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2013年10月 5日 (土)

中世ヨーロッパⅡ  カロリング朝フランク王国   後編

 カロリング朝を創始した小ピピン(ピピン3世、短躯王、714年~768年)はメロヴィング朝の宮宰カール・マルテルの息子です。
 
 父の時代にすでに王家を圧倒する実力を持っていたカロリング家はいつメロヴィング家にとって代わってもおかしくなく周りもそう思っていました。
 
 しかし小ピピンは慎重で、空位だったフランク国王のためにある修道院からメロヴィング家の末裔を探し出しヒルデリヒ3世として即位させます。もちろん実権は小ピピンが握っていましたから傀儡国王である事には変わりません。
 
 時のローマ教皇ザカリアスは先代グレゴリウス3世時代からの懸案だったブルグンド族討伐を小ピピンに求めます。現実主義者の父カール・マルテルと違い敬虔なカトリック信者だった小ピピンもこの求めに乗る気になっていました。
 
 
 小ピピンはローマに使者を送って教皇に尋ねます。
「国王の称号を持つ者と現実に国王の諸権利を行使する者のどちらが王冠を頂くべきか?」
 
 教皇の返書は小ピピンの予想通りの答えでした。
「実力のないものが国王であるより真に国王たるにふさわしい能力の持ち主が国王たるべきである」
 
 ローマ教皇庁のお墨付きを得た小ピピンは、傀儡国王ヒルデリヒ3世を追放し自らが国王になりました。751年のことです。これを『ピピンの宮廷革命』と呼びます。
 
 
 今度は小ピピンが教皇に恩を返す番でした。754年フランク軍を率いた小ピピンは北イタリアに蟠踞(ばんきょ)していたランゴバルド族を討ち北イタリアの要地ラヴェンナを奪いました。ピピンはこれをローマ教皇ステファヌス2世に献上します。ピピンの寄進と呼ばれるこの出来事は後の教皇領の元となりました。ちなみに北イタリア、ポー側沿岸の平原地帯をロンバルディアというのは、ランゴバルド族の土地という意味です。
 
 小ピピンは759年ナルボンヌを奪ってガリアからイスラム勢力を駆逐しアキテーヌ(ラテン名アクイタニア、ボルドーを中心とするフランス西南部の地名)を王国領に組み入れました。
 
 768年小ピピンが没すると2代国王には嫡男カール1世(742年~814年、在位768年~814年)が即位しました。後に大帝と呼ばれるカール1世(シャルルマーニュ)の時代にカロリング朝は最盛期を迎えます。
 
 
 即位当時、父の時代に討ったランゴバルドは再び勢力を盛り返しつつありました。ローマ教皇庁は再びランゴバルドの攻撃にさらされることとなります。教皇ハドリアヌス1世は773年カールに援軍を要請しました。
 
 カールは自ら大軍を率いアルプスを越えランゴバルドを攻撃し774年これを滅ぼしました。この時も父の例に倣って中部イタリアを教皇に寄進します。
 
 778年にはピレネーを越えイベリア半島に侵入しました。さすがにこの時は補給の困難などもあり失敗し撤退します。この時の様子を題材にしたのが有名な叙事詩『ローランの歌』です。ただエブロ川北岸は確保し795年スペイン辺境伯領を置きました。
 
 800年、カールはローマに赴きサンピエトロ大聖堂で礼拝を捧げました。するとそこへ教皇レオ3世が近づきカールの頭上に皇帝の王冠を乗せました。戸惑うカールをしり目に教皇は聖油を額に塗布します。これを見ていた観衆は「ローマ人の皇帝万歳」と歓声をあげました。
 
 こうしてカールは西ローマ皇帝となります。これが神聖ローマ皇帝の始まりでした。しかしこのエピソードあまりにも出来すぎています。カールと教皇による出来レースだったと見る専門家が多いのもこのためです。
 
 
 ローマ教皇庁は、カールを戴冠させることによってビザンツ皇帝、そして東方教会と完全に決別したと言っても良いでしょう。そのためのカール戴冠でした。
 
 
 その後のカールの活躍はめざましいものでした。ザクセン族を討ちドイツに領土を広げると804年には長年の宿敵パンノニア平原にいた強力なアジア系遊牧民アヴァールを完全に滅ぼすことに成功します。カールの帝国はイングランド、デンマーク、スカンジナビアを除く西ヨーロッパ世界全体に拡大しました。
 
 814年彼が都と定めたドイツ中西部のアーヘンで死去した時がカロリング朝の絶頂期でした。享年71歳。
 
 
 しかし、満つれば欠くるが世の習い。カールの死後フランク王国は分裂の時代へと突入します。そしてドイツ、フランス、イタリアの基礎がこの時できるのです。

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