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2013年11月 7日 (木)

三国志11  小覇王死す

 官渡の戦いで一敗地にまみれた袁紹ですがその勢力はまだまだ強大でした。息子たちを要地に配し長男の袁譚は青州を、次男の袁煕(えんき)は幽州を、甥の高幹には并州をそれぞれ守らせ自身は末子の袁尚とともに本拠冀州に拠りました。
 201年、甥高幹が援軍5万を率いて冀州に至ると気を良くした袁紹は再び大軍を動員して曹操を攻撃します。ところが官渡の時とは違い力関係が完全に逆転していた事に気付かない袁紹は、今度こそ完膚なきまでに曹操軍に叩かれました。
 この敗戦の衝撃で袁紹は病を発し鄴に辿りつくとまもなく没します。残された袁紹の息子たちは後継を巡って醜い争いを始める始末でした。長男袁譚には郭図が、末子袁尚には審配らがそれぞれ付き相手を追い落とそうと陰謀を画策します。何といっても本拠冀州を支配する袁尚の方が優勢で袁譚は劣勢に陥りました。
 すると袁譚は、憎っくき袁尚に奪われるよりはとあろうことか曹操に降伏しその援軍を得て冀州を攻撃します。優勢になった袁譚は、今度は曹操を裏切り自立の構えを見せました。然しそれこそ曹操の思う壺だったのです。事前に裏切りを予見していた曹操は敵の本拠青州を急襲、袁譚とその参謀郭図を斬りました。
 
 袁譚の滅亡で自分への圧力が倍加した袁尚は兄袁煕と合体し抵抗します。が、しょせん曹操の敵ではなく204年には本拠鄴が陥落。袁兄弟は長城を越え遊牧民族烏丸の地に逃亡しました。
 僻遠の地に逃げた袁兄弟をどうするかで曹操陣営は議論百出します。そのなかで曹操の最も信頼する謀臣郭嘉は「断固討つべし」と主張しました。曹操は郭嘉の意見を採用し自ら大軍を率い長城線を越えました。一方、楽進・李典らに一軍を与え并州の高幹を討たせます。二将は曹操の期待に応え并州の軍を撃破し高幹を斬ります。
 曹操の本隊は袁兄弟と烏丸の連合軍を柳城で撃破しますが、またしても兄弟は遼東の公孫康のもとに逃亡します。さすがの曹操もこれ以上の追撃は難しいと諦めかけていると、郭嘉は
「このまま追撃しても労多くして功少なしです。丞相が国境に軍をとどめておかれれば、公孫康は袁兄弟の首を送ってくるに違いありません」と進言しました。
 はたして、公孫康は宴会を開くと称して袁兄弟を招くと首を斬り曹操のもとに送ってきました。郭嘉の読み通りです。遼東の公孫氏は袁紹に長年圧迫され続け恨みこそあれ恩など微塵も感じていなかったのです。さらにこれをかくまうと曹操の討伐を受けるのですから災いを未然に防ぐためにも袁兄弟を始末したのでした。
 曹操は、公孫康の降伏を受け入れ左将軍・襄平侯に封じ都に帰還しました。ところが帰途郭嘉は病を発し病死してしまいます。享年38歳。曹操の嘆きは大きく貞侯と諡(おくりな)し遺領に800戸加増し嫡子郭奕に継がせました。207年のことです。
 時はやや遡ります。曹操は袁紹との決戦に備えて背後の安全を確保すべき外交攻勢に出ていました。まず宛城の張繍は参謀賈詡の助言で袁紹と断交し曹操に降伏しました。喜んだ曹操は張繍を破羌将軍・列侯に、賈詡も執金吾(首都の巡察・警備を司る)に任じこれに報います。
 荊州の劉表は、曹操には服しませんでしたがもともと優柔不断な性格であったため局外中立を貫きます。一方、呉の孫策は曹操と袁紹の対決を千載一遇の好機と捉えました。袁紹と同盟を結ぶと曹操が留守にしていた首都許昌を攻めるべく軍勢の動員を始めます。
 ところがこれには呉の家臣の中にも反対が起こり中でも呉郡太守の許貢は秘かに曹操に書を送り孫策の野望を知らせます。許貢が曹操と交わした使者が偶然捕えられ真実が発覚すると孫策は激怒、許貢の屋敷を急襲し一族郎党ことごとくを斬り殺しました。いや三人だけこの難から生き残った者がいます。許貢の世話を受けていた食客たちです。
 三人は、許貢の仇を討つべく執拗に孫策をつけ狙います。ある日孫策が狩りに夢中になり家臣たちからはぐれると山中で待ち構えていた食客達に斬りつけられました。孫策は駆けつけてきた家臣たちに救出され、食客は斬り殺されますが放たれた矢に毒が塗ってあったため孫策は高熱を発して寝込みます。
 名医華佗によって一命は取り留めたものの、華佗から興奮すると再び傷口が開くので絶対安静するように注意されました。これから記す話は三国志演義に載っている話で史実としては疑わしいのですが、当時呉で神仙とあがめられていた于吉(うきつ)が呉の諸臣の厚い信仰を受けている事を知った孫策は、于吉を逮捕し処刑しようとします。
 これには母の呉氏や妻までもが助命嘆願し、ますます孫策は意固地になりました。若い孫策は怪しい邪教がはびこれば国が乱れることになるという強い信念があったのです。家臣の呂範から
「今日照りが続き庶民は困っています。于吉に雨を祈らせ成功したら助命したらいかかでしょうか」
と進言されしぶしぶこれを認めます。
 ところが于吉は三日三晩の祈祷の末本当に雨を降らせたのです。孫策は于吉が空恐ろしくなり祭壇から降りてきた于吉をその場で斬り捨てました。その日以来孫策は于吉の亡霊に悩まされるようになります。そして神経衰弱の末亡くなりました。
 孫策は、いよいよ命が危ないという時弟孫権を枕元に呼び寄せます。
「権よ、そなたは外に討って出て天下を争うような才は余に及ばない。しかし国内を纏め国を保つ能力は余に倍する。内政においては張昭に問え。外の事は周瑜に尋ねるべし」
と言って息絶えました。享年26歳。小覇王と呼ばれた男の最期でした。
 ここに呉を担う一人の男がたちます。孫権字を仲謀。まだ19歳の若者でした。

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