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2013年10月

2013年10月 5日 (土)

中世ヨーロッパ外伝  中世イングランド  ~ノルマンコンクエスト以前

 今まで中世ヨーロッパシリーズで西欧世界全般の中世史を描きました。しかしどうしてもフランスとドイツが中心になり、イングランドについて書き足らなかったので今回中世イングランド史概説を述べたいと思います。
 
 ブリテン島のもともとの住民はフランスのガリア人と同族のケルト系ブリトン人でした。ローマ帝国の支配を受けそれなりにローマ文化を受容しある程度の文化を有していました。
 
 476年西ローマ帝国が滅ぶと、ブリテン島は蛮族ゲルマン人の侵略に晒されます。ブリテン島に侵入したのはアングル人、サクソン人、ジュート人など主にユトランド半島やドイツ北部に住んでいた民族でした。
 
 ブリトン人はあるいは支配され、それを良しとしない者たちはブリトン島西方に逃れウェールズを建国します。ですからもともとウェールズ人がブリテン島の正統な住民でした。
 
 
 アングル・サクソン・ジュート人たちはブリテン島の中部以南に定住し5世紀以降七王国を建国します。ちなみにスコットランドは侵略をほとんど受けませんでした。というのはローマ帝国でさえ手を焼いた剽悍な山岳民族ピクト人がいたからです。彼らは独立を保ち後にアイルランドから渡来したスコット人と合わさってスコットランドを建国します。
 
 
 七王国とは
ノーザンブリア(アングル人)
マーシア(アングル人)
イーストアングリア(アングル人)
エセックス(サクソン人)
ウェセックス(サクソン人)
サセックス(サクソン人)
ケント(ジュート人)
の七カ国をいいます。
 
 七王国のうち強盛になったのはウェセックス王国でした。827年エグバート王(在位802年~839年)の時イングランドを統一します。ウェセックスが後のイングランドの母体となりました。
 
 しかし、平和は長く続かずブリテン島は再びノルマン人の襲来に悩まされます。ノルマン人とはスカンジナビア半島やバルト海沿岸地方に住んでいた北方系ゲルマン人で、アングロサクソンとあまり変わらない連中でした。彼らはヴァイキングとも呼ばれた海賊で最初は略奪が主でしたが、次第にブリテン島に定着しようと試みます。
 
 
 ブリテン島を主に襲ったのはユトランド半島のデーン人(のちにデンマークを建国)でした。このデーン人と戦ったのがウェセックス王アルフレッド(在位871年~899年)です。彼は血みどろの戦いの末886年ウェドモーアの和議でデーン人の定住を認める代わりに戦争を止めさせる事を約束させました。
 
 これによりイングランドに再び平和を持たらしたアルフレッドは大王と称えられます。ところがデーン人が定住を認められた土地、いわゆるデーンロウはヨークからロンドンの北までの東北部、実にイングランドの半分近くを占めるもので、これで果たして勝ったと言えるかどうかは疑問です。
 
 
 時代は下りデーン人の故郷デンマークにスヴェン1世(在位985年~1014年)が即位します。イングランド王国ではエセルレッド2世が国王でした。
 
 エセルレッド2世(在位978年~1016年)は無思慮王と言われたほど浅はかな人物で、デーン人の侵略を恐れるあまり国内のデーン人を多数虐殺しかえってスヴェン1世に侵略の口実を与えてしまいます。
 
 スヴェン1世は980年代からイングランド侵入を開始したそうですが、1013年ついにイングランド王エセルレッド2世を撃破し一時イングランドの王位を獲得します。エセルレッドはたまらず妻の実家ノルマンディー公国へ亡命しました。
 
 スヴェン1世は1014年急死、再びエセルレッド2世が復位します。ところがスヴェンの次男クヌートに敗れ1016年失意のうちに病没しました。エセルレッドの後は息子エドモンド2世が王位を継承しますが1年もしないうちに急死。
 
 こうしてイングランドの覇権を握ったクヌートは即位してイングランド王クヌート1世(在位1016年~1035年)となります。1018年本国デンマーク国王だった兄ハーラル2世が病没すると後継者がいなかったためデンマーク王位も継承。当時デンマーク王はノルウェー国王も兼ねていたのでクヌートはイングランド、デンマーク、ノルウェー三カ国を支配する国王となりました。これを北海帝国と呼びます。
 
 北海帝国はクヌートの個人的力量で保っていただけなので1035年彼が死ぬと北海帝国はわずか7年で瓦解。結局クヌートのスキョル王家に残ったのはデンマークだけでした。
 
 
 イングランドでは、エセルレッド2世の息子エドワード懺悔王(在位1042年~1066年)が即位しました。それまでノルマンディーに亡命して婚姻関係を結んでいたので繋がりができます。エドワードは結局イングランドの覇権を確立できず1066年没します。
 
 後を継いだのは妻の兄ハロルド2世でした。しかしこの王位継承に不満を抱いたハロルドの弟トスティはノルウェー王ハーラル3世をブリテン島に引き込んで兄と戦います。ハロルド2世は、ヨーク東方のスタンフォードブリッジでトスティ、ハーラル連合軍を撃破、両者を敗死させようやく安定を得たかに見えました。
 
 
 ところが同年エドワード懺悔王の従兄弟にあたるノルマンディー公ウィリアムが突如イングランドの王位を要求して渡海、へースティングスの戦いで敗れたハロルド2世は戦死してしまいます。
 
 ウィリアムは、ロンドンのウエストミンスター寺院で即位しイングランド王ウィリアム1世となりました。これがノルマンコンクエストです。以後イングランドは大陸と関わり合いながら100年戦争まで歴史を紡ぎます。

中世ヨーロッパ最終章  中世の終わりに

 これまで476年西ローマ帝国滅亡から始まるヨーロッパ中世の歴史を眺めてきました。長い旅もそろそろ終わりに近づきつつあります。
 
 最終章では、ヨーロッパ中世とは何だったかについて私なりの感想を書こうと思います。
 
 
 1453年という年は、東でビザンツ帝国の滅亡西で百年戦争の終結と歴史上の大きな事件が同時に起こった年でした。またイベリア半島でも1479年カスティリア王国とアラゴン王国の統合でスペイン(イスパニア)王国の成立、1492年にイベリア半島に残った最後のイスラム勢力グラナダ王国がスペインに滅ぼされてレコンキスタが完了するなど15世紀の後半50年間はまさに一つの時代の終わりとも言って良い時期でした。
 
 
 ヨーロッパ各国は中世と云う時を経て現在に繋がる国家の基礎を築きます。ヨーロッパ人にとって中世とは何だったのでしょうか?
 
 
 まず農業生産面から見てみると、中世初期欧州の小麦収穫率(1粒から何倍収穫できるかの量)は2倍ほどしかありませんでした。それが三圃制農法と云う耕作地を3つに分け、それぞれ冬畑、夏畑、休耕地にわけ輪作する方法の確立で収穫率5倍まで拡大します。
 
 これに対し米は最も生産効率の高い日本のデータしかありませんが、中世期で20倍、近世の江戸期では40倍にも拡大していたそうです。ちなみに現代においても日本の米収穫率135倍に対して米国産小麦23.6倍、英国産小麦15.7倍と米作の方が耕地面積あたりはるかに大人口を養えます。ちなみに日本の小麦収穫率は51.7倍ですから日本の方がはるかに土地が肥えていたのです。その意味では日本は神に愛された国と言えるかもしれませんね。
 
 
 欧州は寒冷で貧しい土地でした。その穀物生産量で支えられる都市人口も少なかったようです。15世紀のデータでもパリの24万(一説では8万)を最大としヴェネツィアの19万がこれに次ぎ10万台はガン、ブルージュやイタリアの諸都市など数えるほど、大半は5万以下で1~2万の小都市でした。
 
 一方、バクダードの200万、コンスタンティノープルの100万など豊かな穀物生産地を後背地に持つ都市は大人口を抱える事が出来ました。
 
 
 人口密度も低く特に中世初期の欧州は現在のイメージとはかけ離れた貧しいところだったのです。それでも欧州人の不断の努力によって農業生産は拡大し徐々にではありますが人口は増加していきました。ところがそんな時に襲いかかったのが黒死病(ペスト)です。ネズミなどが媒介するペスト菌による感染症で腺ペストと肺ペストがありました。腺ペストは高熱や悪寒を伴い最後はリンパ腺をやられ2~3日で意識不明のうちに死亡します。肺ペストはさらに凶悪で高熱を発するのは同じですが呼吸困難や血痰を伴いながら早い場合は24時間で死に至りました。
 
 黒死病は1341年クリミア半島南岸で初めて確認され地中海貿易を介して欧州全土に広がります。一説ではフランスで3分の1、イギリスで5分の1の人口が失われたと言われるほど猛威をふるいました。
 
 
 欧州は黒死病によって大きく停滞します。人口が黒死病以前の水準に回復したのは15世紀を過ぎてからだとも云われるほどです。しかしそういう試練を経験したからこそ欧州人は強くなったのかもしれません。
 
 それまで文明度の高かったイスラム圏を追い越し、16世紀以降ヨーロッパの時代が到来します。レコンキスタを完了させたスペイン、ポルトガルのエネルギーは海外に向かいました。いわゆる大航海時代の始まりです。オランダ、イギリスがこれに次ぎ世界各地で植民地獲得競争を始めます。
 
 
 欧州以外の住民にとっては迷惑この上ない事でした。しかし人類の発展と云う意味ではヨーロッパ勢力の拡大は必要悪だったのでしょう。
 
 
 そしてヨーロッパ(アメリカ含む)一強時代に風穴を開けたのは19世紀に不死鳥のごとく世界史デビューを果たした我らが日本だったことを忘れてはなりません。

中世ヨーロッパⅧ  薔薇戦争

 百年戦争の敗北は、戦場になる事を免れたイギリスにとって物理的にはほとんど被害を受けませんでした。しかし百年も戦争をしながら何ら得るものがなかった封建領主たちは大きな不満を抱きます。
 
 といって再びフランスに遠征するような気力はありませんから、その不満は王家に向きました。百年戦争の間にプランタジネット朝は断絶しエドワード3世の息子ランカスター公ジョンから始まるランカスター家が王位を継承していました。時の国王ヘンリー6世に精神疾患があった事も王家にとっては不安材料でした。
 
 ランカスター家と同じくエドワード3世の血をひくヨーク公リチャードは、貴族たちの不満を煽り「ランカスター家は王家としてふさわしくない。我がヨーク家こそが王たるにふさわしい」と主張します。国王に近い側はこれを完全に否定しました。
 
 
 ヨーク公リチャードは、自分の立場が不利になる前に味方の貴族たちを集めランカスター王家に対して戦争を開始しました。百年戦争終結の2年後1455年から始まった内戦は1485年まで続きます。世に言う薔薇戦争です。
 
 何故薔薇の名前が付いたかと云うと、ランカスター家の紋章が赤いバラ、ヨーク家の紋章が白い薔薇だったからです。
 
 
 薔薇戦争は、まだ中世の騎士道精神の残っていた百年戦争と違って凄惨なものになりました。以前の戦争では貴族が捕虜になっても身代金を支払えば釈放されましたが、今回は捕虜になった貴族はことごとく殺されました。これは王家でも例外ではなくヘンリー6世やヨーク家のエドワード5世も犠牲になります。一族同士が敵味方に分かれたため憎悪がさらに増したのでしょう。
 
 戦争は、戦死したヨーク公リチャードの子エドワードが一応勝利を収め1461年ヨーク朝を開きます。しかし王権は安定せず内戦はその後も継続されました。
 
 
 泥沼の内戦を収めたのはチューダー家のヘンリーでした。一応ランカスター家の流れをくむと言われていますが少々複雑な関係です。
 
 チューダー家はもともとウェールズ王家に繋がる名門でしたがこの頃は没落しヘンリーの祖父オウエン・チューダーの時代にはヘンリー5世の未亡人キャサリン・オブ・ヴァロアの納戸係秘書を務めていました。それがどう転んだのかキャサリンと再婚しエドモンドが生まれます。
 
 ヘンリー6世の異父弟でしかもフランス王家の血をひくことになったエドモンドは一躍上級貴族の仲間入りをします。その子リッチモンド伯ヘンリー・チューダーはランカスター家の最後の王位継承者としてしだいに衆望を集め始めました。
 
 
 1483年、ヘンリーはヨーク家のリチャード3世率いる王軍とイングランド中部ボズワースでぶつかります。この時の兵力はヘンリー軍五千、リチャード王軍八千と言われています。戦闘は2時間続き最初王軍が押し気味だったようです。ところが王軍の有力貴族スタンリー兄弟やノーサンバランド伯が寝返ったり中立を保ったためヘンリー軍が形勢逆転、怒ったリチャード3世は無理な突撃を敢行し戦死してしまいます。享年32歳。イギリス国王の戦死は1066年ヘースチングスの戦いのハロルド2世に続き二人目でした。
 
 
 薔薇戦争の天王山ともいうべきボズワースの戦いに勝利したヘンリー・チューダーはロンドンのウエストミンスター寺院で即位、ヘンリー7世となります。すなわちチューダー朝の始まりです。イギリスはチューダー朝の各国王のもとで封建制を完全に脱却し絶対王政を築きました。イギリスの黄金時代を築いたエリザベス1世(在位1558年~1603年)は彼の孫にあたります。

中世ヨーロッパⅦ  百年戦争

 フランス初の王朝カペー朝第15代シャルル4世が1328年没すると直系の男子が絶えたためその後継王位を誰が継承するかで紛糾します。
 
 フランスでは絶えて久しい伝統でしたが、ここで古代ゲルマンの選挙王制が現れてくるのも仕方ありませんでした。フランスの有力諸侯は話し合いの末シャルルの従兄弟にあたるヴァロア伯フィリップを次のフランス国王に選出します。
 
 フィリップは国王に即位しフィリップ6世(在位1328年~1350年)となりました。ヴァロア朝の始まりです。しかしフィリップの王位継承に異を唱えた者がいます。その人物とはイギリス国王エドワード3世でした。エドワードはその母イザベラがフィリップ4世の娘であり、自分にも継承資格があると主張します。
 
 
 現代の日本人の感覚から見ると無理筋な要求のように見えますが、フィリップの即位が血統主義を考慮されたとはいえ選挙で選ばれたという事実からエドワードの主張も当時の英仏国民から見るとそれほど奇異なものには映らなかったようです。
 
 イギリス国王は、かつてノルマンディー公、アキテーヌ公、アンジュー伯などフランス国内に広大な領地を持ちフランス国王の臣下でもありましたからこういう無理筋な要求もできたのです。14世紀当時でもフランドル地方の一部と旧アキテーヌ公領のうち大西洋沿岸部のギュイエンヌ公領(ボルドー周辺)を領有していました。
 
 
 あとは実力で相手を黙らせるしかありません。エドワード3世は1337年仏国王フィリップ6世に宣戦を布告します。すなわち百年戦争の始まりです。
 
 フランス軍は最初イギリス軍に連戦連敗でした。というのも戦場がフランスである事、イギリス軍はフランス内にも領地を持っているので実質フランス人同士の戦いである事などの理由で士気が上がらなかったからです。また封建社会では国王と封建家臣たちは契約で成り立っているので、その契約以上の働きを諸侯は拒否します。これは英仏両軍とも共通でした。そこで国王は仕方なく傭兵を雇います。
 
 しかし百年戦争とは言ってもしょっちゅう戦闘しているわけではなく休戦の時期もあったわけですから、その間仕事を失った傭兵たちが各地で略奪行為を働くなど深刻な問題が発生しました。フランス国土はこのために荒廃します。傭兵の略奪で生活に困窮した農民の反乱が続発するなど戦争はますます混迷の度を深めました。
 
 イギリス軍優位のまま戦争が推移してくるとフランス諸侯のうちでもイギリス国王がフランス国王になっても良いのではないかと考える者たちが出始めます。彼らはブルゴーニュ公を中心にまとまりブルゴーニュ派と呼ばれました。
 
 一方、あくまでヴァロア家がフランスの正統な王家だとみなす者たちは中心になったアルマニャック伯の名前からアルマニャック派と呼ばれます。
 
 アルマニャック派は、イギリス軍とブルゴーニュ派の連合軍に押されフランス南部を抑えるだけの弱小勢力に落ちぶれます。このままでは滅亡は時間の問題でした。ところがヴァロア朝4代シャルル6世の王太子シャルル(のちに即位して7世となる)のもとに「フランスを救えという神の啓示を受けた」と称する一人の少女が出現しました。すなわちジャンヌ・ダルクです。
 
 
 半信半疑の王太子シャルルは、試しにジャンヌに軍を率いさせると当時連合軍に包囲されていたオルレアンを解放したではありませんか。ジャンヌはめざましい活躍で連合軍を撃破し1429年にはランスのノートルダム大聖堂においてシャルルの戴冠式を行う事が出来ました。シャルル7世(在位1422年~1461年)は名実ともにフランス国王になれたのです。
 
 
 しかしジャンヌはその後、ブルゴーニュ派に捕えられイギリス軍に引き渡されます。イギリス軍は彼女を魔女裁判にかけ1431年5月30日火刑に処しました。彼女の名誉が回復されたのは20世紀になってからです。以後彼女はフランスの救世主、聖女として現代に至ります。
 
 
 ところでジャンヌが何故勝利したかですが、私は長びく戦争の中で国民の間にフランス人意識が醸成されたのではないかと考えています。彼らから見ればイギリス軍は侵略者でありそれと結ぶブルゴーニュ派はフランスの裏切り者でした。
 
 
 ジャンヌの働きをきっかけとしてシャルル7世は反撃に移ります。1431年リールにおいてブルゴーニュ公フィリップと休戦条約を締結すると1435年には劇的な同盟を結びます。2対1の劣勢な方になったイギリス軍はますます不利になりました。
 
 1450年、フォルミニーの戦いで決定的な勝利を上げたフランス軍はノルマンディー地方を制圧、ついで1453年には南仏におけるイギリス軍の拠点ボルドーを制圧して戦争は終結しました。
 
 
 イギリス軍は大陸から完全に駆逐されフランスに対する野心を捨てました。しかし逆の見方をすればフランス国王の家臣という立場から完全に解放された事でイギリスはようやく自立できたとも言えます。
 
 
 百年戦争は、国土の荒廃を生み封建領主は没落しました。フランス国王は大きな犠牲を払ったとはいえ完全に国土を掌握し絶対王政への道を進み始めます。
 
 一方戦争の直接の被害を受けなかったイギリスですが、歴史的大敗によって王権は大きく後退し諸侯に軽んじられるようになっていきます。これが後の薔薇戦争という大災厄に繋がって行くのです。

中世ヨーロッパⅥ  アヴィニョン捕囚

 今まで中世ヨーロッパの歴史をローマ教皇権の消長を軸として見てきました。ローマ教皇権が最大にまで拡大した時が1077年に起こった事件『カノッサの屈辱』ならその衰退を象徴するのが教皇の『アヴィニョン捕囚』です。
 
 実は、カノッサの屈辱以後ローマ教皇庁はドイツの神聖ローマ皇帝と長年暗闘を繰り返してきました。事実皇帝が傀儡の教皇を擁立して南北朝時代になった時期もあったくらいです。
 
 ところがローマ教皇の権威を地に落としたのはドイツの皇帝ではなくフランス国王でした。フランスもまた自国の王権強化のために長年ローマ教皇庁と対立してきました。しかし歴代フランス国王が利口なのは王権強化のために時にはローマ教皇の力を上手く利用してきた事です。たとえばフランスの王権が南フランスにまで拡大できたのはアルビジョワ十字軍(1209年~1229年)の果実を手に入れる事が出来たからでした。
 
 
 カペー朝第11代フリップ4世(端麗王、在位1285年~1315年)の時代、フランスの王権はこれまでになく強大化していました。そしてローマ教皇庁の権威は十字軍の失敗により少なくともフランス国内においては崩れ出していたのです。
 
 フィリップ4世は、財政難を解決するためフランス領内の教会、修道院領に課税します。治外法権を謳歌していたフランスの聖職者たちは時のローマ教皇ボニファチウス8世(在位1294年~1303年)にフランス国王の横暴を訴えました。
 
 教皇はフィリップに厳重な抗議を申し込みますが、国王はそれを無視したばかりかイタリア国境を閉ざします。両者は一触即発の危機に陥りますがこの時は教皇の譲歩で直接対決は避けられました。
 
 
 その後フィリップがナルボンヌの所領問題でナルボンヌ伯に有利な裁定をしナルボンヌ司教領を削って伯に与えたことで事態は深刻化します。司教の訴えを受けた教皇はフィリップに司教領を返すよう強硬に申し出ました。
 
 これに対しフィリップは、ナルボンヌ司教を逮捕し1301年その免職を教皇に迫りました。ここまで馬鹿にされては教皇ボニファチウス8世も引っ込みが尽きません。両者の対立は先鋭化していきました。教皇はフランス領内の司教たちをローマに集めフィリップに従わないよう命じました。
 
 怒ったフィリップは、逆に1302年フランス国内の聖俗諸侯や有力市民たちをパリのノートルダム寺院に集め国王への忠誠を誓わせます。これが三部会の始まりです。第一部会が聖職封建諸侯、第二部会が世俗封建諸侯、第三部会が有力市民の代表で構成されていました。
 
 三部会では、国王の息のかかった法曹たちが反教皇の空気を扇動し議員たちは国王支持、教皇の廃位を決議します。すでに生まれていたフランス国民意識を国王が上手く利用した結果でした。
 
 
 法曹の一人ノガレは決議を実現すべく支持者や兵士たちを引き連れ1303年ローマ近郊のアナーニーに滞在していたボニファチウス8世を襲撃するという暴挙を起こしました。これがアナーニー事件です。一時は教皇を捕虜にしますが、やがて教皇側の反撃で撃退され失敗します。ただこの時のショックでボニファチウス8世は事件後一カ月もしないうちに病死しました。
 
 ボニファチウス8世の死後、教皇庁はフランス派の枢機卿が力を持ちべネディクト11世の短い治世の後フランス出身のクレメンス5世(1305年~1314年)が即位します。クレメンスはフィリップ4世の意のままに動く傀儡にすぎませんでした。
 
 フィリップ4世は、1308年クレメンス5世をフランス国内の教皇領の飛び地であるアヴィニョンに招きました。表向きは教皇にテンプル騎士団裁判などを依頼するためでしたが、その実態は体の良い脅迫でした。教皇は一時的滞在のつもりでしたがフィリップが国境を閉ざしたためローマ帰還が不可能になります。
 
 
 これがアヴィニョン捕囚です。フィリップ4世はアヴィニョンの教皇にテンプル騎士団の裁判を強要します。教皇は騎士団が異端でない事を知っていましたから最初拒否しますが、王の圧力に負け裁判を始めました。フィリップ4世は騎士団の持つ莫大な財産に目を付け無実の罪に陥れその財産を奪う気でした。騎士団は幹部をことごとく処刑され滅ぼされます。フィリップは莫大な財産を手に入れました。
 
 いくらフィリップ4世に脅迫されたからとはいえ、教皇自身がこの出鱈目な異端裁判に加担した事はヨーロッパ中の非難を受けました。ますます教皇権は弱体化していきます。結局、教皇のバビロン捕囚ともいうべきアヴィニョン滞在は70年続きました。
 
 ローマ教皇がローマに戻った時、すでに精神的な権威だけの存在に成り下がっていました。以後二度と世俗に権力をふるう事はなくなります。

中世ヨーロッパⅤ  十字軍

 十字軍とは11世紀末に始まり13世紀まで続く欧州のキリスト教諸国による聖地エルサレム回復運動です。しかし逆にイスラム教徒側から見ると蛮族フランク人による侵入以外の何物でもありませんでした。
 
 
 一般にイスラム教徒は「コーランか剣か」というように異教徒にはジハード(聖戦)を仕掛け厳しい態度で臨んだようなイメージがあります。ところが実態は、自分たちに従う異教徒には税金を掛けただけで信仰は保証しむしろ穏健な態度で臨みました。
 
 というのは征服地のすべての住民をイスラム教徒に改宗するのは不可能だし、もしそれを実行しようとしたら激しい抵抗を受けるからです。イスラム教徒の中でさえアラブ人とそれ以外の対立がありアッバース朝の成立に繋がったくらいですから、異教徒をあえて敵に回す必要はありませんでした。
 
 
 637年のイスラム勢力によるエルサレム征服以来、むしろ穏健な統治のもとでキリスト教徒は平和な生活を送っていました。
 
 
 ではなぜ十字軍が起こったか、ですが私はビザンツ帝国やヴェネチア、ジェノバなどの商業国家の利害にローマ教皇庁の勢力拡大という意図が一致した結果だと思っています。
 
 
 実際、ビザンツ帝国はイスラム教徒であるセルジュークトルコに本土とも云うべきアナトリア半島(現在のトルコ)の大部分を奪われ存亡の危機に陥っていました。ヴェネチアやジェノバも地中海貿易をイスラム教徒に独占されてしまうと自分たちの利権が大きく侵害されるので警戒感を抱いていました。
 
 一方、ローマ教皇庁はビザンツを助けることによって東西に分裂したキリスト教世界をローマ優位のもとで統一しようという野心を抱いていました。当時教皇権が拡大し最大になっていた事も後押ししたのでしょう。
 
 
 時のローマ教皇ウルバヌス2世は1095年南フランスのクレルモンで公会議を開き聖地エルサレム奪回の十字軍を決定します。しかしこれは欧州各国の王家にとっては迷惑以外の何ものでもありません。各国はようやく王権を拡大させ自国の統治を一元化しようとしている最中でした。十字軍参加は、ローマ教皇を怒らせると破門になってドイツのハインリヒ4世のように酷い目に遭わされるからという理由だけでした。一部戦争馬鹿のリチャード1世のような例外はありますが(苦笑)。
 
 しかし王家以外の騎士たちにとっては、教皇庁の送った煽動使の説く東方の豊かな富を我がものにできるという話は耐え難い誘惑でした。ローマ教皇の権力が最高潮に達したこの時代でも純粋な信仰心から十字軍に参加した者はほんの一握りでした。
 
 
 最初の十字軍は、1095年純粋な信仰心からなる民衆十字軍でしたがこれは見事に失敗。エルサレムどころかシリアへも到達できず小アジアでルームセルジューク軍によって壊滅されられます。
 
 
 全十字軍の中で曲がりなりにも成功したのは1096年から始まったフランスやドイツの騎士を主力とする第一回十字軍でした。イスラム勢力の内部分裂をうまく衝きパレスチナ、シリアの地中海沿岸地方を占領することに成功します。
 
 騎士たちは、占領地にエルサレム王国、エデッサ伯領、トリポリ伯領、アンティオキア公国などの所謂十字軍国家を建国しました。
 
 イスラム勢力は、フランク族(当時のフランス人やドイツ人たちをイスラム側はこう呼んでいた)の侵略という危機の前に統一戦線を築いて対抗し始めます。まずはザンギー朝、次いでアイユーブ朝。
 
 特にアイユーブ朝の創始者ユースフ・イブン・アイユーブ(サラーフ・アッディーン。ヨーロッパではサラディンとして有名)はエルサレムをキリスト教徒から奪回するなどめざましい活躍をしました。
 
 第3回十字軍(1189年~1192年)は神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世、フランス王フィリップ2世、イギリス王リチャード1世などスター級が揃った豪華な十字軍でしたがアッコンを奪回したほかは見るべき成果はありません。それ以後の十字軍は惨憺たる結果でした。
 
 結局キリスト教勢力はアイユーブ朝の後を継いだマムルーク朝によってパレスチナから叩き出され元の黙阿弥になってしまいます。
 
 
 ビザンツ帝国の衰退は決定的になり、途中には味方であるはずの十字軍から国を奪われるという事件まで起こりました。しかしヴェネチアなどの商業国家はいち早くビザンツを見限りマムルーク朝と通商条約を結ぶなど上手く立ち回ります。ローマ教皇の影響力はインノケンティウス3世(在位1198年~1218年)時代を頂点として以後は衰退していきました。
 
 その反面、フランス王国、イギリス王国、神聖ローマ帝国などはローマ教皇庁の影響力を排除し自国支配を固めて行きます。
 
 14世紀からイタリアで始まるルネサンスは、ローマ教皇庁の権力衰退と対照的にイスラム世界との東方貿易で富を得たヴェネチア、ジェノバ、フィレンツェなどの都市国家が実力を蓄えた成果でした。そして王権はますます伸張し封建時代から絶対王政の時代へと突入していくのです。

中世ヨーロッパⅣ  カノッサの屈辱

 前記事でフランスとドイツの王位(帝位)継承の違いについて触れました。フランスは西ローマ皇帝位にこだわらず即位にローマ教皇の権威を借りなかったため王制時代ずっとカペー家の血族が王位を継承しました。
 
 フランス王は、クローヴィス(メロヴィング朝フランク王国の創始者)にちなんでランスのノートルダム大聖堂で戴冠するのが慣例でしたが、最初はドイツと同様有力諸侯の選挙によって国王を決めていました。
 
 そこでフランス王は、まず嫡男を王の生前共同統治者として一度即位させこの時ランスの大司教から戴冠の儀式である塗油を受けていました。この時は有力諸侯が選挙で決めるのですが王が健在なため国王の意思通りに決まりました。
 
 一度選挙を経て共同統治者として即位しているのですから前王が亡くなり新王が即位する時も反対者は出ませんでした。こうしてフランス王国はゲルマンの古い慣習である選挙王制を形骸化させていきます。
 
 カペー朝7代フィリップ2世(尊厳王。在位1180年~1123年)の頃にはわざわざ息子を共同統治者にしなくても問題なく王位継承できる仕組みが出来上がっていました。戴冠場所がランスであった事も大きかったと思います。フランス王室の息のかかっている大司教(かかっていなかれば教皇庁に文句を言って交代させる)が儀式を執り行うのですから王の意のままになります。
 
 
 一方、ドイツの神聖ローマ帝国では最後まで選挙王制が残りました。選帝侯というのがそれです。それはフランスほど王権が強力でなくローマ教皇の権威を借りなければ統治できないという現実があったのだと思います。また皇帝の系統が頻繁に交代した事もそれに拍車をかけました。
 
 
 中世というのはローマ教皇権が最大になった時代でした。神聖ローマ帝国成立の経緯からも分かります。ザリエル朝3代(神聖ローマ皇帝としては第7代)ハインリヒ4世(在位1084年~1105年)は、帝国とは言いながらライバルのフランスと比べても著しく帝権の弱い現実を何とか打破するために苦慮していました。
 
 そしてドイツのなかでも最大の有力諸侯ともいうべき大司教領に手を出します。ハインリヒは大司教の任免権を皇帝が自由にできると宣言しました。これは司教を各地に派遣することでヨーロッパ各地の司教領を支配してきたローマ教皇庁の利害と真っ向からぶつかりました。
 
 時のローマ教皇グレゴリウス7世は、これを認めず独自の司教擁立を中止しなければハインリヒを破門すると脅します。ハインリヒ4世はこれに激怒し1076年1月帝国議会を開いて教皇グレゴリウス7世の廃位を宣言しました。教皇は逆にハインリヒを破門する事でこれに対抗します。
 
 帝国各地の司教、大司教の叙任権に関わる皇帝と教皇の争いからこれを叙任権闘争と呼びます。
 
 
 状況はしかしハインリヒ4世の思惑通りには進みませんでした。破門を受けてザクセン公をはじめとするドイツの有力諸侯が公然と皇帝に反旗を翻したのです。1077年2月2日までに皇帝の破門が解かれなければ、新たに諸侯が集まって次のドイツ王(=神聖ローマ皇帝)を決めると言いだします。
 
 これにはハインリヒ4世も困り果てました。そして1077年1月北イタリアのカノッサ城に滞在していたグレゴリウス7世を訪ね破門を解いてくれるよう懇願します。教皇は最初これを許さず、ハインリヒ4世は三日間雪の上で待たされました。この時ハインリヒ4世は無帽、裸足、粗末な修道士服をまとっただけだったといいます。あまりの皇帝の哀れさに城主のマチルダ女伯やクリュニー修道院長が教皇に取りなしようやくハインリヒは赦されました。
 
 この事件をカノッサの屈辱と言います。
 
 
 神聖ローマ皇帝の帝権の脆弱さ、そしてローマ教皇の権威の巨大さが浮き彫りにされた事件でした。
 
 
 カノッサの屈辱は、皇帝権の敗北として有名ですが果たして実態はどうだったのでしょうか?実はこの事件以後ハインリヒ4世の反撃が始まります。赦免によって自由を得るとハインリヒは反抗したドイツ諸侯を攻撃しました。今度は破門という大義名分がないため諸侯は各個撃破されていきます。
 
 グレゴリウス7世は、反省の色を見せないハインリヒを再び破門しますが前回とは状況が大きく変わっていました。領内を纏めたハインリヒ4世は、破門宣告を歯牙にもかけず逆にローマに攻め込むと1084年教皇庁を包囲しグレゴリウス7世に退位を強要します。皇帝派のクレメンス3世を擁立、正式に神聖ローマ皇帝として戴冠しました(それまではドイツ王)。
 
 
 ローマを追われた失意のグレゴリウス7世は1085年サレルノで客死します。
 
 
 こうして見てみるとカノッサの屈辱は果たしてハインリヒ4世の敗北だったかどうか疑問です。むしろ自分の不利な状況を一気に打開する彼の起死回生の策だったのではないかとさえ思えてきます。ハインリヒ4世という男は利益のためには平気で恥を忍べる強かな人物だったのでしょう。

中世ヨーロッパⅢ  カロリング朝の分裂

 古代ゲルマンの慣習では国家は国王個人の所有物という考えでした。長子相続が確立しているわけではなく国王が死ぬと王子たちが分割して相続する事が多かったようです。
 
 カール大帝は、せっかく統一した帝国を分裂で弱体化させないために生前嫡男ルイ1世(敬虔王、778年~840年、在位814年~840年)を共同統治者に定め後継者としました。
 
 ルイ1世にとって幸運だったのは、ライバルになる可能性のあった男子兄弟がみな夭折していたことでした。しかしルイ敬虔王の子ロタール1世(在位840年~855年)の時は上手くいきませんでした。
 
 次男のシャルル、三男のルードヴィヒは兄の相続に異を唱え激しく争います。こうして843年長男ロタールがロレーヌとイタリアを、次男シャルルがガリアを、三男ルードヴィヒがバイエルンとザクセンを貰うことで決着しました。これをヴェルダン条約といいます。
 
 ところが兄ロタール1世が855年に没するとシャルルとルードヴィヒはまたしても結託し、ロタールの子ルイからロレーヌを取り上げて自分たちで勝手に分割してしまいました。二人が870年に自分たちの取り分を決めた条約がメルセン条約です。
 
 以後フランク王国は、シャルルの子孫が継承したガリアの西フランク王国と、ルードビッヒの子孫が継承したドイツの東フランク王国に分裂します。イタリアはルイの子孫のカロリング家が875年早くも断絶し以後統一勢力は現れませんでした。
 
 西フランク王国はフランスに、東フランク王国はドイツへと発展していきます。
 
 
 西フランク王国は、シャルル2世禿頭王(在位843年~877年)から始まり11代ルイ5世まで続きました。ルイ5世が987年狩猟中の事故で死去すると姻戚関係にあったユーグ・カペーが国王に選出されカペー朝が始まります。その後のヴァロワ朝、ブルボン朝も皆カペー家の一族です。カペー朝以後はフランス王国と呼ばれます。
 
 
 東フランク王国は、ルードヴィヒ2世(1世は父ルイ敬虔王。ルイのドイツ語読みがルードヴィヒ。在位843年~876年)から始まりこの子孫がカール大帝以来の西ローマ皇帝位を継承します。6代目のルードヴィヒ4世は911年わずか17歳で死去し嗣子もなかったためドイツ・カロリング朝は断絶しました。王位を継いだのはフランケン家のコンラート1世。ただフランケン朝は一代で終わり、次にはザクセン家のハインリヒ1世が有力諸侯によって東フランク王に選出されました。ハインリヒ1世以後をドイツ王国と呼びます。
 
 ハインリヒ1世の子オットー1世は936年、カール大帝にちなみアーヘンで即位しました。反抗する諸侯を抑え王家の直轄領を増やすと951年にはイタリアに遠征し領土を拡大、ドイツ王に続きイタリア王を名乗りました。
 
 その後もドイツ国内では一族間の内紛が続きオットーは血みどろの戦いを続けます。955年にはドイツに侵入したアジア系遊牧民マジャール人(のちにパンノニア平原に定着しハンガリーを建国)をレヒフェルトの戦いに撃破、これによってヨーロッパ世界における声望は一気に高まりました。
 
 
 オットーは、ローマ教皇ヨハネス12世と密接に連絡し962年教皇によってローマで皇帝の冠を授けられました。これが狭義の意味での神聖ローマ帝国の始まりです。(広義ではカールの戴冠を始まりとする)
 
 オットー1世はこれにより大帝と称えられます。(ドイツ王としては在位936年~973年、神聖ローマ帝国初代皇帝としては在位962年~973年)
 
 
 しかし神聖ローマ皇帝はローマ教皇によって戴冠するのが慣例となり、単なるフランス王に過ぎないカペー家とは違った歴史を辿りました。名を捨てて実を取ったカペー家、逆に名を取ったザクセン家。ザクセン家は1024年5代で断絶します。その後はザリエル家(カロリング家の分家)のコンラート2世が戴冠し、彼の孫ハインリヒ4世のときに大事件を起こしました。
 
 
 事件の顛末については次回お話ししましょう。
 

中世ヨーロッパⅡ  カロリング朝フランク王国   後編

 カロリング朝を創始した小ピピン(ピピン3世、短躯王、714年~768年)はメロヴィング朝の宮宰カール・マルテルの息子です。
 
 父の時代にすでに王家を圧倒する実力を持っていたカロリング家はいつメロヴィング家にとって代わってもおかしくなく周りもそう思っていました。
 
 しかし小ピピンは慎重で、空位だったフランク国王のためにある修道院からメロヴィング家の末裔を探し出しヒルデリヒ3世として即位させます。もちろん実権は小ピピンが握っていましたから傀儡国王である事には変わりません。
 
 時のローマ教皇ザカリアスは先代グレゴリウス3世時代からの懸案だったブルグンド族討伐を小ピピンに求めます。現実主義者の父カール・マルテルと違い敬虔なカトリック信者だった小ピピンもこの求めに乗る気になっていました。
 
 
 小ピピンはローマに使者を送って教皇に尋ねます。
「国王の称号を持つ者と現実に国王の諸権利を行使する者のどちらが王冠を頂くべきか?」
 
 教皇の返書は小ピピンの予想通りの答えでした。
「実力のないものが国王であるより真に国王たるにふさわしい能力の持ち主が国王たるべきである」
 
 ローマ教皇庁のお墨付きを得た小ピピンは、傀儡国王ヒルデリヒ3世を追放し自らが国王になりました。751年のことです。これを『ピピンの宮廷革命』と呼びます。
 
 
 今度は小ピピンが教皇に恩を返す番でした。754年フランク軍を率いた小ピピンは北イタリアに蟠踞(ばんきょ)していたランゴバルド族を討ち北イタリアの要地ラヴェンナを奪いました。ピピンはこれをローマ教皇ステファヌス2世に献上します。ピピンの寄進と呼ばれるこの出来事は後の教皇領の元となりました。ちなみに北イタリア、ポー側沿岸の平原地帯をロンバルディアというのは、ランゴバルド族の土地という意味です。
 
 小ピピンは759年ナルボンヌを奪ってガリアからイスラム勢力を駆逐しアキテーヌ(ラテン名アクイタニア、ボルドーを中心とするフランス西南部の地名)を王国領に組み入れました。
 
 768年小ピピンが没すると2代国王には嫡男カール1世(742年~814年、在位768年~814年)が即位しました。後に大帝と呼ばれるカール1世(シャルルマーニュ)の時代にカロリング朝は最盛期を迎えます。
 
 
 即位当時、父の時代に討ったランゴバルドは再び勢力を盛り返しつつありました。ローマ教皇庁は再びランゴバルドの攻撃にさらされることとなります。教皇ハドリアヌス1世は773年カールに援軍を要請しました。
 
 カールは自ら大軍を率いアルプスを越えランゴバルドを攻撃し774年これを滅ぼしました。この時も父の例に倣って中部イタリアを教皇に寄進します。
 
 778年にはピレネーを越えイベリア半島に侵入しました。さすがにこの時は補給の困難などもあり失敗し撤退します。この時の様子を題材にしたのが有名な叙事詩『ローランの歌』です。ただエブロ川北岸は確保し795年スペイン辺境伯領を置きました。
 
 800年、カールはローマに赴きサンピエトロ大聖堂で礼拝を捧げました。するとそこへ教皇レオ3世が近づきカールの頭上に皇帝の王冠を乗せました。戸惑うカールをしり目に教皇は聖油を額に塗布します。これを見ていた観衆は「ローマ人の皇帝万歳」と歓声をあげました。
 
 こうしてカールは西ローマ皇帝となります。これが神聖ローマ皇帝の始まりでした。しかしこのエピソードあまりにも出来すぎています。カールと教皇による出来レースだったと見る専門家が多いのもこのためです。
 
 
 ローマ教皇庁は、カールを戴冠させることによってビザンツ皇帝、そして東方教会と完全に決別したと言っても良いでしょう。そのためのカール戴冠でした。
 
 
 その後のカールの活躍はめざましいものでした。ザクセン族を討ちドイツに領土を広げると804年には長年の宿敵パンノニア平原にいた強力なアジア系遊牧民アヴァールを完全に滅ぼすことに成功します。カールの帝国はイングランド、デンマーク、スカンジナビアを除く西ヨーロッパ世界全体に拡大しました。
 
 814年彼が都と定めたドイツ中西部のアーヘンで死去した時がカロリング朝の絶頂期でした。享年71歳。
 
 
 しかし、満つれば欠くるが世の習い。カールの死後フランク王国は分裂の時代へと突入します。そしてドイツ、フランス、イタリアの基礎がこの時できるのです。

中世ヨーロッパⅡ  カロリング朝フランク王国   前編

 ローマ教会がフランク王国と結びつき教皇となっていった事は前記事で書きました。使徒ペテロによって開かれたローマ教会でしたが、最初は当然ローマ皇帝、次いで東ローマ皇帝の監督下にありました。
 
 総大司教座の主座も皇帝のお膝元コンスタンティノープルであり、ローマは次位に甘んじなければならなかったのです。
 
 ところが西ローマ帝国の滅亡はローマ教会の環境を激変させました。イタリア半島には東ゴート、ランゴバルドと異端のアリウス派を信じるゲルマンの蛮族が押し寄せカトリックの総本山ローマ教会を圧迫します。
 
 ローマ教会は、カトリック信者のローマ人を守るためにも外部からの強力な支援者を必要としていたのです。そこで目をつけたのがフランク族。メロヴィング朝の創始者クローヴィスも征服の大義名分が欲しかったので両者の利害は一致しました。
 
 ローマ教会がいつローマ教皇庁になったかですが、一般には440年に着座したレオ1世の時代に確立されたと言われています。ただそれが決定的になったのは1054年のシスマ(東西教会の大分裂)でした。
 
 ではそれが可能になったのはなぜでしょうか?ビザンツ(東ローマ)帝国に代わる強力な支援者を得たからです。それにはメロヴィング朝ではまだまだ役不足でした。いざと言う時強力な援軍を送れる存在、ヨーロッパ世界におけるスーパーパワー無くしては成しえなかったと思います。
 
 そのスーパーパワーこそメロヴィング朝に取って代わったカロリング朝フランク王国でした。
 
 
 時計の針を少し巻き戻します。ここにカール・マルテル(686年~741年)という人物がいました。最初メロヴィング朝の分王国アウストラシア(ドイツ西部、ベルギー、北フランス、オランダ)、次いでメロヴィング朝全体の宮宰となった人物です。
 
 宮宰という言葉は聞きなれないと思いますが、要するに宰相です。形骸化し権威だけの存在になったメロヴィング朝の王の下で実際の政務を統括する役目でした。日本でいえば鎌倉将軍と執権北条氏の関係に似ていますね。
 
 
 カール・マルテルの時代、メロヴィング朝は未曽有の危機に見舞われます。すなわちイスラム勢力の侵入です。当時北アフリカを席巻しイベリア半島まで支配下に置いたイスラム勢力はピレネー山脈を越えてガリア(現フランス)に侵入しました。
 
 飛ぶ鳥を落とす勢いのイスラム軍はアキテーヌ公を破ってボルドーを略奪するとそのまま東に向かいツールを襲う構えを見せます。事の重大さに驚いた宮宰カール・マルテルは自ら軍勢を率い救援に向かいました。
 
 
 732年、両軍はツールとポワチエ間で激突します。両軍の兵力ですがイスラム軍は6万から40万と諸説ありますが40万というのは当時の補給能力からいって考えにくいので6万前後というのが妥当な数字でしょう。一方フランク軍はこれも諸説あり1万5千から7万5千。私は7万前後だったという説を採用します。
 
 どこまで本気でフランク王国を征服する気持ちがあったか疑問のイスラム軍に対し、敗れたら国が滅亡するフランク軍は必死に戦いました。1週間のにらみ合いの末ぶつかった両軍はイスラム軍の騎兵の突撃に対しフランク軍の重装歩兵が必死に防戦するという展開を繰り広げます。その日の被害は両軍ともに甚大でした。
 
 ところが一夜明けてみるとイスラム軍の陣営はもぬけの殻。余りの被害の大きさに戦闘継続を諦め撤退したのでした。遺棄された死体の中にはウマイヤ朝のイベリア総督アル・ガーフィキの姿もありました。
 
 
 こうしてフランク王国はイスラムの征服を免れます。ツールポワチエ間の勝利はカール・マルテルの権威をいやが上にも高めました。あとはメロヴィング朝の王を追って自分が王になるばかりに。そのチャンスは意外に早く訪れます。
 
 737年、国王テウデレク4世が後継者の指名をしないまま亡くなったのです。しかしマルテルは、宮宰のまま王国を支配し続けます。
 
 739年ローマ教皇グレゴリウス3世は北イタリアを支配しローマ教皇を圧迫するランゴバルド族討伐をマルテルに依頼します。しかしツールポワチエ間の戦いにランゴバルドの援軍を得ていたマルテルはこれを断ります。教皇の依頼が実行されるのはマルテルの息子小ピピンの時代でした。
 
 741年マルテルは北フランス、クワルジー・スー・ロワーズで没します。享年55歳。
 
 
 
 カロリング朝の成立は息子小ピピンに委ねられました。

中世ヨーロッパⅠ  フランク王国の成立

 今回からしばらく中世ヨーロッパの旅を続けるわけですが、地中海世界のローマから真の意味でのヨーロッパ世界が誕生したのはメロヴィング朝フランク王国が成立して以降だと思います。
 
 フランク王国はローマの教皇権と密接に結びつき独自のヨーロッパ世界を形成しました。
 
 
 フランク王国を建国したフランク族は、ゲルマン諸族が集まった複合民族だと言われます。他のゲルマン諸族が異端とされたアリウス派の信者だったのに対し、いち早くカトリックを受け入れました。
 
 
 337年ニケーア公会議で異端とされたアリウス派はローマ本国での布教を諦め北方のゲルマン人に重点的に布教します。そのため東西ゴート族を始め主だったゲルマン諸族はアリウス派の信者となりました。
 
 ところが、フランク族はガリア(現フランス)でも辺境の北部にあったためアリウス派が浸透せずアニミズムの段階でした。そのためカトリックをすんなりと受け入れられたという経緯もあったようです。
 
 これにはローマ教会側の働きかけもありました。帝国時代のローマ教会は五大総大司教座(他はコンスタンティノープル、アンティオキア、エルサレム、アレクサンドリア)の一つではありましたが、西ローマ帝国の滅亡で蛮族の間に取り残される形となっていました。
 
 最初は東ローマ皇帝に保護を期待していましたが、それが困難になってくると新たな保護者が必要でした。そこで目をつけたのがフランク族です。
 
 一方、メロヴィング朝フランク王国を建国したクローヴィス(466年~511年、在位481年~511年)も他のゲルマン諸族を征服する大義名分を必要としていました。両者の利害が一致したのがフランク族のカトリック改宗だったと言えます。
 
 
クローヴィスは、カトリックの保護者として他のゲルマン諸族を異端討伐の名目で征服できるようになったのです。しかも旧西ローマ領に住んでいた大多数のローマ人がカトリック信者だったため他の蛮族の支配よりは受け入れやすかったと思います。
 
 
 クローヴィスは、アラマン族、ブルグンド族、西ゴート族、チューリンゲン族を異端の名のもとに征服し現在のベルギー、フランスに当たる地方を統一しました。
 
 しかし一代の英傑クローヴィスが511年亡くなると王国はたちまち分裂します。フランク族は王位継承のはっきりとした決まりがなかったため王子たちが分割相続しその都度内紛を繰り返すという状況でした。
 
 
 また経済的にも後進地帯であった地中海沿岸を除くヨーロッパは、流通も発達せず小さくまとまった方が支配しやすいという側面もありました。
 
 
 メロヴィング朝の王権は次第に形骸化し、実際の政治は国王の下の宮宰(マヨル・ドムス)が行うようになっていきました。その中でもメロヴィング朝が分裂した国の一つであるアウストラシア分王国の宮宰カロリング家が台頭してきます。
 
 カロリング家は、カール・マルテル(686年~741年)の時代にはフランク王国全体の宮宰を務めるまでになりました。
 
 
 そして彼の子小ピピンの時代ついにメロヴィング朝を倒し自らのカロリング朝を建国します。次回はカロリング朝の成立とカール大帝(シャルル・マーニュ)の覇業を描きます。

中世ヨーロッパ 前史  オドアケルと西ローマ帝国の滅亡

 ヨーロッパ中世とは476年の西ローマ帝国滅亡から始まり1453年の東ローマ滅亡までをいいます。
 
 西ローマの滅亡は、フン族来襲に端を発するゲルマン民族大移動に巻き込まれた中で起きた事件でした。ゲルマン人の傭兵隊長オドアケルによって476年西ローマ皇帝ロムルス・アウグストゥルスが廃位され滅びました。
 
 ここまでを単純に見ると蛮族ゲルマン人によって文明世界西ローマ帝国が滅ぼされたような印象があります。ところがローマ帝国史に詳しい方はご存知ですが、歴代ローマ皇帝の中には属州シリア出身の者もいれば属州アフリカ(現在のチュニジア)出身の者もいたのです。ローマ帝国末期はローマ市民権が拡大し周辺の異民族も含めた多民族国家になっていました。
 
 当然ゲルマン族出身の高官もおり、なかでもスティリコ(365年~408年)は滅びゆくローマ帝国を支えた名将でした。
 ところがスティリコはゲルマン族出身ということと異端のアリウス派の信者だったことから政敵に陥れられ無実の罪で処刑されます。彼の死が西ローマ帝国滅亡を早めたとも云われているほどです。
 オドアケルもゲルマン出身とはいえ長年ローマに仕えていただけに暴虐の限りを尽くしたわけではありません。ローマ元老院をそのまま残しローマ法を尊重した統治をし、ローマ市民の間に混乱はさほど起こらなかったそうです。
 オドアケルは東ローマ皇帝ゼノンに西ローマ皇帝位を返上し、自分はゼノン配下のイタリア王として支配しようとしました。ひょんなことから東西合一が成ったゼノンは最初この事態を歓迎したどうです。
 ところがオドアケルが東ローマの統治に干渉したため、不快感を持ったゼノンはバルカン半島にいた同じゲルマンの東ゴート族の王テオドリックに命じてオドアケルを討たせました。
 夷を以て夷を制する狡猾な策でしたが、東ゴート族と違い味方といえば自分の軍隊しかいなかったオドアケルは各地で敗退し、493年王国の首都であった北イタリアのラヴェンナでテオドリックに降伏、その直後暗殺されました。
 私は、オドアケルは最終的には西ローマの帝位を狙っていたのではないかと考えます。というのは東ローマ帝国に対し内政干渉しようとしたからです。ただその時間がなくイタリア半島だけに押し込められた自分の王国さえ守りぬけなかったために西ローマ帝国を滅ぼした男として歴史上名を残したのでしょう。
 彼に落ち度があったとすれば、すくなくともイスパニアとガリアに勢力圏を広げられなかった事でしょう。そこにはすでに彼と同族のゲルマン人たちが大移動の末定着していました。自分の部族を捨てローマで出世したオドアケルにはこれが限界だったのかもしれません。
 ともかく彼がヨーロッパ世界に中世をもたらした事だけは確かなようです。中世前半期の主役はクローヴィスの開いたメロヴィング朝フランク王国でした。

アヴァール=柔然説

 世界史に詳しくない方にはチンプンカンプンかもしれませんが、アヴァールというのは6世紀ごろアジアの草原地帯からヨーロッパに移動しパンノニア(現在のハンガリー盆地)を中心に勢力を張った強力な遊牧民族です。
 
 その前のフン族ほどの大勢力にはなりませんでしたが、東ローマ帝国を悩ませフランク王国をはじめとする西欧諸国を苦しめました。
 
 最後は、791年カロリング朝フランク王国のカール大帝の遠征を受け滅ぼされます。この時東方のブルガール人(のちにブルガリアを建国)、北方のスラブ人も同時に侵攻したためアヴァールの地はこの三者で分割されました。
 
 
 ところでアヴァールと東洋史で出てくる遊牧民柔然が関係あるかもしれないとすれば皆さんどう思われますか?フン族も西走した匈奴の末裔説がありますが、こちらも同様柔然末裔説があるのです。
 
 
 柔然というのは、東胡(ツングース)の末裔で5世紀の初めから6世紀の中ごろにわたってモンゴル高原を中心に北アジアのほぼ全域に渡る大帝国を建設した遊牧民です。東胡の末裔とはいえ実態はモンゴル系あるいはトルコ系が主流になっていたと考えられます。支那の南北朝時代北朝の北魏と対立しこれを苦しめますが被支配民族だった突厥(トルコの音訳)に離反され552年突厥軍に敗北して西走します。
 
 
 これが西洋史に登場するアヴァールではないか?と言われています。
 
 
 確かに時代は合いますね。西走したのが6世紀中ごろの552年前後。西洋史の史書に初めて登場したのが558年。10年も離れていませんが1日に70キロ移動できる遊牧民にとっては中央アジアから東欧に移動するのは容易でしょう。
 
◇ウィキによると
 
テオフィラクトの記録(7世紀の東ローマ帝国の歴史家)
  • テュルク (Türk) に破られる前のアヴァールは全スキタイ(東方遊牧民)中の最強者であった。
  • アヴァールはテュルクに撃破されると、その一部が Taugas なる国と Mukri(ムクリ)に逃亡した。
  • アヴァールの君主号は「Gagan」または「Khaghan」という。
中国の史書
  • 柔然が突厥(テュルク)に撃破される以前は、北狄第一の強者であった。
  • 柔然は突厥に破られると、その一部は西魏に逃亡した。
  • 柔然の君主号は「可汗」という。
 「Taugas(タウガス)」というのは西魏の民族鮮卑族の拓跋(たくばつ)部の事ではないかと考えられます。「Mukri (むくり)」に関してはツングース族の勿吉(もっきつ)が比定されています。
 
 
 もちろんこれには異説があり反対論も多いのですが、私の素人考えではアヴァールが柔然そのものではなくてもかなり柔然の遺民が加わっていた可能性は高いと思います。
 
 さらに、西突厥は東ローマと外交使節を送って交流していましたが、東ローマがアヴァールと同盟を結んだ事を非難し両者の関係が一気に崩れたという話もあります。少なくとも西突厥がアヴァールを自分たちが滅ぼした柔然の後身と考えていたとは言えますね。
 
 
 言語学的考察では、アヴァールというのが柔然の本来の民族名だったという説もあり興味が尽きません。なかなか面白い話です。これがあるから世界史はやめられないんですよ(笑)。

応永の外寇 対馬が日本領である確固たる証拠

 対馬が邪馬台国の時代から日本の一部である事は魏志倭人伝にも書いてある通り間違いありません。韓国が最近対馬は本来韓国領で日本がそれを奪ったなどと妄言を吐いてますが、歴史資料上からも民族学的にも嘘である以上日本は猛烈に抗議しなければならないのです。
 
 数ある証拠のうちで、日本人にとって胸のすく話を取り上げます。室町時代の応永26年(1419年)対馬の宗氏が李氏朝鮮の侵略軍を撥ね退けた応永の外寇です。
 
 
 李氏朝鮮は1392年女真族とも云われる李成桂によって建国されましたが、その力は弱く早くも1393年には明の属国となり(このあたりは伝統芸ですね  苦笑)、権治朝鮮国事(明の皇帝の代理として朝鮮を治める代理王)に封ぜられます。
 
 14世紀当時の極東地域は日本人・朝鮮人・支那人の海洋民による海賊所謂倭寇が跳梁跋扈していました。前期倭寇は一応日本人が主流ですが、日本側にも言い分があり彼らは元寇の復讐戦だと主張しています。
 
 
 倭寇に悩まされていた朝鮮は、日本に使者を送り室町幕府や九州における出先機関である九州探題渋川満頼に倭寇取締りを依頼しました。しかし歴史に詳しい方ならご存知の通り幕府も九州探題も統制力が弱く実質的にはあまり効果がありませんでした。
 
 それでも対馬守護代宗貞茂(?~1418年)が生きている間は、朝鮮貿易の利を考えある程度倭寇を抑えていました。ところがその貞茂が病死し息子の貞盛(1385年~1452年)が跡を継ぐと事情が変わってきます。家督を継いで間がない上に若年であったので家中の統制力が弱く、有力な家臣であった倭寇の首領早田左衛門太郎は当主を舐めふたたび倭寇活動を活発化させます。
 
 李氏朝鮮では四代世宗(1397年~1450年、ハングルを作った人)が即位していました。世宗は朝鮮史では名君の誉れ高い人物ですがよく調べてみると外交はぐだぐだで世界史的にはとても名君と呼べる人物ではなかったと私は思います(反論は受け付けない)。まあ属国の王としては無難な人物だったというのが実情でしょう。
 
 
 倭寇に悩まされていた朝鮮は、その一大根拠地である対馬を攻撃し倭寇の主力を壊滅させる事を考え始めます。ところがまともに戦っては勝てないと恐れたのか対馬守護代宗貞盛の留守(上洛していたという説、あるいは明に出向いていたという説あり)を狙って攻めるという姑息な手段を用いました。
 
 1419年6月将軍李従茂率いる一万七千の兵が227隻の軍船に乗り巨済島を出港します。一応その一月前に対馬に最後通牒を送ったとされますが、敵の総大将の留守を狙うような姑息な国が本当にそうしたのか疑問です。現在の彼らの行状を考えると自分を正当化するための捏造の可能性もあります。
 
 
 朝鮮軍は、当時倭寇の一大拠点であった尾崎浦(対馬市美津島町西部)を襲いました。完全に奇襲された対馬側は大混乱に陥り民家1939戸が焼き払われ114名の一般民衆が首を取られたそうです。
 
 朝鮮軍はその後浅茅湾を東行しこれも倭寇の拠点の一つ小船越へ上陸しました。当時対馬の宗軍はわずかに600。まともに戦っては勝てないので朝鮮軍を内陸部に引き込む作戦を取ります。宗軍は糠岳に立てこもったとされますが、地図を見てもどの山か確認できません。一応糠という地名があるのでその付近の山なのでしょう。地図を見ると仁位川を挟んだ朝鮮軍進行路の対岸の山(西側)ではないかと推定します。
 
 
 通常の軍事常識で言えば朝鮮軍にとっては負けようの無い戦でした。が、実際に戦ってみると宗軍の兵士の放つ矢は百発百中であるのに対し、朝鮮軍の矢はへろへろで途中で落ちたそうです。宗軍が高台に位置し、仁位川を渡河攻撃するという不利はあったにせよあまりにもお粗末な朝鮮軍でした。
 
 しかも地の利に明るい宗軍は、夜陰に乗じて奇襲攻撃を加え朝鮮軍に大打撃を与えます。特に日本刀の切れ味は抜群で鎧の上からでもスパッと斬るので、朝鮮兵は宗軍の突撃を見ると我先に逃げ出したそうですから情けない。結局朝鮮軍は2500というあり得ないほどの損害を出します。一方宗軍の戦死者は百数十名。
 
 
 あまりの損害に驚いた敵将李従茂は、尾崎浦まで一時撤退します。戦局はそのまま膠着状態に陥りました。そんな中6月29日朝鮮側は、宗貞盛に対し対馬を属州化させるよう要求します。負けて逃げ帰っているくせにいい根性しているとは思いますが(苦笑)、宗氏は当然これを拒否。現実認識能力の無さは民族の伝統芸と化していますね。
 
 逆に宗氏は朝鮮軍に撤退を勧告し、損害が増える一方の朝鮮軍もこれに従い撤退しました。
 
 
 戦後、この戦により宗氏は朝鮮と断交します。倭寇はますます活動を強化させ結局何のために遠征したのか分からない状況になりました。俗に言う藪蛇でしょう。
 
 
 日本側では、宗氏の報告を受けた九州探題渋川氏が仰天し幕府に注進するとともに確認のため朝鮮にも使者を送りました。朝鮮は室町幕府四代将軍足利義持に使者を送りようやく和解します。このあたり弱腰外交の現在の日本政府と似ていて情けなくなりますね。侵略を受けて日本側も大きな被害を出したのですから厳重抗議しないと駄目でしょう。戦争も辞さず、くらいの覚悟は見せるべきでした。その意味では足利幕府は日本を任せるに値する政府ではなかったと言えるかもしれません。鎌倉幕府なら即報復攻撃します。織田信長も豊臣秀吉も然り。徳川家康は足利幕府と同じ対応をしたかもしれません。
 
 
 朝鮮軍の遠征大失敗は、当時朝鮮に居た明の商人にも伝わったらしく大笑いされたという記録もあるそうです。そりゃそうでしょう。わずか600の兵(しかも地方軍)に負ける30倍の正規軍など世界史上でも稀有ですから。
 
 
 真面目な話をすると、このように弱かったから支那の属国にいつまでも甘んじなければならなかったのかもしれません。私は彼らを馬鹿にするより哀れみを感じました。

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