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2013年9月 1日 (日)

中世イスラム世界Ⅲ  ウマイヤ朝   後編

 フサインの非業の死を一番喜んだのは、実はイブン・アッズバイルでした。ウマイヤ朝と対決する勢力は一本化するのが望ましかったからです。フサインが失敗するよう色々工作をしたのも彼だったと噂されています。
 
 
 ヤジードはイブン・アッズバイルを警戒し懐柔しようとしました。しかし秘かにメッカ市民を扇動したイブン・アッズバイルはついに立ち上がります。
 
 彼の主張は、「ウマイヤ家はカリフ位を簒奪したので正統性を持たない。イスラム教は原点に帰るべきである!」というものでした。これはウマイヤ朝にとって痛いところを衝きます。ウマイヤ家の支配に不満を持っていた人々は続々とメッカに集結しました。イブン・アッズバイルはカリフを宣言します。
 
 最初は穏便に事を済ませようとしていたヤジードですがこの知らせを聞いて激怒しました。しかし事態は急を告げていたのです。682年ウマイヤ朝の支配が保たれていたと思われていたメディナでも市民が続々と蜂起し町に住むウマイヤ家一門の邸宅を襲撃します。ウマイヤ家の長老はヤジードに急使を発し援軍を求めました。しかし援軍が到着するころにはウマイヤ家の人々は町を脱出しており命からがら援軍と合流する事が出来ました。
 
 
 ウマイヤ軍はそのまま進みメディナを囲みます。そして町に使者を送り「我が軍は聖地メディナを血で汚したくない。どうだろう?おとなしく降伏すれば穏便に済ませるが?」と言わせました。
 
 しかし興奮するメディナ市民は降伏を拒否、ウマイヤ軍は町を激しく攻め立て多くの犠牲者が出たと言われています。683年8月26日のことです。
 
 
 ウマイヤ側は軍を南下させ反乱の首魁イブン・アッズバイルのいる聖地メッカへ向かいます。反乱軍側は、まさか聖地を攻める事はあるまいと高をくくっていましたがその期待は甘すぎました。
 
 ウマイヤ軍は攻撃を開始し、以後二カ月に渡る血みどろの戦いが続きました。この時メッカのカアバ神殿が炎上したと云われますから戦いがいかに激しかったか分かります。
 
 ヤジードは、預言者の孫(フサイン)を殺した事と、カアバ神殿を焼いた事でイスラム世界での評判はとても悪いそうです。しかし原因を作ったのは彼ではなく敵側だったのですから、この評価はすこし可哀想な気もします。
 
 
メッカ陥落は時間の問題と思われました。ところが軍中にカリフ、ヤジードの訃報が伝わります。ウマイヤ軍は町の囲みを解き撤退しました。
 
 
 絶体絶命の危機を脱したイブン・アッズバイルは奇跡のような幸運を最大限に利用する事を忘れませんでした。勝利をアッラーの神の思し召しと宣伝し神の御加護は我が軍にあると主張したのです。アラビア半島はもちろんのことイラク、イラン、そしてウマイヤ朝の本拠地シリアへさえ勢力を伸ばします。
 
 
 一方、ウマイヤ朝側は不幸のどん底に陥っていました。ヤジードの後を継いだムアーウィア2世は病弱でわずか3カ月で死去、シリアの重要都市さえも続々と敵側に寝返り始めました。
 
 このままではウマイヤ朝崩壊は時間の問題でした。しかし王朝の命運はまだ尽きていなかったのです。ムアーウィアの従兄弟にあたるマルワーンが684年立ち上がりダマスクスの東方マルジ・ラーヒトで反乱軍を撃破、首都ダマスクスを反乱軍の手から奪い返します。
 
 マルワーンは、そのまま第4代カリフ位を継ぎマルワーン1世を名乗りました。以後ウマイヤ朝はマルワーンの子孫がカリフ位を継承します。しかしマルワーンは高齢だったため在位一年足らずで死去しました。享年81歳(61歳という説もある)。
 
 
 
 第5代カリフにはその子アブドル・マリク(在位685年~705年)が就きます。新カリフのもとで勢力を回復したウマイヤ軍はシリア、次いでイラクを奪回。691年将軍アル・ハッジャージ・イブン・ユースフ率いる遠征軍をアラビア半島に送り込みました。
 
 シリアのカリフとアラビアのカリフの決戦です。文字通りこの戦いの勝者がイスラム世界全体のカリフとなりえるのです。
 
 
 それにしてもアッズバイル側に油断があったとしか思えません。あれだけの大勢力を誇りながら本拠地アラビアに敵軍の侵入をやすやすと許したのですから。裏を返せば騎兵中心のウマイヤ軍の機動力が勝ったとも言えるかもしれません。
 
 ハッジャージは主君アブドル・マリクから「メッカを攻める時はなるだけ聖地を傷つけないようにしろ」と命じられていました。しかし戦いでそんな甘い事は言ってられません。ただ巡礼者には「戦いに巻き込まれないように退去せよ」と伝えます。
 
 
 ウマイヤ軍は聖地メッカを容赦なく攻めました。補給を完全に断ったため市内には飢餓地獄が巻き起こります。包囲半年、反乱軍の中には食を求めてウマイヤ軍に降伏する者が後を絶ちませんでした。
 
 
 ハッジャージは、アッズバイルに降伏勧告を行います。アッズバイルは途方に暮れてその母に相談しました。彼女は初代正統カリフ、アブー・バクルの娘でムハンマドの妻アイーシャの姉でもあります。この時百歳という当時としては信じられないくらいの高齢でした。すでに盲目となっていましたが、往時の気丈さは未だに失われていませんでした。
 
 
 「そなたが正しい事のためにこの戦いを始めたのなら最後まで戦わねばならぬ。一体この後何年生きるおつもりか、生よりも死を選ぶ時があるのですよ」
 
 
 まさに女傑の言葉です。アッズバイルは弱気になっていた事を深く恥じ母の額に接吻して再び戦いの場に赴きます。
 
 メッカ陥落最後の日、アッズバイルは手勢を率いてウマイヤ軍の中に突入しました。「我がどこにいるか聞くな。我は常に諸君の先頭にあり」と叫んだと伝えられます。そして獅子奮迅の戦いの末敵の刃に倒れました。野心家であってもやはり彼もイスラムの子でした。享年72歳。692年10月1日の出来事でした。彼の首はダマスクスに送られます。
 
 
 
 こうしてウマイヤ朝を揺るがした大反乱は鎮圧されました。アブドル・マリクはウマイヤ朝中興の英主と称えられます。最大の危機を脱した王朝は以後拡大の一途を辿りました。彼の時代イベリア半島から中央アジアにまたがる大帝国が出現します。ウマイヤ朝が最大版図に達したのは彼の子ワリード1世の時代でした。
 
 
 その後王朝は衰退していきます。征服地が拡大した事によって支配階級であるアラブ人と被支配階級であった他民族との対立が激化したのです。特に征服民族に課せられたジズヤ(人頭税)とハラージュ(地租)は大きな社会問題となって王朝を滅ぼす遠因となります。アラブ人のイスラム教徒だけが税金を免除されていたからです。
 
 
 750年、社会の不満を上手く糾合したアッバース家によって王朝は滅ぼされました。ウマイヤ朝最後のカリフ、マルワーン2世はエジプトで殺され、王朝の一族もダマスクスでほとんど殺害されます。ただ一人を除いて。
 
 
 ウマイヤ朝最後の生き残り、アブドル・ラフマーンは後にイベリア半島に渡り後ウマイヤ朝を創始することとなります。
 

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