中世イスラム世界外伝Ⅰ ナポレオンのエジプト遠征
西アジアを中心にしたイスラム世界が終わりを遂げたのはアナトリアに勃興したオスマントルコがビザンツ(東ローマ)帝国を滅ぼした1453年でした。
西洋でルネサンスが起こり近世が始まったのと同様イスラム世界でも近世を迎えます。といってもこちらは輝かしい歴史ではなく現在まで至る停滞の歴史でした。この時期を境に西洋とイスラムの力関係が逆転したと言っても過言ではありません。ただしオスマントルコのように二度に渡ってウィーンを包囲するほど強勢を誇った国家はありましたが。
エジプトにおいてもマムルーク朝がオスマン朝に滅ぼされたのが1517年。とはいっても滅ぼされたのはスルタンとそれに従ったマムルークたちだけで、いち早く国家の滅亡を悟りオスマン軍に寝返ったマムルークたちはそのまま残りました。
オスマン朝が派遣したエジプト総督はイェニチェリ(オスマン朝の常備歩兵軍団、マスケット銃で武装していた)とともに乗り込みます。しかし降伏したマムルーク軍団の幹部たちを排除はせずエジプト各地の県知事に任命するなど権力はそのまま残りました。
イェニチェリにしてもマムルークにしても国家が士官学校を創設して将校を養成し任命し管理するような近代的軍隊ではなくそれぞれが自立し勝手に徴兵し軍幹部はその中から選ばれるという仕組みでしたからオスマン本国のみならずエジプトでもそれらが軍閥化するのは時間の問題でした。
オスマン朝の力が強かった時は問題はそれほど表面化しませんでしたが、王朝の力が衰えるとエジプトは軍閥化したマムルークや駐屯イェニチェリ軍団が支配する無法地帯と化していきました。本国から派遣される総督は名ばかりの存在となり気に入らない総督が来ると本国政府の高官に賄賂を贈り交代させるなどということは日常茶飯事となっていきます。
そして19世紀。欧亜にまたがる大帝国を築いたオスマントルコも衰退し代わって西洋列強が台頭しました。「ヨーロッパの病んだ巨人」と言われたオスマン朝はこれら列強から領土を蚕食されていきます。
エジプトも例外ではなく、まずイギリスがついでフランスが進出してきました。そしてエジプトの衰退を決定的にしたのは1798年ナポレオンによるエジプト遠征です。
ナポレオンの目的はイギリスとインドとの連絡を断つ事でした。インドもオスマントルコと同様列強の餌食となりイギリスの重要な植民地となりつつありました。その連絡を断つとともにあわよくばインドをフランスの植民地として奪える可能性さえあったのです。
エジプト遠征は、ナポレオンが総裁政府に強く訴えたものだったそうです。ナポレオン率いる5万のフランス軍はネルソン提督率いる英艦隊の監視をかいくぐり1798年エジプトに上陸します。翌日にはアレクサンドリアを占領しました。
フランス軍はエジプトの首都カイロを目指して南下します。この時ばかりは日頃の権力争いも忘れマムルークたちは結束してフランス軍に当たります。しかし7月21日カイロに近いナイル河畔のエムバべでフランス軍に鎧袖一触。これが有名な「ピラミッドの戦い」です。
7月25日、フランス軍カイロ入城。エジプトはフランスの制圧下に置かれたかに見えました。ところがネルソン提督率いる英艦隊がナイルの海戦でフランス艦隊を殲滅、フランス軍の補給路を断ちます。さらに上エジプトに逃げていたマムルーク軍団も陣容を立て直しフランス占領軍に抵抗しました。イギリスはオスマン朝や現地エジプトのマムルークに秘かに援助を与えナポレオンを苦しめます。
フランス占領下の都市でも住民の抵抗運動が起こり、これに対して占領軍は弾圧で臨みました。「エジプトをマムルークの圧政から解放する」という大義名分とは異なりフランスはエジプト人に重税をかけさらに圧政を敷きす。これでは占領地を保つ事はできません。さらに悪い事にはイギリスの援助を受けたオスマン正規軍がシリアに進出しフランス軍を追い落とそうと接近しつつありました。ナポレオンはシリアや上エジプトに部隊を派遣しますがことごとく失敗、1799年8月22日エジプトのアブキールでオスマン軍を破るとナポレオンは側近だけを従えてさっさとフランス本国に帰還してしまいました。
取り残されたフランス軍は哀れでした。1801年まで戦い続けますが結局イギリス・オスマン朝連合軍に降伏、生き残った1万5千の将兵はフランスにやっと帰国できました。
フランスにとってエジプト遠征は徒労だけ多く得るものが全くない戦いでしたが、軍に同行した学者団が有名なロゼッタストーンを発見するなど文化的に意味があったのはせめてもの救いでした。
そしてエジプトも戦乱で荒廃しました。フランス軍撃退後イギリスはますますエジプトにおける影響力を増します。オスマン朝の威令は有名無実のものとなりマムルーク軍閥はますます増長しました。この混沌とした状況を打破するには外部からの力しかありません。
それは風雲児ムハンマド・アリーという人物によってしか成されませんでした。しかしこれは果たしてエジプト国民にとって良かったのか悪かったのか…。歴史家にとっても評価が分かれるところでもあります。
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