中世ヨーロッパⅧ 薔薇戦争
百年戦争の敗北は、戦場になる事を免れたイギリスにとって物理的にはほとんど被害を受けませんでした。しかし百年も戦争をしながら何ら得るものがなかった封建領主たちは大きな不満を抱きます。
といって再びフランスに遠征するような気力はありませんから、その不満は王家に向きました。百年戦争の間にプランタジネット朝は断絶しエドワード3世の息子ランカスター公ジョンから始まるランカスター家が王位を継承していました。時の国王ヘンリー6世に精神疾患があった事も王家にとっては不安材料でした。
ランカスター家と同じくエドワード3世の血をひくヨーク公リチャードは、貴族たちの不満を煽り「ランカスター家は王家としてふさわしくない。我がヨーク家こそが王たるにふさわしい」と主張します。国王に近い側はこれを完全に否定しました。
ヨーク公リチャードは、自分の立場が不利になる前に味方の貴族たちを集めランカスター王家に対して戦争を開始しました。百年戦争終結の2年後1455年から始まった内戦は1485年まで続きます。世に言う薔薇戦争です。
何故薔薇の名前が付いたかと云うと、ランカスター家の紋章が赤いバラ、ヨーク家の紋章が白い薔薇だったからです。
薔薇戦争は、まだ中世の騎士道精神の残っていた百年戦争と違って凄惨なものになりました。以前の戦争では貴族が捕虜になっても身代金を支払えば釈放されましたが、今回は捕虜になった貴族はことごとく殺されました。これは王家でも例外ではなくヘンリー6世やヨーク家のエドワード5世も犠牲になります。一族同士が敵味方に分かれたため憎悪がさらに増したのでしょう。
戦争は、戦死したヨーク公リチャードの子エドワードが一応勝利を収め1461年ヨーク朝を開きます。しかし王権は安定せず内戦はその後も継続されました。
泥沼の内戦を収めたのはチューダー家のヘンリーでした。一応ランカスター家の流れをくむと言われていますが少々複雑な関係です。
チューダー家はもともとウェールズ王家に繋がる名門でしたがこの頃は没落しヘンリーの祖父オウエン・チューダーの時代にはヘンリー5世の未亡人キャサリン・オブ・ヴァロアの納戸係秘書を務めていました。それがどう転んだのかキャサリンと再婚しエドモンドが生まれます。
ヘンリー6世の異父弟でしかもフランス王家の血をひくことになったエドモンドは一躍上級貴族の仲間入りをします。その子リッチモンド伯ヘンリー・チューダーはランカスター家の最後の王位継承者としてしだいに衆望を集め始めました。
1483年、ヘンリーはヨーク家のリチャード3世率いる王軍とイングランド中部ボズワースでぶつかります。この時の兵力はヘンリー軍五千、リチャード王軍八千と言われています。戦闘は2時間続き最初王軍が押し気味だったようです。ところが王軍の有力貴族スタンリー兄弟やノーサンバランド伯が寝返ったり中立を保ったためヘンリー軍が形勢逆転、怒ったリチャード3世は無理な突撃を敢行し戦死してしまいます。享年32歳。イギリス国王の戦死は1066年ヘースチングスの戦いのハロルド2世に続き二人目でした。
薔薇戦争の天王山ともいうべきボズワースの戦いに勝利したヘンリー・チューダーはロンドンのウエストミンスター寺院で即位、ヘンリー7世となります。すなわちチューダー朝の始まりです。イギリスはチューダー朝の各国王のもとで封建制を完全に脱却し絶対王政を築きました。イギリスの黄金時代を築いたエリザベス1世(在位1558年~1603年)は彼の孫にあたります。
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