飛鳥の戦乱Ⅱ 上宮王家の滅亡
物部氏を滅ぼした蘇我氏は朝廷内の第一人者として独裁的な権力を握る事となりました。権力は馬子から嫡子蝦夷(えみし)に継承されます。
馬子は姪にあたる炊屋姫(かしきやひめ、敏達天皇皇后、後の推古天皇)を表に立て、その意思という事で政治を動かしました。
馬子は、崇俊天皇(泊瀬部皇子)が自分の意のままにならぬと分かるとこれを暗殺するという暴挙を犯します。
その後継問題は紛糾しました。敏達天皇の皇子で崇俊天皇の太子であった押坂彦人皇子は最有力であっても病弱、ということで後継者は炊屋姫の実子竹田皇子と用明天皇の嫡長子であった厩戸皇子の二人に絞られます。
しかし、聡明の誉れ高い厩戸皇子が天皇を継ぐと蘇我氏の専制支配に都合が悪いと考えた馬子と、自分の息子を天皇の位につけたい炊屋姫の利害が一致しました。
ここであからさまに竹田皇子が皇位を継ぐのはあまりにも露骨なので、中継ぎとして炊屋姫が即位する事となります。すなわち推古天皇でした。厩戸皇子をなだめるため太子は彼が就任しました。これがのちに聖徳太子と呼ばれる存在です。
賢い厩戸皇子は、馬子と対決する事はせず協調体制を築いて政治を行います。その中で徐々に朝廷権力の拡大を図りました。隋の煬帝に「日いずる処の天子~」という有名な国書を送ったのもその一環といえます。
ところが推古女帝が期待した竹田皇子は早死にしてしまいます。こうなればますます皇位は譲れません。そのうち厩戸皇子が死んでしまいました。
推古天皇は、75歳という長寿を保って628年崩御しました。すでに622年厩戸皇子は49歳で、蘇我馬子も626年亡くなっています。
蘇我氏は蝦夷とその息子入鹿(いるか)の時代になっていました。
推古天皇亡き後の後継者も紛糾します。厩戸皇子の息子山背大兄王(やましろのおおえのおう)も候補に挙がりますが、結局押坂彦人皇子の子田村皇子が即位し舒明天皇となりました。
これには上宮王家(厩戸皇子の一族)の勢力を警戒する蘇我蝦夷の意思が強く働いたと言われています。
蝦夷は、蘇我氏の権力を盤石にするため643年大臣(おおおみ)の位を息子入鹿に譲り隠居します。といっても形だけで院政を布いていたともいえます。
この入鹿という人物は、何事にも慎重な父蝦夷とは違い性格が傲岸不遜、力こそ正義を信奉していました。蘇我氏の権力はこの時絶頂に達し文句を言う者も諫言する者もいませんでした。
入鹿は、山背大兄王の上宮王家が邪魔でしかたありませんでした。普通こういう場合はどんな無理をしても大義名分を探し出し追討するはずですが、どうも入鹿がそれをしたという形跡はありません。
643年11月1日、入鹿は巨勢臣徳太(こせのおみとくた)・土師連(はじのむらじ)らに命じ山背大兄一族を討たせました。軍勢は上宮王家のあった斑鳩宮に向かいます。
山背大兄王側もこの日のある事を予測し防備を固めていましたが、宮殿での戦いは限界がありました。それでも土師連を戦死させていますから上宮王家の者たちは奮戦したと言えます。
大兄王は一族郎党を引き連れ生駒山に難を逃れます。この時側近が「ひとまず東国へ逃れ再起を計られませ」と進言します。実は後に大海人皇子(のちの天武天皇)が同じ戦略を採用して成功しているのです。
しかし王は「そうすればたしかに勝つかもしれないが、民に多大な迷惑がかかる。」とこれを受け入れませんでした。そして妻子を引き連れ再び斑鳩寺に戻り一族郎党全員が自害しました。
ここに厩戸皇子から始まる上宮王家は滅亡します。
のちにこの事件の知らせを受けた蝦夷は激怒したと伝えられます。山背大兄王の一族を除くにしてももっと穏健な策があったはずです。蝦夷は息子入鹿を罵り「自分の身を危うくするぞ」と叱ったそうです。しかし入鹿は反省するどころかますます傲慢になっていきます。
蘇我入鹿の恐怖政治に対する不満は表に出てこないだけで大和の豪族たちに内在しました。天皇家でも不満を持つ者が出てきます。
この両者が結び付いたことから、静かにしかし確実にクーデター計画は練られました。次回、古代日本を揺るがした政変「大化の改新」を描きます。
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