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2013年8月 2日 (金)

飛鳥の戦乱Ⅳ  白村江の戦い

 中大兄皇子が目指したのは唐に倣った律令制でした。それまでの大臣・大連という朝廷の官を廃し左右大臣を置きます。律令体制が確立するにはまだ時間がかかりますが、この時代にその萌芽があったといえるでしょう。
 
 
 さらに左右大臣を補佐する役目として内臣(うちつおみ)を置き側近ナンバーワンの中臣鎌足をこれに任命します。内臣は後に内大臣に発展する役職でした。
 
 左大臣には阿倍倉梯麻呂、右大臣には蘇我石川麻呂と蘇我入鹿討伐に功績のあった者がそれぞれ就任します。しかし649年功臣の一人阿倍倉梯麻呂が死去すると中大兄皇子は蘇我石川麻呂を警戒します。妻の父でありながら蘇我氏の嫡流に近い人物であることが皇子の猜疑心を呼んだのです。
 
 
 ちょうどそのころ、皇子に「蘇我石川麻呂が謀反を企んでいる」と密告する者がありました。もともと疑っていた石川麻呂の叛意を証明されたようなものですから皇子は碌に調べもせず石川麻呂逮捕を命じます。
 
 自分の屋敷を囲んだ軍兵に驚いた石川麻呂は「天皇の御前で申し開きをしたい」と申し出ますが、最初から謀反人と決めつけている中大兄皇子はこれを拒否しました。
 
 
 石川麻呂は難波京の自邸を脱出し飛鳥の山田寺に入りました。石川麻呂の長子興志(こし)は山田寺に籠城して追手の軍勢と一戦しようと主張しますが、石川麻呂はこれを断り妻子八人と共に仏殿で自害しました。
 
 
 石川麻呂の謀反は無実だったと伝えられます。しかし彼は聡明な中大兄皇子が自分を邪魔に思いこれを除こうとしている意思を敏感に感じ取っていました。すべてを悟った上での覚悟の自殺だったと思います。
 
 
 中大兄皇子は確かに英雄ですが、利用価値の無くなった者は例え功臣でも平気で切れる酷薄な一面を持っていました。近くで接している内に石川麻呂は皇子の内面を覗いたのかもしれません。
 
 
 父と家族の非業の死を知らされた皇子の妻姪娘(めいのいらつめ)は悲嘆のあまり病気になり間もなく亡くなりました。
 
 
 
 
 中大兄皇子の治世は、極東アジアにおける激動のうねりの中にありました。ここで目を転じて朝鮮半島を見てみましょう。当時の半島は高句麗・新羅・百済の三国が争う戦国時代でした。半島南部に任那(みまな)という権益を持つ日本もこの動きに巻き込まれていきます。
 
 
 
ではなぜ権益があったかですが、旧史観のような植民地でもなければ韓国の歴史学者が主張するような捏造でもありません。私の推理では稲作伝播の過程で半島南部にも和人がいたと考えています。詳しくは過去記事をご参照下さい。結論だけいうと和人は半島南部にもいた=もともと日本領だったと考えるのが一番自然です。
 
 
 高句麗・百済という扶余族系国家に圧迫されていた新羅は劣勢を挽回するため当時の超大国唐と結びました。唐の圧迫を受けた高句麗と百済は日本に救援を求め、唐=新羅連合対日本・百済・高句麗という図式が形成されます。
 
 
 日本は神功皇后の昔から半島情勢に介入し、それは中大兄皇子の時代も変わっていませんでした。
 
 
 そんな中、660年海路から来襲した唐の大軍と新羅軍の挟撃を受けた百済がついに滅亡します。しかし百済の遺民は鬼室福信を中心に各地で蜂起し唐の占領軍と戦いました。福信は日本の朝廷に対し百済から人質として来ていた王子豊璋を百済に戻してくれるよう要請します。豊璋を抵抗のシンボルとして奉じ百済復興を果たそうと考えたのです。
 
 
 難波の朝廷は紛糾します。しかし中大兄皇子が「同盟国を見捨てる事は出来ない」と主張したため百済救援が決定しました。661年皇子は阿倍比羅夫らを大将とする六万とも号される大軍を付けて豊璋を百済に送り返しました。皇子自身も斉明天皇(先代孝徳天皇が崩じていたため皇子の実母皇極天皇が重祚【一度退位した天皇が再び皇位に就くこと】していた)以下文武百官を引き連れ筑紫に前線指揮所を設けます。
 
 
 ところが百済に着いた豊璋は、663年鬼室福信と対立しこれを殺してしまいました。百済復興の中心人物福信を失った百済蜂起軍は動揺します。半島に渡った日本軍にもそれは伝染しました。
 
 日本百済連合軍の動揺を見てとった唐・新羅連合軍は一気に決着をつけるべく海陸から当時の日本の駐屯本拠地に近い白村江(はくすきのえ)へ攻めかかります。
 
 
 この時唐軍は日本水軍の軍船に火を放ち千艘のうち四百艘に及ぶ船が焼けたと伝えられます。もともと浮き足立っていた日本百済連合軍は瓦解し、百済復興の夢は断たれました。
 
 
 日本軍はこの大敗により半島情勢への介入を諦めます。日本水軍は各地で転戦していた陸軍を乗せ帰国の途につきました。多くの百済遺民も亡命を希望したため同行を許しました。
 
 
 命からがら日本本土に逃げ帰った日本軍ですが、今度は逆に唐軍の本土進攻を恐れなければなりませんでした。すでに斉明天皇は戦争のさなかの661年に崩御していました。668年中大兄皇子はついにみずから即位します。これが天智天皇でした。
 
 
 天智天皇は、敗軍をまとめ難波京に帰還すると九州から畿内に向かう街道上の要所に山城を築き唐軍に備えました。そればかりか難波京では海に近すぎるため防備が出来ないと内陸の大津に新たな都を建設します。すなわち大津京です。
 
 戦後処理を巡って唐と新羅が対立したため、結局唐軍の日本本土進攻は杞憂に終わりましたが、天智天皇の治世は危機感を内包したものとなります。
 
 
 しかし、逆に戦時体制という事が天皇権力の強化につながったのですから歴史の皮肉です。同時に唐の内情を探るという隠された目的もあって遣唐使が派遣されました。
 
 
 天智天皇の治世は668年から672年までのわずか四年にすぎません。それまでの中大兄皇子時代が長すぎたのです。
 
 
 古代天皇親政はこの天智天皇の時代に確立し、弟天武天皇の時代に発展していきます。
 
 
 
 次回最終回、天武天皇が覇権を確立した壬申の乱を描きます。
 

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