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2013年9月 1日 (日)

比島決戦     ~ジャングルに散ったマレーの虎  後編 ~

 レイテ島で貴重な兵力をすりつぶした第14方面軍は、すでに勝利の可能性を失っていました。山下方面軍司令官は、できるだけ長く抵抗し米軍主力を拘束することで日本本土への侵攻を遅らせることに作戦の主眼を定めます。
 
 山下将軍は、隷下の師団を3つの戦闘集団に分けました。一つはバギオを中心としルソン島北方を担当する尚武集団。山下司令官が直卒し6個師団、1個戦車師団、2個混成旅団を主力とし兵力15万2千の部隊です。一つは1個師団、2個旅団と海軍部隊を率いマニラ東方を担当する振武集団(兵力10万5千)、最後はクラーク飛行場を中心とするマニラ西方を守る建武集団(第1挺身集団、陸海軍航空部隊を主力とする兵力3万)です。
 
 一方、米軍はアイケルバーガーの第8軍に加えクルーガー中将の第6軍(7個師団、2個砲兵群基幹、兵力19万1千)を投入します。
 
 1945年1月9日、連合軍は3日間の激しい空襲の後ルソン島リンガエン湾(バギオ西方)に上陸を開始しました。リンガエン湾の上陸はクルーガー第6軍が担当します。上陸後は軍を二手に分け主力は山下将軍の尚武集団を攻めバギオからルソン北方台湾との間のルソン海峡に面する重要な港湾都市アパリへと打通、別動隊はマニラ湾から上陸する第8軍と呼応しマニラ占領を目指す計画でした。
 
 リンガエンから北方に転進した米第6軍主力は、バギオ南方で戦車第2師団の迎撃を受けます。これは日本陸軍による初めての(そして最後の)大規模な機甲迎撃戦でした。しかし旧式の97式中戦車(チハ車)や1式中戦車(チヘ)を主力とする日本軍は強力な75㎜砲を装備するM4シャーマンに完敗し壊滅的な打撃を受けて後退します。
 
 米軍はそのままバギオを包囲し、尚武集団は最初の計画通りほとんど抵抗せずルソン北方の山岳地帯に後退し徹底持久態勢に入りました。そんな中、バギオからアパリへと向かう街道の要衝サラクサク峠では生き残った戦車第2師団が第10師団の応援を受け果敢に抵抗します。この時機動90式75㎜野砲と同じく75㎜砲装備の1式砲戦車が活躍し米軍の進撃をなんと3か月も防ぐという英雄的な防衛戦を演じました。結局全滅するものの日本機甲部隊の有終の美を飾るにふさわしい戦いぶりでした。
 
 
 一方、マニラ近郊では振武集団が上陸してきた米軍と死闘を演じていました。最初山下司令官は、マニラ防衛には兵力が不足なので無防備都市宣言を行いこれを放棄する方針でした。ところがマニラを守る海軍部隊が無傷で敵に渡すことに激しく抵抗、結局マニラは米軍との市街戦に突入します。第4航空軍司令官の富永中将も「多くの部下を特攻で死なせた今、マニラを離れるに忍びない」とこれに同調したと伝えられます。
 
 
 しかし、富永中将はいよいよマニラ陥落となるとさっさと台湾に敵前逃亡し部下を見殺しにするという醜態を晒します。このため戦後インパールの牟田口司令官とならび激しい非難の的となりました。結局マニラ市街戦で多大な損害を出した振武集団はかろうじて虎口を脱しマニラ東方山岳地帯に撤退します。マニラ陥落は1945年3月3日。
 
 クラーク飛行場群防衛を担当する建武集団は兵力が少ない事もあり、また航空兵力をあらかた壊滅させたことから米軍に南北から挟撃を受け壊滅的打撃を受けてマニラ西方沿岸の山岳地帯に後退しました。
 
 
 ジャングルに籠った日本軍はゲリラ戦で米軍に抵抗します。しかしこの時実働兵力は20%以下に落ち込んでいました。戦闘より飢餓や風土病で死ぬ者が続出したと伝えられます。マッカーサーは日本軍の掃討には多大な犠牲が生じることから、本格的な攻撃を避けました。
すでに3月26日には沖縄戦が始まっており米軍としては補給のための港湾と航空基地を確保した事で当初の作戦目的を果たしていたのです。
 
 こうしてフィリピンの第14方面軍は8月15日まで抵抗を続けます。終戦を知った山下方面軍司令官は山を降り米軍に降伏しました。下山後、9月3日バギオ基地において正式にマッカーサー司令部で降伏文書に調印。こうして日本軍の長く苦しい戦いは終わりました。
 
 
 マッカーサーは、開戦時自身が惨めにフィリピンを追われたことに激しい劣等感を感じていました。同時にシンガポール攻略という世界的な武勲を持つ「マレーの虎」山下奉文大将に嫉妬していたのです。戦犯裁判で、山下をなんとしても死刑にしたいマッカーサーは、シンガポールの華僑虐殺、マニラ大虐殺の責任を問い死刑を求刑しました。一方参謀長の武藤中将も開戦時の軍務局長だったことから東京に送られ東京裁判で開戦に関する罪で処刑されます。
 
 どちらも無理な罪状で、マッカーサーの私怨から行われた判決といっても過言ではないでしょう。1946年2月23日山下大将マニラにて絞首刑執行。1948年12月23日東京巣鴨プリズンで武藤中将、絞首刑。
 
 
 比島決戦日本軍参加兵力約40万、そのうち戦死・戦病死33万6千。多大な犠牲を払ってお国のために戦った英霊の遺志を我々は決して忘れては成りますまい。

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