。妻の父でありながら蘇我氏の嫡流に近い人物であることが皇子の猜疑心を呼んだのです。
 
 
 ちょうどそのころ、皇子に「蘇我石川麻呂が謀反を企んでいる」と密告する者がありました。もともと疑っていた石川麻呂の叛意を証明されたようなものですから皇子は碌に調べもせず石川麻呂逮捕を命じます。
 
 自分の屋敷を囲んだ軍兵に驚いた石川麻呂は「天皇の御前で申し開きをしたい」と申し出ますが、最初から謀反人と決めつけている中大兄皇子はこれを拒否しました。
 
 
 石川麻呂は難波京の自邸を脱出し飛鳥の山田寺に入りました。石川麻呂の長子興志(こし)は山田寺に籠城して追手の軍勢と一戦しようと主張しますが、石川麻呂はこれを断り妻子八人と共に仏殿で自害しました。
 
 
 石川麻呂の謀反は無実だったと伝えられます。しかし彼は聡明な中大兄皇子が自分を邪魔に思いこれを除こうとしている意思を敏感に感じ取っていました。すべてを悟った上での覚悟の自殺だったと思います。
 
 
 中大兄皇子は確かに英雄ですが、利用価値の無くなった者は例え功臣でも平気で切れる酷薄な一面を持っていました。近くで接している内に石川麻呂は皇子の内面を覗いたのかもしれません。
 
 
 父と家族の非業の死を知らされた皇子の妻姪娘(めいのいらつめ)は悲嘆のあまり病気になり間もなく亡くなりました。
 
 
 
 
 中大兄皇子の治世は、極東アジアにおける激動のうねりの中にありました。ここで目を転じて朝鮮半島を見てみましょう。当時の半島は高句麗・新羅・百済の三国が争う戦国時代でした。半島南部に任那(みまな)という権益を持つ日本もこの動きに巻き込まれていきます。
 
 
 
ではなぜ権益があったかですが、旧史観のような植民地でもなければ韓国の歴史学者が主張するような捏造でもありません。私の推理では稲作伝播の過程で半島南部にも和人がいたと考えています。詳しくは過去記事をご参照下さい。結論だけいうと和人は半島南部にもいた=もともと日本領だったと考えるのが一番自然です。
 
 
 高句麗・百済という扶余族系国家に圧迫されていた新羅は劣勢を挽回するため当時の超大国唐と結びました。唐の圧迫を受けた高句麗と百済は日本に救援を求め、唐=新羅連合対日本・百済・高句麗という図式が形成されます。
 
 
 日本は神功皇后の昔から半島情勢に介入し、それは中大兄皇子の時代も変わっていませんでした。
 
 
 そんな中、660年海路から来襲した唐の大軍と新羅軍の挟撃を受けた百済がついに滅亡します。しかし百済の遺民は鬼室福信を中心に各地で蜂起し唐の占領軍と戦いました。福信は日本の朝廷に対し百済から人質として来ていた王子豊璋を百済に戻してくれるよう要請します。豊璋を抵抗のシンボルとして奉じ百済復興を果たそうと考えたのです。
 
 
 難波の朝廷は紛糾します。しかし中大兄皇子が「同盟国を見捨てる事は出来ない」と主張したため百済救援が決定しました。661年皇子は阿倍比羅夫らを大将とする六万とも号される大軍を付けて豊璋を百済に送り返しました。皇子自身も斉明天皇(先代孝徳天皇が崩じていたため皇子の実母皇極天皇が重祚【一度退位した天皇が再び皇位に就くこと】していた)以下文武百官を引き連れ筑紫に前線指揮所を設けます。
 
 
 ところが百済に着いた豊璋は、663年鬼室福信と対立しこれを殺してしまいました。百済復興の中心人物福信を失った百済蜂起軍は動揺します。半島に渡った日本軍にもそれは伝染しました。
 
 日本百済連合軍の動揺を見てとった唐・新羅連合軍は一気に決着をつけるべく海陸から当時の日本の駐屯本拠地に近い白村江(はくすきのえ)へ攻めかかります。
 
 
 この時唐軍は日本水軍の軍船に火を放ち千艘のうち四百艘に及ぶ船が焼けたと伝えられます。もともと浮き足立っていた日本百済連合軍は瓦解し、百済復興の夢は断たれました。
 
 
 日本軍はこの大敗により半島情勢への介入を諦めます。日本水軍は各地で転戦していた陸軍を乗せ帰国の途につきました。多くの百済遺民も亡命を希望したため同行を許しました。
 
 
 命からがら日本本土に逃げ帰った日本軍ですが、今度は逆に唐軍の本土進攻を恐れなければなりませんでした。すでに斉明天皇は戦争のさなかの661年に崩御していました。668年中大兄皇子はついにみずから即位します。これが天智天皇でした。
 
 
 天智天皇は、敗軍をまとめ難波京に帰還すると九州から畿内に向かう街道上の要所に山城を築き唐軍に備えました。そればかりか難波京では海に近すぎるため防備が出来ないと内陸の大津に新たな都を建設します。すなわち大津京です。
 
 戦後処理を巡って唐と新羅が対立したため、結局唐軍の日本本土進攻は杞憂に終わりましたが、天智天皇の治世は危機感を内包したものとなります。
 
 
 しかし、逆に戦時体制という事が天皇権力の強化につながったのですから歴史の皮肉です。同時に唐の内情を探るという隠された目的もあって遣唐使が派遣されました。
 
 
 天智天皇の治世は668年から672年までのわずか四年にすぎません。それまでの中大兄皇子時代が長すぎたのです。
 
 
 古代天皇親政はこの天智天皇の時代に確立し、弟天武天皇の時代に発展していきます。
 
 
 
 次回最終回、天武天皇が覇権を確立した壬申の乱を描きます。
 

飛鳥の戦乱Ⅲ  大化の改新

 蘇我入鹿による山背大兄王一族討滅は、朝廷内に衝撃を与えました。中でも舒明天皇の第二子で蘇我系の母を持たない中大兄皇子は次に粛清されるのは自分の番だと恐れます。
 
 実際入鹿は、蘇我系の女性(入鹿の叔母)を母に持つ古人皇子の立太子を画策していました。異母兄古人が皇位を継げば自分の命が危ないという危機感は、蘇我氏勢力を滅ぼさない限り自分が滅ぼされると中大兄皇子の精神を圧迫しました。
 
 そんな中大兄皇子に秘かに近づいた人物がいます。宮中の祭祀を司る中臣連鎌足(なかとみのむらじかまたり)でした。中臣氏はそれまで政治の中枢に関わる事もなくあまり目立たない存在です。鎌足自身は家の職である祭祀に飽き足らず学問を究め野心を持っていました。
 
鎌足は蘇我氏の世では自分の出世の芽が無いと考え、中大兄皇子に賭けたのです。鎌足は皇子に進言します。「蘇我氏は入鹿の専制体制で決して一枚岩ではありません。一族の中にも不満を持つ者がいます。それらと結ばれませ」と。
 
 
 鎌足が目をつけたのは入鹿の従兄弟蘇我倉山田石川麻呂(そがのくらやまだのいしかわまろ)です。鎌足は石川麻呂の娘姪媛(めいのいらつめ)を皇子の妻に迎え姻戚関係を結ばせます。
 
 石川麻呂自身も、入鹿が一族を軽んじ自分たちを家来扱いする事に強い不満を持っていたのです。
 
 
 当時入鹿は宮廷のあった板蓋宮(いたぶきのみや)を見降ろす甘橿岡(あまかしのおか)に豪壮な館を築いていました。ほとんど城塞ともいえる館に引きこもられては入鹿を倒すことはできません。
 
 
 鎌足は策を練ります。ちゅうどそのころ百済・新羅・高句麗三国の使者が貢物を捧げに来朝していました。それを利用する事を考えたのです。天皇が三国の使者に謁見し儀式を行うということであれば大臣である入鹿は出席しないわけにはいきません。
 
 使者が難波津に到着したという知らせは入鹿のもとにも届いていましたから、何の疑いもなく入鹿は板蓋宮に赴きました。しかしこれこそ鎌足の狡猾な策でした。使者が都に到着するより早く儀式の日時を決めていたのです。
 
 
 645年6月12日、入鹿は宮殿の門をくぐりました。鎌足は宮中にいる使臣に命じてうまく入鹿の剣を取り上げます。
 
 
 席に着く入鹿。刺客突入の合図は石川麻呂の上表文朗読でした。しかし緊張と不安で上表文を読み上げる石川麻呂は汗をかき文章を持つ手もがたがたと震えました。
 
 不審に思った入鹿は、「何故そんなに震えているのか?」と石川麻呂に尋ねます。
 
 
 石川麻呂は「天皇の御前だから震えているのです」と答えるのがやっとでした。
 
 
 石川麻呂からの合図がなかなかないのに痺れを切らした中大兄皇子は自ら鉾を携え儀式の場に躍り出ます。皇子の突入で我に返った刺客団もこれに続きました。
 
 
 「逆賊、覚えたか!」皇子が入鹿に鉾を突き出すと次々と刺客が斬りかかり頭と肩に傷を受けた入鹿は絶命します。独裁者の最期でした。
 
 
 天皇は恐れ驚き「これは何事か?」と皇子を詰問しました。
 
 
 「入鹿は皇統の皇子を滅ぼし、自らが皇位を狙っています。ゆえに誅しました」皇子は堂々と答えました。
 
 
 実際この場面で天皇がどう思おうと関係ありません。力こそ正義なのです。太子であった古人大兄皇子は蘇我系の母を持つために驚愕し、自分の宮に逃げ帰り閉居しました。
 
 
 中大兄皇子は入鹿暗殺に加わった豪族たちと共に法興寺に籠城します。蘇我氏の反撃を恐れたのです。実際入鹿の父蝦夷は健在でした。
 
 法興寺は飛鳥川を隔てて蘇我氏の本拠甘橿岡と対していました。蘇我蝦夷のもとには漢直(あやのあたい)一族ら蘇我氏側の豪族が参集します。中大兄皇子は態度を決めかねている豪族たちに君臣の義を説き味方に引き入れました。
 
 蘇我氏に対する不満は朝廷内に渦巻いていましたから彼らは次々と皇子のもとに集まってきました。皇子はさらに漢直とは旧知の巨勢臣徳太を蘇我邸に赴かせ抵抗の無駄を説かせます。
 
 漢直は説得を受け入れ、蘇我邸を去りました。戦わずして大勢はその日のうちに決します。翌13日絶望した蝦夷は代々の財宝が所蔵される豪壮な館に火を放ち自害しました。一族郎党もこれに続きます。
 
 古代最大の豪族、蘇我氏は滅びました。
 
 
 
 舒明天皇はすでになく、この時は皇后の寶女王が即位して皇極天皇となっていました。言うまでもなく中大兄皇子の実母です。642年即位ですから大化の改新の時の当事者は彼女だったのでしょう。自分の息子が朝廷第一の権臣を目の前で誅殺したのですからその衝撃は大きかったと思います。
 
 
 何も考えられなくなった天皇は、息子に皇位を譲りたいと申し出ました。しかし中大兄皇子はこれを断ります。自分が皇位欲しさに入鹿を暗殺したという悪印象を世間に与えたくなかったからだと言われます。
 
 
 結局皇位は皇極天皇の弟軽皇子が継ぎました。すなわち孝徳天皇です。中大兄皇子は孝徳天皇の太子となりました。実質朝廷を主導するのは中大兄皇子です。孝徳天皇は飾り物にすぎませんでした。
 
 
 この時皇子20歳。以後朝廷は天皇専制体制が確立します。それまでは豪族間の微妙なバランスの上に君臨する危うい存在でした。中大兄皇子は唐の体制にあこがれ積極的にこれを導入します。
 
 
 しかし、国際情勢は日本だけが安穏と出来るような甘いものではありませんでした。朝鮮半島情勢を巡って唐・新羅連合軍に対し高句麗・百済と結んだ日本が表に出ざるを得なくなってゆくのです。
 
 
 それは白村江の戦いへと繋がります。次回は日本を揺るがした古代最大の戦いを描きます。

飛鳥の戦乱Ⅱ  上宮王家の滅亡

 物部氏を滅ぼした蘇我氏は朝廷内の第一人者として独裁的な権力を握る事となりました。権力は馬子から嫡子蝦夷(えみし)に継承されます。
 
 馬子は姪にあたる炊屋姫(かしきやひめ、敏達天皇皇后、後の推古天皇)を表に立て、その意思という事で政治を動かしました。
 
 馬子は、崇俊天皇(泊瀬部皇子)が自分の意のままにならぬと分かるとこれを暗殺するという暴挙を犯します。
 
 その後継問題は紛糾しました。敏達天皇の皇子で崇俊天皇の太子であった押坂彦人皇子は最有力であっても病弱、ということで後継者は炊屋姫の実子竹田皇子と用明天皇の嫡長子であった厩戸皇子の二人に絞られます。
 
 しかし、聡明の誉れ高い厩戸皇子が天皇を継ぐと蘇我氏の専制支配に都合が悪いと考えた馬子と、自分の息子を天皇の位につけたい炊屋姫の利害が一致しました。
 
 ここであからさまに竹田皇子が皇位を継ぐのはあまりにも露骨なので、中継ぎとして炊屋姫が即位する事となります。すなわち推古天皇でした。厩戸皇子をなだめるため太子は彼が就任しました。これがのちに聖徳太子と呼ばれる存在です。
 
 賢い厩戸皇子は、馬子と対決する事はせず協調体制を築いて政治を行います。その中で徐々に朝廷権力の拡大を図りました。隋の煬帝に「日いずる処の天子~」という有名な国書を送ったのもその一環といえます。
 
 
 ところが推古女帝が期待した竹田皇子は早死にしてしまいます。こうなればますます皇位は譲れません。そのうち厩戸皇子が死んでしまいました。
 
 推古天皇は、75歳という長寿を保って628年崩御しました。すでに622年厩戸皇子は49歳で、蘇我馬子も626年亡くなっています。
 
 蘇我氏は蝦夷とその息子入鹿(いるか)の時代になっていました。
 
 
 推古天皇亡き後の後継者も紛糾します。厩戸皇子の息子山背大兄王(やましろのおおえのおう)も候補に挙がりますが、結局押坂彦人皇子の子田村皇子が即位し舒明天皇となりました。
 これには上宮王家(厩戸皇子の一族)の勢力を警戒する蘇我蝦夷の意思が強く働いたと言われています。
 蝦夷は、蘇我氏の権力を盤石にするため643年大臣(おおおみ)の位を息子入鹿に譲り隠居します。といっても形だけで院政を布いていたともいえます。
 この入鹿という人物は、何事にも慎重な父蝦夷とは違い性格が傲岸不遜、力こそ正義を信奉していました。蘇我氏の権力はこの時絶頂に達し文句を言う者も諫言する者もいませんでした。
 入鹿は、山背大兄王の上宮王家が邪魔でしかたありませんでした。普通こういう場合はどんな無理をしても大義名分を探し出し追討するはずですが、どうも入鹿がそれをしたという形跡はありません。
 643年11月1日、入鹿は巨勢臣徳太(こせのおみとくた)・土師連(はじのむらじ)らに命じ山背大兄一族を討たせました。軍勢は上宮王家のあった斑鳩宮に向かいます。
 山背大兄王側もこの日のある事を予測し防備を固めていましたが、宮殿での戦いは限界がありました。それでも土師連を戦死させていますから上宮王家の者たちは奮戦したと言えます。
 大兄王は一族郎党を引き連れ生駒山に難を逃れます。この時側近が「ひとまず東国へ逃れ再起を計られませ」と進言します。実は後に大海人皇子(のちの天武天皇)が同じ戦略を採用して成功しているのです。
 しかし王は「そうすればたしかに勝つかもしれないが、民に多大な迷惑がかかる。」とこれを受け入れませんでした。そして妻子を引き連れ再び斑鳩寺に戻り一族郎党全員が自害しました。
 ここに厩戸皇子から始まる上宮王家は滅亡します。
 のちにこの事件の知らせを受けた蝦夷は激怒したと伝えられます。山背大兄王の一族を除くにしてももっと穏健な策があったはずです。蝦夷は息子入鹿を罵り「自分の身を危うくするぞ」と叱ったそうです。しかし入鹿は反省するどころかますます傲慢になっていきます。
 蘇我入鹿の恐怖政治に対する不満は表に出てこないだけで大和の豪族たちに内在しました。天皇家でも不満を持つ者が出てきます。
 この両者が結び付いたことから、静かにしかし確実にクーデター計画は練られました。次回、古代日本を揺るがした政変「大化の改新」を描きます。

飛鳥の戦乱Ⅰ  物部合戦

 遥かなる飛鳥時代(592年~710年)。日本の国体が固まった時代といっても過言ではありません。そして多くの血が流された時代でもありました。
 
 蘇我氏と物部氏の対立から始まって壬申の乱後の天武天皇即位まで。厩戸皇子(うまやどのみこ。一般には聖徳太子として知られる)や中大兄皇子など幾多の日本史上のスターを輩出した一方、力がものを言う殺伐とした時代だったのも事実。
 
 
 まず最初は、蘇我氏と物部氏の権力争いからはじまった大規模な内乱、物部合戦について述べようと思います。史書では丁未の乱とも呼ばれますが、一般の方は何のことかさっぱり分からないだろうと思い分かりやすいネーミングにしました。
 
 
 
 最初に歴史のおさらいから始めましょう。皆さんは氏姓制度というのをご存知ですか。蘇我臣(そがのおみ)とか物部連(もののべのむらじ)というやつです。
 
 
 これは大和朝廷における豪族を家格によって序列付けたもので上から
 
  臣(おみ)…天皇(当時は大王【おおきみ】)をたすけた大和盆地の有力豪族。蘇我氏・巨勢氏など
 
  連(むらじ)…朝廷に職能を持って仕えた豪族。一種の官僚団ともいえる。大伴氏、物部氏など
 
  伴造(とものみやっこ)…連が高級官僚なら、こちらは中級官僚に当たる。
 
  百八十部(ももあまりやそのとも)…伴造のさらに下。首(おみと)、村主(すぐり)などの姓を持つ。
 
 
 
 あと序列は微妙ながら地方の有力豪族に対しては
 
  国造(くにのみやっこ)…地方の有力豪族。毛野君、吉備君、筑紫君などが有名。
 
  県主(あがたぬし)…成立過程は国造よりも古いと言われる。小規模の集団の族長に与えられた。
 
などがありました。
 
 
 物部合戦とは蘇我馬子が物部守屋を滅ぼした戦いですが、一般史書には仏教を取りいれようとした蘇我氏と、守旧派でそれを拒否した物部氏との対立だと捉えられていると思います。
 
 確かにその一面はありましたが、本質は違います。大和盆地の有力豪族の代表として朝廷権力を制肘しあわよくば自分が乗っ取ろうとした蘇我氏と、朝廷権力の増大が自分の権力強化につながると目論んだ物部氏の対立が真相に近いのではないかと考えています。ですから仏教云々が無くても対立は避けられなかったはずです。
 
 
 分かりやすく言えば、豊臣秀吉死去後の徳川家康(五大老筆頭)と石田三成(五奉行筆頭)の対立に近いかもしれません。
 
 
 ここで当事者の一人、物部一族の当主守屋(不明~587年)についてみてみましょう。物部氏は一般には軍事を司る一族といわれますが、調べてみると軍事は大伴氏の職掌で物部氏は司法・警察をつかさどる一族だったようです。
 
 日本の歴史2「古代国家の成立」(直木孝次郎著・中公文庫)によると物とは「もののけ」に通じ古代祭司と政治は一体であったことから祭祀を通じて物部氏が司法警察を担当したとされます。
 
 
 物部氏は、まず連の中での権力を握るべく対立する大伴氏を陥れようと画策します。允恭天皇(いんぎょうてんのう)亡きあとの皇位争いで穴穂皇子(のちの安康天皇)側に付き、軽皇子側に付いた大伴氏を攻め滅ぼします。大伴氏はこの時完全には滅びませんでしたが以後没落して行きました。
 
 一方、豪族筆頭の蘇我氏はどうだったでしょうか?のちの摂関政治の藤原氏と同様皇室に娘を入れ閨閥で権力を握るというオーソドックスな手段を取っていました。
 当時の蘇我氏の当主は馬子(551年?~626年)。馬子の二人の姉(妹?)は欽明天皇の后、自分の娘も崇俊天皇の后と二重三重に皇室と結ばれていました。
 馬子の姉妹のうち、長女堅塩媛からは用明天皇、推古天皇が、次女小姉君からは崇俊天皇が生まれています。
 両者の対立はお決まりの天皇の後継者争いでした。蘇我氏の強力なバックアップで皇位に就いた用明天皇に対し、異母兄弟の穴穂部皇子(崇俊天皇の兄)が強烈な不満を抱いたのです。どちらも蘇我氏の血を引いていましたが皇子の激しい性格を馬子が危惧していたために選ばれなかったともいわれます。
 最初、馬子と守屋は共同戦線を張り穴穂部皇子をバックアップするという形で用明天皇の側近三輪君逆(みわのきみさかし)を攻め滅ぼします。
 しかし馬子の方が役者が一枚上で、自分は陰に隠れ守屋が用明天皇の側近を滅ぼしたと讒言し天皇が守屋を憎むように仕向けました。
 天皇は即位二年目で病気にかかります。太子には先代敏達天皇の皇子押坂彦人大兄皇子が選べれていました。立場が悪くなっていた守屋は周囲から何か行動を起こすかもしれないと警戒されます。これには陰で馬子の扇動があった事は想像に難くありません。
 守屋としては関係の深い穴穂部皇子を擁し一気に立ち上がるべきでしたが、皇子との結託は馬子に阻止されました。後に皇位継承に不満を抱き続けていた穴穂部皇子は馬子に殺されています。
 守屋は、身の危険を感じ本所地であった河内国渋河郡阿都(八尾市)に引き上げました。蘇我氏と物部氏は用明天皇亡き後の戦乱に備え互いに軍備を進めます。
 しかし朝廷のある大和盆地を握っている蘇我氏の方が強大で多くの豪族たちが馳せ参じました。同じ連でありながら物部氏に圧迫されて勢力を弱めていた大伴氏さえ蘇我馬子側に付きます。これでは八十物部と言われるほど多数の同族を抱えていた物部氏でも不利は否めませんでした。
 587年4月、用明天皇がついに死去します。守屋は密使を送って穴穂部皇子の決起を促しましたが、蘇我氏の厳しい監視下では皇子は身動きがとれませんでした。
 一方、馬子は思いきった手を打ちます。穴穂部皇子の弟泊瀬皇子(はつせのみこ)を次の天皇に担ぎ出したのです。これで完全に穴穂部皇子の皇位継承の芽は断たれました。
 さらに皇室内で隠然たる実力を持つ炊屋姫(馬子の姪、後の推古天皇)が穴穂部皇子と険悪な関係だったのを利用し、姫を動かして「逆賊穴穂部皇子と同母弟宅部皇子、それに与する者を誅せよ」との詔を出させました。
 
 
大義名分を得た蘇我氏側は、大軍を二手に分けて物部氏の本拠河内に進撃させます。蘇我氏側には厩戸皇子ら多くの皇族もつき従いさながら官軍でした。
 
 
 物部氏は掌中の珠の穴穂部皇子を失い、ほとんど打つ手もありませんでした。馬子と守屋の政治力の違いでしょう。物部氏は本拠の渋河、衣摺で激しく抵抗しますが多勢に無勢、守屋は乱戦の中で矢を受けて戦死し軍勢は四散しました。
 
 
 この戦いで物部氏は滅びますが、傍系が石川氏を名乗り存続します。
 
 
 以後、蘇我氏は朝廷内で独裁権力を握り我が世の春を謳歌します。しかし満つれば欠けるが世の習い。絶頂の中に崩壊の芽は隠れているのです。
 
 
 次回は馬子と厩戸皇子の政治、そして皇子死後の上宮王家(皇子の一族)滅亡を描きます。

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