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2013年9月

2013年9月21日 (土)

北海道のチャシ

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 日本には砦程度の小規模なものまで含めると2万5千ほども城跡があるそうです。沖縄にはグスク、北海道にもチャシと呼ばれる城跡があります。
 
 沖縄のグスクに関しては割合有名である程度資料も揃っているのですが、こと北海道のチャシに関しては私が見つけられないだけかもしれませんが資料がほとんどないのが現状です。
 
 
 チャシはアイヌ族が建てた城跡でオホーツク沿岸を中心に所謂東蝦夷地と呼ばれた道東・道南に多いそうです。チャシの語源には諸説あり、アイヌ語で「我 立てる」(チ アシ)から来たという説、山の上で柵を巡らせた施設の事を意味するなど諸説あってはっきりしません。
 
 チャシは近世アイヌ文化で出現した城で、海岸沿岸部の丘陵や河岸段丘の先端部を利用し空堀で区切って柵を巡らせたものでした。比較的小規模なものが多いですが、中には戦国期城塞のような馬出し、虎口、横矢掛かりを設けた本格的なものもあったそうですから驚かされます。
 
 古いものでも14世紀を遡らないそうですが、従来は和人との戦いに備えたものだと言われていました。しかし調査が進むにつれ本来は宗教施設だったのではないか?という説も出てきました。ただ和人との戦いが激化していく中で最終的に城塞化していったのは間違いないでしょう。
 
 
 興味深いのは、チャシの分布が江戸時代前期にアイヌ人を率いて反乱を起こしたシャクシャインの勢力圏とほぼ一致している点です。本格的な防御工事はこの時期になされたのかもしれませんね。
 
 
 画像で紹介したのは代表的チャシ遺跡である足寄(あしょろ)郡陸別町(りくべつちょう)にあるユクエピラチャシ跡です。私は北海道に土地勘がないのでよく分かりませんが、帯広から網走に抜ける国道242号線に近い十勝川の支流利別川西岸の比高50mの丘陵上にあり内陸部にあるチャシ跡では最大級のものだそうです。
 
 
 いつの日行ってみたいですね。私はこういう城跡には目がないものですから(笑)。

2013年9月 1日 (日)

比島決戦     ~ジャングルに散ったマレーの虎  後編 ~

 レイテ島で貴重な兵力をすりつぶした第14方面軍は、すでに勝利の可能性を失っていました。山下方面軍司令官は、できるだけ長く抵抗し米軍主力を拘束することで日本本土への侵攻を遅らせることに作戦の主眼を定めます。
 
 山下将軍は、隷下の師団を3つの戦闘集団に分けました。一つはバギオを中心としルソン島北方を担当する尚武集団。山下司令官が直卒し6個師団、1個戦車師団、2個混成旅団を主力とし兵力15万2千の部隊です。一つは1個師団、2個旅団と海軍部隊を率いマニラ東方を担当する振武集団(兵力10万5千)、最後はクラーク飛行場を中心とするマニラ西方を守る建武集団(第1挺身集団、陸海軍航空部隊を主力とする兵力3万)です。
 
 一方、米軍はアイケルバーガーの第8軍に加えクルーガー中将の第6軍(7個師団、2個砲兵群基幹、兵力19万1千)を投入します。
 
 1945年1月9日、連合軍は3日間の激しい空襲の後ルソン島リンガエン湾(バギオ西方)に上陸を開始しました。リンガエン湾の上陸はクルーガー第6軍が担当します。上陸後は軍を二手に分け主力は山下将軍の尚武集団を攻めバギオからルソン北方台湾との間のルソン海峡に面する重要な港湾都市アパリへと打通、別動隊はマニラ湾から上陸する第8軍と呼応しマニラ占領を目指す計画でした。
 
 リンガエンから北方に転進した米第6軍主力は、バギオ南方で戦車第2師団の迎撃を受けます。これは日本陸軍による初めての(そして最後の)大規模な機甲迎撃戦でした。しかし旧式の97式中戦車(チハ車)や1式中戦車(チヘ)を主力とする日本軍は強力な75㎜砲を装備するM4シャーマンに完敗し壊滅的な打撃を受けて後退します。
 
 米軍はそのままバギオを包囲し、尚武集団は最初の計画通りほとんど抵抗せずルソン北方の山岳地帯に後退し徹底持久態勢に入りました。そんな中、バギオからアパリへと向かう街道の要衝サラクサク峠では生き残った戦車第2師団が第10師団の応援を受け果敢に抵抗します。この時機動90式75㎜野砲と同じく75㎜砲装備の1式砲戦車が活躍し米軍の進撃をなんと3か月も防ぐという英雄的な防衛戦を演じました。結局全滅するものの日本機甲部隊の有終の美を飾るにふさわしい戦いぶりでした。
 
 
 一方、マニラ近郊では振武集団が上陸してきた米軍と死闘を演じていました。最初山下司令官は、マニラ防衛には兵力が不足なので無防備都市宣言を行いこれを放棄する方針でした。ところがマニラを守る海軍部隊が無傷で敵に渡すことに激しく抵抗、結局マニラは米軍との市街戦に突入します。第4航空軍司令官の富永中将も「多くの部下を特攻で死なせた今、マニラを離れるに忍びない」とこれに同調したと伝えられます。
 
 
 しかし、富永中将はいよいよマニラ陥落となるとさっさと台湾に敵前逃亡し部下を見殺しにするという醜態を晒します。このため戦後インパールの牟田口司令官とならび激しい非難の的となりました。結局マニラ市街戦で多大な損害を出した振武集団はかろうじて虎口を脱しマニラ東方山岳地帯に撤退します。マニラ陥落は1945年3月3日。
 
 クラーク飛行場群防衛を担当する建武集団は兵力が少ない事もあり、また航空兵力をあらかた壊滅させたことから米軍に南北から挟撃を受け壊滅的打撃を受けてマニラ西方沿岸の山岳地帯に後退しました。
 
 
 ジャングルに籠った日本軍はゲリラ戦で米軍に抵抗します。しかしこの時実働兵力は20%以下に落ち込んでいました。戦闘より飢餓や風土病で死ぬ者が続出したと伝えられます。マッカーサーは日本軍の掃討には多大な犠牲が生じることから、本格的な攻撃を避けました。
すでに3月26日には沖縄戦が始まっており米軍としては補給のための港湾と航空基地を確保した事で当初の作戦目的を果たしていたのです。
 
 こうしてフィリピンの第14方面軍は8月15日まで抵抗を続けます。終戦を知った山下方面軍司令官は山を降り米軍に降伏しました。下山後、9月3日バギオ基地において正式にマッカーサー司令部で降伏文書に調印。こうして日本軍の長く苦しい戦いは終わりました。
 
 
 マッカーサーは、開戦時自身が惨めにフィリピンを追われたことに激しい劣等感を感じていました。同時にシンガポール攻略という世界的な武勲を持つ「マレーの虎」山下奉文大将に嫉妬していたのです。戦犯裁判で、山下をなんとしても死刑にしたいマッカーサーは、シンガポールの華僑虐殺、マニラ大虐殺の責任を問い死刑を求刑しました。一方参謀長の武藤中将も開戦時の軍務局長だったことから東京に送られ東京裁判で開戦に関する罪で処刑されます。
 
 どちらも無理な罪状で、マッカーサーの私怨から行われた判決といっても過言ではないでしょう。1946年2月23日山下大将マニラにて絞首刑執行。1948年12月23日東京巣鴨プリズンで武藤中将、絞首刑。
 
 
 比島決戦日本軍参加兵力約40万、そのうち戦死・戦病死33万6千。多大な犠牲を払ってお国のために戦った英霊の遺志を我々は決して忘れては成りますまい。

比島決戦     ~ジャングルに散ったマレーの虎  前編 ~

 1944年7月、絶対国防圏の重要な一角であるサイパン島の日本軍が玉砕します。これにより日本の勝利は完全になくなりあとはいかに負けを小さくして講和するかにかかってきました。
 
 大本営は、アメリカ軍の次の侵攻目標としてフィリピン、台湾、本土、千島を想定しそれぞれ作戦計画を策定し捷号作戦(しょうごうさくせん)と名付けました。
 
 すなわち、
捷一号作戦…フィリピン方面
捷二号作戦…台湾、南西諸島
捷三号作戦…日本本土
捷四号作戦 …北海道、千島、樺太
です。
 
 このうち、一番可能性が高かったのはフィリピンでした。といいますのも南方資源地帯と本土を結ぶ途中にあるフィリピンを失陥すると日本は資源の供給を断たれ完全に干上がってしまうからです。
 
 
 大本営は、フィリピンを守備していた第14軍を第14方面軍に昇格させ満洲や支那戦線から優良師団を引き抜き戦いに備えます。海軍も唯一生き残った正規空母である瑞鶴を旗艦とする第1機動艦隊(司令長官【第3艦隊司令長官兼任】・小沢治三郎中将)と大和・武蔵を擁する戦艦部隊である第2艦隊(司令長官・栗田健夫中将)、重巡部隊を主力とする第5艦隊(司令長官・志摩清英中将)を投入しました。航空部隊も陸軍の第4航空軍(富永恭次中将)、海軍の第1航空艦隊(基地航空隊、寺岡勤平中将)を配し、まさに大東亜戦争の天王山とすべく覚悟を決めていたのでした。
 
 陸軍がいかに比島作戦に賭けていたかは第14方面軍司令部人事でも分かります。方面軍司令官に、開戦時マレー1千キロを踏破してシンガポールを落とし「マレーの虎」の異名を持つ第25軍司令官(当時)山下奉文(ともゆき)大将を起用し、方面軍参謀長にも切れ者と評判の開戦時の軍務局長である武藤章中将を任命しました。
 
 おそらくこれ以上は無いという人事で、4個しかない虎の子の機甲師団のうち戦車第2師団も満洲の関東軍から編入されました。
 
 
 比島決戦は、1944年10月10日台湾沖航空戦で火蓋を切られます。ハルゼー中将率いる第3艦隊(空母17隻をはじめとする95隻の大艦隊、航空機1000機)に対し、基地航空隊をはじめとする航空部隊を投入しこれを叩いたのです。
 
 米艦隊は激しく台湾を空襲しますが、これに対し我が軍は敢闘、10月19日までに空母19、戦艦4、巡洋艦7、駆逐艦他15隻を撃沈・撃破したと発表します。久々の大勝利に日本国内は沸き立ちますが、実は日本軍パイロットには新米が多く事実誤認をしたケースが多発し、実際は米軍に沈没艦なしという惨憺たる結果でした。
 
 
 幻の戦果に酔う大本営は、第14方面軍の山下司令官にレイテ島に上陸しつつあるマッカーサー率いる米上陸軍を叩くよう命令します。しかし、大戦果にもかかわらず一向に減らない空襲に山下司令官も武藤参謀長も報告に疑問を抱き当初の計画通り「ルソン島に主力を集め決戦に備えるべきだ」と反論しました。
 
 が、大本営は現地司令部の反対を無視しルソン島に兵力を送るよう強要しました。仕方なく山下司令官はレイテ島の防衛を担当する方面軍隷下の第35軍に増援として精鋭第1師団を送り込みます。この時は奇跡的に米軍の空襲も潜水艦の攻撃も免れ無傷で上陸することに成功しました。ところがその後送った第26師団と独立混成第68旅団は航空機と潜水艦の猛攻を受け兵器・物資の8割を失うという惨憺たる結果でした。
 
 実質レイテの第35軍は弱体化していた第16師団と第一次増援の第1師団のみで米上陸軍と戦わなくてはいけなかったのです。米軍はレイテ島にアイケルバーガー中将の第8軍(兵力20万)を投入します。
 
 
 最初に上陸した米第10軍団は、第1師団の奇跡的な防衛戦で防がれますが物量に勝る米軍は次第に圧倒、日本軍を西部山岳地帯に押し込め始めました。
 
 海軍も陸軍に呼応し作戦を開始ます。貴重な空母を持つ小沢艦隊が囮となって強大なハルゼーの機動部隊を北方に釣り上げそのすきに戦艦部隊である栗田艦隊がレイテ湾に突入しマッカーサーの上陸船団を叩くという計画でした。
 
 
 小沢艦隊は空母瑞鶴を失いながらも見事ハルゼー艦隊釣り上げに成功します。マッカーサーの輸送船団は丸裸になりました。ところが栗田艦隊はレイテ湾突入寸前謎の反転を行い千載一遇の好機を逃します。栗田の行動は戦後問題となりました。反転の理由は連日の航空攻撃(戦艦武蔵を失うほど!)で神経衰弱になっていたとも、輸送船団より空母艦隊の接近を知り(戦後これは誤報だったと分かる)そちらを優先したとも言わせますが、戦史上の謎となっています。
 
 日本側ではこの海戦をレイテ沖海戦(米軍呼称 サマール島沖海戦)と呼びます。台湾沖航空戦の誤報から始まったレイテ島の戦いは、勝機を完全に失ったまま絶望的な戦いが繰り広げられました。
 
 第35軍は、レイテ島の西北カンギポット山に立て籠もり抵抗を続けます。1944年12月15日、米軍はルソン島に隣接するミンドロ島に上陸を開始、レイテでの抵抗は無意味となりました。山下方面軍司令官は、12月25日第35軍に対し現地自活・持久戦を命じます。これは事実上の終局宣言でした。1945年1月、第1師団の生き残り800名がセブ島脱出に成功しますがそれ以後の撤退作戦は上陸用舟艇が空襲でやられたため中止されます。レイテ島で日本軍は実に8万近い戦死者を出しました。これは第35軍の総兵力の9割を超えほとんど全滅といって良い惨状です。
 
 
 戦いはいよいよルソン島に近づきつつありました。山下将軍はどのように抵抗するのでしょうか?後編では第14方面軍の激闘を描きます。

中世イスラム世界外伝Ⅱ  ムハンマド・アリーとマムルーク軍団の最期

 ムハンマド・アリー(1769年~1849年)は1953年ナセルたちにエジプト革命で滅ぼされるまで存在したエジプト最後の王朝ムハンマド・アリー朝の創始者です。
 
 彼の生年はナポレオン・ボナパルトと同年。生まれはアレクサンドロスと同じギリシャのマケドニア地方。「アレクサンドロスと同じ地でナポレオンと同年に生まれた」というのが彼の生涯の自慢でした。
 
 
 たいてい王朝の創始者にはドラマが付き物ですが、彼の場合も例外ではありません。出自はアルバニア人だといわれ、最初はアルバニア人非正規部隊に投じます。そこで頭角を現し部隊の副隊長まで出世しました。ある時アルバニア人部隊はオスマン朝の命令によりエジプトに派遣されます。
 
 おそらく現地のマムルーク軍団、そしてオスマン朝が派遣したイェニチェリ(オスマン朝の常備歩兵軍団)の駐屯部隊も次第に軍閥化し中央政府のコントロールが利かなくなった事による非常手段でした。アルバニア軍は非正規軍とはいえもともと兵士としての質が高かったのでしょう。混沌としたエジプトの状況を収めオスマン朝から派遣された総督を助けます。
 
 役に立たないオスマン朝の正規軍と共に、親英派マムルーク、反英派マムルークとの所謂カイロ暴動と呼ばれる騒乱を戦いぬきます。この時ムハンマドも軍功をあげました。そんな中1803年5月アルバニア軍の司令官ターへル・パシャが暗殺されます。その後任司令官に就いたムハンマドは、まずマムルークと協力してオスマン朝の派遣した総督を圧迫し、次にマムルーク内の対立を上手く煽ってカイロからマムルーク勢力を一掃します。
 
 さらにカイロ市民を扇動し、自分をエジプト総督に推挙させました。どういう経緯であれ一応エジプトの混乱を治めた事に変わりはありませんでしたから、オスマン政府もこれを嫌々ながら追認するしかありませんでした。
 
 
 こうして権力の座に就いたムハンマドは、しかしオスマン帝国から独立という選択はせず帝国内の有力諸侯として存在する事を目指します。これを心良く思わないオスマン政府はエジプトに野心を示すイギリスやフランスと協力しムハンマド追い落としを画策しました。
 
 しかし当時はナポレオン戦争の真っ最中。列強に本格介入する余裕がなかった事もムハンマドに幸いしました。ようやく1807年イギリスがエジプト遠征軍を派遣しますが、待ち構えていたエジプト軍に急襲され失敗。
 
 
 ムハンマドの勢力が侮りがたしと悟ったイギリスは、以後エジプトと協調体制を進めます。次にオスマン政府が打った手はムハンマドにアラビア遠征を命じる事でした。
 
 当時のアラビア半島は、メッカに本拠を置く第一次サウード王国(現在のサウジアラビア王家の遠い先祖)が反乱をおこしオスマン朝のアラビア半島支配を脅かしていました。オスマン朝政府としては毒をもって毒を制すという巧妙な方策だったと想像されます。
 
 ところがムハンマドの方が一枚上手でした。これを奇貨として向背定かでないマムルーク勢力の排除に利用しようと考えたのです。
 
 
 1811年3月11日、ムハンマドは「オスマン政府の命令によりアラビア遠征に行く事になった。その出陣式を行うからぜひ出席してほしい」とマムルーク幹部たちに招待状を出します。ムハンマドが子飼いのアルバニア軍だけではなく自分たちにも協力を求めた事に気を良くしたマムルークたちは晴れ舞台に着飾って城門をくぐりました。
 
 
 ところが行列の最後尾が過ぎると突如城門は閉じられました。さらに前方の城門も閉じられます。マムルークたちに混乱が起こると城壁に隠れていたライフル兵たちが姿を現し頭上から弾丸を浴びせかけます。マムルークたちはなすすべもなく殺されていきました。この一方的虐殺でエジプトに長年猛威をふるってきたマムルーク勢力は完全に滅ぼされます。世にシタデレ(城塞)の惨劇と呼ばれる事件でした。
 
 
 主だった幹部を殺されたマムルークたちは、ムハンマドの派遣した軍の前に次々と拠点を落とされ1812年までにエジプトは完全にムハンマドの制圧下に入ります。この日を持ってムハンマド・アリー朝の成立とする史家もいるほどです。
 
 
 エジプトを完全に掌握すると、ムハンマドはオスマン朝のためというより自分の勢力を拡大するためにアラビアに遠征、1818年サワード王国を滅ぼし半島の西半分を制圧します。1820年にはスーダンにも勢力を拡大し大帝国を築きあげました。1822年、オスマン朝の要請でギリシャ独立戦争に介入。その出兵の代償にシリアの行政権を要求するなどエジプトは国家内国家としての様相を呈してきました。このまま進めばムハンマド・アリーがオスマン朝を滅ぼして新たな帝国を建設するのも夢ではなくなります。
 
 
 ところがムハンマドの勢力拡大を望まないヨーロッパ列強は1840年ロンドン会議でムハンマドの子孫にエジプト支配権を認める代わりにシリアを放棄させます。
 
 その後イギリスは、エジプトに対し治外法権の承認、関税自主権の放棄などの不平等条約を強大な軍事力を背景に認めさせ植民地化への道を進めます。
 
 ムハンマド・アリーの最後はイギリスの横暴に苦しめられる失意の晩年だったと言えます。ただイギリスの保護国とはいえムハンマド・アリー朝は20世紀まで生き延び1953年自由将校団が主導するクーデターで滅ぼされるまで続きました。

中世イスラム世界外伝Ⅰ  ナポレオンのエジプト遠征

 西アジアを中心にしたイスラム世界が終わりを遂げたのはアナトリアに勃興したオスマントルコがビザンツ(東ローマ)帝国を滅ぼした1453年でした。
 
 西洋でルネサンスが起こり近世が始まったのと同様イスラム世界でも近世を迎えます。といってもこちらは輝かしい歴史ではなく現在まで至る停滞の歴史でした。この時期を境に西洋とイスラムの力関係が逆転したと言っても過言ではありません。ただしオスマントルコのように二度に渡ってウィーンを包囲するほど強勢を誇った国家はありましたが。
 
 
 エジプトにおいてもマムルーク朝がオスマン朝に滅ぼされたのが1517年。とはいっても滅ぼされたのはスルタンとそれに従ったマムルークたちだけで、いち早く国家の滅亡を悟りオスマン軍に寝返ったマムルークたちはそのまま残りました。
 
 オスマン朝が派遣したエジプト総督はイェニチェリ(オスマン朝の常備歩兵軍団、マスケット銃で武装していた)とともに乗り込みます。しかし降伏したマムルーク軍団の幹部たちを排除はせずエジプト各地の県知事に任命するなど権力はそのまま残りました。
 
 イェニチェリにしてもマムルークにしても国家が士官学校を創設して将校を養成し任命し管理するような近代的軍隊ではなくそれぞれが自立し勝手に徴兵し軍幹部はその中から選ばれるという仕組みでしたからオスマン本国のみならずエジプトでもそれらが軍閥化するのは時間の問題でした。
 
 オスマン朝の力が強かった時は問題はそれほど表面化しませんでしたが、王朝の力が衰えるとエジプトは軍閥化したマムルークや駐屯イェニチェリ軍団が支配する無法地帯と化していきました。本国から派遣される総督は名ばかりの存在となり気に入らない総督が来ると本国政府の高官に賄賂を贈り交代させるなどということは日常茶飯事となっていきます。
 
 そして19世紀。欧亜にまたがる大帝国を築いたオスマントルコも衰退し代わって西洋列強が台頭しました。「ヨーロッパの病んだ巨人」と言われたオスマン朝はこれら列強から領土を蚕食されていきます。
 
 エジプトも例外ではなく、まずイギリスがついでフランスが進出してきました。そしてエジプトの衰退を決定的にしたのは1798年ナポレオンによるエジプト遠征です。
 
 
 ナポレオンの目的はイギリスとインドとの連絡を断つ事でした。インドもオスマントルコと同様列強の餌食となりイギリスの重要な植民地となりつつありました。その連絡を断つとともにあわよくばインドをフランスの植民地として奪える可能性さえあったのです。
 
 エジプト遠征は、ナポレオンが総裁政府に強く訴えたものだったそうです。ナポレオン率いる5万のフランス軍はネルソン提督率いる英艦隊の監視をかいくぐり1798年エジプトに上陸します。翌日にはアレクサンドリアを占領しました。
 
 フランス軍はエジプトの首都カイロを目指して南下します。この時ばかりは日頃の権力争いも忘れマムルークたちは結束してフランス軍に当たります。しかし7月21日カイロに近いナイル河畔のエムバべでフランス軍に鎧袖一触。これが有名な「ピラミッドの戦い」です。
 
 7月25日、フランス軍カイロ入城。エジプトはフランスの制圧下に置かれたかに見えました。ところがネルソン提督率いる英艦隊がナイルの海戦でフランス艦隊を殲滅、フランス軍の補給路を断ちます。さらに上エジプトに逃げていたマムルーク軍団も陣容を立て直しフランス占領軍に抵抗しました。イギリスはオスマン朝や現地エジプトのマムルークに秘かに援助を与えナポレオンを苦しめます。
 
 
 フランス占領下の都市でも住民の抵抗運動が起こり、これに対して占領軍は弾圧で臨みました。「エジプトをマムルークの圧政から解放する」という大義名分とは異なりフランスはエジプト人に重税をかけさらに圧政を敷きす。これでは占領地を保つ事はできません。さらに悪い事にはイギリスの援助を受けたオスマン正規軍がシリアに進出しフランス軍を追い落とそうと接近しつつありました。ナポレオンはシリアや上エジプトに部隊を派遣しますがことごとく失敗、1799年8月22日エジプトのアブキールでオスマン軍を破るとナポレオンは側近だけを従えてさっさとフランス本国に帰還してしまいました。
 
 
 取り残されたフランス軍は哀れでした。1801年まで戦い続けますが結局イギリス・オスマン朝連合軍に降伏、生き残った1万5千の将兵はフランスにやっと帰国できました。
 
 
 フランスにとってエジプト遠征は徒労だけ多く得るものが全くない戦いでしたが、軍に同行した学者団が有名なロゼッタストーンを発見するなど文化的に意味があったのはせめてもの救いでした。
 
 
 そしてエジプトも戦乱で荒廃しました。フランス軍撃退後イギリスはますますエジプトにおける影響力を増します。オスマン朝の威令は有名無実のものとなりマムルーク軍閥はますます増長しました。この混沌とした状況を打破するには外部からの力しかありません。
 
 
 それは風雲児ムハンマド・アリーという人物によってしか成されませんでした。しかしこれは果たしてエジプト国民にとって良かったのか悪かったのか…。歴史家にとっても評価が分かれるところでもあります。

中世イスラム世界Ⅸ  マムルーク朝

 ここまで長々と書いてきた中世イスラム世界、最後を飾るのはエジプトのマムルーク朝(1250年~1517年)です。
 
 実はマムルーク朝はモンゴルが作ったと言われたらどう思われるでしょうか?
 
 マムルークとはイスラム世界における軍人奴隷のこと。といっても我々が考える奴隷とはちょっとニュアンスが違っていてお金で雇われた傭兵という方がより実態に近いかもしれません。
 
 
 最初に、マムルーク朝がモンゴルによって作られたという理由を話しましょう。マムルークというのは主にトルコ系が多かったのですが、モンゴルのチンギス汗が中央アジアから西アジア、ロシアを攻め滅ぼした過程でこの土地に住む多くの遊牧民がモンゴル軍に捕えられ奴隷として売られます。これらはシリアやエジプトのイスラム諸国が主に購入しマムルークとして採用します。ですからこれがエジプトにマムルークが大量に存在する理由でもあり、ステップ地帯出身のマムルークたちの多くは親族を殺されモンゴルに恨みを持っていた者が多かったのです。
 
 話はアイユーブ朝末期にさかのぼります。第7代スルタン、サーリフ(在位1240年~1249年)にシャッジャル・アッドゥールという美しい后がいました。彼女はキプチャック草原のクマン族(トルコ系民族)出身で奴隷として仕えていたところをサーリフに見染められ側室となりました。いやイスラム教では4人まで妻を持てるので正妻の一人といってよいかもしれません。
 
 聡明で顔立ちもたいそう美しかったそうですが、その内面は激しい性格で気が強かったといわれます。サーリフの寵愛を一身に集めていましたが自ら産んだ男子ハリールは夭折してしまいます。
 
 夫サーリフが亡くなると、彼女は夫の遺言を尊重し別の妻が産んだトゥーラーン・シャーを後継ぎにします。そのころエジプトはフランスのルイ9世率いる第7回十字軍の侵攻を受け苦しめられていました。彼女は夫の急死を隠しまだ生きている事にして戦争を指導したそうです。なんとかルイ9世を撃退したエジプト軍でしたが、頼りないトゥーラーン・シャーを見限りマムルークたちはシャッジャル・アッドゥールを支持しました。彼女が自分たちと同族のクマン族出身だという事もあったのでしょう。
 
 
 彼女は、マムルーク軍団の力を背景に1250年トゥーラーン・シャーを殺しアイユーブ朝を滅ぼしました。イスラム世界でも珍しい女性君主の誕生でしたがアッバース朝のカリフはこれを激しく非難します。イスラム世界で女性君主でしかも簒奪王朝だという事は世間から嫌われました。
 
 そこで彼女はマムルーク軍団の長アイバクと再婚し共同統治者とします。歴史上はアイバクをマムルーク朝初代とする説が多いですが、実質的な創始者はシャッジャルでした。
 
 
 ところがアイバクは、マムルーク軍団の主力バフリー・マムルーク出身でなかったためその指導者アクターイと対立します。アイバクは自己の権力を強めるため1254年子飼いのマムルークを集め腹心のクトゥズに命じてアクターイを殺害します。バフリー・マムルークの有力武将バイバルスらは後難を恐れてエジプトを脱出しました。
 
 アイバクは、次第にシャッジャル・アッドゥールとも対立を深め彼女に殺されます。ところがアイバクに代わって権力を握ったクトゥズは1254年シャッジャルの入浴中に刺客を放って暗殺しました。しょせん権力欲だけの結びつきだったのでしょう。野望に燃えた彼女の最期は哀れでした。
 
 
 クトゥズはアイバクの子で第3代スルタンのマンスール・アリーを廃し第4代スルタンに就任します。ところがその頃西アジアにはフラグ率いるモンゴル軍が猛威をふるっていました。1258年バグダードを落としてアッバース朝を滅ぼすとその矛先はシリア・エジプトへ向けられます。
 
 
 この未曽有の危機に、クトゥズは対立してシリアに逃げていたバフリー・マムルークの指導者バイバルスと和解し共同してモンゴル軍に対抗しました。マムルーク軍中にはモンゴル軍に親兄弟を殺された者が多かったため復讐心に燃えてモンゴル軍に当たったといいます。またもともとが遊牧民族出身のマムルークたちはモンゴル軍の戦い方を熟知していました。
 
 
 1260年、フラグの武将キト・ブカ率いるモンゴル軍が来襲するとエジプト軍はこれをパレスチナのアインジャールートで迎え撃ち、バイバルスの活躍もあって撃退に成功します。ところがクトゥズはバイバルスをアレッポの太守にするという約束を反故にします。これに怒ったバイバルスは帰還の途中クトゥズを暗殺しました。
 
 
 そのままカイロに入城したバイバルスはマムルーク朝第5代スルタンに就任します。バイバルス(在位1260年~1277年)は有能な君主でした。1261年アッバース家のカリフの一族がエジプトに逃れて来るとこれを名目上のカリフの祭り上げ自分はその下で実際の権力を行使しました。外交でも正統カリフを頂く事を最大限に利用します。内政面においては駅伝制を確立し流通と情報を支配しました。
 
 
 バイバルスはエジプトを窺うフラグのイル・ハーン国、十字軍を相手に獅子奮迅の活躍をし自国を守り抜きます。とくに1273年エルビスタンの戦いでモンゴル軍を破り侵略の意図を完全に挫いた事は大きかったと思います。同年、戦勝祝いの馬乳酒の飲み過ぎで体を壊し死去。享年50歳。
 
 
 マムルーク朝はバイバルスの時代に基礎が固められました。以後200年続きます。ところでマムルーク朝は軍事国家らしくスルタン位を世襲した例は数えるほどしかありません。ほとんどのスルタンは実力で権力を奪取しました。そのため血生臭い政争が後を絶たずあまり明るい印象を与えません。
 
 
 そして15世紀、ペストの流行で国力を衰えさせたマムルーク朝は、アナトリア半島(小アジア)に興った新興のオスマントルコの挑戦を受けます。かつてモンゴル軍と互角の戦いを演じたマムルーク軍団はこの時完全に時代遅れになっていました。
 
 
 オスマントルコは遊牧民族でありながらイェニチェリという歩兵軍団と騎兵を巧みに機動させる新しいタイプの軍隊でした。当時イェニチェリがマスケット銃をどこまで装備していたかわかりませんが(16世紀に普及しはじめる)、1516年北シリアのアレッポでセリム1世率いるオスマン軍の前に完敗。オスマン軍はそのままエジプトに侵攻しマムルーク朝は滅びました。
 
 
 王朝は滅びてもマムルークが壊滅したかというとそうでもなく、しばらくはオスマン朝総督指揮下の軍隊として続きます。完全に滅び去ったのはアルバニア出身の風雲児ムハンマド・アリーがエジプト総督になってからです。軍隊としては古すぎて役に立たず、政治勢力として厄介な存在になっていたマムルークに対しアリーは1811年アラビア遠征軍任命式を行うとマムルークたちを居城におびき寄せ待ち構えてことごとく殲滅しました。
 
 
 その頃オスマン帝国でも軍隊としては旧式化し政治勢力として国家の癌となっていたイェニチェリ軍団も同じような方法で滅ぼされました。(1822年)戦いの勝者と敗者が似たような経緯を辿りほぼ同時期に滅ぼされるのは大いなる歴史の皮肉ですね。

中世イスラム世界Ⅷ  アイユーブ朝 と英雄サラーフ・アッディーン  後編

 ユースフがファーティマ朝の宰相に就任した1169年をアイユーブ朝の開始とする説があるそうです。
 
 勇敢で激しい性格だったシール・クーフに代わって無口でおとなしいユースフが宰相に就任した時、ファーティマ朝のカリフは御し易いと思ったそうです。ところがそれは致命的な思い違いであった事に間もなく気付かされます。
 
 カリフは、側近とユースフを亡きものにする陰謀をめぐらしていました。ところがユースフはそれを素早く察知し実行犯の宦官を捕え処刑します。そこでカリフは実力でユースフを除こうと黒人の親衛隊5000を使って首都カイロ(当時はフスタート)でユースフ配下の軍と壮絶な市街戦を演じました。この戦いでカリフの勢力を完全に駆逐したユースフは彼を幽閉します。失意の中ファーティマ朝最後のカリフ、アーディッドは1171年病死しました。
 
 1171年8月10日、金曜日の集団礼拝の説法(フトバ)はバグダードの正統カリフの名で行われました。ユースフによるスンニ派回帰宣言です。シーア派のファーティマ朝は完全に滅亡したのです。この日を持ってアイユーブ朝が誕生したといっても良いでしょう。
 
 ユースフは、アーディッドの幼い子供たちを軟禁して外部との接触を断ちます。サラーフ・アッディーンとはアラビア語で『信仰の公正』という意味だそうですが、その名の通りユースフはイスラム国家を統一し異教徒十字軍を中東世界から駆逐する事を生涯の目標としました。ユースフは大国エジプトの主となったのちも清貧に甘んじ身を慎んだといわれています。
 
 
 エジプトで着々と実力を蓄えるユースフに対し、主君ヌール・ウッディーンは警戒します。自身の十字軍との戦いに従軍を求めたところユースフが断ったので両者の関係は完全に決裂しました。1174年、ヌール・ウッディーンはついにユースフ討伐を決意します。そしてエジプト遠征軍を組織中に熱病にかかり急逝しました。享年56歳。
 
 
 もし両者の対決が実現していたらどうなっていたでしょうか?私は軍事的才能ではヌール・ウッディーンが一枚上手だったような気がします。ユースフにとって主君の死は複雑な思いだった事でしょう。はたして本当にユースフはヌール・ウッディーンに敵対する意思があったかどうか?一説では遠征に先立ってイエメンを征服したのは万が一の時の逃亡先を確保したのだとも云われています。
 
 
 ともかく両者の対決は実現しませんでした。ユースフはそのままシリアに入り、幼い子供が後を継いでいたザンギー朝を併合します。
 
 
 1187年、ユースフは十字軍の停戦協定違反を責めエルサレム王国に侵攻します。同年7月有名なヒッティーンの戦いで十字軍を粉砕すると10月にはイスラム教徒にとっても聖地だったエルサレムを奪回しました。
 
 しかしこれを契機にして1189年第三回十字軍が結成されます。イギリスの獅子心王リチャード1世とサラーフ・アッディーンとの死闘は語り草になりました。両者は一進一退の攻防を繰り返し1192年ようやく和睦します。
 
 この戦いで十字軍の完全な駆逐はできませんでしたが、その勢力を地中海沿岸の狭い地域に押し込めることに成功し、ほぼ無力化しました。
 
 翌1193年、十字軍との戦争で精根尽き果てたのかユースフ・イブン・アイユーブはダマスクスでその波乱の生涯を終えました。享年55歳。
 
 
 
 以後のアイユーブ朝の歴史を簡単に書き記しましょう。偉大なるスルタン、サラーフ・アッディーン(ユースフ)の死後次男のアル・アジーズが継ぎます。しかし他の兄弟たちとの間に後継者争いが起こり1198年不慮の死を遂げました。
 
 アジーズの死後、ユースフの弟(アジーズの叔父)アル・アーディルが実権を掌握し1202年スルタンとして即位しました。アーディルはキリスト教徒との融和政策を取り、とくにヴェネティアとの海外交易を奨励します。こうして一時平和が訪れました。
 
 ところが1218年には第5回十字軍が来襲。間の悪い事にアル・アーディルは心臓発作で死去しました。後を継いだ息子のアル・カーミルは巨大な王国を完全に掌握できず一時十字軍に対して劣勢に立ちました。1221年ようやく反抗に転じますが、一族の間で内紛が起こり1228年エルサレムを十字軍に譲渡することで和睦しました。
 
 これがイスラム教徒の反発を呼びアイユーブ朝の求心力は急速に失われていきます。1238年カーミル死去。一代置いてカーミルの次男サーリフ(在位1240年~1249年)が第7代スルタンを継ぎました。
 
 エルサレム奪回は1239年ですから、まだ即位する前だと思いますがサーリフによってようやく成されたわけです。しかしこの頃からアイユーブ軍の主力は軍人奴隷のマムルークが占めるようになり次第に発言権を増してきます。
 
 1250年、アイユーブ朝最後のスルタン、トゥーラーン・シャーが先代スルタンの后シャッジャル・アッドゥールと組んだマムルークたちによって殺害され、王朝は滅亡しました。
 
 以後エジプトは、軍人奴隷マムルークが支配するマムルーク朝が興り1517年オスマントルコに滅ぼされるまで続きます。
 

中世イスラム世界Ⅷ  アイユーブ朝 と英雄サラーフ・アッディーン  前編

 セルジューク朝の将軍でザンギー(1087年~1146年)という人物がいました。1127年イラク北部のモスル太守に任命されたのを皮切りに実力を蓄えセルジューク朝の混乱をみてシリアに進出、ザンギー朝を建国します。
 
 ザンギーは若いころ政争に敗れ逃亡している時、イラク中部ティクリートの代官ナジム・ウッディーン・アイユーブの元へ逃げ込みます。アイユーブはこれを温かく迎え匿いました。その後ザンギーが自分の王朝を建国すると、今度はアイユーブの弟シール・クーフが誤って人を殺め一族はイラクに居れなくなりました。
 
 昔の恩義を忘れなかったザンギーは、アイユーブの一族を迎え入れレバノン高原北部の神殿遺跡で有名なバールベックの太守に任命しました。以後アイユーブの一族はザンギーに有力な家臣として仕えます。
 
 ザンギーはアイユーブ一族の活躍もあり1144年十字軍国家の一つエデッサ伯領の首都エデッサを落とすなど一躍反十字軍の英雄として躍り出ました。しかし1146年ザンギーは暗殺されてしまいます。ザンギーの死後王朝は二つに分かれ、モスルと北イラクは長男のサイード・ウッディーン・ガーズィーが、シリアは次男のヌール・ウッディーン・マフムード・ザンギー(在位1146年~1174年)が受け継ぎました。
 
 アイユーブ一族は引き続きヌール・ウッディーンに仕えます。このヌール・ウッディーンは王位を継いだ時28歳でしたが、父ザンギーを超える英雄で1149年十字軍国家アンティオキア公国のレイモンド・ポワティエを敗死させ1150年にはエデッサ伯国を滅ぼします。そして1154年父ザンギーがついになしえなかったダマスクスを奪取、首都と定めます。
 
 十字軍の侵略に苦しめられていたイスラム諸国にとってヌール・ウッディーンは救世主とも崇められました。この声望を聞いて十字軍国家エルサレム王国の侵略に悩んでいたエジプトのファーティマ朝は、ヌール・ウッディーンに援軍を要請します。
 
 これに対しヌール・ウッディーンは1163年腹心のシール・クーフとその甥ユースフ(アイユーブの息子)に軍隊を授けエジプトに送り込みました。ところが援軍が着いてみるとエジプトは親エルサレム派と親ザンギー派に分かれて内部抗争の真っ最中でした。反対派がエルサレム軍を引き入れたりしたため当然援軍は上手くいかずこの時は撤退します。
 
 1167年、ヌール・ウッディーンは再びシール・クーフを大将とするエジプト遠征軍を送りだしました。反対派がエルサレム軍を引き入れていたためエジプト・エルサレム連合軍対ザンギー軍の戦いになります。今回は十分に準備していたため激戦の末ザンギー軍が勝利、そのままアレクサンドリアに入城しました。
 
 
 しかし、シール・クーフが上エジプトへ偵察に行った隙を衝いてエジプト・エルサレム連合軍がアレクサンドリアを囲みました。わずかな留守部隊を率いていたのはユースフ。ユースフは巧みな防戦で三カ月の包囲を耐え抜き停戦交渉に入りました。
 
 ザンギー軍、エルサレム軍ともにエジプトから退去するという事で交渉はまとまります。またしても遠征失敗でした。ただこの戦いでザンギー朝にユースフありと評判が高まります。
 
 勘の良い読者なら既にお察しでしょうが、このユースフ・イブン・アイユーブこそ後にエジプト・シリアにアイユーブ朝を開くサラーフ・アッディーン、西洋でいうところのサラディンその人です。
 
 
 1169年、ヌール・ウッディーンは三度エジプト遠征軍を組織します。まさに執念ともいえるものでしたが、親エルサレム派の首魁ファーティマ朝の大臣ディルガムはこの戦いで敗れ殺されました。
 
 ザンギー軍はエジプトへ入城しシール・クーフはファーティマ朝の宰相に任命されます。ファーティマ朝のカリフは実権を失いただの飾り物になりました。ところが得意の絶頂にあったシール・クーフは1169年3月23日食べ過ぎが原因で急死してしまいます。
 
 
 叔父の死から三日後、ユースフはファーティマ朝の宰相(ワジール)に就任しました。この時31歳。大国エジプトの権力を一手に握る事になったユースフは今後どのような統治をするのでしょうか?そして主君ヌール・ウッディーンとの関係は?
 
 
 次回、サラーフ・アッディーンの覇業と十字軍との戦いを描きます。

中世イスラム世界Ⅶ  ホラズム・シャー朝

 ホラズム、アラビア語でフワーリズムというのは地名です。アラル海に注ぐ大河アムダリアの下流に当たるデルタ地帯を指します。このあたりは肥沃で紀元前から農耕が発達し当時の遺跡も数多くあります。ホラズム南東に隣接するソグディアナのソグド人と同様アーリア系民族だったと考えられます。
 
 中央アジアの先進地帯のひとつで豊かだった一方、周辺の遊牧民族からしばしば略奪や侵入をうけました。歴史上ホラズムという国名が有名になったことが一度だけあるのですが、その支配民族はホラズム人ではなくトルコ人でした。
 
 ホラズムを建国したのはセルジューク朝に仕えたトルコ人の将軍クトゥブッディーン・ムハンマドです。1097年ホラズム総督に任命されたクトゥブは、ホラズム・シャー(ペルシャ語で王の意味)を自称します。
 
 最初はセルジューク朝の力が強かったため服従の姿勢を示していましたが、2代シャー、アトスズの時代セルジューク朝が衰えたのを見て1135年自立の構えを見せます。しかし衰えたりとはいえセルジューク朝はまだまだ強力でスルタンのサンジャルは討伐軍を送ってこれを鎮圧します。
 
 こうして再び服属したホラズムですが、中央アジアに契丹族の西遼(カラ・キタイ)が進出してくるとこれと秘かに結んでセルジューク朝と対抗しようとしました。1141年、サマルカンド近郊のカトワーンでサンジャルが西遼軍に敗北するとホラズムは完全に独立を果たします。
 
 
 しかし状況は甘くなく、今度は西遼がこの地に進出しホラズムは屈服して属国となりました。1172年後継者争いが起こりアラー・ウッディーン・テキシュがこれに勝利して第5代シャーを継ぐと、1194年からイラン高原に進出を開始します。西遼の支配は緩やかなもので貢納金を収めればよかっただけでしたので、西遼自体が衰退してくると自然独立できたのです。西遼も再びホラズムを攻めて服属させる力はありませんでした。
 
 
 1194年分裂したセルジューク王朝の一つイラク・セルジューク朝のトゥグリル2世を破って滅ぼすと、アッバース朝カリフはテキシュを正式にスルタンとして承認します。こうしてホラズムは自他共に認める大セルジューク朝の後継者となりました。
 
 1200年、テキシュが亡くなると後を息子のアラー・ウッディーン・ムハンマド(在位1200年~1220年)が継ぎます。このムハンマドの時代がホラズム朝の絶頂期でした。アフガニスタンから北インドにまたがるゴール朝の侵略を撃退すると、逆にゴール領内に攻め込みアフガニスタンの重要都市へラートやバルフを占領します。旧宗主国の西遼にも戦いを挑みここでは一敗地に塗れますが、西遼の簒奪を企むナイマン族のクチュルクが協力を要請するとこれと同盟し再び西遼を攻めました。今度は西遼の領土の一部を併合します。
 
 
 1212年ムハンマドは、それまでの首都ホラズムの中心都市だったウルゲンチからサマルカンドへ遷都しました。ここはシルクロードの要衝で、ムハンマドが大帝国を建設しようとした意図が窺われます。1215年にはゴール朝を滅ぼし、イラン高原へ進出してアッバース朝カリフを圧迫しました。
 
 まさに得意の絶頂にあったムハンマドですが、この頃東アジアではモンゴルのチンギス汗が台頭していました。最初東西の二大強国は交易関係を結ぼうとします。ところが交易品に目がくらんだホラズムのオトラル太守がモンゴルの使節団を殺害し財宝を奪うという事件が起こりました。
 
 これに怒ったチンギス汗は詰問の使者をムハンマドに送りますが、ムハンマドが犯人引き渡しを拒んだため1219年チンギス汗は二十万の大軍を率いてホラズムに攻め込みました。
 
 
 と、ここまでは公式の話。元朝秘史などに紹介されている話ですが、東洋史家の杉山正明氏によると大軍の遠征には何年も準備が必要で、事件が起こったからといってすぐ出発できるものではないとの事。とくにモンゴルは遠征に何年も準備をかけるので、このエピソードは怪しいと著書で述べられています。
 
 実際、チンギス汗は早くからホラズム領を窺い侵略の機会を待っていたのではないか?という考察です。平和的な交易使節団ではなく、やはり何らかのスパイ活動がありオトラル太守はそれを摘発したのだろう、と。私も同感です。いくら太守が無能でも財宝に目が眩んだからといって使節団を殺すでしょうか?そんな事をしたら大事件になり戦争が起こると云うのに…。
 
 
 モンゴル軍は怒涛の勢いでホラズムに攻め込みます。ホラズム軍の主力はトルコ人マムルーク(軍人奴隷)の騎兵でしたが、モンゴル軍と正面からぶつかったという話は聞きません。それだけモンゴル軍の侵攻が急だったということかもしれませんが、ムハンマドはサマルカンドやブハラなどの大都市に籠城する策を採ります。ある説では、ホラズム軍は遊牧民族の寄せ集めの兵だったためモンゴルへの寝返りを恐れていたとも云われます。
 
 モンゴル軍は騎兵なので何年もかかる籠城戦には耐えられないだろうという読みでした。ところがモンゴル軍は征服した農耕民族の兵士も多数加えており攻城兵器も豊富に持っていました。サマルカンド、ブハラは火の出るようなモンゴル軍の攻撃で次々と陥落します。モンゴル軍は降伏する都市には寛大でしたが、ひとたび反抗したら容赦しませんでした。
 
 サマルカンドやブハラは徹底的な破壊を受け、数十万の住民は役に立つ職人だけを残してことごとく虐殺されました。サマルカンドの旧市街はこの時破壊され二度と復活する事はありませんでした。ホラズムの旧都ウルゲンチも水攻めを受け壊滅します。
 
 たまらずムハンマドは逃げ出し、イラン方面に向かいました。チンギス汗は追撃部隊を送りムハンマドを追わせます。追い詰められたムハンマドはカスピ海南岸のエルブルズ山脈を越えカスピ海上の孤島に逃れました。1220年12月、ムハンマドはこの島で寂しく世を去ります。ホラズム朝はこの時一旦滅亡しました。
 
 
 しかし、ホラズムの抵抗運動は続きます。父ムハンマドと別行動を取った王子ジェラール・ウッディーンは手勢を率いアフガニスタンの山中に向かいました。モンゴルの将軍シギ・クトク率いる3万の軍をアフガン山中に誘い込みこれを撃破します。負け続きのホラズム軍で初めての大勝利でした。しかしこれで逆にモンゴル軍の目標になりチンギス汗はジェラール・ウッディーン追撃戦を自ら指揮します。
 
 インダス河畔に追い詰められたジェラール軍は、絶体絶命の窮地に陥りました。しかしジェラールは突如馬を河中に躍らせインダス河を渡りはじめます。部下たちもこれに続きました。
 
 チンギス汗は、ジェラールの武勇に感心しあえて追撃の矢を射させなかったそうです。
 
 
 モンゴル軍が東に去ると、インドに逼塞していたジェラールは再び活動を再開させます。イラン高原に秘かに舞い戻ったジェラールはこの地で挙兵しモンゴルの留守部隊を駆逐しました。ジェラールはイスラム諸国へモンゴルへの共闘を持ちかけますが、ホラズム自体が自分たちへの侵略者だったので誰も信用しませんでした。
 
 そんな中、チンギス汗の後を継いだオゴタイは1231年ジェラール・ウッディーン追討軍をイランに派遣します。モンゴル軍襲来を知ったアゼルバイジャンの住民たちはことごとくジェラールから離反しモンゴル軍との決戦にも敗北しました。ジェラールは再び逃亡を余儀なくされます。
 
 ジェラールは東アナトリアの山中をさまよっていた時、恨みを持つクルド人に捕えられ殺されてしまいました。一度は再興したかに見えたホラズム朝は英雄の死と共に完全に滅亡します。

中世イスラム世界Ⅵ  セルジュークトルコ帝国

 セルジュークトルコ帝国、後にアナトリアに分裂した後のルームセルジューク朝があるので、それと区別するために大セルジューク朝ともいいます。
 
 アラブ人が興したイスラム帝国が変質したのは、東方からトルコ人が大挙して流入してきたからです。もともとはマムルーク(軍人奴隷)としてアラブ世界に雇われたトルコ人たちは次第に実力を蓄え主家の実権を握ったり、甚だしい場合は主家を倒して自らの王朝を建国したりしました。
 
 アッバース朝の支配が崩れ西アジア各地で軍閥が勃興し勝手に国土を切り取り始めたのがきっかけでした。サーマン朝然り、ブアイフ朝然り。
 
 
 セルジューク朝を建国したトルコ人たちは、最初中央アジアのサーマン朝に仕えます。彼らは突厥の西遷にくっついてきた連中で、10世紀ころにはアラル海東方の草原地帯にいました。この地にもイスラム教は浸透していましたからトルコ人たちは自然とイスラム教に改宗しました。
 
 
 この遊牧トルコ系民族でありながらムスリム(イスラム教徒)になった連中をペルシャ語でトゥルクマーンと呼ぶそうですが、11世紀初頭サーマン朝に仕えるトゥルクマーンたちの中でセルジューク家に属する者たちの一部4000家族は、サーマン朝を見限ってアムダリア(アム川、アラル海にそそぐ大河)を渡りガズナ朝のマフムードに仕えます。
 
 しかし彼らの実力を恐れたマフムードはトゥルクマーンたちを幽閉してしまいました。一方、サーマン朝に残った者もいて彼らは指導者にトゥグリル・ベグを選出します。サーマン朝は中央アジアに興ったイスラム教徒のトルコ人遊牧国家カラハン朝と対立し999年滅亡しました。
 
 
 トゥグリル・ベグは、配下の遊牧民たちをまとめ新天地を求めてイラン高原へ進出しました。まず高原の入口に近いアラル海南岸のホラズム地方を1042年占領。ホラズムを根拠地としイラン高原北東のホラサン地方に侵入しました。1050年にはイラン高原の重要都市イスファハーンを手中にします。トゥグリル・ベグはこの頃からスルタンを称し始めていたようです。
 
 セルジュークのイラン高原進出は、必然的にこの地方を支配するガズナ朝との対決となりました。さらにその西にはブアイフ朝が盤踞しており、トゥグリル・ベグはこれらの国々と対決するためにも大義名分が欲しかったのです。そこで目をつけたのがバグダードのアッバース朝カリフでした。彼はカリフに使者を送りあくまで自分はカリフの擁護者でありカリフに仇なす者たちを討っているのだと主張します。カリフにとって世俗の支配者が誰になっても変わりませんでした。その時々の実力者に権威を与える事で生き残りを図ったのです。
 
 両者の利害は一致し、セルジューク軍は1055年バグダードに入城します。トゥグリル・ベグはセルジューク朝の初代スルタン(在位1038年~1063年)として象徴としてのカリフを頂きメソポタミアとイラン高原を支配する大帝国を築きあげました。かつてインド亜大陸に進出するほど強勢を誇ったアフガニスタンのガズナ朝はセルジューク朝に圧迫され12世紀には臣従することになります。一方、ブアイフ朝は1062年最後の拠点イラン南西のファールス地方を落とされ滅亡しました。
 
 1063年トゥグリル・ベグが病没すると甥のアルプ・アルスラーン(在位1064年~1072年)が2代目スルタンを継ぎます。このアルスラーンの時代がセルジューク朝の絶頂期でした。1070年エジプトのファーティマ朝からシリア北部(アレッポなど)を奪い、ビザンツ帝国にはアルメニアのマラーズゲルドの戦いで勝利しました。
 
 
 ビザンツ帝国はこの敗北でアナトリア半島(現在のトルコ)の大半を失い、以後この地方は完全にトルコ化します。ビザンツがセルジューク朝に敗北したことが恐慌を招き欧州世界の十字軍結成の原因になりました。アルスラーンは帝国宰相としてアーリア人のニザーム・アル・マリクを抜擢、ニザームはスルタンの期待に応えてセルジューク朝の基礎を固めました。
 
 アルスラーン死去後、彼の子マリク・シャーを擁立したのも彼でした。ニザームがあまりにも有能すぎたため反対勢力は彼を憎み抜きました。とくにシーア派過激派のイスマイリ教団はアサシン(暗殺者)を送り込んでニザームを暗殺します。1092年の事です。
 
 
 大宰相ニザームの死は、セルジューク朝黄金時代の終わりを象徴する事件でした。同年、マリク・シャーも病没。その後継者を巡る争いで帝国は急速に衰退し多くの小国に分裂します。その中の一つアナトリア半島に建国したルーム・セルジューク朝は十字軍との激闘で栄枯盛衰を繰り返しつつも1308年まで続きました。
 
 
 
 セルジューク朝の世界史的役割は何だったのでしょうか?私はトルコ民族が西アジアに定着したきっかけだったと考えています。そしてセルジューク朝にくっついて中東に侵入した部族のうちアナトリア西部に定住したオスマン家が14世紀急速に勃興して欧亜にまたがる大帝国を建国するのです。
 

中世イスラム世界Ⅴ  後ウマイヤ朝  後編

 アッバース朝のイベリア総督、ユースフはアブドル・ラフマーン上陸の急報を受けると急いで総督府のあるコルドバに取って返しました。そして使者をアブドル・ラフマーンに遣わし懐柔策に出ます。
 
 自分の娘の婿になるよう申し出たのです。ユースフはタラゴーザの反乱を鎮圧するための時間が欲しかったのでしょう。一方、アブドル・ラフマーン側も精強なベルベル人騎兵を伴ってきていたとはいえまだまだ弱小でアッバース軍との対決に自信が持てませんでした。
 
 両者の利害は一致し、婚約は成立します。しかし実際に結婚まではこぎつけなかったようです。互いに一時の方便としての和睦策だったのかもしれません。
 
 
 756年3月、アブドル・ラフマーンはイベリア西南の重要な港湾都市セビリアを占領します。ユースフは大軍を率いてコルドバから南下、ガダルキビル川北岸に布陣しました。ところがアブドル・ラフマーンは大軍と戦う愚を避け南岸の間道伝いに進軍しユースフのいないコルドバを急襲して占領します。
 
 
 あわてたユースフは軍を戻しますが、待ち構えていたアブドル・ラフマーン軍に奇襲され敗北しました。こうしてアッバース朝の総督を撃破したアブドル・ラフマーンはコルドバで即位、自らの王朝を建国します。これを日本では後ウマイヤ朝と呼びますが、西洋では「アンダルス(スペイン南部地方の地名)のウマイヤ朝」と呼ぶのが一般的だそうです。
 
 
 アブドル・ラフマーン1世(在位756年~788年)は、しかしあえてカリフと名乗らずアミール(アラビア語で司令官の意味)と称しました。カリフとはイスラム世界全体の指導者であるべきでメッカもメディナも保有していない自分には名乗る資格がないと思ったそうです。しかしアッバース朝のカリフも認めず、現在は正統なカリフがいないという立場でした。
 
 イベリア半島をほぼ手中に収めたアブドル・ラフマーン1世ですが、もともとこの地はローマの属州でキリスト教徒も多く統治は安定しませんでした。さらに彼が北アフリカから連れてきたベルベル人やアラブ人たちも王朝に心服したとは言えずしばしば反乱をおこします。彼の32年の統治は苦労に満ちたものだったようです。
 
 
 イベリア半島が敵に奪われたという報告を受けたアッバース朝第2代カリフ、マンスールはイベリア奪回に乗り出します。まず半島内のアラブ人たちを扇動し反乱をおこさせると、763年アル・アラー・イブン・ムギースに資金を与えイベリア総督の地位を約束して送り出しました。
 
 そのころアブドル・ラフマーン1世はマンスールの扇動によって勃発したアラブ人の反乱軍が籠るトレドを攻めていました。そんな中アル・アラーはポルトガル南岸べハー地方に上陸します。イベリアにアッバース朝の黒旗が翻るとそれまでアブドル・ラフマーンに押さえつけられていた不満分子が大挙してこれに参加、アル・アラー軍は見る見る大軍に膨れ上がりました。
 
 劣勢に立たされたアブドル・ラフマーン1世は最も信頼する手兵だけを引き連れセビリア東方カルモーナの町に立て籠もります。アル・アラーは大軍をもってこれを包囲、籠城戦は二カ月に及びました。
 
 アブドル・ラフマーン1世即位以来最大の危機です。しかしのちにクライシュの鷹と称えられるアブドル・ラフマーン1世は事態の推移を冷静に観察していました。包囲軍の士気が弛緩し始めたことを察知するや、精兵700名を選び西門からどっと押し出します。油断していたアル・アリー軍は不意を衝かれ大混乱に陥りました。
 
 乱戦の中、アル・アリー始め主だったアッバース軍の幹部は殺されます。敵軍は7000を失い潰走。アブドル・ラフマーン1世は敵将達の首を塩と樟脳の入った皮袋につめると、メッカへの巡礼に託して送り届けさせました。丁度メッカへ巡礼に来ていたマンスールは、そこで首を受け取り衝撃を受けます。
 
 「あのような悪魔と我々の間に海を隔てたもうたアッラーに感謝します」と叫んだそうです。こうしてアッバース朝からの干渉はひとまず排除されました。
 
 
 しかし後ウマイヤ朝の危機は続きます。今度はピレネーを越えてカロリング朝フランク王国のカール大帝(シャルル・マーニュ)が大軍を率い侵入してきたのです。778年の事でした。カール大帝の言い分はもともとイベリア半島はキリスト教側の土地であったのにイスラム勢力に奪われたということとカールの祖父メロビング朝の宮宰カール・マルテルがフランスに侵入したイスラム軍を撃退したツール・ポワチエ間の戦いの復讐戦というものでした。
 
 
 カール大帝は、内通を申し出てきたアラブ側の諸侯の反乱を期待していたそうですが、実はこれ自体アブドル・ラフマーン1世の謀略であったという説もあります。結局アラブの反乱は不発に終わり敵中深く進軍したフランク軍は孤立してしまいます。この世界史上有数の英雄同士の対決はアブドル・ラフマーン1世の勝利に終わりました。ピレネー越えの補給に無理があった事と、ウマイヤ軍の籠るサラゴーサ城を攻めあぐみカール大帝はついに撤退を決断します。
 
 ところが帰途をウマイヤ軍の待ち伏せに遭い山間部で奇襲され壊滅的打撃を受けて撤退しました。この時カール大帝の甥ロランが殿軍を引き受け壮絶な戦死を遂げます。この話はフランス最古の叙事詩ロランの歌として有名です。
 
 
 生涯の大半を戦いに明け暮れたアブドル・ラフマーン1世は32年の統治の末788年その波乱の生涯を閉じます。享年58歳。人に裏切り続けられた彼は晩年猜疑心の塊となっていたそうです。彼の苦労時代を支えた忠僕バドルさえ、驕慢になったと責められ晩年追放されています。
 
 
 後ウマイヤ朝は、コルドバを首都として栄えました。そして8代アブドル・ラフマーン3世(在位929年~961年)のとき初めてカリフを称します。同じころエジプトを支配したシーア派のファーティマ朝もカリフを称しましたから、イスラム世界は三人のカリフを頂く事となりました。
 
 
 世界史では後ウマイヤ朝を西カリフ国、ファーティマ朝を中カリフ国、アッバース朝を東カリフ国と呼びます。しかしこのころを境に王朝は衰退し始め9代カリフ、ヒシャーム3世(在位1027年~1031年)の時に滅亡しました。時はすでにレコンキスタの時代に突入し始めます。イベリア北方の山岳地帯に押し込められていたキリスト教勢力の反撃が始まっていたのです。
 
 
 1031年、ヒシャーム3世は大臣たちの評議会によって廃位されました。その後彼はトゥデラ太守のフード家スレイマーンに保護され1036年頃亡くなったそうです。以後イベリア半島のイスラム勢力は多くの小国に分裂しキリスト教徒のレコンキスタの前に次々と滅ぼされる運命でした。

中世イスラム世界Ⅴ  後ウマイヤ朝  前編

 750年、イスラム最初の世襲王朝ウマイヤ朝はイラクに興ったアッバース朝に滅ぼされます。
 
 アッバース朝初代カリフ、アブル・アッバースは前王朝所縁の者を徹底的に弾圧しました。抵抗した王族はもちろん、逃げ隠れしていた者たちまで探し出して残忍な方法で処刑します。そのエピソードの一つ一つが気分の悪くなるものばかりなのでここではあえて記しません。
 
 しかし完璧を期したつもりでも漏れはあるもの。ウマイヤ朝第10代カリフ、ヒシャームの孫に当たる一人の若者だけが難を逃れました。いや正確には若者とその弟、そして若者の幼い子供です。
 
 
 若者の名はアブドル・ラフマーン(アブドゥ・アッラフマーン・ブン・ムアーウィア、731年~788年)。この時弱冠二十歳。金髪で長身、眉目秀麗、絵にかいたような王子様でした。
 
 
 アブドル・ラフマーンはアッバース朝側が和睦の酒宴に招いた時も疑って出頭しませんでした。この時信じてアッバース朝に降伏した王族はことごとく酒宴の席で惨殺されます。
 
 
 彼はユーフラテス河に近い寒村に身を潜めていました。ある日4歳になる息子が怯えて泣きながら駆けこんできました。戸外を見るとアッバース朝の黒い旗が多数動いています。アブドル・ラフマーンはこの時息子を置き去りにして弟と逃げました。幼児を連れていては逃げきれないというドライな計算だったのでしょうが、おそらく子供はこの時殺されたと思います。
 
 各地を転々とした一行はついに密告者によって潜伏先をアッバース軍に売られ、追い詰められた兄弟はユーフラテス河に飛び込みます。しかし弟は逃げ遅れて捕まり、アブドル・ラフマーンが向こう岸に辿りついた時には敵兵によって惨殺されるところでした。
 
 こうして天涯孤独の身の上となったアブドル・ラフマーンはパレスチナに逃れます。その地で彼を追ってきた忠僕バドルと再会しました。喜びもつかの間、アッバース朝の追手を逃れるためエジプト、そしてさらに西へ逃亡します。
 
 アブドル・ラフマーンには唯一希望がありました。というのも彼の母はモロッコのベルベル族出身でそこまで逃げれば何とかなると踏んだのです。
 
 
 が、一行がモロッコまで辿りついたのはそれから5年後でした。アッバース朝の追手を逃れるためにそれほど苦労をしたのです。
 
 ベルベル族は、亡命の王子一行を温かく迎えました。王子健在を伝え聞いて各地に潜伏していたウマイヤ家の旧臣たちも続々と集まってきます。
 
 
 アブドル・ラフマーンはこの地で自立を計りますが上手くいきませんでした。そこで狭い海峡を隔てたイベリア半島に目をつけます。そこはイスラムの勢力下に入って日も浅く統治が安定していないと見たのです。またウマイヤ家の旧臣たちもかなり残っていました。
 
 
 アブドル・ラフマーンはバドルに密書を授けイベリアに潜入させます。バドルはイベリア各地で旧臣を説きました。755年4月、イベリアから12人の使者がアブドル・ラフマーンを迎えるべくモロッコに到着します。王子は迎えの船に乗りイベリア半島アルムネーカルの港から上陸しました。
 
 
 当時イベリアは、アッバース朝の総督ユースフ・アル・フィフリーが統治していました。しかし王朝交代の混乱を上手くまとめきれず北方のサラゴーザで反乱が起こります。ユースフが反乱鎮圧に出かけていた隙を衝いての上陸でした。
 
 
 アブドル・ラフマーンはどのようにしてイベリア半島を統一したのでしょうか?次回、後ウマイヤ朝成立とその興亡を描きます。

中世イスラム世界Ⅳ  アッバース朝

 一つの王朝が滅びる時、敵はその致命的弱点を衝いてきます。ウマイヤ朝もまた同様でした。
 
 ウマイヤ朝は、イスラム教徒の合議で選ばれる正統カリフ時代と違い初めてカリフの世襲制を導入した王朝でした。このためカリフの正統性に疑問がもたれシーア派などの反対派はこの点を激しく攻撃します。
 
 またムハンマドの孫(ムハンマドの娘ファーティマの子)にあたるフサインをウマイヤ朝二代カリフ、ヤジードが殺害した事や聖地メッカのカアバ神殿を焼いた事もウマイヤ朝に悪印象を与える原因でした。
 
 加えてウマイヤ朝では被征服民にジズヤ(人頭税)を科していたことも不満を持たれました。これは彼らがイスラム教に改宗しても変わらず、特権階級アラブ人と明らかな差別を受けたのです。
 
 
 ここにある一族が登場します。イスラム教の開祖ムハンマドと同じクライシュ族ハーシム家に生まれながらウマイヤ家が実権を握っていたために疎外されていたアッバース一族です。ムハンマドの叔父アッバースの子孫でありながらウマイヤ朝下では政権の中枢から外され不満を抱いていました。
 
 アッバース家は、ウマイヤ家に不満を待つ各地の勢力と結託し秘かに勢力を蓄えます。とくに反体制派であったシーア派に理解を示し王朝転覆後にはシーア派政権を作るとにおわす発言さえしていたのです。
 
 
 この陰謀はウマイヤ朝側の察知するところとなりました。アッバース家の当主イブラヒームは749年捕えられ処刑されます。しかしその弟アブル・アッバースら14名は官憲の追捕を逃れイラクのクーファに潜伏しました。
 
 同年12月、アブル・アッバースはクーファでカリフ就任を宣言、ウマイヤ朝との対決姿勢を鮮明にします。アッバース家はシーア派など反ウマイヤ勢力を糾合し瞬く間に大勢力になりました。これにはウマイヤ家のシリア勢力に圧迫されていたイラクやイランのシーア派住民の怒りが爆発したともいえるでしょう。
 
 ウマイヤ朝は、反乱を鎮圧するため30万とも号される大軍を派遣しました。一方新興のアッバース軍はわずか1万2千しか集まらなかったそうです。両軍はティグリス河支流の大ザーブ川でぶつかります。ところが蓋を開けてみると士気旺盛なアッバース軍は嫌々動員されて士気の低かったウマイヤ軍を圧倒、アッバース軍の大勝利に終わりました。
 
 ウマイヤ朝のマルワーン2世は、シリアに撤退し本拠だけは保とうとしましたがここでも一敗地に塗れエジプトに逃亡します。カリフに見捨てられた首都ダマスクスは、アッバース軍に占領されウマイヤ家所縁の者たちは逃亡した一人(アブドル・ラフマーン)を除いてことごとく殺されました。マルワーン2世自身もエジプト各地で敗北し部下は四散していきます。上エジプトのプシリスというところでアッバース軍に追いつかれ殺されました。時に750年8月初めの出来事でした。こうしてウマイヤ朝は滅亡します。
 
 アブル・アッバースはイラクのクーファを首都とする新王朝建国を宣言しました。後の760年アッバース朝2代カリフ、マンスールの時代に新首都バクダードが建設され以後王朝はここを首都とします。
 
 
 歴史上、アッバース朝に暗いイメージが付きまとうのはウマイヤ朝所縁の者を徹底的に弾圧したことや、王朝を作るためにさんざん利用したシーア派を騙して国教をスンニ派に定めた事でした。
 
 シーア派は、自分たちの奉じるアリーの子孫をカリフに推戴する事を夢みアブル・アッバースもそれをほのめかしていましたが、結局裏切られたのです。アッバース朝はシーア派弾圧に転じます。
 
 初代アブル・アッバース(在位750年~754年)は残虐な性格だったと伝えられています。それを示すエピソードも色々ありますが書くと気分が悪くなるので詳しくは紹介しません。あえて一つだけ例を上げるとヒシャーム(ウマイヤ朝第10代カリフ)の孫の一人は片手片足を斬り落とされ驢馬に乗せられてシリア各地を引き回されたそうです。あらゆる罵倒を浴びせられた公子は驢馬の上で衰弱し息を引き取りました。
 
 
 ところが唐代の資料ではアブル・アッバースは寛大な国王だったと伝えられています。この違いは何でしょう?それぞれの立場によってその人物の評価がここまで違いのも珍しいと思います。751年には唐との間に世界史上名高いタラス河畔の戦いが起こっています。
 
 
 754年アブル・アッバースが死ぬとその兄マンスールが二代カリフを継ぎました。彼の時代に新首都バグダードが建設されます。最盛期には人口200万を数える世界最大の都市に発展しました。
 
 
 しかし王朝の絶頂期は意外と早く終わります。まず756年にウマイヤ家の生き残りアブドル・ラフマーンによってイべリア半島で後ウマイヤ朝が独立、776年には北アフリカでルスタム朝までが自立しました。
 
 
 第5代カリフ、ハルーン・アッラシード(在位786年~809年)時代がアッバース朝の最盛期だと云われますが、文化的にはそうでも領土はウマイヤ時代よりかなり縮小していたのです。
 
 
 909年、チュニジアにシーア派のファーティマ朝が勃興、エジプトを征服します。アッバース朝は西半分の領土を失いました。945年には西北イランに同じくシーア派のブアイフ朝が成立、ブアイフ軍はバグダードを占領し、アッバース朝カリフを祭り上げ自分は大アミール(君公)と称し支配しました。ここからアッバース朝の形骸化が始まります。ただの権威だけの存在となったのです。
 
 
 1055年には、ブアイフ朝を倒したセルジューク朝のトゥグリル・ベグがバグダードに入城、アッバース朝のカリフはこれをスルタン(イスラム教の世俗君主。アラビア語で権力者を意味する)に任命しました。
 
 
 以後スルタンの称号は、イスラム世界の皇帝を意味するまでに発展します。同時にカリフは宗教上の権威に過ぎなくなりました。
 
 
 1258年、バグダードの一地方政権に落ちぶれていたアッバース朝はモンゴルのフラグによって滅ぼされます。フラグは、モンゴル式の高貴な人物を処刑する方法、アッバース朝最後のカリフ、ムスタッシルを皮袋で包んで馬を走らせ踏みつぶし処刑しました。
 
 
 こうしてアッバース朝は滅亡します。しかしその一族の者がマムルーク朝のバイバルスに保護されスルタンの権威を保つための象徴として祭り上げられました。血脈は1517年まで続きますが、オスマン帝国のセリム1世がエジプト征服をしたときに廃されました。最後のカリフ、ムタワッキル3世が亡くなったのは1543年だったと伝えられます。

中世イスラム世界Ⅲ  ウマイヤ朝   後編

 フサインの非業の死を一番喜んだのは、実はイブン・アッズバイルでした。ウマイヤ朝と対決する勢力は一本化するのが望ましかったからです。フサインが失敗するよう色々工作をしたのも彼だったと噂されています。
 
 
 ヤジードはイブン・アッズバイルを警戒し懐柔しようとしました。しかし秘かにメッカ市民を扇動したイブン・アッズバイルはついに立ち上がります。
 
 彼の主張は、「ウマイヤ家はカリフ位を簒奪したので正統性を持たない。イスラム教は原点に帰るべきである!」というものでした。これはウマイヤ朝にとって痛いところを衝きます。ウマイヤ家の支配に不満を持っていた人々は続々とメッカに集結しました。イブン・アッズバイルはカリフを宣言します。
 
 最初は穏便に事を済ませようとしていたヤジードですがこの知らせを聞いて激怒しました。しかし事態は急を告げていたのです。682年ウマイヤ朝の支配が保たれていたと思われていたメディナでも市民が続々と蜂起し町に住むウマイヤ家一門の邸宅を襲撃します。ウマイヤ家の長老はヤジードに急使を発し援軍を求めました。しかし援軍が到着するころにはウマイヤ家の人々は町を脱出しており命からがら援軍と合流する事が出来ました。
 
 
 ウマイヤ軍はそのまま進みメディナを囲みます。そして町に使者を送り「我が軍は聖地メディナを血で汚したくない。どうだろう?おとなしく降伏すれば穏便に済ませるが?」と言わせました。
 
 しかし興奮するメディナ市民は降伏を拒否、ウマイヤ軍は町を激しく攻め立て多くの犠牲者が出たと言われています。683年8月26日のことです。
 
 
 ウマイヤ側は軍を南下させ反乱の首魁イブン・アッズバイルのいる聖地メッカへ向かいます。反乱軍側は、まさか聖地を攻める事はあるまいと高をくくっていましたがその期待は甘すぎました。
 
 ウマイヤ軍は攻撃を開始し、以後二カ月に渡る血みどろの戦いが続きました。この時メッカのカアバ神殿が炎上したと云われますから戦いがいかに激しかったか分かります。
 
 ヤジードは、預言者の孫(フサイン)を殺した事と、カアバ神殿を焼いた事でイスラム世界での評判はとても悪いそうです。しかし原因を作ったのは彼ではなく敵側だったのですから、この評価はすこし可哀想な気もします。
 
 
メッカ陥落は時間の問題と思われました。ところが軍中にカリフ、ヤジードの訃報が伝わります。ウマイヤ軍は町の囲みを解き撤退しました。
 
 
 絶体絶命の危機を脱したイブン・アッズバイルは奇跡のような幸運を最大限に利用する事を忘れませんでした。勝利をアッラーの神の思し召しと宣伝し神の御加護は我が軍にあると主張したのです。アラビア半島はもちろんのことイラク、イラン、そしてウマイヤ朝の本拠地シリアへさえ勢力を伸ばします。
 
 
 一方、ウマイヤ朝側は不幸のどん底に陥っていました。ヤジードの後を継いだムアーウィア2世は病弱でわずか3カ月で死去、シリアの重要都市さえも続々と敵側に寝返り始めました。
 
 このままではウマイヤ朝崩壊は時間の問題でした。しかし王朝の命運はまだ尽きていなかったのです。ムアーウィアの従兄弟にあたるマルワーンが684年立ち上がりダマスクスの東方マルジ・ラーヒトで反乱軍を撃破、首都ダマスクスを反乱軍の手から奪い返します。
 
 マルワーンは、そのまま第4代カリフ位を継ぎマルワーン1世を名乗りました。以後ウマイヤ朝はマルワーンの子孫がカリフ位を継承します。しかしマルワーンは高齢だったため在位一年足らずで死去しました。享年81歳(61歳という説もある)。
 
 
 
 第5代カリフにはその子アブドル・マリク(在位685年~705年)が就きます。新カリフのもとで勢力を回復したウマイヤ軍はシリア、次いでイラクを奪回。691年将軍アル・ハッジャージ・イブン・ユースフ率いる遠征軍をアラビア半島に送り込みました。
 
 シリアのカリフとアラビアのカリフの決戦です。文字通りこの戦いの勝者がイスラム世界全体のカリフとなりえるのです。
 
 
 それにしてもアッズバイル側に油断があったとしか思えません。あれだけの大勢力を誇りながら本拠地アラビアに敵軍の侵入をやすやすと許したのですから。裏を返せば騎兵中心のウマイヤ軍の機動力が勝ったとも言えるかもしれません。
 
 ハッジャージは主君アブドル・マリクから「メッカを攻める時はなるだけ聖地を傷つけないようにしろ」と命じられていました。しかし戦いでそんな甘い事は言ってられません。ただ巡礼者には「戦いに巻き込まれないように退去せよ」と伝えます。
 
 
 ウマイヤ軍は聖地メッカを容赦なく攻めました。補給を完全に断ったため市内には飢餓地獄が巻き起こります。包囲半年、反乱軍の中には食を求めてウマイヤ軍に降伏する者が後を絶ちませんでした。
 
 
 ハッジャージは、アッズバイルに降伏勧告を行います。アッズバイルは途方に暮れてその母に相談しました。彼女は初代正統カリフ、アブー・バクルの娘でムハンマドの妻アイーシャの姉でもあります。この時百歳という当時としては信じられないくらいの高齢でした。すでに盲目となっていましたが、往時の気丈さは未だに失われていませんでした。
 
 
 「そなたが正しい事のためにこの戦いを始めたのなら最後まで戦わねばならぬ。一体この後何年生きるおつもりか、生よりも死を選ぶ時があるのですよ」
 
 
 まさに女傑の言葉です。アッズバイルは弱気になっていた事を深く恥じ母の額に接吻して再び戦いの場に赴きます。
 
 メッカ陥落最後の日、アッズバイルは手勢を率いてウマイヤ軍の中に突入しました。「我がどこにいるか聞くな。我は常に諸君の先頭にあり」と叫んだと伝えられます。そして獅子奮迅の戦いの末敵の刃に倒れました。野心家であってもやはり彼もイスラムの子でした。享年72歳。692年10月1日の出来事でした。彼の首はダマスクスに送られます。
 
 
 
 こうしてウマイヤ朝を揺るがした大反乱は鎮圧されました。アブドル・マリクはウマイヤ朝中興の英主と称えられます。最大の危機を脱した王朝は以後拡大の一途を辿りました。彼の時代イベリア半島から中央アジアにまたがる大帝国が出現します。ウマイヤ朝が最大版図に達したのは彼の子ワリード1世の時代でした。
 
 
 その後王朝は衰退していきます。征服地が拡大した事によって支配階級であるアラブ人と被支配階級であった他民族との対立が激化したのです。特に征服民族に課せられたジズヤ(人頭税)とハラージュ(地租)は大きな社会問題となって王朝を滅ぼす遠因となります。アラブ人のイスラム教徒だけが税金を免除されていたからです。
 
 
 750年、社会の不満を上手く糾合したアッバース家によって王朝は滅ぼされました。ウマイヤ朝最後のカリフ、マルワーン2世はエジプトで殺され、王朝の一族もダマスクスでほとんど殺害されます。ただ一人を除いて。
 
 
 ウマイヤ朝最後の生き残り、アブドル・ラフマーンは後にイベリア半島に渡り後ウマイヤ朝を創始することとなります。
 

中世イスラム世界Ⅲ  ウマイヤ朝   前編

 イスラム教の二大宗派スンニ派とシーア派の一番の違いは何でしょう?ごく大雑把に言ってムハンマドの示したコーランの教えを重視するのがスンニ派、これに対してシーア派は偉大なる予言者ムハンマドの一族であるアリーの血統を重視しその子孫のみがイスラム共同体(ウンマ)の指導者として資格があるというものです。
 
 
 スンニ派とシーア派の割合は9対1で圧倒的にスンニ派が多いのです。コーランの教えを重視するという教義は一般にも受け入れられやすく後の支配層にとっても統治の上で色々都合が良かったのです。一方シーア派はアリー終焉の地イラクからイランにかけて広く分布していますが、それ以外にはあまり広がっていません。
 
 
 シーア派では、アリーの息子フサインの妻がササン朝の血を引く女性だという伝承があり歴代イマーム(最高指導者)はアリーの血と共にペルシャ王家の子孫だという事でペルシャ人たちに受け入れやすかったといわれています。事の真偽は分かりませんがアラブ勢力に押さえつけられていたペルシャ人たちがシーア派を奉じる事でイスラム主流派に対抗できると考えても不思議はありません。
 
 
 そのためスンニ派のウマイヤ朝では初代ムアーウィア(在位661年~680年)の時代からシーア派に対して激しい弾圧を加えました。ウマイヤ朝は長い間ローマ帝国の支配下だったシリアを本拠地にしたため、ペルシャ人に多数の信者がいるシーア派とは文化的に異なり地域対立の面もあったといわれています。
 
 
 ムアーウィアは、カリフが選挙で選ばれるためにその地位が安定せずしばしば暗殺の憂き目にあった事を考え、早くから自分の息子ヤジードを後継者に定めます。カリフの世襲制でした。ムアーウィアの生涯は、自分に反抗するイスラム教旧勢力との戦いに費やされます。
 
 晩年、死の床に着いたムアーウィアは後継者ヤジードに向かって
「アリーの息子アル・フサインはきっとイラクのシーア派に担ぎ出されるだろう。その勢いを挫いた後は厚く遇してやれ。ウマル(第2代正統カリフ)の息子アブドゥーラは敬神の好人物ゆえ、そっとしておけ。だが一番気をつけるべきはイブン・アッズバイル(初代正統カリフ、アブー・バクルの長女の子)だ。あやつは獅子のごとく猛々しく、狐のように狡賢い男だ。必ず根元から滅ぼさなければならない」
と遺言しました。
 
 
 二代カリフに就任したヤジードは父の遺言を思い出しメディナの知事に密書を送って遺言にあった三人を確保するように命じます。ウマルの子アブドゥーラは素直に従い忠誠を誓いますが、フサインとイブン・アッズバイルは危機を察してメッカに逃亡しました。
 
 まず行動を起こしたのはアリーの息子フサインでした。680年イラクのクーファでシーア派が蜂起しアリーに出馬を促したのです。スサインは周りが止めるのも聞かずわずかな側近と共にイラクへ向かいました。ところが陰謀は事前に察知されクーファはウマイヤ軍によって制圧されます。
 
 フサイン軍わずか70名あまりは、ユーフラテス河の手前で待ち構えていたウマイヤ軍4000と絶望的な戦いに巻き込まれます。戦いというより一方的な虐殺でした。この戦いでフサインを含む兵士70名と女子供あわせて200名余りが殺されます。シーア派ではこれを「カルバラの悲劇」と呼び殉教したフサインの死を悼みました。
 
 
 フサインの一族はこの時ほとんど殺されますが、フサインの幼い息子アリー(小アリーと呼ばれる)と二人の娘だけは命を助けられヤジードのもとへ送られました。ヤジードはさすがに子供まで殺す事をためらい保護を加えてメディナに送り届けました。
 
 
 カルバラの悲劇が起こった日シーア派では毎年祭典が行われています。それだけシーア派にとって衝撃が深かったのでしょう。
 
 
 ただ戦いはまだ終わったわけではありません。メッカにはムアーウィアが最も警戒したイブン・アッズバイルが残っています。
 
 ヤジードとイブン・アッズバイル、両者の対立はどうなるのでしょうか?次回ウマイヤ朝最大の危機とその後を描きます。

中世イスラム世界Ⅱ  正統カリフ時代

 イスラム教の教義ではムハンマドは最後の預言者でした。カリスマ的指導者が亡くなってイスラム教団は混乱します。しかし教団の俗務の後継者を定めねばなりません。そこで信徒の有力者たちは協議し、教団の長老でムハンマドをずっと支えてきたアブー・バクルを教団の指導者として選出しました。
 
 指導者はアラビア語の後継ぎ(ハリーファ)から訛ったカリフと呼ばれるようになります。アブー・バクルから4代目のアリーまでは選挙でカリフが選ばれたためこの時代を正統カリフ時代と呼びます。
 
 初代アブー・バクル(在位632年~634年)の時代にアラビア半島を統一、第2代カリフ、ウマル(在位634年~644年)の時代にシリア、エジプト、メソポタミア、イラン高原まで領土を拡大しました。
 
 このイスラム帝国の発展は、丁度ビザンツ(東ローマ)帝国、ササン朝ペルシャ帝国という二大国が衰退期に入っていた事が大きく作用しました。
 
 ビザンツ帝国は636年ヨルダン川支流のヤルムークの戦いでイスラム軍に敗北しシリアを失陥します。ササン朝は642年ニハーバンドの戦いでイスラム軍に敗北、こちらはイスラム軍の攻勢を支えきれず王朝は崩壊しました。
 
 イスラム軍は各地に攻伐を繰り返し、ビザンツからエジプトを奪いイラン高原にも進出していきます。ウマルの後ウスマーン(在位644年~656年)が後を継ぎ、第4代カリフにはアリー(在位656年~661年)が立ちました。
 
 
 アリーはムハンマドの一族で、ムハンマドを幼少期から育ててきた叔父アブー・ターリブの息子でした。ムハンマドの従兄弟でその娘ファーティマを妻に迎えるほど親密な関係だったのです。イスラム教団にとってアリーは切り札とも云うべき人物でした。
 
 
 人格円満、聡明にして博識、公平無私、戦場では勇者となったアリーの将来は約束されたかに見えました。ところがこの頃になるとイスラム教団は形骸化し現地で軍を指揮する諸侯との対立が激化していきます。特にメッカの名門ウマイヤ家出身のムアーウィアはシリア総督の地位を利用してウマイヤ家に忠誠を誓う勢力を結集し始めました。
 
 
 教団のトップと世俗諸侯の最有力者、両者の対立は次第に先鋭化していきます。事態を憂慮したアリーは、656年イラク地方に進出したムアーウィアに対抗するため自身もイラクへ向かいました。12月反対派の籠るバスラを攻めてこれを降します。
 
 アリーはそのままイラクに留まり、シリアのムアーウィアと睨みあいました。657年、アリーはムアーウィアを討つべく5万の大軍でシリアへ向かいました。ムアーウィアもこれに対抗して軍を差し向けます。両軍はユーフラテス川上流のスィッフィーンでぶつかりました。当初戦況が不利だったムアーウィア軍は槍の穂先にコーランの一節を結び付けアリー軍に示します。アリー軍はこれを見て動揺し結局兵を引きました。
 
 半年後停戦が成立し、戦いは将来に持ち越されました。ところがアリー陣営の中で「正統カリフでありながらアッラーの決裁を仰がずに人間の勝手な取り決めで戦争を止めた」と不満がくすぶり出します。彼らはハーリジ派と呼ばれますが、661年彼らの手によってアリーは暗殺されてしまいました。
 
 
 アリーの支持者は、彼の子孫のみが正統なカリフたる資格があると主張し、イスラム教の多数派であるスンニ派と対立します。彼らはアラビア語で党派を意味する「シーア」派と呼ばれました。シーア派はアリー終焉の地であるイラクからイラン高原に渡って広く分布しています。
 
 
 アリーの死によって正統カリフ時代は終わりを遂げました。最大の政敵がいなくなったので権力は自然とシリアのムアーウィアのもとに集まります。661年、ムアーウィアは自らカリフに就任しダマスクスを首都とする王朝を開きました。これがウマイヤ朝の始まりです。

中世イスラム世界Ⅰ  ムハンマドの登場

 中世についての定義は諸説あります。その中で私は欧州に関しては西ローマ帝国の滅亡(476年)を古代の終わり中世の始まりと見ます。中世が終わったのはルネサンス期(14世紀~16世紀)で一応の目安としてはビザンツ帝国(東ローマ帝国)が滅亡した1453年あたりから近世が始まったと見て良いでしょう。
 
 では他の地域はどうでしょうか?我が日本の場合古代の終わりは平安時代末期と見て良いような気がします。武士が政権を握った鎌倉時代が中世の開始であり、その終わりは織豊時代、そして江戸時代から近世が始まったと考えます。
 
 支那大陸の場合は難しいのですが、漢族支配が完全に終わった魏晋南北朝を古代の末期としたいと思います。隋唐期は支那化した北方遊牧民の支配で国際化した時代。これを中世の開始とします。しかしその終わりがまた難しい。極論すれば支那の民度が変わらないので(むしろ劣化している?)中世が未だに続いているとも解釈できますが、一応明以降を近世とします。
 
 
 ここでようやく中東西アジアに入るのですが、古代の終わりはササン朝の滅んだ当たりを考えています。しかし具体的には曖昧なのでのちに北アフリカから中央アジアにまたがる大帝国を築いたイスラム帝国、そして世界三大宗教の一つイスラム教を創始したムハンマドの登場をもって中世の始まりと解釈したいのです。
 
 西アジアの近世は、欧州とも関連してオスマン帝国がビザンツ帝国を滅ぼした時期1453年に始まったと考えています。
 
 
 本シリーズでは、イスラム教団の誕生、発展、正統カリフ時代、ウマイヤ朝、アッバース朝までは簡単に流れを記すにとどめ、イベリア半島に栄えた後ウマイヤ朝、中世イスラム世界で大きな影響力を示したセルジューク朝、イランに興ったホラズム朝(フワーリズム・シャー朝)、十字軍戦争との絡みでアイユーブ朝、マムルーク朝の歴史を描こうと思っています。
 
 
 
 イスラム教の創始者ムハンマドは、570年頃アラビア半島中西部紅海から少し入ったところにあるメッカに生まれます。メッカの中心部は山々に挟まれた狭い盆地で古代から隊商都市として有名でした。アラブ人はイエメンからシリアに抜ける陸上交易路ばかりかインドから紅海を通って地中海に抜ける海上交易路でも活躍しました。
 
 ムハンマドは、メッカの有力氏族クライシュ族のハーシム家出身でしたが誕生前に父を失い幼いころ母も亡くなったため苦労したそうです。最初は祖父、そして叔父に育てられたムハンマドは交易商人としてめきめきと頭角を現します。25歳の時富裕な未亡人ハディージャに見染められ結婚します。彼女はムハンマドより15歳も年長でしたが夫婦仲は良かったそうです。彼女との間には2男4女をもうけますが、この事実を考えると15歳年長という話は怪しくなります。実際はもっと若かったのではないかと私は考えています。
 
 
 しかしムハンマドの二人の男子は若くして亡くなります。人生の無常を感じたムハンマドはメッカ近郊のヒラー山の洞窟に入り瞑想にふけっていました。610年洞窟で修業を重ねるムハンマドのもとへ大天使ガブリエルが現れ啓示を与えたとされます。唯一神アッラーを奉じるよう大天使から命ぜられたムハンマドは山を降り預言者として生きる決意をします。
 
 
 しかし突然妙な事を口走るようになったと周囲の者に警戒され信者はなかなか増えませんでした。そんな中最初に信者となったのは彼の妻ハディージャでした。その後従兄弟のアリー(第4代正統カリフ)や友人のアブー・バクル(初代正統カリフ)らが信者となります。
 
 613年、ぼつぼつと信者も増えムハンマドはメッカで公然と活動を開始します。ところが多神教を信じるメッカの人々はムハンマドの教えを邪教と憎み迫害しました。619年妻ハディージャは亡くなります。メッカでの活動を諦めたムハンマドは622年少数の信者たちを引き連れ北方のメディナに移り住みました。イスラム教ではこの年を聖遷(ヒジュラ)と呼んで尊びます。イスラム暦ではヒジュラを元年としました。
 
 
 メディナでもなかなか信者を増えませんでしたが、初期イスラム教団は周囲のべドウィン族(アラブ遊牧民)と同盟を結び次第に力をつけて行きます。この実力を背景にメディナの有力勢力として成長していきました。
 
 この動きを危険視したメッカ側は、邪教(と彼らは考えていた)をこれ以上拡大させないため624年1000人の兵士を送ってメディナを討ちました。この時メディナ側はわずか300しか兵力を集められませんでしたが、存亡の危機から士気が高くバドルの戦いでこれを撃破します。
 
 
 翌年、再びメッカ側は復讐戦を挑んできました。メディナ軍は離反者が相次ぎムハンマドも負傷するなどして敗北します。しかしイスラム教団壊滅にまでは至りませんでした。
 
 627年、メッカ軍はムハンマド教団の息の根を止めるべく1万もの大軍で押し寄せます。メディア軍は策略を持ってようやくこれを撃退、628年フダイビーヤの和議で痛み分けに終わりました。停戦条件は教団側に不利なものでしたが、逆にこれで勢力が認められ信者が増えました。
 
 
 630年停戦協定が破れると今度はムハンマドが1万の兵力を集めメッカに侵攻します。わずか数年で勢力が逆転していたのです。メッカは戦わずして降伏、ムハンマドに敵対的な一部の指導層が処刑されたほかは寛大な処置で済みました。
 
 ムハンマドの教団は、アラビア半島全域に勢力を拡大し多くの信者を獲得します。敵対部族は討伐によって従わせ信者にならずとも教団に協力を約束した半島各地の部族たちと同盟を結び一大勢力に発展していきました。
 
 
 632年、メッカ大巡礼、イスラム教の五行(信仰告白、礼拝、断食、喜捨、巡礼)を定めたムハンマドは、その後急速に体調を悪化させ波乱の生涯を閉じます。享年62歳。
 
 
 
 次回は、正統カリフ時代からウマイヤ朝成立、アッバース朝に至るイスラム帝国の発展を描きます。

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