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2013年9月 1日 (日)

中世イスラム世界外伝Ⅱ  ムハンマド・アリーとマムルーク軍団の最期

 ムハンマド・アリー(1769年~1849年)は1953年ナセルたちにエジプト革命で滅ぼされるまで存在したエジプト最後の王朝ムハンマド・アリー朝の創始者です。
 
 彼の生年はナポレオン・ボナパルトと同年。生まれはアレクサンドロスと同じギリシャのマケドニア地方。「アレクサンドロスと同じ地でナポレオンと同年に生まれた」というのが彼の生涯の自慢でした。
 
 
 たいてい王朝の創始者にはドラマが付き物ですが、彼の場合も例外ではありません。出自はアルバニア人だといわれ、最初はアルバニア人非正規部隊に投じます。そこで頭角を現し部隊の副隊長まで出世しました。ある時アルバニア人部隊はオスマン朝の命令によりエジプトに派遣されます。
 
 おそらく現地のマムルーク軍団、そしてオスマン朝が派遣したイェニチェリ(オスマン朝の常備歩兵軍団)の駐屯部隊も次第に軍閥化し中央政府のコントロールが利かなくなった事による非常手段でした。アルバニア軍は非正規軍とはいえもともと兵士としての質が高かったのでしょう。混沌としたエジプトの状況を収めオスマン朝から派遣された総督を助けます。
 
 役に立たないオスマン朝の正規軍と共に、親英派マムルーク、反英派マムルークとの所謂カイロ暴動と呼ばれる騒乱を戦いぬきます。この時ムハンマドも軍功をあげました。そんな中1803年5月アルバニア軍の司令官ターへル・パシャが暗殺されます。その後任司令官に就いたムハンマドは、まずマムルークと協力してオスマン朝の派遣した総督を圧迫し、次にマムルーク内の対立を上手く煽ってカイロからマムルーク勢力を一掃します。
 
 さらにカイロ市民を扇動し、自分をエジプト総督に推挙させました。どういう経緯であれ一応エジプトの混乱を治めた事に変わりはありませんでしたから、オスマン政府もこれを嫌々ながら追認するしかありませんでした。
 
 
 こうして権力の座に就いたムハンマドは、しかしオスマン帝国から独立という選択はせず帝国内の有力諸侯として存在する事を目指します。これを心良く思わないオスマン政府はエジプトに野心を示すイギリスやフランスと協力しムハンマド追い落としを画策しました。
 
 しかし当時はナポレオン戦争の真っ最中。列強に本格介入する余裕がなかった事もムハンマドに幸いしました。ようやく1807年イギリスがエジプト遠征軍を派遣しますが、待ち構えていたエジプト軍に急襲され失敗。
 
 
 ムハンマドの勢力が侮りがたしと悟ったイギリスは、以後エジプトと協調体制を進めます。次にオスマン政府が打った手はムハンマドにアラビア遠征を命じる事でした。
 
 当時のアラビア半島は、メッカに本拠を置く第一次サウード王国(現在のサウジアラビア王家の遠い先祖)が反乱をおこしオスマン朝のアラビア半島支配を脅かしていました。オスマン朝政府としては毒をもって毒を制すという巧妙な方策だったと想像されます。
 
 ところがムハンマドの方が一枚上手でした。これを奇貨として向背定かでないマムルーク勢力の排除に利用しようと考えたのです。
 
 
 1811年3月11日、ムハンマドは「オスマン政府の命令によりアラビア遠征に行く事になった。その出陣式を行うからぜひ出席してほしい」とマムルーク幹部たちに招待状を出します。ムハンマドが子飼いのアルバニア軍だけではなく自分たちにも協力を求めた事に気を良くしたマムルークたちは晴れ舞台に着飾って城門をくぐりました。
 
 
 ところが行列の最後尾が過ぎると突如城門は閉じられました。さらに前方の城門も閉じられます。マムルークたちに混乱が起こると城壁に隠れていたライフル兵たちが姿を現し頭上から弾丸を浴びせかけます。マムルークたちはなすすべもなく殺されていきました。この一方的虐殺でエジプトに長年猛威をふるってきたマムルーク勢力は完全に滅ぼされます。世にシタデレ(城塞)の惨劇と呼ばれる事件でした。
 
 
 主だった幹部を殺されたマムルークたちは、ムハンマドの派遣した軍の前に次々と拠点を落とされ1812年までにエジプトは完全にムハンマドの制圧下に入ります。この日を持ってムハンマド・アリー朝の成立とする史家もいるほどです。
 
 
 エジプトを完全に掌握すると、ムハンマドはオスマン朝のためというより自分の勢力を拡大するためにアラビアに遠征、1818年サワード王国を滅ぼし半島の西半分を制圧します。1820年にはスーダンにも勢力を拡大し大帝国を築きあげました。1822年、オスマン朝の要請でギリシャ独立戦争に介入。その出兵の代償にシリアの行政権を要求するなどエジプトは国家内国家としての様相を呈してきました。このまま進めばムハンマド・アリーがオスマン朝を滅ぼして新たな帝国を建設するのも夢ではなくなります。
 
 
 ところがムハンマドの勢力拡大を望まないヨーロッパ列強は1840年ロンドン会議でムハンマドの子孫にエジプト支配権を認める代わりにシリアを放棄させます。
 
 その後イギリスは、エジプトに対し治外法権の承認、関税自主権の放棄などの不平等条約を強大な軍事力を背景に認めさせ植民地化への道を進めます。
 
 ムハンマド・アリーの最後はイギリスの横暴に苦しめられる失意の晩年だったと言えます。ただイギリスの保護国とはいえムハンマド・アリー朝は20世紀まで生き延び1953年自由将校団が主導するクーデターで滅ぼされるまで続きました。

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