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2013年10月 5日 (土)

中世ヨーロッパⅣ  カノッサの屈辱

 前記事でフランスとドイツの王位(帝位)継承の違いについて触れました。フランスは西ローマ皇帝位にこだわらず即位にローマ教皇の権威を借りなかったため王制時代ずっとカペー家の血族が王位を継承しました。
 
 フランス王は、クローヴィス(メロヴィング朝フランク王国の創始者)にちなんでランスのノートルダム大聖堂で戴冠するのが慣例でしたが、最初はドイツと同様有力諸侯の選挙によって国王を決めていました。
 
 そこでフランス王は、まず嫡男を王の生前共同統治者として一度即位させこの時ランスの大司教から戴冠の儀式である塗油を受けていました。この時は有力諸侯が選挙で決めるのですが王が健在なため国王の意思通りに決まりました。
 
 一度選挙を経て共同統治者として即位しているのですから前王が亡くなり新王が即位する時も反対者は出ませんでした。こうしてフランス王国はゲルマンの古い慣習である選挙王制を形骸化させていきます。
 
 カペー朝7代フィリップ2世(尊厳王。在位1180年~1123年)の頃にはわざわざ息子を共同統治者にしなくても問題なく王位継承できる仕組みが出来上がっていました。戴冠場所がランスであった事も大きかったと思います。フランス王室の息のかかっている大司教(かかっていなかれば教皇庁に文句を言って交代させる)が儀式を執り行うのですから王の意のままになります。
 
 
 一方、ドイツの神聖ローマ帝国では最後まで選挙王制が残りました。選帝侯というのがそれです。それはフランスほど王権が強力でなくローマ教皇の権威を借りなければ統治できないという現実があったのだと思います。また皇帝の系統が頻繁に交代した事もそれに拍車をかけました。
 
 
 中世というのはローマ教皇権が最大になった時代でした。神聖ローマ帝国成立の経緯からも分かります。ザリエル朝3代(神聖ローマ皇帝としては第7代)ハインリヒ4世(在位1084年~1105年)は、帝国とは言いながらライバルのフランスと比べても著しく帝権の弱い現実を何とか打破するために苦慮していました。
 
 そしてドイツのなかでも最大の有力諸侯ともいうべき大司教領に手を出します。ハインリヒは大司教の任免権を皇帝が自由にできると宣言しました。これは司教を各地に派遣することでヨーロッパ各地の司教領を支配してきたローマ教皇庁の利害と真っ向からぶつかりました。
 
 時のローマ教皇グレゴリウス7世は、これを認めず独自の司教擁立を中止しなければハインリヒを破門すると脅します。ハインリヒ4世はこれに激怒し1076年1月帝国議会を開いて教皇グレゴリウス7世の廃位を宣言しました。教皇は逆にハインリヒを破門する事でこれに対抗します。
 
 帝国各地の司教、大司教の叙任権に関わる皇帝と教皇の争いからこれを叙任権闘争と呼びます。
 
 
 状況はしかしハインリヒ4世の思惑通りには進みませんでした。破門を受けてザクセン公をはじめとするドイツの有力諸侯が公然と皇帝に反旗を翻したのです。1077年2月2日までに皇帝の破門が解かれなければ、新たに諸侯が集まって次のドイツ王(=神聖ローマ皇帝)を決めると言いだします。
 
 これにはハインリヒ4世も困り果てました。そして1077年1月北イタリアのカノッサ城に滞在していたグレゴリウス7世を訪ね破門を解いてくれるよう懇願します。教皇は最初これを許さず、ハインリヒ4世は三日間雪の上で待たされました。この時ハインリヒ4世は無帽、裸足、粗末な修道士服をまとっただけだったといいます。あまりの皇帝の哀れさに城主のマチルダ女伯やクリュニー修道院長が教皇に取りなしようやくハインリヒは赦されました。
 
 この事件をカノッサの屈辱と言います。
 
 
 神聖ローマ皇帝の帝権の脆弱さ、そしてローマ教皇の権威の巨大さが浮き彫りにされた事件でした。
 
 
 カノッサの屈辱は、皇帝権の敗北として有名ですが果たして実態はどうだったのでしょうか?実はこの事件以後ハインリヒ4世の反撃が始まります。赦免によって自由を得るとハインリヒは反抗したドイツ諸侯を攻撃しました。今度は破門という大義名分がないため諸侯は各個撃破されていきます。
 
 グレゴリウス7世は、反省の色を見せないハインリヒを再び破門しますが前回とは状況が大きく変わっていました。領内を纏めたハインリヒ4世は、破門宣告を歯牙にもかけず逆にローマに攻め込むと1084年教皇庁を包囲しグレゴリウス7世に退位を強要します。皇帝派のクレメンス3世を擁立、正式に神聖ローマ皇帝として戴冠しました(それまではドイツ王)。
 
 
 ローマを追われた失意のグレゴリウス7世は1085年サレルノで客死します。
 
 
 こうして見てみるとカノッサの屈辱は果たしてハインリヒ4世の敗北だったかどうか疑問です。むしろ自分の不利な状況を一気に打開する彼の起死回生の策だったのではないかとさえ思えてきます。ハインリヒ4世という男は利益のためには平気で恥を忍べる強かな人物だったのでしょう。

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