飛鳥の戦乱Ⅲ 大化の改新
蘇我入鹿による山背大兄王一族討滅は、朝廷内に衝撃を与えました。中でも舒明天皇の第二子で蘇我系の母を持たない中大兄皇子は次に粛清されるのは自分の番だと恐れます。
実際入鹿は、蘇我系の女性(入鹿の叔母)を母に持つ古人皇子の立太子を画策していました。異母兄古人が皇位を継げば自分の命が危ないという危機感は、蘇我氏勢力を滅ぼさない限り自分が滅ぼされると中大兄皇子の精神を圧迫しました。
そんな中大兄皇子に秘かに近づいた人物がいます。宮中の祭祀を司る中臣連鎌足(なかとみのむらじかまたり)でした。中臣氏はそれまで政治の中枢に関わる事もなくあまり目立たない存在です。鎌足自身は家の職である祭祀に飽き足らず学問を究め野心を持っていました。
鎌足は蘇我氏の世では自分の出世の芽が無いと考え、中大兄皇子に賭けたのです。鎌足は皇子に進言します。「蘇我氏は入鹿の専制体制で決して一枚岩ではありません。一族の中にも不満を持つ者がいます。それらと結ばれませ」と。
鎌足が目をつけたのは入鹿の従兄弟蘇我倉山田石川麻呂(そがのくらやまだのいしかわまろ)です。鎌足は石川麻呂の娘姪媛(めいのいらつめ)を皇子の妻に迎え姻戚関係を結ばせます。
石川麻呂自身も、入鹿が一族を軽んじ自分たちを家来扱いする事に強い不満を持っていたのです。
当時入鹿は宮廷のあった板蓋宮(いたぶきのみや)を見降ろす甘橿岡(あまかしのおか)に豪壮な館を築いていました。ほとんど城塞ともいえる館に引きこもられては入鹿を倒すことはできません。
鎌足は策を練ります。ちゅうどそのころ百済・新羅・高句麗三国の使者が貢物を捧げに来朝していました。それを利用する事を考えたのです。天皇が三国の使者に謁見し儀式を行うということであれば大臣である入鹿は出席しないわけにはいきません。
使者が難波津に到着したという知らせは入鹿のもとにも届いていましたから、何の疑いもなく入鹿は板蓋宮に赴きました。しかしこれこそ鎌足の狡猾な策でした。使者が都に到着するより早く儀式の日時を決めていたのです。
645年6月12日、入鹿は宮殿の門をくぐりました。鎌足は宮中にいる使臣に命じてうまく入鹿の剣を取り上げます。
席に着く入鹿。刺客突入の合図は石川麻呂の上表文朗読でした。しかし緊張と不安で上表文を読み上げる石川麻呂は汗をかき文章を持つ手もがたがたと震えました。
不審に思った入鹿は、「何故そんなに震えているのか?」と石川麻呂に尋ねます。
石川麻呂は「天皇の御前だから震えているのです」と答えるのがやっとでした。
石川麻呂からの合図がなかなかないのに痺れを切らした中大兄皇子は自ら鉾を携え儀式の場に躍り出ます。皇子の突入で我に返った刺客団もこれに続きました。
「逆賊、覚えたか!」皇子が入鹿に鉾を突き出すと次々と刺客が斬りかかり頭と肩に傷を受けた入鹿は絶命します。独裁者の最期でした。
天皇は恐れ驚き「これは何事か?」と皇子を詰問しました。
「入鹿は皇統の皇子を滅ぼし、自らが皇位を狙っています。ゆえに誅しました」皇子は堂々と答えました。
実際この場面で天皇がどう思おうと関係ありません。力こそ正義なのです。太子であった古人大兄皇子は蘇我系の母を持つために驚愕し、自分の宮に逃げ帰り閉居しました。
中大兄皇子は入鹿暗殺に加わった豪族たちと共に法興寺に籠城します。蘇我氏の反撃を恐れたのです。実際入鹿の父蝦夷は健在でした。
法興寺は飛鳥川を隔てて蘇我氏の本拠甘橿岡と対していました。蘇我蝦夷のもとには漢直(あやのあたい)一族ら蘇我氏側の豪族が参集します。中大兄皇子は態度を決めかねている豪族たちに君臣の義を説き味方に引き入れました。
蘇我氏に対する不満は朝廷内に渦巻いていましたから彼らは次々と皇子のもとに集まってきました。皇子はさらに漢直とは旧知の巨勢臣徳太を蘇我邸に赴かせ抵抗の無駄を説かせます。
漢直は説得を受け入れ、蘇我邸を去りました。戦わずして大勢はその日のうちに決します。翌13日絶望した蝦夷は代々の財宝が所蔵される豪壮な館に火を放ち自害しました。一族郎党もこれに続きます。
古代最大の豪族、蘇我氏は滅びました。
舒明天皇はすでになく、この時は皇后の寶女王が即位して皇極天皇となっていました。言うまでもなく中大兄皇子の実母です。642年即位ですから大化の改新の時の当事者は彼女だったのでしょう。自分の息子が朝廷第一の権臣を目の前で誅殺したのですからその衝撃は大きかったと思います。
何も考えられなくなった天皇は、息子に皇位を譲りたいと申し出ました。しかし中大兄皇子はこれを断ります。自分が皇位欲しさに入鹿を暗殺したという悪印象を世間に与えたくなかったからだと言われます。
結局皇位は皇極天皇の弟軽皇子が継ぎました。すなわち孝徳天皇です。中大兄皇子は孝徳天皇の太子となりました。実質朝廷を主導するのは中大兄皇子です。孝徳天皇は飾り物にすぎませんでした。
この時皇子20歳。以後朝廷は天皇専制体制が確立します。それまでは豪族間の微妙なバランスの上に君臨する危うい存在でした。中大兄皇子は唐の体制にあこがれ積極的にこれを導入します。
しかし、国際情勢は日本だけが安穏と出来るような甘いものではありませんでした。朝鮮半島情勢を巡って唐・新羅連合軍に対し高句麗・百済と結んだ日本が表に出ざるを得なくなってゆくのです。
それは白村江の戦いへと繋がります。次回は日本を揺るがした古代最大の戦いを描きます。
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