アヴァール=柔然説
世界史に詳しくない方にはチンプンカンプンかもしれませんが、アヴァールというのは6世紀ごろアジアの草原地帯からヨーロッパに移動しパンノニア(現在のハンガリー盆地)を中心に勢力を張った強力な遊牧民族です。
その前のフン族ほどの大勢力にはなりませんでしたが、東ローマ帝国を悩ませフランク王国をはじめとする西欧諸国を苦しめました。
最後は、791年カロリング朝フランク王国のカール大帝の遠征を受け滅ぼされます。この時東方のブルガール人(のちにブルガリアを建国)、北方のスラブ人も同時に侵攻したためアヴァールの地はこの三者で分割されました。
ところでアヴァールと東洋史で出てくる遊牧民柔然が関係あるかもしれないとすれば皆さんどう思われますか?フン族も西走した匈奴の末裔説がありますが、こちらも同様柔然末裔説があるのです。
柔然というのは、東胡(ツングース)の末裔で5世紀の初めから6世紀の中ごろにわたってモンゴル高原を中心に北アジアのほぼ全域に渡る大帝国を建設した遊牧民です。東胡の末裔とはいえ実態はモンゴル系あるいはトルコ系が主流になっていたと考えられます。支那の南北朝時代北朝の北魏と対立しこれを苦しめますが被支配民族だった突厥(トルコの音訳)に離反され552年突厥軍に敗北して西走します。
これが西洋史に登場するアヴァールではないか?と言われています。
確かに時代は合いますね。西走したのが6世紀中ごろの552年前後。西洋史の史書に初めて登場したのが558年。10年も離れていませんが1日に70キロ移動できる遊牧民にとっては中央アジアから東欧に移動するのは容易でしょう。
◇ウィキによると
- テュルク (Türk) に破られる前のアヴァールは全スキタイ(東方遊牧民)中の最強者であった。
- アヴァールはテュルクに撃破されると、その一部が Taugas なる国と Mukri(ムクリ)に逃亡した。
- アヴァールの君主号は「Gagan」または「Khaghan」という。
- 中国の史書
- 柔然が突厥(テュルク)に撃破される以前は、北狄第一の強者であった。
- 柔然は突厥に破られると、その一部は西魏に逃亡した。
- 柔然の君主号は「可汗」という。
「Taugas(タウガス)」というのは西魏の民族鮮卑族の拓跋(たくばつ)部の事ではないかと考えられます。「Mukri (むくり)」に関してはツングース族の勿吉(もっきつ)が比定されています。
もちろんこれには異説があり反対論も多いのですが、私の素人考えではアヴァールが柔然そのものではなくてもかなり柔然の遺民が加わっていた可能性は高いと思います。
さらに、西突厥は東ローマと外交使節を送って交流していましたが、東ローマがアヴァールと同盟を結んだ事を非難し両者の関係が一気に崩れたという話もあります。少なくとも西突厥がアヴァールを自分たちが滅ぼした柔然の後身と考えていたとは言えますね。
言語学的考察では、アヴァールというのが柔然の本来の民族名だったという説もあり興味が尽きません。なかなか面白い話です。これがあるから世界史はやめられないんですよ(笑)。
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